『大いなる沈黙へ』 岩波ホール
続けます。
外に出て、5メートルと歩かないうちにタクシーがきました。 もう歩くのはいやなので、言問い通りでつかまえるつもりでしたから、助かりました。
ところが運転手さん、岩波ホールを知らなかったようです。「神保町」 も言ったのですけれど。水道橋をすぎ、そろそろと、お財布をだして降りる準備をしているのに、交差点前(岩波ホールは水道橋からだと交差点斜め右向こう)の信号待ちでは歩道側でなく中の車線にいるのです。そこで「止めやすい所でとめてください」といったのに、交差点をこえてスピードをゆるめません。「行き過ぎてません?」(学士会館までは いってなかったです) 別に声をとがらせたつもりはないけれど、運転手さん一生懸命あやまって、おつりはよくみなかったけれどオーヴァーした分はとらなかったみたいでした(表示は1450円。もう100円は安かったはずです。このお値段なら暑いときはタクシーが正解)
少しばかりてくてく歩いて、 岩波ホールへ
受付で 「上でお水を買えますか」「買えますけれど、開場してからなので、その辺で買った方がいいですよ」 すぐ飲みたいわけではないけれど、時間はあるし、と暑いのに外に出たが販売機は見つからない、少し水道橋方向にもどって やっと見つかって ホールへ。「エレベーター、8階で降りた方がいいですよ」。つまりそれだけ既に並んでいる、ということ。
私の待ち位置は 8階と9階の踊場のところ(ホールは 10階)。 ここで 時刻は 2時15分。 35分過ぎくらいに入場。 この時点で真ん中より少し前のいい場所に座れました。もっと下の階段で待っていた人もこの時刻で入るとさほど悪くない場所に座れていたようでした。
『大いなる沈黙へ』
http://www.ooinaru-chinmoku.jp/about.html

この映画はフランスでも大分スイス寄り、グルノーブル近くの山中にある、1084年創設のカルトジオ会修道院のドキュメンタリーです。
先日も書きましたけれど、以前同じカルトジオ会のヴィルヌーブレザヴィニョンにある修道院を見学したことがあって、そこはもう修道院としての活動をしていないので 実際はどういう生活がされているのか知りたい、と思ったのです。
この6月の旅行では 随分修道院を見ましたが、殆どは既に活動していなくて、唯一活動していたのはカニグーでしたが、古くから連綿と続いているわけではなく(フランスは革命で修道院は解散させられた)、最近になってある修道会がそこに住んで活動しているもので、ガイドや売店での販売など 世俗社会と接点をもつものでした。
このグランド・シャルトルーズは修道士たちは外部との接触はなく、日曜日などの例外をのぞいてはお互いの外の会話も許されずチャペルでの礼拝を以外は、個室で祈ったり労働をしたり、という生活をしています。
修道院の生活については 下記HPで
http://jp.rendezvousenfrance.com/ja/discover/67639
上映時間は 2時間49分、ネットで検索していると、冗長 という言葉もでてきたので、眠くならずに見通せるか、と少し心配しながらの鑑賞でした。
ところが、この3時間近い時間、ちっとも長いとは感じませんでした。
映画を撮るのに入ることを許されたのは監督一人だけ、聖歌以外の音楽はいれない、ナレーションもなし、明かりもつけない という制約のなかで撮られたものですが、 自然に入る音はあります。明かりをつけないからでしょうか。 光と影の美しさには感動しました。 床に移る 四角い光。廊下のアーチ列の美しさ

修道院の周りの景色、雪景色、春の雪解け水の流れる音、新緑の美しさ

映画を観る、 というより 映画の中にいる感じすらしました。こんなにゆったりと映画に浸れるなんて。 まるで いい音楽にみたされているような感覚でした。 それほど映像が美しかったのです。
映画によく登場したのは 新入りの黒人(まだ少年のようなあどけさがのこっていました)もう少し年上? やはり若い修道士。 盲目の年配の修道士。 それに助修士の料理人、床屋さんなども印象に残っています。
修道士は 一日3回のチャペルでの祈り以外は自室で一人過ごし、食事も運ばれてくるのですが、三段重ねの器でフルーツもたっぷり。 長いバゲットもありました。 日課表をみると 朝食はないのですが、個室ですから、食べる分量、時間など融通がきくのではないか、だから 朝食が配られなくても おなかがすいて 倒れそう、ということはなさそうです。 中世、修道士が非常に粗食なため 殆どは30歳くらいで亡くなったともききましたが、そういう心配はなさそうです。
結構生活としては (私の目からすれば)広い個室があって、一人きりで過ごせるのは、いいな、とおもってしまいました。しかし食べながらでも本を読んでいます。 勿論小説であるはずはなく聖書か宗教関係の本でしょう。でも凡人の私は思うのです。 そういう本にずっと集中し続けることができるのかしら。、いくら一生懸命読もうとしても雑念がはいって 文字が、内容が 頭に入ってこない、ということもあるのではないかしら。
そもそもいったいどういう動機でここに入ったのでしょうか。
昔 『砂漠の修道院』 山形孝夫著 を読んだことがあります。エジプトの修道院の話ですが、この本には 具体的にこの人がこういう理由で、という志願のきっかけがかかれていました。
しかしこの映画ではそういう個々の理由は語られてれていないのですが
繰り返し
主よ、あなたは私を誘惑された、私はそれに身をゆだねた (予言者エレミアの言葉)
という言葉が 画面に浮かび上がってきます。具体的に理由を語る必要はないのです。これで十分なのです。
『砂漠の修道院』では
<ひとり、ひとり 理由も違えば動機も違う。しかし、それにもかかわらず、彼らは、一様にあるとき、ある瞬間、心を決し、家を棄て、故郷を棄て、職場を棄てナイル川を西にむかってよぎったのである> (砂漠の修道院はナイル川の西側にある)
と書かれていますが、端的にいえばエレミアの言葉となるのでしょう。
<東のクニには、さまざまな「絆」あるいは「縁」の織りなす生臭い生活がある。、、、、(中略)、、、そうした 「縁」 を断ち切るために、彼らは ナイル川を越えたのだ。、、(中略)、、それは 此の世から彼の世への移住であった。>
映画では 列王記の言葉が 最初と最後に(もしかしたら途中にも)でてきます。
主の前で大風が起こり 山を裂き 岩を砕いたが
主は おられなかった
風のあと地震が起こったが
主は おられなかった
地震の後 火が起こったが
主は おられなかった
火の後 静かなやさしい
さざめきがあった (列王記上 19・11・12)
盲目の修道士の言葉も胸に残ります。まだボーっとしています。 いい映画でした。
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