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« キリシタンの跡を訪ねて 平戸・生月・そとめへ 3日目ー3 | トップページ | キリシタンの跡を訪ねて 平戸・生月・そとめへ 本のことなど »

2015年7月 8日 (水)

キリシタンの跡を訪ねて 平戸・生月・そとめへ 3日目ー4

黒崎教会 (15時5分~15時30分)

1920年完成、 明治大正期に建築された教会堂最後の煉瓦建築です。

バスをおりて教会に向かいます。
後陣側 面白い形です。

右手の建物は 司祭館かなにかでしょうか。 建っている像は 男性が子供を抱いている姿なので イエスを抱くヨセフと思われます。 (ヨセフ信仰が強い地域なのでしょうか。ヨーロッパのロマネスク教会ではまずないのでちょっと驚きです)

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頂いたパンフレットに平面図が出ていました。15070630
長方形の左側縦の線の部分が 写真の一階部分の煉瓦壁面にあたります。 
水色(木造)で五角形に突き出ているところが内陣にあたるところのようです。

全長約40m、幅約14メートル 入ってみると分かるのですが、随分大きい(長い)教会で、した。

側面 窓の桟、鎧戸がおしゃれ

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これを見ながら説明。1897年に土地の造成を始めてから、建物完成までに23年かかっています。お金がなかったためです。自分たちでお金を工面し、子供たちまで煉瓦運びを手伝って造ったのです。

設計は ド・ロ神父説もあるが不詳、施工は 川原忠蔵
川原忠蔵は近くに住むカトリックの大工の棟梁で、息子ともども教会建築をいくつも手がけたそうです。(忠蔵の父親は プチ・ジャン神父が大浦天主堂を建てたときの大工の一人で、キリシタンであったので迫害にもあったそうです) 

案内人のM,さんによると「鉄川与助は名前を出しているが 川原忠蔵は <教会は、みんなで造ったのだから>と名前を出したがらなかった」そうです。

昨日見た山田教会によく似た木造リブヴォールト天井ですが、柱と繋がる横断アーチが半円になっています。
山田教会はアーチがもっと深くて 馬蹄形に近く、幾分 尖頭アーチっぽく見えたように記憶しています。そのせいか、山田教会のほうが丈高に見えたと思います

こちらの方が柔らかな感じですが、リブが少し太めのようです。

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左側廊 イエスの聖心(見えにくいですが赤いハートを示している)

柱頭には 蘇鉄の葉がつけられています

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右側廊には 聖母子像

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この教会のある黒崎は遠藤周作の『沈黙』の舞台です。架空の村、トモギ村とはここなのです。この教会の周囲は住宅地になっていますが、次に向かった 枯松神社は森の中で 「沈黙」 の世界を彷彿とさせるところがありました。

********

ここで先に、これまでにMさんから伺ったお話をまとめておきます。

なお、 Mさんはカクレキリシタンだそうです。つまりカソリックの再洗礼をうけず、潜伏キリシタンの宗教を守っている方です。
カソリックに改宗した人としなかった人たちの間には対立感情があり、子供のころは よく カソリックの子と、「筋を曲げた」 とか なんとか言いあってケンカをしたそうです。 今、きかれれば 仏教徒、と答えることにしているそうです。

歴史

1549年 日本へのキリスト教伝来(ザビエル鹿児島到着)
1550年 ザビエルとトーレス神父、平戸へ
1563年 トーレス神父により、 大村純忠とその重臣20余名受洗、領民にもキリスト教奨励
    (藩の財政政策のため貿易に力を入れ、イエズス会を優遇し、信仰するに至った)
1571年 ガブラル神父の外海地区布教
1577年 大村領内キリシタン化 寺社が焼き払われる
      大村領内に最盛期は6万人のキリスト教徒がいた、とされている(当時の日本の信者の半数以上)
1587年 秀吉による バテレン追放令(名目のみ)
1596年 サン・フィりペ号事件を契機として秀吉 禁教令を発令
1597年 この禁教令をうけて 西坂で 26人処刑
   これはルイス・フロイスなどの報告により、ヨーロッパでは広く知られ 1862年には 26人が聖人とされた。 
1606年  禁教の傾向が強まるのをみて、 純忠の子善前は 日蓮宗に改宗
1612年 家康の禁教令から 弾圧が強まる。
1616年 鎖国令


これ以降、隠れキリシタンの発見と強制改宗をおしすすめるようになる。→踏絵の実施など

厳しい取り締まりのため 大村藩では 浦上、外部から接触しにくい外海、島嶼地域を除いて キリシタンはいなくなった。

 

何故 外海地区では信仰を守り続けることができたか 
 ①自然条件の悪さ どこへ行くにも山越えなので、役人の監視が行き届きにくかった
 ②潜伏してやっていける組織ができていた。
   帳方(オラショの伝承、葬式、法事を行う) 水方(洗礼を授ける) 触方(連絡係)
 ③バスチャンの残した 日繰り、遺言 十字架 があった、これが大きかった
 ④佐賀鍋島藩の飛び地があった(ド・ロ様像の横の領界石)
 ⑤農漁業の立地条件が悪く生活の貧しさが信仰につながった。
  この点は 昨日の生月の学芸員の話と違うところです。(氏の話では、外海地区もサツマイモの栽培など農業はさかんで貧しくはなかったようなことをおっしゃっていました)
 外海地区の人は五島や平戸島南部などに移住した人が多いのです。
土地が狭く人口増に対処できなかったためですが、別の見方をすればやはり貧しかったのではないでしょうか。

 江戸時代の断続的に行われる 摘発と 拷問 殉教 という苦難の時代をへて

幕末の信徒発見、 

1873年(明治6年)キリシタン禁制の高札撤廃

秘密裡に信仰しなくてもよくなるわけですが、だからといって、全員がカソリックの再洗礼を受けたわけではありません。

何故 カソリックにならなかった人たちがいるのか
*先祖が大変な思いをして守ってきたものだから 捨てられない。
*カクレをやめると 祟りがあるのではないか(何か悪いことが起こると、そうおもってしまうことはよくあることです)
*名目上、お寺の檀家となっていたが、お坊さんは知らなかったはずはない。守ってくれた。お寺にお世話になったのだから裏切れない

また 隠れは村ぐるみだったので、その縛りも大きかったそうです
村がそのまま隠れを続けようとした場合、個人が抜けようとすると、井戸を使わせない、などのいやがらせもあったそうです。(なんかムラ的)

改宗するかしないかは大きな問題で、黒崎では聖画をめぐって野中騒動、という事件も起こりました。

そういうわけで 潜伏キリシタンは 明治6年以後

* 再洗礼を受けて カソリックに
* お寺の檀家としてとどまり仏教徒に
* カクレキリシタンとして これまでの伝統に沿った宗教生活を

の三通に分かれました。

再洗礼をするときに、仏壇を撤去するよう(フランシスコ会の宣教師だったかが)言ったそうですが、そういうところをもう少し柔軟にすれば カソリックになる人がもっと増えたのではないか、とM さんはおしゃっていました。

カクレキリシタンの数はかなり減ってきて、平成3年以後 洗礼を受ける者はいないそうです。

********

説明が長くなりましたが、枯松神社に行きます。

15時37分バスをおりて 薄暗い山道に入ります。 

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3分ほどで大岩のあるところに来ました。

祈りの岩 です。オラショの練習は村ではできないので ここでやったそうです。

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少し先、神社の右下

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長方形の石なので、キリシタンの墓であるといわれています。仏教徒だと座棺なので正方形だそうです。

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お墓の上の白い石は お参りするときにはこのように十字に並べ、終わったらまたもとに戻しておくそうです。 また手の組み方も 親指を十字になるようにします。

この辺りは 枯松さん、と言われる聖地で、そこに近年こういう神社を建てたものです。

枯松神社

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『遠藤周作と歩く長崎巡礼』 新潮社
には、 沈黙のロドリゴが潜伏した炭小屋は「枯松神社」のような山奥の緑深い場所にあったに違いない  とあります。

内部

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向かって右側壁面
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枯松神社の横に見える十字架石を拡大
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枯松神社は外海キリシタンの信仰を指導したとされる外国人宣教師「サン・ジワンさま」を祭るキリシタン神社です。 キリシタン神社はここを含めて日本に三つしかないそうです。

カソリックになった人と隠れのままの人の仲が悪いのを心配して 2000年から、黒崎教会の野下神父のよびかけで毎年11月3日カソリック、カクレキリシタン、仏教徒になった人たちがここに集い枯松神社祭をおこなうようになったそうです。

 宗派を超えて弾圧の中で信仰を守り通した指導者や 先祖に感謝し、枯松神社を外海地方の精神的よりどころにしていこう、というのが 趣旨です。

カソリックの司祭の御ミサ、お坊さんの講和、オラショの奉納などがおこなわれるそうです。対立から融和に向けて動いているのです。

少し下ると墓地があります。 真新しくどのお墓も大変立派です。

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はっきり見えないとは思いますが、左は十字の印があってカタカナで 洗礼名がかかれています。右端は戒名塔、となっています。 お寺から戒名をもらっているのです。

お寺に属するのなら、と最初は無料で戒名を貰えたそうです(その後も亡くなった人は出るわけですから、それでお寺は結局大儲けした、とはMさんのお話)

外海地区の説明は、主に このMさんのお話とMさんが書いて配ってくださった資料を基にしています。

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紫陽花が満開

これで 旅もほぼ終わり。

16時5分~16時40分 バス

大村湾に面した 時津 に行きました。

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時津・二十六聖人上陸の地 碑

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1596年、ふたたび 秀吉は禁教令を公布。
1597年大阪と京都で外国人宣教師、修道士、日本人修道士と信者の刑24名が捕縛され長崎で処刑されることとなったのですが、 途中世話役二人もキリシタンであることを告白、結局26人が ここに上陸。徒歩で長崎に向い 西坂で処刑されたのです。

どんよりとしたお天気。つらい気持ちでお話を聞きました。

見学はこれで 全て終り。
案内してくださった Mさん、それにもう一泊して長崎の町を観光なさる方と途中で さよならし、空港へ。

途中、明日からの五島列島巡礼の旅に参加なさる方もおろして10名プラス1名が空港に到着 
1時間ほど時間がありましたので お土産物屋さんを物色。

夕食時なので 機内食にと、大村すしというのを買いました。錦糸卵が上にのっていて おいしかったです。それからここではいただかなかった(インスタントの、といっても二人用で 1360円!!) 長崎チャンポン、も買ってみました。 翌日のお昼にしましたが、お肉もはいっていておいしかったです。

皆さんとても気持ちの良い方で、添乗員さんは男性でしたが、細かいところにもよく気が付く方で いい旅ができました。

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