イスラム国理解のために、と朝日新聞(2月1日)で薦められていた本の三冊目を読み終わりました。
この順番で良かったと思っています。 今回の本が一番詳しく専門的(私の目からすれば)なので、最初にこれを手にするとちょっと頭が混乱したと思います。
混乱するのはまず 名前。 初めて出会う名前が多く 似たような名前、人名だけでなく組織も。すぐごちゃごちゃになってしまうので、本は付箋だらけになってしまいました。
それと地名、場所を確認したいのに、地図がないので、例によってグーグルマップを開いておいて時折、画面を見乍ら読みました。
以下は 私の頭の整理のために概要をまとめた(抜き書きした)ものですが、大事なところがぬけているかもしれません。この本は新書などで概略を知った次の段階で読むのに、とてもいいと思いました。本をお読みになって 以下の文章はスルーなさってください。
『「イスラーム国」の脅威とイラク』 吉岡明子、山尾大編 岩波書店

2014年12月25日 第1刷発行で、暫く待たされて私が手にいれることができたのは、2月16日発行の第3刷。 よく読まれている本のようです。
タイトルからも察せられるように、イラクに重点を置いて語られています。クルディスタンのことも章立てして述べられていて私なりにかなり情勢が理解できたように思っています。
簡単に 内容を
序 「イスラーム国」は イラク戦争とシリア内戦でうまれた 酒井啓子
「イスラーム国」台頭の経緯とこの「国」の異質性、投げかける課題について 全体的に述べている。
異質性(他のテロリスト集団とくらべて)
①「国」を名のりながらも徹底した非国家主体として 特定の国家主体に指導をあおいだり、 庇護を求めたりしていない。
②敵として対象とするのは、シーア派などのように彼らから見た不信仰者やヤズイード派のような異教徒で アルカイダのようにアメリカなどいわば「遠くの敵」を対象とするのではなく 制圧した地域の「内なる敵」を対象としている。
イスラエルに対しても攻撃姿勢は持っていない。(ビン・ラディンもイスラエルを非難していたのに)
③財力の大きさ 石油の闇輸出、誘拐金、接収財産 などによる。
何故この地域にこのような「国」が台頭したのか。
結論的に言えば、澱のように溜まったイラク戦争とシリア内戦のツケが「イスラーム国」の栄養分になった。
これを以下の章で見ていく。
第一章 マーリキー政権の光と影 -イラク戦争から「イスラーム国」の進撃まで
第二章 隠された二つのクーデタ -「イスラーム国」の進撃とアバーディー政権の成立を考える 山尾 大
2014年6月10日モスルが陥落したころから、この事件の背景として マーリキー政権がシーア派を優遇し、スンナ派を排除してきたからだ、といわれるようになったが、 はたしてそうか。
ここでは 政治対立が権力闘争の一環として展開されてきたものであり、決して宗派対立や 民族が主たる争点ではなかったことが示されています。
2003年バグダード陥落
アメリカを中心にして作られた連合国暫定当局(CPA)がやったことは
① 脱バース党政策 バース党を非合法化し、 幹部の公職追放をおこなった。 これにより 役三十万人の党員が公職追放、教師も失業した
② 旧バース党政権下の治安機関を完全に解体、約三十五万人の失業者をうみだした。
これが 戦後イラク政府に決定的な影響をあたえた。 独裁政権からの解放者であったはずの米軍は排除すべき相手となった。
反米、反占領活動が 急速に拡大したのは米軍による2004年のファッルージャ進攻。
この地域は スンナ派が多いところであったが、米軍の進攻に対しては反米姿勢の強いサドル派をはじめとするシーア派勢力も強く反発。(宗派の違いが問題ではなかった)
CPA でなくイラク国民の選挙でえらばれた議員が憲法を起草する、ということになったが、ここで、影響力を持ったのが、スィースタニー率いるシーア派宗教界。 シーア派には教会の組織的ヒエラルキーがあり、これを持たないスンナ派に圧勝することができた。
2006年4月 首相に選ばれたたのは、諸事情から無名のナショナリストである(ダアワ党Damascus支部にいた)マーリキー。
第一次マーリキー政権 では内戦から脱却し、秩序を取り戻したのは功績といえる。シーア派主導のイメージを克服するためにスンナ派からの入閣者を増やし挙国一致内閣をつくりあげた。
しかし政局は麻痺していたので、政策決定をスムーズにさせるために首相の権力を強化させる策をとった。野党は これに対して大連合した。
任期満了に伴う2010年の国会選挙では マーリキーの属する政党は 第二党に転落。しかし、選挙後の合従連合の結果、マーリキーは首班に指名された。
第二次マーリキー政権(2010年から 2014年9月) この裏にはアメリカとイランの介入があった。また司法の政治的利用もあった。
こういう中で反政府運動と暴力が復活してきた。 マーリキー政権に対してもっとも強く反対したのが同じシーア派のサドル派。国民の指導者と呼ばれた、マーリキーは 独裁者、とよばれるようになっていった。
2014年4月の第三回国会選挙ではマーリキーは危機的状況に落ちいっていたが選挙キャンペーンとして、住宅や土地のバラマキ政策、インフラ整備が功を奏し個人票をのばすことができた。しかし、2014年6月10日モスル陥落。
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シリアからイラクに流入した 「イスラーム国」が なぜ勢力を拡大し、モスルを陥落させることができたか。
① モスルに駐留していた イラク正規軍が脆弱であった。
②第二次マーリキー政権で排除された勢力が部分的に「イスラーム国」に加担した。 しかしこれは ごく一部で初期に限られている。
③旧体制派(旧バース党幹部、旧軍将校など)が 「イスラーム国」と戦略的同盟関係をむすび、モスル陥落を手招きした。モスル陥落事件とは、第一義的には戦後の新体制に対する旧体制はの「クーデタ」であった。(と見ている)
モスル陥落の原因はスンナ派冷遇や宗派対立ではなかった。
しかし、「イスラーム国」の「イスラーム教シーア派は異端であり、したがってシーア派を殺害すべきだ」という主張に対して 「シーア派を守れ」と主張して様々な勢力がたちあがった。 (つまり原因結果が逆)ここで宗派対立が顕在化することになった。
しかしこの宗派対立も一時的現象。
「イスラーム国」の極端に過激な行動に、連合していた旧体制派や他のスンナ派急進派も反発。カリフ宣言を機に決別。
両者は考え方が違うので 分裂は当然だったといえる。 「イスラーム国」はイスラーム主義者であるのに対して旧体制派は世俗主義なので製作が一致するはずはなかった。
目標も「イスラーム国」が既存の国家の枠組みをはずしたイスラーム国家の樹立をめざしたのに対し、旧体制派は戦後新体制の打破と自らの復権であった。
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自らの権限強化に固執するマーリキーでは 「イスラーム国」という国家存亡の危機を克服し、国民統合をはかることはできない、とスィースタニー率いるシーア派宗教界は判断、またもやロープロファイルの人間が必要となり引き抜かれたのが アバァーディ 。
このときマーリーキー追い落としをイランのハーメネー最高指導者も支持している。
アバーディー政権の課題は 「イスラーム国」との闘いに勝利し、イラク国民の統合を取り戻し、国家の危機を克服することである。 そのためにもっとも重要なのは「イスラーム国」から 離脱した勢力をいかに政府に取込、「イスラーム国」に対抗する勢力にまとめるかという点に他ならない (そのまま 引用しました)
この章の結びとして 筆者はまったく希望がない、とは見ていません。
「イスラーム国」掃討作戦のために宗派対立を排し、 国民が一致団結しようという動きがみえている。 そのために「国民防衛軍」の結成を進める法案が国会に提出された。(9月)
これに期待をかけているようえすが、その結果はわかっていません。
第三章 クルディスタンとその係争地ーイスラーム国」が独立問題に与えた影響 吉岡朋子
クルド人はトルコ東部からシリア、イラク北部、イラン西部にかけて住む民族で、かのサラッディーンもクルド人でした。
湾岸戦争直後、イラク各地で民衆蜂起が発生したが、イラクのクルド人地区は(88年にハラブジャで 毒ガスの空中散布により5000人が無差別に殺された) 多国籍軍によってイラクの支配を離れることができ、事実上の自治区となった。しかし二つの政党の争い、経済的に困難イラクによる経済制裁)な状態がつづいたが、2003年のイラク戦争によりイラクの政治に係わるようになった。
イラクが 連邦制をとることにより事実上の自治区が公式の自治区となったのである。地位が公式のものとなったために国際機関などからの援助も得やすくなり、 また二つの政党が 統一政府を作ったために イラク内戦の間もここでは 治安が維持されていた。
しかし、クルディスタン地域の境界線について、話し合いがうまくおこなわれていないために問題が起こっている。 特に国内最大の油田を持つキルクークにおいて、イラク政府はアラブ人が多数になるようにクルド人をおいだして アラブ人を住まわせる政策をとっていた。このような 係争地はグリーンラインに沿ってあるのだが、もとの土地にそれぞれの人間をを戻すことは難しく、 また将来、その土地がどのようになるかわからないので、イラクもクルディスタンも開発に消極的で住民の不満の種になっている。
係争地で一番の問題は治安で イラク軍とペシュメルガ(クルディスタン民兵組織)がうまく協調できていないので、テロリストが活動しやすかった。 これが 14年6月の「イスラーム国」の席巻で一変。イラク軍が逃げ出したためペシュメルガが漁夫の利を得る形で係争地を次々手中におさめていったのです。
キルクークもクルド側のものとしました。(クルド側の方が備えができていて 情勢を読んでいた。 モスル陥落前にもせまっていることはイラク側にアメリカを通して伝えたがイラク政府の読みが甘くペシュメルガに援助をたのまなかったことが「イスラーム国」の進撃を許すことになった)
キルクークを手にいれることは経済問題の解決につながる。クルドの独立が現実味を帯びてきている。しかし、係争地にはクルド人以外の民族も多い。
クルディスタンという言葉には二つあり、
①クルド人/クルド民族の土地 四か国にまたがるクルド人居住地域に統一国家を形成することを目指す、汎クルド民族主義の理想が投影された言葉
②クルド人だけでなく他の民族や宗教に属する集団も含め、イラン北部という一定の領域に住むすべての人々を市民として包括する概念としての言葉
現在この地域での意識調査では ②の意味で 自分たちのアイデンティティをとらえていることが確かめられている。クルディスタン自治議会では、トゥルクマン、アルメニア教徒、、アッシリア人(キリスト教徒) こうした少数民族にも議席が割り当てられている。
キルクークにはアラブ人が多く、 治安が良いクルディスタン地域には流入してきているアラブ人も多い。 また シリア、イラン、トルコから 移住してきたクルド人もいる。もし国家になるとしたら、 彼らをどうするのかも問題になってくる。
第四章 揺らぐイラクの石油支配 吉岡朋子
1914年 オスマン帝国下、トルコ石油会社が バグダード地域とモスルの石油利権を獲得。
1921年イラク王国誕生後は イラク石油会社と名を変える。支配権は欧米列強の石油会社が 握っていた。しかし、これらの会社は イラク以外にも 検疫を持っていたために あまり力をいれていなかった。
1958年共和制革命後
1968年バース党政権誕生、
1970年代 石油産業の国有化に向かった。
しかし イラクには 資金も技術力もなく生産量が低かったが キルクーク油田開発などにより徐々に生産量は伸びた しかし、
1980年~1988年 イラン・イラク戦争 停戦後 生産量は 伸びたが、
1991年 クゥエート進攻、 これにより 国連から経済制裁を受け、油を輸出できなくなり 生産量が大幅に落ちた。 2003年のフセイン政権崩壊まで経済制裁は続いた。
フセイン政権崩壊後の新政府では 石油開発について石油開発を包括的に規定する法案が閣議決定されたが、 石油政策を誰がどう決めるか、 収入をどう分配するのか、 外国資本の参入をどのような形でさせるかなどをめぐって、クルド政府と対立。 法案は 決定されなかった。
細かいことは 省略するが クルディスタン自治政府は エクソン・モービルと独自に契約、 その後も外国資本の参入が (クルディスタンにおいて)つづいている。
問題は クルディスタンは陸の孤島で輸出するための港を持たないことだ。 パイプラインによるしかない。 一時は イラク政府と交渉の結果使うことを認められたが、それも停止され、 独自のパイプラインをトルコ経由で作った(2013年)。 それまではトラック輸送も行っていた(沢山は輸送できない)
イラク全体で見ると、バグダードを中心とする南部(バスラがある)には イスラーム国の脅威が及んでいないので、生産・輸出量は 比較的好調。
しかし、 イラクートルコルートのパイプラインは2013年以降、パイプラインへの破壊活動がとくに多くなり(それ以前にも石油マフィアによる 破壊活動はあった、単に穴をあけて盗む程度のことも含めて)でたびたび送油が停止する事態が続いている。パイプラインが機能しないと困るのはイラク側も同じ。
「イスラーム国」は 製油所を制圧することにより、潤沢な資金を得ている、といわれているが、 推測で 数字はまちまちであるが、ピーク時で1日8万バーレル、色々な要素を考慮にいれても、1日で数千万から数億円単位の収益になるそうだ。ここの収入内訳はある推計によると、石油で40%、身代金が20%、地元民からの税収が17%、国外からの送金が15%、アンティークや小麦の売買が8%だそうだ。
「イスラーム国」問題が解決した後も課題となるのは、 石油とその富は、だれが 度のように管理し、だれの手に委ねられるべきか、 という問題である。イラク政府が 包括的に管理するのか、地方分権的に考えるのか?クルディスタンがキルクーク油田を手放す可能性はきわめてひくくなってきている。
第5章 「イスラーム国」とシリア紛争 高岡豊
シリアでは 1970年代から80年初頭にかけて、ムスリム同胞団による反政府闘争があったが、政府による苛烈な弾圧により、おさえこまれた。
2011年以降シリア南部の地方都市での暴動を 発端として、各地で政府に対して改革を要求する抗議行動が行われるようになった。「アラブの春」の一環と解され、アサド政権は崩壊するものと思われていたが、崩壊せず、匿名の大衆による抗議行動から、外国の支援を受けた政治家たちによる奪権闘争、武装闘争へと変質、アサド政権の妥当ともシリアの政治体制の刷新要求とも無関係な、外国紀元のイスラーム国過激派による破壊と殺戮に陥った。
理由には 政府側の弾圧と 反体制側が思想信条面でも組織面でも多様で統一がとれていなかったことがあげられている。反体制派同志の交戦も常態化している。末端は情勢を観つつ安易に所属を変えたりもする。 武器の横流しもある。こういう中で良い反体制派と悪い反体制派の峻別が不可能になってきている。
欧米諸国はこういう中で武器供給をしなかったが、湾岸諸国ではムスリムの同朋を救うために、反体制派に資源を供給した。
2011年にシリアの過激派組織として現れたヌスラ戦線は「イスラーム国」の別名であったされるが、 一時分裂、対立したが、14年6月、イラクで大量の資金を得た(イラク軍の装備、銀行に残された資金)ため、戦力を増強、ヌスラ戦線初め他の過激派組織も傘下に入った。
イスラーム国への資金遮断を困難にしている原因の一つにトルコが国際同盟への参加や国境管理に積極的でないことがあげられている。
アルカイーダやそれに類するイスラーム過激派組織として、追跡されていた「イスラーム国」は、シリアでアサド政権を攻撃している限りそうした追跡を免れることができた上、世界各地で潤沢な資源を調達することが黙認・ 奨励されたのである。
イラク・シリアで活動している主体は (外国人戦闘員潜入にかかわっているのは、 潜入者、勧誘者、案内者、受け入れ者に分けられるが)受け入れ者だけであることにも留意が必要。 「イスラーム国」の問題の原因と解決の多くは、実はイラクやシリアの外側にある、という可能性をしてきしておきたい。 と結ばれている。
第六章 「イスラーム国」とアルカイーダ
-- 液状化する サイクス・ピコ体制とカリフ国家の幻影 保坂修司
1979年のソ連、アフガニスタン侵攻をきっかけに 多数のムスリム義勇兵が アフガニスタンに向かった。 これがアルカイーダの母体。この時敵としたのは ソ連=共産主義
アフガニスタンを解放することは ムスリムの義務とした。 これがジハード主義。
1989年ソ連撤退
1990年の湾岸戦争をきっかけに サンディアフラビアに駐留していたアメリカ軍を、イスラームの聖地を占領する十字軍と見なし、アメリカを サウディから 追い出すことを崇高な義務とした。 この後アメリカを 敵とする。
クライマックスが 2001年 のニューヨーク 世界貿易センタービルに航空機を激突させた事件 (9.11)
ジハードは異教徒に対する闘い、 同じムスリムにたいしてはジハードとは言わず 不信仰者に対する闘いとして、タクフィール主義という。
ヨルダン人テロリスト、 ザルカーゥイー率いる武装組織はイラク国内で活動していたが、アルカイーダ本体と合併したのは 2004年。
しかし次第にアルカイーダは イラクの組織に対して その残虐性とムスリムに対する攻撃からザルカゥイーを批判するようになる。
アルカイーダ・イラク支部は イラク・ムジャーヒディン諮問評議会をつくり、これが「イスラーム国」(2006年樹立)へ移行するが、その過程において、アルカイーダ的要素が希薄になっていく。タクフィール主義へ。
2006年、リーダーとなったアブー・バクル・バグダーディも ザワーヒリー(オサマ・ビン・ラディンの後継者)に忠誠を誓ってはいない。(だからアルカイーダではない)
「イスラーム国」について
*カリフ制
*サイクス・ピコ条約打倒 欧米による中東支配の陰謀とみている。
*ソーシャルメディアの利用 しかしフェイスブックなどの大手のソーシャルメディアは規制が厳しい。 「イスラーム国」のビデオを見て感化される、というより それ以前に何等かの形で ジハード主義の影響をうけていると考えられる。
*ヒジュラ(移住)唯一のカリフが支配するイスラーム国」への移住は個々のムスリムにとっての義務
*ホームグローン 欧米のイスラム教徒が自国の政府に対して牙をむくこと
政策 *シャリーアの適用 斬首は 認められている
*他の経典の民(キリスト教徒、ユダヤ教徒) 人頭税を払えば限定的に信仰を許される
*経典の民ではない異教徒(ここで問題となっているのはヤズィード派)の女性は奴隷にできる。(実際されている)
などについて述べられています。
第九章 シーア派イスラーム革命体制としてのイランの利害と介入の範囲 松永泰行
1979年のイラン・イスラーム革命
世界中の被抑圧者の味方であることを表明し、レバノンの ヒズブッラーや 亡命イラク・イスラーム主義組織といったシーア派組織だけでなく、パレスチナにおけるイスラーム聖戦機構やハマースへの支援、ボスニア内戦におけるムスリムの支援などをおこなってきた。イランのシーア派性が問題になることはなかった。
シーア派ゆえに引き起こした近隣との軋轢は予言者の家族の墓碑や聖廟への参詣(スンニ派や サウジアラビアのワッハーブ派はこれを 多神崇拝とみる。1987年 メディナにある バキーウ墓地で 流血事件』)
:イラク戦争による バース党体制の崩壊によりイラン国内にある、シーア派諸聖地へのアクセスの再開
:反イスラームの世俗体制であった旧体制との比較においてイランの国益上プラス要因。
「イスラーム国」のイラクにおける構成が活発化下時期以降、イランが軍事的・政治的にイラク国内情勢に介入し、一定の影響力を行使したことは 疑いようがないと思われる。しかし、それは サーマッラーはじめとするシーア派霊廟の防衛という宗教的理由で会って覇権主義からではない。
第八章 「イスラーム国」が浮彫にする国際政治の闇 酒井啓子
ブッシュ政権末期からアメリカでは 「対テロ戦争」への厭戦感におおわれていた。「アメリカは 世界の警察官ではない」
過干渉から不介入へと方向転換
これは アメリカと同盟関係にある湾岸諸国にとって大打撃
アメリカはシリアの反アサド勢力に積極的支援をしなかった。
湾岸産油国の反アサド支援が結果的には 「イスラーム国」に流れたのだとすれば、これら 諸国の対米不信が 「イスラーム国」 をモンスターに 仕上げる機会を与えたといえよう。
サウジアラビアの対米不信を助長したのが アメリカとイランの接近。
中東和平分野ではエジプトが、 湾岸地域では サウディアラビアがアメリカの骨格をになってきたがその二国の米政権にとっての役割が相対的に低下している。
イランとイラクがペルシャ湾をはさんで アラブの湾岸諸君主国と対峙する、という構図が 現実のものとして浮上。
アメリカという後ろ盾がなくなってくると、より多くの動員枠でくくることになり、ここに宗派対立という妖怪が 中東地域を席巻することになった。
さらに「イスラーム国」について、
闇経済と暴力にたいする恐怖により統治、
住民も 必要に応じて追放、殺害し、移住希望者を受け入れる。
しかし、こういう国がこれまでなかったわけでもない。
「イスラーム国」の存在そのものが、 国家主体を軸として成立した近代国際政治の闇の部分をことさらに強調したもののように見える。
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これを書くのに 10日かかってしまいました。
もうイスラム国から離れようとしたのですが、 昨日本屋にいって 気になっていたクレストブックスの一冊を買い求め ついでに世界史のコーナーに入ったのが間違いの元 またしても買ってしまいました。 ロレッタ・ナポリオーニ著『イスラーム国 テロリストが国家をつくる時』 カルチャーセンターでイスラム国について受講したさい、これをもとにはなされていたので、もういい、とは思ったのですが、、。先日の新聞オピニオン に著者へのインタビューが出ていましたので、ちゃんと読もうと思ったのです。しんどい!! でも ミステリーも何冊も読んでいます。 それは次に
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