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2015年5月28日 (木)

『リスボンへの夜行列車』

『リスボンへの夜行列車』を読み終えました。

映画 「リスボンに誘われて」で語られている言葉がとても思索的だったのですが、それらを記憶にとどめること出来ず、きちんとおさえておきたいと原作を読むことにしたのです。

図書館に予約したのですが、数か月待ち、そうしてやっと順番が来て読み始めたところ、これは手元においておきたい本だと、買うことにしました。

いざ,買おうとしてもネットでは一時的に品切れ、と表示され 中古も新刊よりずっと高値です。
なるほど全世界で400万部突破と称しているだけあります。
借りるより買って自分の本として読みたい人が多い、ということにもなります。
それでもなんとか、新刊とお値段のあまりかわらない新品同様のものを求めることができました。

リスボンへの夜行列車』 パスカル・メルシェ著 浅井晶子訳 ハヤカワ書房

15052601

カバーのそでに書かれている内容紹介を拝借

古典文献学の教師ライムント・グレゴリウス。五十七歳。ラテン語、ギリシア語、ヘブライ語に精通し、十人以上の生徒と同時にチェスを指せる男。同僚や生徒から畏敬される存在。人生に不満はない―彼はそう思っていた、あの日までは。学校へと向かういつもの道すがら、グレゴリウスは橋から飛び降りようとする謎めいた女に出会った。ポルトガル人の女。彼女との奇妙な邂逅、そしてアマデウ・デ・プラドなる作家の心揺さぶる著作の発見をきっかけに、グレゴリウスはそれまでの人生をすべて捨てさるのだった。彼は何かに取り憑かれたように、リスボンへの夜行列車に飛び乗る―。本物の人生を生きようとする男の魂の旅路を描き、世界的ベストセラーを記録した哲学小説。

小説が映画化された場合、よく本が先か映画が先か?話のタネになったりします。 
この小説の場合、私にとっては本を読むきっかけが映画だったわけですから、映画が先です。そうして、映画が先で良かった、と思いました。
哲学小説、と紹介されています
哲学書、というほどの難解さはないのですが (原文を読んだわけではないので、断言できるわけではないのですが、訳がこなれているせいだとも思います) 生きることについて徹底的に考え抜いた人間の手記が随所に挟まれているので、すいすい読み飛ばせる小説ではありません。
早くも記憶が薄れかけているのですが、映画が頭にあるせいか、先を急がずしょっちゅう本を閉じて反芻しながらゆっくりと読んでいきました。

 
グレゴリウスの本の手に入れかた、リスボン行きの列車に乗るところなど 最初から映画とは違っています。

::: 

本屋で手にしたポルトガル語で書かれた本、その一部を書店主に読んでもらい翻訳してもらいます。

、、、言葉にならないあらゆる体験のなかに、気づかぬうちに我々の人生に形、色、旋律を与える出来事が隠れている。魂の考古学者としてこれらの宝の発掘に取り組めば、我々はそれが どれほどの混乱に満ちているかを発見するだろう。、、、、この混乱を認めることが、よく知っているようで謎めいてもいる我々の多くの体験を理解するための王道なのだと思うのだ。

我々が、我々のなかにあるもののほんの一部分を生きることしかできないのならーー残りはどうなるのだろう?

これを聞いてグレゴリウスは本を買うことにするのです。(実際は 本屋にプレゼントされることになるのですが)

本は『言葉の金細工師』というタイトルで、書いたのはアマデウ・デ・プラドなる人物。本には 著者の写真がのせられています。

グレゴリウスはこのプラドの顔の虜になります。その顔からほとばしり出る知性と自意識と激しさに目のくらむ思いをして、この人物を知りたいと思うのです。
ポルトガル語を知らないグレゴリウスは語学講座のレコードをきき、辞書と文法書を頼りに読み始めます。
夜を徹していくつかの章を読んだグレゴリウスは、この24時間に満たない時間に心の中で歩いてきたとほうもない距離に気づき、引き返せないものを感じて、リスボンに旅立ちます。 

ところで夜の間、辞書を引きながらグレゴリウスが翻訳した文章にこいうところがあります。

「黄金の静寂のなかの言葉」
、、、無数に使いまわされてすっかり磨り減ってしまった、いったいそんな言葉に、まだ意味など残っているのだろうか?もちろん、言葉の交換は機能している。、、、問題はこうだーーこれらの言葉は、いまだになんらかの思想を表現しているのだろうか?
、、、私は ポルトガルの言葉を新しく組みなおしたいのだ。
、、、それは 言葉の金細工師によって編まれた詩にたとえられるだろう。

このところが、本のタイトルの由来です。
これを読んで、最近若い歌人から贈られたステキな歌集のタイトルを思い出しました。
その言葉は減価償却されました』というのです。
お若いけれど歌歴は長く、鋭い感性を持った方で いつも感心して読ませていただいているのですが、こういうタイトル、ちょっと思いつきませんよね。いいお歌がつまっていました。
短歌をつくっていると、先生から 「その言葉、既視感がありますね」、と言われることがあります。別に他人のフレーズをもらったわけではないのに、もっと自分がどう感じたか、どう思ったか、相応しい言葉を探しなさい、ということなのです。(横道にそれました)

詩一般に言葉は非常に重要です。このプラドの書いている文章は 哲学的でありながら、とても詩的でもあるのです。自分の考え、したこと、そして 両親のことを何度も何度も考えそれを吟味しています。

私は まだあそこにいる。あの遠い時間の遠い場所に。私は決してそこを去らなかった。去ったのではなく、過去へと広がって生きてきたのだ。または、過去から広がって
時間を前進させた幾千もの変化  それらは、 感情の時間なき現在性に比べれば、夢のようにはかなく非現実的であり、夢の場面のように欺瞞的だ。

古典の世界に埋没し、その静謐さに浸っていたグレゴリウスが プラドにひきつけられ、彼をめぐる人々、妹たちや友達を訪ね歩き、プラドがどのような人物であったか、彼の生きていた時代がどんなだったか、その時代の彼に及ぼした影響などを知っていきます。

グレゴリウスがプラドの姿を明確化していくだけではありません。
グレゴリウスが訪ねて話をきいていくうちに、知的で強烈なカリスマ性を持つプラドの姿に囚われて生きてきた友人、特に妹が自分を解放していく様子が分かったのは映画ではなく本からです。
映画でもそうでしたが、妹アドリアーナの兄に対する尊敬と独占的な愛は、本の中で、映画以上に鮮明に描写されていました。

::: 

グレゴリウスは眼鏡を壊したことから、新しい眼鏡を手にいれるのですが、これまでとは違いとてもよく見えるのです。服装も相応しくないことに気付き、新しい服も手にれます。 しかしながら、めまいが頻繁に起こることからスイスに戻る決意をするのです。

このめまい、というのも暗示的な気がします、単に身体的なことだけかもしれませんが、グレゴリウスの心が揺さぶられていることの身体的反応という面もあるように思います)
結局 このめまいのためにグレゴリウスはスイスに戻ります。来るときにスイスに戻ろう、戻ろうとしていたのとは逆に、なんとかポルトガルに戻ろうとする気持ちに抗いながら。

:::

スイスへの帰りの列車が、サラマンカに停まった時、全く予定にはなかったのにここで途中下車してしまいます。
かつてプラドが激情的に想いを寄せた エステファニア に会うためです。プラドをめぐる人々のなかで最後の一人です。 

サラマンカには2000年にツアーで行き、一泊したことがあります。大学にも少しだけ立ち寄りました。

グレゴリウスが訪ねた大聖堂は新旧二つあり旧の方がとくに印象的でした。

15052801
ホテルは対岸のパラドールでした。左手に見えるのが新旧大聖堂(パラドールのベランダから)


サラマンカ大学のファッサード

15052802
16世紀のものです。ここに髑髏マークが彫刻されてそこに蛙がのっているはず、と言われて蛙探しをしたことを急に思い出しました。グレゴリウスは 修道院巡りをするのですが、ともかく教会の多い町でした。でも一般ツアーですから、一つだけ彫刻の素晴らしいところをみて あとは素通り。 また行きたい街の一つでもあります(夢でおわるのでしょうけれど)。


こうして プラドをめぐる人々に会い、ベルンに戻ったグレゴリウスは リスボンで撮った写真を眺めます。 

魂とは、事実の宿る場所だろうか?それとも、いわゆる事実と呼ばれるものは、ただ我々が語る話の見せかけの影にすぎないのだろうか?
プラドはそう自問した。同じことは 視線にも言える、とグレゴリウスは思う。視線とは、そこに存在し、読み取られるものではない。視線とはいつも、解釈された視線なのだ。解釈されたものとしてのみ存在するのだ。
、、、グレゴリウスは、すべての写真をもう一度見直してみた。そしてさらにもう一度。過去が、視線の下で凍りつき始める。これから記憶が過去を選択し、並べ替え、修正し、偽るようになるであろう。油断ならないのは、省略や歪曲や嘘が、後からはもうそれとわからなくなることだ。記憶の外には確かな足場はないのだ。

このあとグレゴリウスは検査のために病院にはいるところで終わっています。

この本の巻頭におかれている言葉は

我らの人生は
死である海へと
向かう川だ
    ホルヘ・アンリケ

です。

読み終わってしまうのが残念な、書き留めておきたい文章にみちている本でした。
手に取りやすい場所においておくつもりです。 

***

なお 5月10日の 「大英博物館展」 の項、少し追加しました。

タイピングミスを発見 最後に引いた、巻頭のフレーズ、詩ではなく、死 でした。 暗示的とも思い引いたのに、詩では 暗示になりません。(6月5日)

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コメント

kikuko様
 これは 映画より前に本を読むと、映画は、これ何?というところがあったと思います。ともかく 最後が リスボンへの思いを表すのに、なんだか女性に心惹かれるような終わり方になってしまって、映画を観たときも、これはちょっとどうかと思いましたが、本を読んで矢張り変えすぎだと思いました。俳優はよかったですけれど。
 Salamancaもの思い出もkikuko様はやはりオペラにつながるのですね。
私は この時の旅行は 『サファイアの書』 ジルベール・シニエ著 NHK出版 を読んだことがきっかけでした。
神が人類に与えたという一冊の書を求め、ユダヤ教徒、イスラム教徒、キリスト教徒が中世末期のイベリア半島を一緒に旅しながら、神の真なるメッセージを得ようと苦闘する物語、
というキャプションに惹かれてみました。 最後は? でしたが、 イザベル女王の時代のスペイン中を旅するので、 その町を幾つか行くことになるツアーにのっかたのです。 サラマンカ、大学も出てきたのです。

 映画の何か月も前に図書館で借りた原作を読んで、細かいところは忘れかけていた状態でした。原作でイメージしていたものが実像になって出てくると、その乖離に違和感を覚えたりするので、逆にしたほうがいいかもしれません。
 サラマンカのパラドール、私も20年ほどまえにツアーで泊まりました。タボ川を隔てて、サラマンカの街がライトアップされてゆく光景は深く刻まれています。当時はヴェルディのオペラが好きで、サラマンカ大学の学生と称するバリトンのアリアにうっとりしていたので、サラマンカ大学で夢中になりました。メリメのペドロ一世の伝記小説に出てくるエンリケiの肖像を広場で見つけて喜んだり、ミーハーですね。
 ブログを拝見して、私も原作がほしくなりましたが、そんなに入手が大変とは・・・、

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