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2015年3月

2015年3月31日 (火)

『ピルグリム』 テリー・ヘイズ著    そして桜

『ピルグリム』全三冊一気読みしました。図書館に予約しているときに 既に読まれた友人がブログで絶賛、順番がくるのが待ち遠しかったです。
スパイ小説ファンならきっと夢中になるでしょう。

ピルグリム』 1,2,3、テリー・ヘイズ著 ハヤカワ文庫

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第一部
一人称で語られる私は、アメリカの諜報機関に属する十万人以上の諜報員を監視する 諜報機関に属しています。これまでの経歴が淡々と語られます。
孤児で大富豪の養子となった、一人でいることの好きな青年。本題の作戦でのコードネームが ピルグリム(放浪者)と決められるのは 第二巻にはいってからです。
第二部 
もう一人の主役 サラセン と名付けられる人物が 何故テロリストとなる決意をしたかが語られます。
ここにきて、はっとしました。この小説は今まさに私がかなり入れこんで読んでいるイスラム過激派がテーマの話なのです。

サウジアラビアのジッダで 海洋生物学者の息子として生まれ育った少年が何故 テロリストになることを決意したのか。最近読んだ本を思い出し乍ら なるほど、なるほどと読み進めました。
アフガニスタンに向かった彼はムジャッヒディン(イスラム戦士)として闘い、さらに目的達成のために、たった一人でテロをおこすために 着々と準備を進めます。
一方、アフガニスタンで起こったある事件から大変なテロがおこりかけていることを察知したアメリカ側は、もう引退したいと考えている 私 に仕事を頼むのです。

事件発生までの限られた時間の中で、かすかな手がかりをおって必死の捜査に巻を置くあたわず、でした。
詳細はひかえます。ただピルグリムがここでは、放浪者と訳されていますが、私はピルグリムファーザーズを思い浮かべました。そうして、このことも暗示的なのです。 

メインテーマこの事件ですが、これにからむサブテーマともいうべき事件とのからませ方も面白く、後半は 舞台がトルコのボドルムであることもあいまって、とても興味深く 読みました。

ボドルムは 2002年に行きました。十字軍のお城のある町で海が美しく 白い家が山の斜面にはりついていて(行ったことはないのですが)ギリシャにいるような感じがしたことを思い出しました。ただし、バザールに行ったのですが街中は殺風景でした。

   ボドルムの港。向こうに見えるのがボドルム城 

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  ホテルのレストラン

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山に張り付く 白い家々、当時はHPをつくることなどかんがえませんでしたので、どれにもしっかり人物がはいっていて、それにカメラもよくないせいか、いい写真がありません。

*******

さて、 桜の季節、 今日は風が強いので これでお花もおしまいでしょうか。
至る所で桜はみられ、マンションの中庭もそれは見事に咲き誇っているのですが、ウオーキングをかねて近くの児童遊園地にいってきました。 

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ひときわ鮮やか、と思ったら(何とか)ツツジ
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お花見広場 丁度12時頃、春休み、ということもあって 平日にもかかわらず お弁当を広げる家族があちこち、 おにぎりくらいもってくれば良かった、とおもいました。 高低差があるので けっこう疲れておなかもすいてしまいましたので。

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この前 梅見にいったときに撮ったのとおなじ位置から撮りました。

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一本だけ 梅も咲いていました。

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竹の緑を渡る風が心地よかったです。ここは窪地になっているので風はさほど強くはないのですが、園の外に出るとけっこう突風がふいていました。桜もすぐに散ってしまうでしょうね。



 

2015年3月30日 (月)

『「イスラーム国」の脅威とイラク』

イスラム国理解のために、と朝日新聞(2月1日)で薦められていた本の三冊目を読み終わりました。
この順番で良かったと思っています。 今回の本が一番詳しく専門的(私の目からすれば)なので、最初にこれを手にするとちょっと頭が混乱したと思います。
混乱するのはまず 名前。 初めて出会う名前が多く 似たような名前、人名だけでなく組織も。すぐごちゃごちゃになってしまうので、本は付箋だらけになってしまいました。
それと地名、場所を確認したいのに、地図がないので、例によってグーグルマップを開いておいて時折、画面を見乍ら読みました。 

以下は 私の頭の整理のために概要をまとめた(抜き書きした)ものですが、大事なところがぬけているかもしれません。この本は新書などで概略を知った次の段階で読むのに、とてもいいと思いました。本をお読みになって 以下の文章はスルーなさってください。

 

『「イスラーム国」の脅威とイラク』 吉岡明子、山尾大編 岩波書店

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2014年12月25日 第1刷発行で、暫く待たされて私が手にいれることができたのは、2月16日発行の第3刷。 よく読まれている本のようです。
タイトルからも察せられるように、イラクに重点を置いて語られています。クルディスタンのことも章立てして述べられていて私なりにかなり情勢が理解できたように思っています。 

簡単に 内容を

 序 「イスラーム国」は イラク戦争とシリア内戦でうまれた   酒井啓子

「イスラーム国」台頭の経緯とこの「国」の異質性、投げかける課題について 全体的に述べている。

異質性(他のテロリスト集団とくらべて)

 ①「国」を名のりながらも徹底した非国家主体として 特定の国家主体に指導をあおいだり、 庇護を求めたりしていない。

 ②敵として対象とするのは、シーア派などのように彼らから見た不信仰者やヤズイード派のような異教徒で アルカイダのようにアメリカなどいわば「遠くの敵」を対象とするのではなく 制圧した地域の「内なる敵」を対象としている。
イスラエルに対しても攻撃姿勢は持っていない。(ビン・ラディンもイスラエルを非難していたのに)

③財力の大きさ  石油の闇輸出、誘拐金、接収財産 などによる。

何故この地域にこのような「国」が台頭したのか。
結論的に言えば、澱のように溜まったイラク戦争とシリア内戦のツケが「イスラーム国」の栄養分になった。
これを以下の章で見ていく。   

第一章 マーリキー政権の光と影  -イラク戦争から「イスラーム国」の進撃まで 
第二章 隠された二つのクーデタ -「イスラーム国」の進撃とアバーディー政権の成立を考える    山尾 大

2014年6月10日モスルが陥落したころから、この事件の背景として マーリキー政権がシーア派を優遇し、スンナ派を排除してきたからだ、といわれるようになったが、 はたしてそうか。
ここでは 政治対立が権力闘争の一環として展開されてきたものであり決して宗派対立や 民族が主たる争点ではなかったことが示されています。

2003年バグダード陥落
アメリカを中心にして作られた連合国暫定当局(CPA)がやったことは 

① 脱バース党政策 バース党を非合法化し、 幹部の公職追放をおこなった。 これにより 役三十万人の党員が公職追放、教師も失業した

② 旧バース党政権下の治安機関を完全に解体、約三十五万人の失業者をうみだした。

これが 戦後イラク政府に決定的な影響をあたえた。 独裁政権からの解放者であったはずの米軍は排除すべき相手となった。

反米、反占領活動が 急速に拡大したのは米軍による2004年のファッルージャ進攻。
この地域は スンナ派が多いところであったが、米軍の進攻に対しては反米姿勢の強いサドル派をはじめとするシーア派勢力も強く反発。(宗派の違いが問題ではなかった)

CPA でなくイラク国民の選挙でえらばれた議員が憲法を起草する、ということになったが、ここで、影響力を持ったのが、スィースタニー率いるシーア派宗教界。 シーア派には教会の組織的ヒエラルキーがあり、これを持たないスンナ派に圧勝することができた。 
2006年4月 首相に選ばれたたのは、諸事情から無名のナショナリストである(ダアワ党Damascus支部にいた)マーリキー。 

第一次マーリキー政権 では内戦から脱却し、秩序を取り戻したのは功績といえる。シーア派主導のイメージを克服するためにスンナ派からの入閣者を増やし挙国一致内閣をつくりあげた。
しかし政局は麻痺していたので、政策決定をスムーズにさせるために首相の権力を強化させる策をとった。野党は これに対して大連合した。

任期満了に伴う2010年の国会選挙では マーリキーの属する政党は 第二党に転落。しかし、選挙後の合従連合の結果、マーリキーは首班に指名された。
第二次マーリキー政権(2010年から 2014年9月) この裏にはアメリカとイランの介入があった。また司法の政治的利用もあった。 

こういう中で反政府運動と暴力が復活してきた。 マーリキー政権に対してもっとも強く反対したのが同じシーア派のサドル派。国民の指導者と呼ばれた、マーリキーは 独裁者、とよばれるようになっていった。

2014年4月の第三回国会選挙ではマーリキーは危機的状況に落ちいっていたが選挙キャンペーンとして、住宅や土地のバラマキ政策、インフラ整備が功を奏し個人票をのばすことができた。しかし、2014年6月10日モスル陥落。

      :::

シリアからイラクに流入した 「イスラーム国」が なぜ勢力を拡大し、モスルを陥落させることができたか。
① モスルに駐留していた イラク正規軍が脆弱であった。

②第二次マーリキー政権で排除された勢力が部分的に「イスラーム国」に加担した。 しかしこれは ごく一部で初期に限られている。

③旧体制派(旧バース党幹部、旧軍将校など)が 「イスラーム国」と戦略的同盟関係をむすび、モスル陥落を手招きした。モスル陥落事件とは、第一義的には戦後の新体制に対する旧体制はの「クーデタ」であった。(と見ている)

モスル陥落の原因はスンナ派冷遇や宗派対立ではなかった。
しかし、「イスラーム国」の「イスラーム教シーア派は異端であり、したがってシーア派を殺害すべきだ」という主張に対して 「シーア派を守れ」と主張して様々な勢力がたちあがった。 (つまり原因結果が逆)ここで宗派対立が顕在化することになった。

しかしこの宗派対立も一時的現象。

「イスラーム国」の極端に過激な行動に、連合していた旧体制派や他のスンナ派急進派も反発。カリフ宣言を機に決別。
両者は考え方が違うので 分裂は当然だったといえる。 「イスラーム国」はイスラーム主義者であるのに対して旧体制派は世俗主義なので製作が一致するはずはなかった。
目標も「イスラーム国」が既存の国家の枠組みをはずしたイスラーム国家の樹立をめざしたのに対し、旧体制派は戦後新体制の打破と自らの復権であった。

    :::

自らの権限強化に固執するマーリキーでは 「イスラーム国」という国家存亡の危機を克服し、国民統合をはかることはできない、とスィースタニー率いるシーア派宗教界は判断、またもやロープロファイルの人間が必要となり引き抜かれたのが アバァーディ 。

このときマーリーキー追い落としをイランのハーメネー最高指導者も支持している。

アバーディー政権の課題は 「イスラーム国」との闘いに勝利し、イラク国民の統合を取り戻し、国家の危機を克服することである。 そのためにもっとも重要なのは「イスラーム国」から 離脱した勢力をいかに政府に取込、「イスラーム国」に対抗する勢力にまとめるかという点に他ならない (そのまま 引用しました)

この章の結びとして 筆者はまったく希望がない、とは見ていません。
「イスラーム国」掃討作戦のために宗派対立を排し、 国民が一致団結しようという動きがみえている。 そのために「国民防衛軍」の結成を進める法案が国会に提出された。(9月) 
これに期待をかけているようえすが、その結果はわかっていません。

第三章 クルディスタンとその係争地ーイスラーム国」が独立問題に与えた影響 吉岡朋子

クルド人はトルコ東部からシリア、イラク北部、イラン西部にかけて住む民族で、かのサラッディーンもクルド人でした。
湾岸戦争直後、イラク各地で民衆蜂起が発生したが、イラクのクルド人地区は(88年にハラブジャで 毒ガスの空中散布により5000人が無差別に殺された) 多国籍軍によってイラクの支配を離れることができ、事実上の自治区となった。しかし二つの政党の争い、経済的に困難イラクによる経済制裁)な状態がつづいたが、2003年のイラク戦争によりイラクの政治に係わるようになった。
イラクが 連邦制をとることにより事実上の自治区が公式の自治区となったのである。地位が公式のものとなったために国際機関などからの援助も得やすくなり、 また二つの政党が 統一政府を作ったために イラク内戦の間もここでは 治安が維持されていた。
しかし、クルディスタン地域の境界線について、話し合いがうまくおこなわれていないために問題が起こっている。 特に国内最大の油田を持つキルクークにおいて、イラク政府はアラブ人が多数になるようにクルド人をおいだして アラブ人を住まわせる政策をとっていた。このような 係争地はグリーンラインに沿ってあるのだが、もとの土地にそれぞれの人間をを戻すことは難しく、 また将来、その土地がどのようになるかわからないので、イラクもクルディスタンも開発に消極的で住民の不満の種になっている。

係争地で一番の問題は治安で イラク軍とペシュメルガ(クルディスタン民兵組織)がうまく協調できていないので、テロリストが活動しやすかった。 これが 14年6月の「イスラーム国」の席巻で一変。イラク軍が逃げ出したためペシュメルガが漁夫の利を得る形で係争地を次々手中におさめていったのです。
キルクークもクルド側のものとしました。(クルド側の方が備えができていて 情勢を読んでいた。 モスル陥落前にもせまっていることはイラク側にアメリカを通して伝えたがイラク政府の読みが甘くペシュメルガに援助をたのまなかったことが「イスラーム国」の進撃を許すことになった)

キルクークを手にいれることは経済問題の解決につながる。クルドの独立が現実味を帯びてきている。しかし、係争地にはクルド人以外の民族も多い。 

クルディスタンという言葉には二つあり、
①クルド人/クルド民族の土地 四か国にまたがるクルド人居住地域に統一国家を形成することを目指す、汎クルド民族主義の理想が投影された言葉

②クルド人だけでなく他の民族や宗教に属する集団も含め、イラン北部という一定の領域に住むすべての人々を市民として包括する概念としての言葉

現在この地域での意識調査では ②の意味で 自分たちのアイデンティティをとらえていることが確かめられている。クルディスタン自治議会では、トゥルクマン、アルメニア教徒、、アッシリア人(キリスト教徒)  こうした少数民族にも議席が割り当てられている。

キルクークにはアラブ人が多く、 治安が良いクルディスタン地域には流入してきているアラブ人も多い。 また シリア、イラン、トルコから 移住してきたクルド人もいる。もし国家になるとしたら、 彼らをどうするのかも問題になってくる。

第四章 揺らぐイラクの石油支配 吉岡朋子

1914年 オスマン帝国下、トルコ石油会社が バグダード地域とモスルの石油利権を獲得。
1921年イラク王国誕生後は イラク石油会社と名を変える。支配権は欧米列強の石油会社が 握っていた。しかし、これらの会社は イラク以外にも 検疫を持っていたために あまり力をいれていなかった。

1958年共和制革命後 
1968年バース党政権誕生、 
1970年代 石油産業の国有化に向かった。 
しかし イラクには 資金も技術力もなく生産量が低かったが キルクーク油田開発などにより徐々に生産量は伸びた しかし、
1980年~1988年 イラン・イラク戦争 停戦後 生産量は 伸びたが、
1991年 クゥエート進攻、 これにより 国連から経済制裁を受け、油を輸出できなくなり 生産量が大幅に落ちた。 2003年のフセイン政権崩壊まで経済制裁は続いた。

フセイン政権崩壊後の新政府では 石油開発について石油開発を包括的に規定する法案が閣議決定されたが、 石油政策を誰がどう決めるか、 収入をどう分配するのか、 外国資本の参入をどのような形でさせるかなどをめぐって、クルド政府と対立。 法案は 決定されなかった。
細かいことは 省略するが クルディスタン自治政府は エクソン・モービルと独自に契約、 その後も外国資本の参入が (クルディスタンにおいて)つづいている。 

問題は クルディスタンは陸の孤島で輸出するための港を持たないことだ。 パイプラインによるしかない。 一時は イラク政府と交渉の結果使うことを認められたが、それも停止され、 独自のパイプラインをトルコ経由で作った(2013年)。 それまではトラック輸送も行っていた(沢山は輸送できない)

イラク全体で見ると、バグダードを中心とする南部(バスラがある)には イスラーム国の脅威が及んでいないので、生産・輸出量は 比較的好調。 

しかし、 イラクートルコルートのパイプラインは2013年以降、パイプラインへの破壊活動がとくに多くなり(それ以前にも石油マフィアによる 破壊活動はあった、単に穴をあけて盗む程度のことも含めて)でたびたび送油が停止する事態が続いている。パイプラインが機能しないと困るのはイラク側も同じ。

「イスラーム国」は 製油所を制圧することにより、潤沢な資金を得ている、といわれているが、 推測で 数字はまちまちであるが、ピーク時で1日8万バーレル、色々な要素を考慮にいれても、1日で数千万から数億円単位の収益になるそうだ。ここの収入内訳はある推計によると、石油で40%、身代金が20%、地元民からの税収が17%、国外からの送金が15%、アンティークや小麦の売買が8%だそうだ。

「イスラーム国」問題が解決した後も課題となるのは、 石油とその富は、だれが 度のように管理し、だれの手に委ねられるべきか、 という問題である。イラク政府が 包括的に管理するのか、地方分権的に考えるのか?クルディスタンがキルクーク油田を手放す可能性はきわめてひくくなってきている。

第5章  「イスラーム国」とシリア紛争 高岡豊

シリアでは 1970年代から80年初頭にかけて、ムスリム同胞団による反政府闘争があったが、政府による苛烈な弾圧により、おさえこまれた。
2011年以降シリア南部の地方都市での暴動を 発端として、各地で政府に対して改革を要求する抗議行動が行われるようになった。「アラブの春」の一環と解され、アサド政権は崩壊するものと思われていたが、崩壊せず、匿名の大衆による抗議行動から、外国の支援を受けた政治家たちによる奪権闘争、武装闘争へと変質、アサド政権の妥当ともシリアの政治体制の刷新要求とも無関係な、外国紀元のイスラーム国過激派による破壊と殺戮に陥った

理由には 政府側の弾圧と 反体制側が思想信条面でも組織面でも多様で統一がとれていなかったことがあげられている。反体制派同志の交戦も常態化している。末端は情勢を観つつ安易に所属を変えたりもする。 武器の横流しもある。こういう中で良い反体制派と悪い反体制派の峻別が不可能になってきている。
欧米諸国はこういう中で武器供給をしなかったが、湾岸諸国ではムスリムの同朋を救うために、反体制派に資源を供給した。
2011年にシリアの過激派組織として現れたヌスラ戦線は「イスラーム国」の別名であったされるが、 一時分裂、対立したが、14年6月、イラクで大量の資金を得た(イラク軍の装備、銀行に残された資金)ため、戦力を増強、ヌスラ戦線初め他の過激派組織も傘下に入った。

イスラーム国への資金遮断を困難にしている原因の一つにトルコが国際同盟への参加や国境管理に積極的でないことがあげられている。

アルカイーダやそれに類するイスラーム過激派組織として、追跡されていた「イスラーム国」は、シリアでアサド政権を攻撃している限りそうした追跡を免れることができた上、世界各地で潤沢な資源を調達することが黙認・ 奨励されたのである。
イラク・シリアで活動している主体は (外国人戦闘員潜入にかかわっているのは、 潜入者、勧誘者、案内者、受け入れ者に分けられるが)受け入れ者だけであることにも留意が必要。 「イスラーム国」の問題の原因と解決の多くは、実はイラクやシリアの外側にある、という可能性をしてきしておきたい。 と結ばれている。

第六章 「イスラーム国」とアルカイーダ
        -- 液状化する サイクス・ピコ体制とカリフ国家の幻影  保坂修司

1979年のソ連、アフガニスタン侵攻をきっかけに 多数のムスリム義勇兵が アフガニスタンに向かった。 これがアルカイーダの母体。この時敵としたのは ソ連=共産主義
アフガニスタンを解放することは ムスリムの義務とした。 これがジハード主義。
1989年ソ連撤退
1990年の湾岸戦争をきっかけに サンディアフラビアに駐留していたアメリカ軍を、イスラームの聖地を占領する十字軍と見なし、アメリカを サウディから 追い出すことを崇高な義務とした。 この後アメリカを 敵とする。
クライマックスが 2001年 のニューヨーク 世界貿易センタービルに航空機を激突させた事件 (9.11)

ジハードは異教徒に対する闘い、 同じムスリムにたいしてはジハードとは言わず 不信仰者に対する闘いとして、タクフィール主義という。

ヨルダン人テロリスト、 ザルカーゥイー率いる武装組織はイラク国内で活動していたが、アルカイーダ本体と合併したのは 2004年。
しかし次第にアルカイーダは イラクの組織に対して その残虐性とムスリムに対する攻撃からザルカゥイーを批判するようになる。
アルカイーダ・イラク支部は イラク・ムジャーヒディン諮問評議会をつくり、これが「イスラーム国」(2006年樹立)へ移行するが、その過程において、アルカイーダ的要素が希薄になっていく。タクフィール主義へ。
2006年、リーダーとなったアブー・バクル・バグダーディも ザワーヒリー(オサマ・ビン・ラディンの後継者)に忠誠を誓ってはいない。(だからアルカイーダではない)

「イスラーム国」について

*カリフ制

*サイクス・ピコ条約打倒  欧米による中東支配の陰謀とみている。

*ソーシャルメディアの利用 しかしフェイスブックなどの大手のソーシャルメディアは規制が厳しい。  「イスラーム国」のビデオを見て感化される、というより それ以前に何等かの形で ジハード主義の影響をうけていると考えられる。

*ヒジュラ(移住)唯一のカリフが支配するイスラーム国」への移住は個々のムスリムにとっての義務

*ホームグローン 欧米のイスラム教徒が自国の政府に対して牙をむくこと

政策 *シャリーアの適用 斬首は 認められている
         *他の経典の民(キリスト教徒、ユダヤ教徒) 人頭税を払えば限定的に信仰を許される
    *経典の民ではない異教徒(ここで問題となっているのはヤズィード派)の女性は奴隷にできる。(実際されている)

などについて述べられています。

第九章 シーア派イスラーム革命体制としてのイランの利害と介入の範囲 松永泰行

1979年のイラン・イスラーム革命
 世界中の被抑圧者の味方であることを表明し、レバノンの ヒズブッラーや 亡命イラク・イスラーム主義組織といったシーア派組織だけでなく、パレスチナにおけるイスラーム聖戦機構やハマースへの支援、ボスニア内戦におけるムスリムの支援などをおこなってきた。イランのシーア派性が問題になることはなかった。
シーア派ゆえに引き起こした近隣との軋轢は予言者の家族の墓碑や聖廟への参詣(スンニ派や サウジアラビアのワッハーブ派はこれを 多神崇拝とみる。1987年 メディナにある バキーウ墓地で 流血事件』)
:イラク戦争による バース党体制の崩壊によりイラン国内にある、シーア派諸聖地へのアクセスの再開
:反イスラームの世俗体制であった旧体制との比較においてイランの国益上プラス要因。 

「イスラーム国」のイラクにおける構成が活発化下時期以降、イランが軍事的・政治的にイラク国内情勢に介入し、一定の影響力を行使したことは 疑いようがないと思われる。しかし、それは サーマッラーはじめとするシーア派霊廟の防衛という宗教的理由で会って覇権主義からではない。

第八章 「イスラーム国」が浮彫にする国際政治の闇 酒井啓子

ブッシュ政権末期からアメリカでは 「対テロ戦争」への厭戦感におおわれていた。「アメリカは 世界の警察官ではない」 
過干渉から不介入へと方向転換
 これは アメリカと同盟関係にある湾岸諸国にとって大打撃
 アメリカはシリアの反アサド勢力に積極的支援をしなかった。
 湾岸産油国の反アサド支援が結果的には 「イスラーム国」に流れたのだとすれば、これら 諸国の対米不信が 「イスラーム国」 をモンスターに 仕上げる機会を与えたといえよう。

サウジアラビアの対米不信を助長したのが アメリカとイランの接近。 
中東和平分野ではエジプトが、 湾岸地域では サウディアラビアがアメリカの骨格をになってきたがその二国の米政権にとっての役割が相対的に低下している。

イランとイラクがペルシャ湾をはさんで アラブの湾岸諸君主国と対峙する、という構図が 現実のものとして浮上。
アメリカという後ろ盾がなくなってくると、より多くの動員枠でくくることになり、ここに宗派対立という妖怪が 中東地域を席巻することになった。 

さらに「イスラーム国」について、
闇経済と暴力にたいする恐怖により統治、
住民も 必要に応じて追放、殺害し、移住希望者を受け入れる。
 しかし、こういう国がこれまでなかったわけでもない。
「イスラーム国」の存在そのものが、 国家主体を軸として成立した近代国際政治の闇の部分をことさらに強調したもののように見える。

    *****

これを書くのに 10日かかってしまいました。

もうイスラム国から離れようとしたのですが、 昨日本屋にいって 気になっていたクレストブックスの一冊を買い求め ついでに世界史のコーナーに入ったのが間違いの元 またしても買ってしまいました。 ロレッタ・ナポリオーニ著『イスラーム国 テロリストが国家をつくる時』 カルチャーセンターでイスラム国について受講したさい、これをもとにはなされていたので、もういい、とは思ったのですが、、。先日の新聞オピニオン に著者へのインタビューが出ていましたので、ちゃんと読もうと思ったのです。しんどい!! でも ミステリーも何冊も読んでいます。 それは次に

 

 

 

 

 

 
  

 

2015年3月22日 (日)

『古代の女性官僚』 『黒のトイフェル』 『窓際のスパイ』

ここ一週間で読んだ本をまとめて

古代の女性官僚 女官の出世・結婚・引退』 伊集院葉子著 吉川弘文館

女官? 清少納言とか紫式部とかが思い浮かびます。典侍とか命婦などの言葉も。でも仕事内容について考えてみたことはありませんでしたし、そもそも皇后に仕えていたような気がするのです。しかしこれは平安時代のことです。

それで 新聞に紹介が出ていたので読んでみた、というわけです。

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持統天皇という女帝がいましたが、彼女が権力を掌握できたのは 彼女の政治力だけではなく、、村や共同体の統率から宮廷の運営、国政のかじ取りにいたるまで、マツリゴトに女性が関与していたという古代の社会の土台があった、からだそうです。
(推古天皇の例が挙げられている)

日本の古代女官は律令によって規定された行政システムの一部だったことを 天武天皇出仕法などを引きながら 説明されています。ここで 古代というのは主に奈良時代のことです。

宮廷に出仕したのは 中央豪族の娘、氏から女性を出仕させたが(これは夫のあるなしを問わなかった、つまり女官は天皇の側妾予備軍ではなかった) 氏女 と呼ばれた。
よく 采女という言葉をききますが、これは地方豪族の女で 各国の郡から選ばれた者でした(狭き門であった)。
女官は 天皇直属の職員でした。大宝律令(701年)、養老律令で後宮十二司という組織に職掌、定員などが定められています。

こういう女性たちの仕事、その評価、出世の条件などがれをあげながら 述べられていきます。くらいも 長官クラスとなると 大納言に匹敵したそうです。

もうすこし時代はくだりますが 「薬子の変(809年)」というのがありました。(あった、ということくらいしか覚えていないのですが)これは薬子が内侍司のトップの尚侍であったことと関係しています。内侍司の職掌に、天皇に常侍。奏請宣伝。 というのがあります。天皇のそば近くに常にいて、男官諸司からの奏を伝え天皇の言葉を諸司に返すという仕事です。(天皇が直接紙に書くのではなく、この伝えられたことを男官の内記が書く)
平城天皇の尚侍であった薬子は非常に評判が悪く、天皇の命ではないものを天皇の命として詐り、官僚たちをほめたり、貶したり、言いたい放題だった、と言われています。

つまり、そのように大事な仕事が女官に任せられていたというわけです。 その他の仕事も 男女の官僚が役割を分担しながら宮廷を運営していたのです。 
そうしてなんと 80歳までつとめあげた人も多いのです。
また男性官僚と結婚して夫婦共働きで朝廷につかえた例というのも多いのです。
よく女官の出世は夫次第といわれていたそうですが、そうでない例、夫の死後も働いてさらに出世した例があげられています。
財も貯え、与えられた土地が現在もなお、その女官名を地名に残しているところもあるそうです。 

奈良時代に中央官庁に男女が共労(この本では共労という言葉が使われている)していました。男女共労であったために、日本には中国のような宦官が必要なかったことも指摘されていました。

古代社会で男女が平等とはいわないまでも(報酬に差があった)非常に大事な仕事も任され、活躍の場があった、とはなんと素晴らしいことでしょう。溜飲がさがる、というか、非常に感動しました。 

この 後宮十二司の制度も平安時代にはいって、(平城朝に)律令官僚機構の改編とともに、地方の豪族女性が朝廷に出仕する道は殆どとざされ(采女貢進がなくなった)、氏女の組織も改変されたが、ここで生まれた 新氏女の中から 9世紀後半の後宮を支えた女性たちが 出ました。

これまで皇后などは内裏の外に住んでいたが、平安時代になると 弘徽殿、藤壺といった場所が作られ、そこにキサキたちは住むようになります。そこで、このキサキをとりまく女官たちも内裏に住むようになり、ここに宮廷サロンができたわけです。 しかし女房達はたんにサロンの花ではなく、キサキの公的な活動を支えるオフィシャルな集団でした。
紫式部や 清少納言は一条天皇の中宮や皇后に仕えたが、当時の中宮や皇后は 独自の権能をもち、政治の表舞台で活躍していた。だからこそ、彼女たちに仕える女房たちも、政治の表舞台に立つことになったのである。女房が担った文学の社会的地位が大きくなったのは、 このためだという。   

いま女性議員の数をどうとか、前から男女共同参画とか言っていましたが、1200年以上も前に男女共同参画、女性が輝く社会があったなんて、嬉しくなりました。 

黒のトイフェル』 フランク・シェッツイング著 ハヤカワ文庫

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13世紀のケルンが舞台です。背表紙に書かれていることをそのまま引きます。

1260年9月ドイツ、ケルン、新たな大聖堂を建築中のこの都市で、大がかりな陰謀が ひそかに進められていた。 そんな折、こそ泥のヤコブは、 大聖堂の足場から建築監督が 黒い影に突き落とされのを目撃した。彼は友人のティルマンと娼婦のマリアにその事件を話すが、やがて二人は弩を使う不気味な殺し屋に殺害される。ヤコブは自分の命が狙われていることを知り、 身を潜めようとする。だが殺し屋は ついに 彼に襲いかかった!

まずページを開くと13世紀のケルンの地図が出てきます。これだけでもうれしい。
これはケルン大聖堂の建築にかかわる大司教と貴族集団の確執がテーマです。
貴族といっても宮廷貴族ではなく大商人です。 ケルンはライン川の水上交通の要衝であり商人の定住地となっていました。大司教から富の力で色々な権利をえていた、この大商人グループと教会は利権の対立するところがあって いさかいが多かったのです。1110年代には司教を町から追い出され、ライン川の対岸に住んでミサの時だけくるようになっていました。 
この大司教対貴族の陰謀に巻き込まれた コソ泥ヤコブ、彼を助ける 染め物屋の娘、そうして彼女の伯父の司祭などが繰り広げる ちょっとドタバタ的要素もある物語、 
ミステリーを楽しむというより 中世ヨーロッパに関心のある者にとっては 当時の社会が分かる面白い読み物でした。 
残念乍ら私はまだケルンに行ったことがありません。ここには12ものロマネスク教会があるのです。地図をみて行きたさにウズウズしながら読みました。

窓際のスパイ』ミック・ヘロン著 ハヤカワ文庫

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窓際のスパイ、つまり窓際族となった スパイが活躍するはなしです。不祥事を起こした英国特捜部の部員が送りこまれるのが 「泥沼の家」。
似たような状況の警官の集まりが デンマークの 特捜部Qシリーズだと思いますが、私には デンマークの小説のほうが面白かったです。
おいやられた人たちの暗さがに最初は、ル・カレの作品を思わせるところがあるとおもったのですが、でも現代です、ル・カレの登場人物ほどの人間的深さともいうべきものがない、 メンバーのダメさ加減のごたごたが多すぎ、これは シリーズものだそうですので、次作になると 人物紹介的なところは なくなると思うので 次作に期待。
パキスタン人の青年が誘拐され、48時間後に処刑される、という事件が起こります。 それまでになんとか救出しなければ、、。 このことを知って 本当は事件にかかわる権利のないはずの泥沼の家のメンバーたちは 特捜部員魂とでもいうものに突き動かされて頑張ります。
ネタバレになるのでこれ以上書きませんが、明らかになったこの事件の実態の愚かしいこと!、でも 官僚の世界って 案外こういうことはあるものかもしれない、ということの恐ろしさ。 これに嫌な気分にさせられて、私はこの本を評価したくない気持になっています。

 

 

2015年3月15日 (日)

小管 優ピアノリサイタル

昨日は 小菅優ピアノリサイタルに行ってきました。
 時々 新聞に横須賀芸術劇場のチラシが はいるのですが このhallには まだいったことがありません。 先日 このコンサートの広告をみつけました。
小菅優さんって話題にのぼったことがある演奏家ですが まだきいたことがありません。

15031503                       プログラムより

横須賀は東京よりずっと行きやすいので 行ってみた、というわけです。
プログラムは ショパンと ベートーヴェン。おなじみの曲が並んでいます。 ベートーヴェンは 特に 私の好きな 109、110番です。 これは 聴きたい。 でもひとつ 日本人の作曲家、当然 現代曲、もはいっていますが、まあ、一曲ならいいか、というわけでともかくticket購入。アクセスは? 京急汐入駅すぐ (でも迷いましたけれど)

横須賀芸術劇場 http://www.yokosuka-arts.or.jp/

新しくてとても立派なホールでした。客席数2000。国内最大のオペラハウス仕様だそうです。

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三浦半島にはいったところにこれほどのホールがあったなんてびっくりです。ホワイエというのですね、会場手前のロビー。ここもゆったりで、ソファがいくつもおいてあり、はやめに着いたのでここで本を読みながら開演を待ちました。

15031501チラシはなかったので ウェブから拾いました。

プログラム

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まずベートーヴェンの109番
最初の数小節を聴いただけでもう、「来てよかった」 と思いました。ピアノから始まってクレッシェンドしていく、静かに盛り上がっていくところが絶妙。甘い調べにうっとり、素敵でした。

ところで休憩の時、声をかけられました。Yさんでした。 お近くだから、もしかしたらとは思っていましたが、、。 彼女はよくこのホールにいらっしゃるようです。

休憩のあとが カラヴィンカ これがもうものすごくよかったのです。
全く予備知識なし、 現代音楽によくあるように、硬質な音の響きーガラスとスティールでできた建物のようなー。何となく不安定な感じ、不安感、心が騒ぐ、でもひきこまれていき、水の流れ?詩情も感じられる。すっかり魅了されました。怒涛のような激しさもあれば 花火でもみるような色彩、華やぎもある。
これを聴いただけでも来た甲斐があったとおもいました。帰りにY氏(ご夫妻でいらしていた)にカラヴィンカは迦陵頻伽といって鳥の名前だと教えられました。 え? 鳥?
帰ってプログラム解説をみてみると
カラヴィンガとは人の顔を持つ鳥で、仏教の阿弥陀経では極楽に住み、美しい声で仏陀の言葉を歌って人々を救済する。 作曲者自身の記しているところによると、極楽のイメージは京都の東寺に伝わる「胎蔵界マンダラ」から得たもので、様々な色彩の光や 霊妙で官能的な香気に溢れた胎内のような宇宙に、大日如来を中心とするやわらかでつややかな御体の仏たちが集まり、そこで カラヴィンガが苦の現世に生きるわれわれに歌いかけるという。

とありました。 極楽に住む鳥?
尚この曲は 2006年8月ザルツブルグで 小菅優さんに献呈初演されたそうです。彼女のための曲、ということなのでしょう。この時日本人としては二人目のザルツブルグ・リサイタル・デヴューだったそうです。

You Tube で ウイグモアホールでのこの演奏をみつけました。
鳥、と思って聞いてみるとやはり、 鳥!!このほうが さらに硬質 最初は 鉄琴のような音でした。

ついでに書いておくと、写真のないのが残念なのですが、この日のドレス、これにあわせたのでしょうか。 一見キモノ風 黒い しゃのようなドレスに 前面(後ろも?)パネル風に(そして 一方の肩にも) 被さっているのが黒地に大きく白いたての波(?)や白丸が浮き出し ところどころ 端などに朱色(赤?)がさしてある、留袖を思わせうようなドレス。 ひらひらしているので鳥もイメージされているのかもしれません。斬新なデザインでした。  

ウイグモアホールでの演奏とてもいいとはと思いましたが、 横須賀のほうが迫力がありました。

そうして思ったのですが これはこのホールの音響のせいではないでしょうか。 私の席はかなり間際に買ったにもかかわらず(入りは 半分くらいでしょうか。でも場所を考えるとよく入るったもの、という気がします)いい席 (一階前列最後部右側だが中央より) だとは思うのですが。 
実はノクターンの音がクリア、というより 幅のある音、それにバラードの後の方の激しいフォルティッシモのところなど音が重なり過ぎて、一つ一つの音が聞き取りにくいほどだったのです。(迫力がありテクニックもすごいせいか、途中で間違えて拍手した人も)ぺダリングのせいであるはずはないので、これは このホールの残響が良すぎるせいではないか、と思いました。
それがカラヴィンカでは幸いして(私にとっては)怒涛のような激しさ、迫力があっていい、と思われたのかもしれません。 you tube ではフォルテになってもそれぞれの音は独立してきこえ ワーンという感じはなかったのです(録音はそういう音は取るのでしょうか) 

お断りしておきますが、 私は音楽は勿論、音響の専門家でもないので、全くの個人的感想で こうお感じにならなかった方も多いのではないかと思います。ホールをとやかく言うつもりはありません。それどころか近いので今後は多いに利用させていただくつもりです。

というわけで カラヴィンカに圧倒されてしまって、本当は大好きで一番のお目当てだった ベートーヴェンの110番  これが色褪せてきこえたのです。 最初の方、静かに ピアノで演奏していくのです。カラヴィンカの 後半 ゴージャス(オーヴァーかな?)といってもいい響きのあとでは、、、、。物足りなく感じてしまったのです。途中からこの演奏もなかなか、 とおもいなおして しっかり聴きましたが、、。 順番が逆だとよかったのに。 残念です。
アンコールは 一曲 ショパンのnocturne、op25-1 エオリアンハープ 

きれいな曲を聴いて本日はおしまい。

満足でした。 またこのピアニストの演奏を聴いてみたいと思いました。

 

2015年3月 7日 (土)

散歩

昨日 6日 梅見散歩に行ってきました。 前日に主人が行って、 梅もほぼ満開 墓地ではヒースも咲いていた、というので これは見なければ、と出かけたのですが、あいにくの寒さ、でも梅はさむくなければ、、。

まず 英連邦軍墓地へ
ここにはイギリスの王族が来日されると必ずおまいりされます。
イギリスのウイリアム王子様が27日にここにいらしたのですがその時献花された花輪がまだありました。 

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もうすこし近くによって 少ししぼんでいますが、まだしばらくは大丈夫そうでした。

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この向い側の建物、 これまで入ったことがなかったのですが

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cremation 火葬記念館のようです。

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12年10月にもこの墓地のことをかきましたが、その時 kikuko様から捕虜が葬られているのではないか、というご指摘をいただきました。その後しらべて確認はしたのですが、この場所にもきちんと prisoner と書かれていました。ここに遺灰が収められているそうです。

墓地は 国別になっているのですが、上にいく階段わきにヒースが咲いていました。

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この日は曇り空、 前日に主人が撮った写真

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ヒースには種類が色々あるようで、ここのはイギリスで見た、地を這うようなものではなく、よくお花屋さんでエリカとして売られているものと同じ種類のようでした。イギリスやアイルランドでは夏(一度暑さを経る必要があると聞きました)から秋にかけて咲くはずなのに、 冬咲く種類もあるのですね。

途中のベンチには指を折っていらっしゃるご老人が、、。 もう一方の手には紙切れと鉛筆、おお御同輩。でも私はこの日歌はできませんでした。

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奥の墓地には行かないで

今度は児童遊園地

下っていくと直ぐ梅林があります。上から見下ろすと

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風にのってふわっと良い香りが、、。あとで これは水仙だったと気づきました。

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向こうは竹林です。

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上下とも主人の写真を借りました。

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向こうは 菜の花畑

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振り返って 梅園をみる

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もう一度みおろして

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お天気がよくないので寂しいですが それなりに風情はありました。

2015年3月 4日 (水)

『キリスト教とローマ帝国』 ロドニー・スターク著

キリスト教とローマ帝国』 小さなメシア運動が帝国に広がった理由 ロドニー・スターク著 新教出版社 という本を読みました。

著者のロドニー・スタークという人は 宗教社会学者だそうです。 私は 社会学、というものを全く勉強したことがないので、キリスト教についてこういうアプローチのしかたがある、ということに非常に驚きました。 最初に定量化を量るとして、成長率(信者数の増加)を計算する、ということからしてびっくりです。当時の文献資料があまりない、ということもあってか、キリスト教は 新興宗教であったので、現代の新興宗教の広がり方などからも抑えていく、という方法もとっていました。

内容について、結論を言えば ある程度うすうす感じていたことが、具体的にはっきりさせられたな、という感じをもちました。つまり特に目新しい結論ではない、ということです(当たり前だと思いますが)。それをきちんと説明して見せたというところにこの本の意義があると思いました。
結論は、キリスト教は当時の社会状況の諸々の条件をうまくクリアすることができたが、(いい時期に現れたともいえるかもしれません)その根源となった力はキリスト教の持つ教義内容にあった、それが人々をひきつけた、ということです。
多神教衰退期、 離散ユダヤ人のうち非宗教的状態にあった人々もいて 、このユダヤ人ネットワークにのり、互いに助け合うという共同体が 成長を遂げた、のです。

 
この時期はまだ聖書もなければ儀式もなかったようです。聖書が書かれたのは一世紀後半から二世紀前半ですが、 新約聖書として権威あるものとして認められるようになったのは、四世紀から五世紀にかけてのことです。
生贄を捧げる宗教を信じてゐる人々をひきいれるために考えられたと言われるミサ、聖体拝領などについても、この本では全くふれられていません。  

 

この本によって新たに(私にとって) 分かったことは初期キリスト教時代におけるユダヤ人とキリスト教の関係です。初期の改宗者にユダヤ人が多かった、むしろユダヤ人のネットワークを通じてキリスト教が広まっていったということです。

読みながら、ここで扱われているのは正統派キリスト教(アタナシウス派)ですが、異端とされたアリウス派の普及はどのようであったのか知りたくなりました。もっともこれは 4世紀になってからのことですから この本の目的からは 外れると思いますが。

教義の内容につて論じるのではなく、現象としてみていくものであるせいか思ったよりずっと読みやすい本でした。

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私の頭が混乱するといけないので簡単に内容をメモしていったものを下に書きましたが、これは私の備忘録ですので(文体不統一、書き直す必要があるのですが、今その元気がない、というか読むべき次の本がまっているので そのままにしておきます)スルーなさってください。

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第一章 信者の増加と改宗

ローマ帝国のはずれで起こったよくわからない小さなメシア運動が、古典の多神教を駆逐し、西洋文明の支配的信仰になるまでにどう展開したか。

キリスト教の興隆について運動の急成長が言われるがそれを集団改宗に帰する見方があるが 、はたしてそうなのだろうか、

まず 増加を数値的に考察する、
始まりの数値を 「使徒言行録」をもとに色々考慮したうえで妥当な数字として 紀元40年には 1000人とみることにし、コンスタンティヌス一世の時代、紀元300年の信者数を500~750万人と見積もれるとして、この240年間の成長率をこれをもとに割り出す。 
10年間に 40%増加するとみて、計算すると紀元300年には約630万人になる。 ×1.4でふえていくので、(本には 数値が示されている)(指数関数のグラフを思い出すと分かるように)急激に増えていくことがよみとれます。これは 紀元250年から300年にかけて信者数が急上昇したという歴史家の記述にも合致する、ことを 確認。 (上昇率の計算通りにいっているので、どこかの時点で 集団改宗があった、とは言えないことになる)

 この数字で計算する、ということにびっくりするのですが、 

さらに これを現代のモルモン教の増加率(43%)にきわめて近いことを指摘しています。
そうして キリスト教は コンスタンティヌス一世の改宗が 信者数増加の引き金になった、とされているが、 逆で、信者数の増加が皇帝の改宗を促した、とみています。 さらに、この数字、 増加曲線が示すことは 集団改宗ではなく、自ら進んで改宗したことも示している、と見られるわけです。(これも 集団改宗なしにモルモン教徒が増加した数字からも言える、としています)

社会学の立場から 数字で宗教をみていくこと、こういう考え方のはじめて出会って非常に興奮しました。

 このあと、人々の改宗の仕方を 韓国人女性金が 率いている ムーニーと呼ばれる宗教集団(統一教会)を観察して どのようにその宗教に引き入れられていくかを調べています。 そうして 改宗は人と人との愛着で形成される社会的ネットワークに沿って進展する(お友達関係で広がっていく)これが 一世紀にキリスト教に入信する場合にもあてはまる、と見ています。(モルモン教でもこれは 証拠づけられています)
また 改宗した人々は他の宗教に深く帰依している人ではなく非宗教的な家庭、また 宗教的には不活発または 成員が非常に多い宗教団体から引き抜かれている、という事実も みています。

 第二章 初期キリスト教の階級基盤

 キリスト教への改宗者が社会の低い層であった、という節があるがはたしてそうか?
 
 聖書や タキツゥスから、実際に裕福な人や貴族も信者にいたことを示したうえで、人が新しい宗教を理解し、それに対するニーズを覚えるに足る素養をもつには、ある程度のゆとりがなくてはならないとし、実際に現代アメリカにおける宗教と学歴の関係、(パーセンテージ)を示していますが、既存の宗教を「みても大学教育を受けた人のの割合は多い(ユダヤ教など76%に達する、1989~90年の全国調査による)
新興のカルト集団への関心でも 大学教育あり、の人が大学教育なしの人よりも 倍以上の人々が 関心をしめしているデータがあげられています。   
 言えることは 新興の宗教をひとまとめにプロレタリアの不満のはけ口と考えるのは間違い。カルト集団は 恵まれた層に信者の基盤がある
 

考えてみると オウム真理教も一流大学の医学部を出た人など高学歴の人がいましたよね。今もいるのかもしれませんが。

 ここで 言葉の定義として
セクト運動は既存の宗教内部で起こる分裂、カルト運動は単に古い宗教から分派した新しい組織ではなく、むしろ 新しい宗教  とかんがえられています。
 キリスト教は イエスが生きていたときはセクト運動だったと考えられるが 死後復活、 信者たちが復活を信じた時点で新しい宗教、カルト運動になったとかんがえられています。

初期キリスト教が 比較的裕福な階層の運動だったために国家による抑圧や迫害が軽くなったのであって、これが貧困層の運動ならば、不法な宗教として根絶しようと試みキリスト教は存続していなかったかもしれない。 

第三章 ユダヤ人宣教は成功した

キリスト教は ユダヤ人への宣教に失敗したにもかかわらず興隆した、という説が自明とされているが はたしてそうか?

ここでも論の進め方が面白い。関連するものとして 《アメリカ社会は人種のるつぼ》 だといわれているが、 これは誤りだとする考えがなされていたことがあった。 
例として リトル・イタリーとかリトル・ポーーランドの存在があげられていた。しかし、きちんとデータをとると、 通婚などから、すでに同化済み、ということが分かったのです。リトル・イタリーが空っぽにならなければ 同化したとは言えない、 という説は退けられるのです。  
これと 同様にシナゴーグが空っぽのならなかったことを理由として、ユダヤ人がキリスト教に改宗しなかった、とは言えないのです。

ヘレニズム化した離散ユダヤ人はもはやヘブライ語を話さず、ギリシャ語を話し、ギリシャの文化思想を取り入れ民族的にはユダヤ人ではなくなっていて、わずかに宗教的に痕跡を残こしていただけであった。しかし彼らは 律法のために周囲の社会から孤立していた。 
そこでユダヤ教に親縁性のあるキリスト教が、律法にしばられない、となるとこれは大きな魅力だったであろう。 親類などのネットワークを通じ、さらに無宗教的なユダヤ人家庭出身者ほど新宗教に近づいたであろう  とみています(これは 二章のムーニの場合と同じ)

つまりユダヤ人キリスト教徒の改宗は四世紀と五世紀の初めまで続いていたとする、しかし、 当時膨大な数になっていたキリスト教への改宗者の中では割合が下がっていた、と考えるとクリュソストモス(345~407年)の反ユダヤ論も納得できる。 
教会とシナゴーグの分離をめざし、同化した 「ユダヤ的」という修飾語のないキリスト教徒になることを迫ったのではないか、(これは ユダヤ人の改宗が当時まで続いていた証左にもなるわけですね)

第四章 疫病・ネットワーク・改宗

165年にローマ帝国で疫病発生、(天然痘だったといわれている。帝国の人口の 四分の一から、 三分の一が感染死した。としている。)このことだと思うが 塩野七生は166年~7年にペストが 流行したことを 『終わりの始まり』でのべているが 死者の数がそう多かったとはみていません。

251年にも発生(これは 麻疹だったと言われている) 

ここでは 古代社会がこうした災禍によって 大混乱に陥っていなければキリスト教は 宗教として 支配的にはならなかったであろう、ことが 検証されています。 
要するにキリスト教は 愛の宗教、愛をもって病人の面倒をみたが、異教の神官たちは 病人の面倒を見る、という 考えがなかったことが 背教者と言われるユリアヌスが神官たちにキリスト者のように面倒をみろ、といったことなどから 証明している。( 医者としての治療ができなくても、見捨てずに食べ物を与え水を飲ませるなどのことをしただけでも快方に向かわせることがあった)。宗教と高度な社会的倫理規範の結合がみられるのです。

病人の世話をして みずから病をえながらも生き残ったキリスト教徒は免疫を得てさらに隣人の世話をすることができたが、これは異教徒にとっては奇跡と映ったに違いない。
多神教は こうした災禍にたいして 社会的にも霊的にも対応する力がないことが暴かれてしまったのです。

第五章 信者の増加と女性の役割

古代キリスト教世界では 女性信者が多く男性信者が少なかったため外婚がなされ、夫も二次的改宗者になったこと、キリスト教では間引き、中絶を許さなかった(当時 女児、障害のある男児は捨てられた、また恐ろしい中絶方法もかかれていて、その結果として命を落とす女性多かったそうだ)が京都 増加に大いに影響していることがかかれています。 
間引きの証左としてアシュケロンの町の下水管から百体近い赤ん坊の骨が発見されたことが述べられていました。明らかに殺されて流されたものであきらかではないが殆ど女児であったと推測されているそうです。

中絶を禁じられているキリスト教徒が子だくさんで、なおかつ当時ローマ社会での女性の地位の低さからみると考えられないほど家庭内でも教会内でも女性の地位が高かったそうです。(パウロはから女性差別が始まった、と私は思い込んでいましたが、 そうではなかったようです)

第六章 都市帝国のキリスト教化

キリスト教運動が 離散ユダヤ人の非常に大きな群れに支えられて章アジアのギリシャ・ローマ都市で 急成長したことについて 統計的におさえている。なお 
きりすときょうが ユダヤ教の異端として始まり、当初ユダヤ人に受けた一方、ぐのーしす主義はキリスト教の異端として遅れて始まり、おもにキリスト教に受けた、ということも考察されています。

 (この訳者、 受けた、という言葉を使っているが俗語っぽくてどうかと? またアリウス派はどうか?という疑問を私はここで持ちました)

第七章 都市の混乱と危機 - アンティオキアの場合

パウロは何度もアンティオキア(トルコ、シリアの国境近くの海際の町) に宣教に訪れている。古代ロー間の都市は 面積が狭く 人口密度がきわめて高かったので非常に不衛生で 火事、地震、外部からの襲撃などが多く 非常に困難な状況にあったが、そういう町で人々が 救済を願い、キリスト教がそれをあたえることができたこと。

ここで 出されている数値に驚きました。 1エーカー当たり117人、 現在のニューヨーク市でも37人、マンハッタン島に限っても100人だそうです。これが ビルとして上へと延びている状態なので、低層だった当時のアンティオキアがどんなに人口稠密だったかが分かります。 そうして 現在ローマ遺跡として残っている遺構のように大きな住まいに皆が住んでいたわけではなく多くの人はスラム状態の生活だったとか、水道橋などあっても 家に水を引いてくることが出来た人はほんの一部、 水は汲んできてカメに入れておくので腐っていることも多かった、など これまで漠然と思っていたのとはかけはなれた生活状態だったことが述べられていてました。

ここは 第四章とも関連すると思います。 ところで 我が国で多くの人に読まれている 塩野七生氏の ローマ人の物語 『すべての道は ローマに通ず』 では 水道は 流しっぱなしなため、きれいで、 これが 下水道の浄化にも役だった、とか公衆浴場には 奴隷もはいることができたななど ローマがいかに清潔で そのため長い歴史の中で驚くほど疫病の流行が少なかった、と記されています。

第八章  殉教者 ー 合理的選択としての自己犠牲

社会学者とはこのように考えるものかと、驚いたところです。

宗教というのは 非合理なものだから 社会科学的研究には 適さないと考えられていたが、宗教的自己犠牲や スティグマ(汚名、負の印)合理的選択とみなせる、とかんがえられています。
合理的選択とは 、種々の行動の予見される費用と効果を測ったうえで、純粋な効果を最大化するような行動をえらびとることができることだそうです。

棄教せず、自発的に拷問や詩を受け入れることで、人は考えられうる最も高い価値をその宗教に与え、他の人ににむけてその価値を伝える、固い信仰を 信徒に示すことにより、キリスト教の価値は見物していた異教徒の心にもしばしば深く刻まれたた、 と述べています。

迫害は実際にはそれほど多くはなく 数千人といわれていたが、数百人だったそうで、末端の 信者に及ぶことはなかったそうです。 ローマ帝国は 「キリスト教の脅威」にほとんど注意を払わなかったというのが事実らしい、 のです。
 殉教は 熱狂的な人々の崇拝を浴び続ける長い助走期間の後の絶頂ともいえる性質のものだった、 と アンティオキアのイグナティオス(1世紀前後) の例を挙げ彼がローマに送られる途上、町々でキリスト教徒たちがあいにきたこと、つまり、殉教とはあの世で報われるだけでなく、最後の苦難の前に大きく報われていたのだ、と見ています。
 

 60年代のとるにたらない清張ベースを脱するまでの域に高めたのは、イエスの兄弟でイエルサレム教会の指導者だった、ヤコブの ユダヤ人による石打の刑、 そうしてパウロ(ネロによる迫害のとき闘技場で野犬に殺されたとペテロ(十字架刑、逆さまにされることを願った)この三人の殉教の故、としています。

一般レベルでも ボランティアはみかえりがあった、ことも記されています。

第九章 時機と組織

宗教運動の初期の命運 その環境に大きく存する。 一つは国による規制、もう一つは ライバルとなる既存の宗教勢力である。

ローマの宗教規制は彼らが拡大したということからも、見下されてはいても実際の弾圧は あまりなかったのではないか。 
ライバルであった 多神教について、
一つは 多元主義過多(神様が多すぎ)でどれか一つのカルトにかける気になりにくかった、またお金がかかったがそれをまかなうのは国と一部の裕福な寄進者であったこと、 また 民衆の敬意の少なさなどから、多神教は 衰退の傾向にあった、つまり 多神教の無能力、弱みのおかげで、キリスト教が発展する機会に恵まれた、のだといっています。
キリスト教の信者の群れは当初から共同体に近く、帰属意識を与えることができたことが成長の大きな力となっていた、と結論づけています。

第十章 徳についての小論

キリスト教の中心教義は、人を惹きつけ、自由にし、効果的な社会関係と組織を生み出した。

競技場で 人が 動物に食い殺されるのをみることが娯楽であったような世に、キリスト教が改宗者に与えたものは 人間性にほかならなかった。この意味で 徳それ自体が 報いであった。 というのがこの本の最後の文章です。

キリスト教の教えは人をひきつけるものがあります。もうすこし聖書を勉強したくなりました。(これまで四福音書は読んでもパウロの手紙などは読んだことがなかったのです) 開いてみるとユダヤ人を改宗させたことなどもちゃんと書かれてありました。

3月5日

尚 塩野七生著 ローマ人の物語 のうち『迷走する帝国』をパラリとみてみましたら、スタークの文献資料にもあげられている、 ドッジの説をとりあげて 全面的に賛成していて、このスタークと同じ見方をとっていました。そうしてキリスト教勝利の原因は ローマ側の弱体化と疲弊化にあったとしていました。

 

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