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2016年3月

2016年3月30日 (水)

城山カタクリの里へ

去年 kikuko様のblogで 横浜線 橋本近くにカタクリの群生地があることを教えられました。

開花期間は短く見ごろは せいぜい一週間から十日。 それで 来年(つまり今年)は 絶対に見に行こうと心に決めていました。

実は母が心臓が悪くて入院していたのですが、急性期を過ぎて老健でリハビリを、と転院して一週間、なんと転倒して大腿骨骨折。それで前の病院に逆戻り、 (母は手術待ちですが、それなりに穏かにしてはおります) その見舞いがてら カタクリ見物(のんきな娘ですね)というわけです。

面会時間は午後ですので 早めに家を出れば、回り道とはいえ、充分お花を楽しんでから病院にまわれます。

朝9時過ぎに家を出て 橋本駅に着いたのは 10時40分頃。

バス停をさがして 少しまよって 行ってみると長蛇の列。 乗れるかしら?

11時発のバスがやってきて、次々乗り込んで もう超満員!! 増発されればいいのですが、そうでなければ 30分待ちです。 根性で最後の一人でしたが、 ぐい、と入りました(私は細身、私よりあとの2,30人は乗れませんでした)ドアがしまったところで バスの踏み込みのステップにおりて立って20分(直通バスでノン・ストップです)やっとカタクリの里につきました。

城山かたくりの里

 http://blog.katakurinosato.com/

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兎も角かなり広い駐車場も満杯です。開花期間が短いうえに、日が照らないとお花は閉じたままらしいので、お天気のいい昨日は 絶好のお花見日和だったのです。 混んでいても仕方がありません。

入場料500円なりを払い、 園内の花マップをいただいて 緩い坂道を歩き始めます。

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もう早速カタクリのお花が見られました。

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近くだと、あいだに土、落ち葉があって ぎっしり、というわけではないのですが、 少しはなれたところからだと、

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お花の絨毯です。

ただ カタクリの花は ちょっと寂しい。 同じ紫でもヨークシャーで見たヒースの絨毯は赤紫で 華やかでしたが。

ここは カタクリだけでなく色々なお花が咲いています。

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華やかな やしおつつじ
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近寄って
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ひかげつつじ

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雪割草、名前しかしりませんでしたが、 随分色々な種類があるようです。

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下も雪割草。葉が三枚になっているのが特徴だと、どなたかが話しておられました。
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これは黄花セツブン草

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小岩うちわ

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パッと明るい 桜玄海つつじ

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椿 と手前は みつまた

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みつまた、 コウゾ・ミツマタ のあれです、和紙を作る。先が三つにわかれているから みつまた なのだそうです。
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白だけでなく 紅花みつまた というのもありました。

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このおかしなのは  キブシ

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頂上近く ほうき桃(花桃)が沢山うえられています。

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すてきな散策路  kikuko様に大感謝です。
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所々ベンチが置かれていて 丁度お昼の時間のせいか、お弁当を広げていらっしゃる方も多かったです。広いせいかあれほどバスが混んでいたにしては まあまあの人。6月のアジサイ寺ほどの混み方ではありません。

ゆっくりみて歩いて、12時半過ぎに出ました。 13時のバスに乗るのに、行きの反省から 20分前に バス停に行くと2、30人は並んでいましたが 大丈夫、 座れました。 やはり数人の積み残された方がいらっしゃいました。

歩数は 昨日全体で9465歩でしたから、 カタクリの里の歩数は 5000歩にもならないのではないでしょうか。 疲れるというほどの歩きではありませんでした。

病院に行って写真をみせて母にも楽しんでもらいました。

2016年3月28日 (月)

『シャルリとは誰か?』

新聞のインタビューという欄で 仏人類学・歴史学者のエマニュエル・トッド氏が とりあげられていて、著書が話題になっていることを知り、取り寄せました。

『シャルリとは誰か?』 エマニュエル・トッド著 文春新書

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新書なので簡単な一般書かと思ったら,私にこの方面の基礎知識がないせいか、難しくて けっこう時間がかかってしまいました。

シャルリとは 去年2015年1月7日に襲撃された 風刺新聞 シャルリ・エブドのことです。

編集長や風刺画家などが殺されました。その後 この襲撃事件は表現の自由を侵すもので許せない、と 私はシャルリ Je suis  Charlie  と 言いながら行進する様子が報道されました。

フランスから遠い日本でもこれに同調する動きはあったようですが、一方 「でもあの漫画はひどかったらしい」 と戸惑う向きもあったように記憶しています。
が、何しろ、そのあとに起こった イスラム国による日本人拘束事件、その後の残虐な殺害、そちらの衝撃のほうが大きくて、シャルリ事件は 忘れられた感がありました。

11月のパリでの同時多発テロ事件、そうして昨日(このあたりは23日に書きました)はブリュッセルでのテロ事件、背景を理解しなければ、とあせります。

またヨーロッパへの難民流入はあまりもの数の多さに各地で摩擦をひき起こしていて、トランプ氏でなくても 外国人排斥の動きは彼方此方で起きています。 

ヨーロッパの動きがとても気になります。

この本で語られるのは襲撃事件のリアクションとしての、1月11日のデモに参加した 「私はシャルリ」 と言った300万人とも400万人とも数えられる人々は一体どんな人達なのか、を分析。そこでは 表現の自由が侵されたことへの憤りはあっても 平等についての考えはきかれなかったことを トッド氏は指摘しています。

この本では、このような 大がかりなデモを起こすことになったフランスの社会が 今どういう状況にあるかについて考察され、さらに、これからのイスラム教徒との関係の持ち方がどうあるべきか、について論じられています。

まずフランスにおける家族構造と今や崩壊している 宗教(カトリシズム)について 考察されています。これは 非常に地域性があることが指摘されています。
家族が平等主義的であるかどうか(相続が長子相続か平等にわけられるか)、親が権威主義であるかなどの在り方があることとその地域性が示されます。

さらに宗教について、
ここで シャルリ事件に関して問題にされているのは、カソリック教会がその伝統的地域において最終的に崩壊した結果として生まれた、人類学的・社会学的パワーで、それを ゾンビ・カトリシズム と呼んでいます。この人々の家族構造は平等主義的ではありません。
ここでは、神なき世界に安らぎを見いだせればよいが、見いだせなければスケープゴートが必要になり、イスラム教の悪魔化は、完全に脱キリスト教化した社会に内在する必要性に対応する、と考えられます。

次に シャルリデモ がどの場所で起こり 参加者はどういう人々であったか。
地図上でフランス各地のシャルリデモの規模がマークされます。
それから、生産者人口のうち 労働者の割合が多い地域、上流中産階級の割合が多い地域、ゾンビ・カトリシズムの影響力の強い地域 が示されます。
これらを示すことによって、デモの参加者は 公共部門と民間部門の中産階級、カトリック教徒のゾンビの多い地方において富裕化した中産階級であったことが分かったのです。 
これは 2005年 マーストリヒト条約批准への賛成票を投じさせた層と同じで 不在だったのは高齢者だが、高齢者は参加しないので、これは当然。 
つまりデモ参加者は 共和国ではなく、共和国を溶融させてしまうことに投票した連合体である、と結論しています。

そうしてEUがフランスにもたらしたものが 成長の鈍化、経済不振であることに言及されます。自由と平等の勝利に向かうのではなく、現状は工場の閉鎖、都市郊外の荒廃なのです。このEUの支持者が ゾンビ・カトリシズムに属する人々です。

フランス社会を特徴づける宗教的混乱の中にみられる要素は
①無信仰の一般化
②被支配的状況にある マイノリティの宗教である イスラム教への敵意
③被支配的状況にあるそのグループ内部での反ユダヤ主義の台頭
④その反ユダヤ主義に対する、支配的世俗社会の相対的無関心

「私はシャルリ」 のデモで自由は謳われても 平等の声はきかれなかったのですが、平等の価値がフランスで、ヨーロッパで、そして先進諸国全体で 力を失なっていることが 指摘されるのです。

ところで 面白い数字があります。「イスラム教徒」がフランス社会で占めている割合です。
8・4%が労働者   6・4%は平社員   6・6%が小商人、職人、企業家  4・5%が中間管理職   3・5%が 自由業および管理職 だそうです(計が100%にならない、、。)

貧民屈でへこんでいる若者、いつテロリストになってもおかしくない状況といったイメージは浮かばないのです。数字はここではあげませんが、教育水準の高さも示されています。
また宗教の実践を行っている人が少ないこと、 異民族間結婚する率が非常に高いことなども示されています。
識字率も低い親の権威は子供の進学とともに落ち、現れるのは 家族の瓦解 なのです。 これが急速に起こったためにかなりの程度に心理的不安が表れ、かなりの数の軽犯罪が発生してしまうのです。

異民族間の結婚率は 1992年~ 2008、9年の間は伸びずマグレブ人口のフランス国土への分散が止まった。 このことは 文化的差異のせいで、都市郊外の若者たちは適応できなくそれが失業率の高さを示す、とみられている。
しかし事実は逆で 指導層が経済的停滞と社会の細分化を選択し、その選択がヘゲモニーを握っている社会的集合体 MAZ(中産階級、高齢者、ゾンビ)によって受け入れられ支持されている、ということに起因している、と述べられています。

そうして ジード戦士志願者について 

まず、ジハード戦士志願者のうち 20%は キリスト教徒からの改宗者、というところから若者の問題は その一般性から論じられなければならない、ということになります。
すべての先進社会に共通することとして 若者たちが経済的、社会的に押しつぶされている。グローバリゼーションが 世界の労働市場を一体化する、 第三世界も含めて若者は比較的大勢いて働かせやすく、少数の高齢者が資本を握っていることがあげられます。
(日本における非正規雇用の問題が頭をかすめます。)

<若者たちが不満なら 外国に行けばいい、アメリカでもイギリスでも、そういう選択しの一つとしてシリアでのジハード戦士もありうるのでは?大真面目に「イスラム国」という蜃気楼は 若者の海外移住の一形態だと主張できる。>この記述にはちょっとびっくりしましたが、 そうかもしれない、という気もします。 

先進国社会で フランスでいえば 失業率10%、格差の拡大の中で 若者たちは 未来に対する魅力的な展望が持てなくなっています。
刑務所がどんどん満員になっているが、入るのは 必然的に若者で最近の移民の子供たちが 高いパーセンテージを占めている。刑務所の中の不健全な雰囲気がすべてをラディカルにする。<幻想の中でゆがめられたイスラム教がどんなメカニズムを通して、彼らがイスラム教徒であるとないとにかかわらず、かくも大勢の若者たちにとって 生きたり死んだりする理由になるのかが 少しずつわかりはじめた>ではないか、というわけです。

彼らが向かうのはジハード戦士という在り方だけはない。疎外された若者たちの行動の例として スコットランドの統一王国からの離脱に賛成したのは多くは若者であった、ことが示されています。

ここで、何故 イスラム教が若者たちを誘惑できるのか、を考える必要があります。

さらにイスラム教がもたらすものがあるはず。

そこで イスラム教にある平等主義がとり上げられ(女性差別という厄介な点もあるが)これがフランスにおける共和主義の再確立に貢献しうる可能性を持つことが のべられています。

もう少しフランスの実情(フランス社会の危機)などの記述はあるのですが、中途半端な引用交じりの内容メモはこの辺りまでとします。フランスの現政権への手厳しい批判がなされています。

<社会解体期固有のアノミー(無規範・無規則状態)、不平等主義と平等主義を化合した混成的で不安定な不寛容、これがイスラム恐怖症の全国的規模での台頭を導いたのだ。> 

イスラム教と折り合いを付け 同化が進むこと、それによって世界のすべての民族が融合する、人種意識が解放される町になることを願う、しかしそれは遠いことであろう と言うのが 結びでした。

尚 日本語版には 去年11月13日のパリにおける無差別連続テロについても言及されています。
ここで表出されたのは 混じりけのないニヒリズムで、その行為は 現実のイスラム教徒は 関係がなく、その行為が示しているのは イスラム教の病的な崩壊である。しかし、政府の対応はフランス中産階級の無能力を浮彫にしたものであった。
つまり、空爆や 警備の強化がいわれても、都市郊外の荒廃、労働階層の荒廃については何も考えていない、と述べています。

:::

この本を読んでユーロ、EUの持つ弊害、というものをはじめてしりました。

驚いたのは フランス人は 外見にこだわらないので、混合婚(異民族間の)が非常に多い、という事実、これもはじめてしりました。

社会の在り方を家族構造から考える、という見方 今更、家族?と最初は思ったのですが、 そう思うこと自体また その人の家族構造を表していることにもなるわけだと気付きました。
日本は、今はだいぶん変質していますが、伝統としては 父親の権威が強く長子相続で兄弟間は不平等、という家族構造を持っているいうことになります。
移民、難民の受け入について 日本ももっと積極的にうけいれては? という意見がありながらも 非常に少数しかうけいれていません。それを阻むものに、この家族構造から来る意識があるのかな、と思いました。
正直、トッド氏のいう世界中の民族が融合された町へ、という考え方、頭では納得がいっても 日本で育ってきた人間としては落ち着かない気分になるように思えます。しかしきちんと考えるべき時期にきているのだ、ということも痛感しました。

フランス社会の危機として、MAZが 政治、経済を牛耳って、彼らにとって都合のいい社会を考えるために 若者が未来への展望を欠いていく状況、がのべられていましたが これは日本にもあてはまります。
不正規雇用の拡大です。もともと日本は終身雇用で安定した生活の展望がもてたのに、今 若者はこの不安定さでは 結婚もできない、という状況におかれています。移民の置かれている立場と同じです。

少し難しくて 読むのにてまどりましたが、統計資料を駆使し、家族構造とあわせながらがら社会を見ていく、という論の進め方はとても説得力があり、おもしろかったです。 この人の著書をもうすこしよんでみようと、思いっています。

ところで、 このエマニュエル・トッド氏は ポール・ニザンのお孫さんだそうです。ポール・ニザンは サルトルやボーヴォワールの友人でした。何となく学生時代に思いをはせてしまいました。

 

 

 

 

 

2016年3月25日 (金)

「ヴィオレット ーある作家の肖像ー」

1月末から入院中の母が急性期を脱して先週末に転院、なじめるかどうか心配でしたが、どうやら大丈夫そうで一安心。それで今日は映画を観にいってきました。一人の友人が絶賛、別の友人もブログで とりあげていらしたので、観に行く気になったのです。シモーヌ・ド・ボーヴォワールに関わりのある作家についての映画、ということに興味をもちました。

ヴィオレットーある作家の肖像ー 

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実在の作家ヴィオレット・ルデュック(1907~1972)の物語です。

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幼いころ母に疎まれたトラウマからでしょうか,愛を求め続けるのですが、いつも跳ね返されてしまいます。 
傷つきながらも ヴィオレットは第二次大戦中、一緒に住んでいた作家モーリスに書くことをすすめめられ、母にいじめられた記憶を書き綴ります。それをふと知ったボーヴォワールに読んでもらいます。作品はボーヴォワールに気に入られ、出版にこぎつけるのですが、売れません。 
男性だけでなく女性にも愛を求め 拒まれ、傷つきながら、ボーヴォワールの励ましにより。ついに 『私生児』 という作品で多くの読者を得ることができるのです。
『私生児』という作品はプロヴァンスのフォコン村で書かれたのですが、映像もすてきでした。

映画は ヴィオレットを巡る人々とのかかわりをとおして年代順に生涯が語られていくのですが、時代はおもに1940年代から60年代。文学関係者も ボーヴォワール、サルトル、カミュ、ジャン・ジュネなど 懐かしい名前がでてきます。
私の学生時代はサルトル、ボーヴォワールはいわば必読書。何冊も読みました。お二人は 来日され、サルトル氏の講演会を聞きに行ったこともありました。 残念乍らもう50年も前のことで 全く内容はおぼえていません。

映画では ボーヴォワールとヴィオレットは非常に対照的に描かれています。 パリ大学出身で哲学の教授資格を持つ美しいボーヴォワールと 女学校を退学になり闇屋商売をしている醜いヴィオレット。

ヴィオレット役のエマニュエル・ドゥヴォスは 醜さをだすために付け鼻をしたそうです。

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ボーヴォワール役のサンドリーヌ・キベルラン、美しい方ですが、 少し繊細過ぎるように思えました。

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二人が知り合ったのは ボーヴォワールが 『第二の性』を執筆している頃。
愛を、居場所を求めてのたうち回るヴィオレット、そんな彼女に書き続けることを強くすすめひそかに経済的援助までしていたボーヴォワール。
野生的で感情的、激しくそうして傷つきやすいヴィオレットに 理性的なボーヴォワールの心を揺すぶるものがあったのでしょう。もっとも そばにいたら たまらない人だと思います。そういう人間を 支えるべき義務のある人と みたボーヴォワール、なかなかの人です。 

映像、最初の田舎の風景、あとのプロヴァンスの風景、水辺や樹木が すてきでした。

『第二の性』 人は女に生まれない、女になるのだ。フェミニズム、ジェンダー論の先駆けでしょうか。(ジェンダー論について 勉強したことがないので 的はずれかもしれません) ただ 私のように就職しないで主婦としてずっと過ごしてきた人間にとっては、今更の感もあります。 しかし世界を見てみると、マララさんが必要な地域は存在します。古びていない言葉なのだと思います。
ところで 現在の日本を見ると (私は社会を知らないので発言権はないのですが) 女性の役職者も増えてきている一方 男女を問わず非正規雇用の増大など深刻な問題が報じられています。
ヴィオレットは同性も愛する人で、そういう観点からすると 彼女の問題は今日的なのかもしれません。限定しすぎかもしれません。
生きにくかった人生について本音をさらけ出した作家の肖像、やはり みるべき映画といえるのでしょうか。

しんどそうでもう ボーヴォワ-ル読み返そうという気力も、新たにヴィオレットの著作を読もうという気もおきませんでしたけれど。 

 

2016年3月14日 (月)

『大西民子 歳月の贈り物』 田中あさひ著

普段はあまり買わない雑誌 『短歌』 3月号を買いました。その中の書評欄で 寺尾登志子さんが、この本について書かれていました。読んでみようと早速 アマ○ンに注文。

大西民子、という歌人は2年ほど前に知ったばかりですが、気にいって歌集を5冊買ってしまいました。もっとも読んだのは 3冊、他はそのうちに。ちょっと重いのです。

大西民子 歳月の贈り物』 田中あさひ著 短歌研究社

まず表紙がいいのです。

著者は大西短歌、全十歌集を通読した印象は 群青色すなわち濃いブルー、潔癖 誠実 悲哀などを総合した色彩、としているのですが、 そのブルーが使われています。

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そうして 椅子が描かれています。 

大西の歌を知らなければ 今は亡き 民子の椅子、ともとれます。
不在の民子の暗示もあるのでしょうけれど、第一歌集 『幻の椅子』 にある

かたはらにおく幻の椅子一つあくがれて待つ夜もなし今は

から取ったのだと、とっさに思いました。

この歌、歌人が誰か、ましてはどういう時代に生き、どういう境遇の人だったか知らなくても、とても心惹かれる歌です。

作者(田中氏)の解題
 <私の想念の中に置かれている隣の夫の椅子には、来る夜も来る夜もその主が座ることはなく、今はもうともに生きることに思い焦がれるということはない> 
とあります。歌の詠み手には夫なる人がいたことを踏まえて解釈しているのです。

この本は最初に、大西民子の概要、として、一生を概観しています。そこから、父親が警察官であったこと、故郷、同じ岩手県出身の石川啄木をよく読んだこと、奈良女高師に進んだ故郷ではまれな才媛といわれていたこと、 そこで短歌を学び、その後故郷に帰り 女学校の教師となり、結婚その破たんなどが 記されています。 
そのあとの章では 歌集毎に何首かとりあげ、大西の境遇の変化、時代背景などからみあわせながら解説されています。
時代背景、境遇などから歌を読んでいくとともに、逆に歌から時代や境遇もおしはかられています。

背景を知りすぎると 歌を自由に味わう楽しさを損なうこともあるように思うのですが、知らずに読んでいては気が付かないことで、そういうこともあったのか、と 納得できたところもありました。

大西の歌は あまり難解なところはないのですが、その理由に 師の木俣修が 前衛歌を毒草として退けたことが書かれています。 それで、幻視と虚構 をとりいれず、かわりに、夢の歌になったそうです。

啄木の歌を愛した、ということも 初めて知りました。

大西は大正13年生まれ、私の母とほぼ同年です。戦争中に十代後半、大西は結婚しましたが、まわりには結婚できない女性も多かった時代です。 戦争中の苦労、それ以前から 東北は作物ができないと、娘は身売りもされる貧しい家も多かったところです。 
しかしながら、声高に反戦、政治批判、社会批判を歌わなかったことについて、警察官の家にうまれ、後に埼玉県の県職員として、いわば公の立場にある人間としては 歌いにくかったのだろう、と推測。
そこで、 「夫への怨念」を詠んでいるようで、そこには 「戦後社会」という生き難い時代に生きねばならない女性、という普遍性をもたせた 解釈も可能なことを示していて、そういう広がりを持った受け止め方もできるのか、とわが読みの浅さに気づかされたりもしました。

また 太西の歌を読んでいて 破調が気になることがります。 短歌レッスンなら 直されてしまう!と思うようなところが。しかし 田中氏はたとえば

酔へば寂しがりやになる夫なりき偽名してかけ来し電話切れど危ふし

について 句またがりによって最初から読者を驚かせ、偽名などにより尋常ではない夫婦のありようが ドラマ性を帯びて鮮明になる、と説明しています。 ここでは 句またがりですが、 字あまりなども、素人が言葉をおもいつかなくて、字あまり、字足らずになってしまった! などというのとは次元が違って意図的であったことが 説明されているのです。

家庭事情、離婚、家族(死産、妹の死)については知っていて それを頭において太西作品に接っしてはいましたが、そのほかこの年代の女性が外で働くことの困難、男女の差別がある時代で女高師出身という学歴を持ちながらもなかなか昇進がかなわない状況など、当然考えにいれておくべきだったけれど、気がつかなかったことについての指摘、 また 歌壇の状況なども書かれてていて なかなか 参考になる本でした。

 

 

 

2016年3月 9日 (水)

ケートス 海獣

遅々として進まないのですが、 ボローニャ旅日記(ホームページ版)は書いています。 

ラヴェンナの 洗礼堂のストウッコ装飾で 不思議な生き物の写真をのせました。

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三日目に行った ブレシアのサンタ・ジュリア博物館にあった 4世紀の象牙製聖遺物箱  写真をじっくり眺めていると、

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http://www.bresciamusei.com/nsantagiulia.asp?nm=6&t=I+luoghi%2E+La+chiesa+di+Santa+Maria+in+Solario

上から二段目 拡大すると

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説明には クジラ(whale)にのまれたヨナ とあります。
鯨?見えませんね。体は蛇です。魚の尾鰭は付けています。ということは ラヴェンナも子供がのまれていますが、ヨナでしょうか? ヨナは神の命令に背いてニネヴェに行かずに別の方向へ行く舟にあったために嵐に会い、乗組員たちに海に落とされるのです。 
三日三晩 クジラ(怪魚)のお腹の中にいたため 三日の後に復活したイエスになぞらえられるのです。それで 洗礼堂のは幼子イエスかと思ったりするのですが。
ともかく死後の復活を願って棺に彫られたのでしょう。

思い出しました。 去年の大英博物館展にも ヨナがあったことを

予言者ヨナの石棺(260~300年頃イタリア)

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図録の写真が 明でなかったので 大英博物館の公式ホームページからとりました。それでも あまり鮮明ではないのですが、胴体は 蛇です。(右は トウゴマの木陰にいるヨナ)

この図録の説明では 海獣ケートスが彼を飲みこもうと待ち構えている、とあります。

ラヴェンナのところにも書いたように 『ロマネスク美術革命』金沢百枝著 がまだ気になっているのです。

この『ロマネスク美術革命』に先立つこの著者の本に『ロマネスクの宇宙』があります。スペイン、ジローナの天地創造の刺繍布についての研究書です。この刺繍布の製作年代はこの書の中で、この研究をふまえて11世紀末から12世紀とするのが妥当とされています。

この書の第三章は、刺繍布の 海の生き物に描かれている二匹の海獣 についての考察にあてられています。
下写真の左右、右側平目っぽい?左側は 亀?

写真でははっきりしませんが、右側の腹部にはCETE GRANDIAとかかれているそうです。大きなケートスです。 このケートスは 鯨と訳されることも多いが 動物分類学上の鯨ではなく、神話的起源を持つ怪物だそうです。

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この二匹の海獣が 何者であるか考察することによって、古代には蛇だった竜がケートスを経て ドラゴンへと変化していく ことをこの章で しめしていました。

ロマネスク以前多様だった竜のイメージが、ロマネスク期に翼を獲得し、(ドラゴン)という一定の形に固定化する。 とあります。

ケートスの特徴を以下のように整理しています。
⑴ 犬のような長い鼻面のある獣頭、とぴんと立ち、尖った長い耳
⑵ とぐろを巻いた長い尾
⑶ しっかりした前足、あるいは魚のような前鰭
⑷ 葉状装飾に代わる場合もある尾先の鰭
⑸ 腹部のふくらみ

これからするとラヴェンナの二匹(二頭?)は腹部に膨らみはないものの ケートスと思われます

ところが ジローナの場合はこれらの条件にあてはまりません。海獣としてのケートスは 聖書の訳の違いから鯨とみなったのですが、魚と解されたこともあります。 
魚として描れることがあったが、海の生物として ヨナを飲み込む頭部の形は見えても海の中の部分は見えないので長い尾が消えてしまったということがあるのではないか、と推測されています。そういった事情から、古代世界のケートス型海獣と大魚の間で 不可思議な形態を持つ一匹の海獣が生まれた、というのです。それが右側。

また 左側の生物についてですが、 まず ドラコ について
ドラコはケートス同様 ギリシャ語に 由来するラテン語で 大蛇 をあらわします。

アウグスティヌス(4~5世紀の人) 

による註解では ドラコは空に舞い上がる生き物として イメージされているそうです。

セヴィリアのイシドルス(6~7世紀の人)の『語源論』によると、竜の定義は
① 空を飛ぶ
② 鶏冠と小さな口、狭い首を持ち、舌をだしている。
③ 歯がある。
④ 尾の力が強い

中世の図像に見られるドラゴンは獣頭、とぐろを巻いた長い尾、二本の前足、尾先には鰭や飾り、膨らんだ腹部を持つ(『ロマネスク美術革命』による)ことになっています。

色々はしょりましたが、これらにより、左側の生き物は 小さな口、赤い舌、尾などの特徴をそなえながら 腹部が膨らんでいるので 著者は ケートスがドラゴンになろうとして なりきれないものの、ケートスでもない姿を示している、とみています。

つまり ドラゴンはケートスからうまれた、と『ロマネスクの宇宙』では 結論しているのです。

ラヴェンナの ストゥッコから話がそれてしまいました。

 

2016年3月 8日 (火)

韓流ドラマ 「シンイ」 と 『アイス・ハント』

先週からまた軽い風邪。医者にいくほどではないが、だるい、少し熱っぽい、喉が痛い(これはすぐおさまった)鼻水。かぜの初期症状のまま 悪化はしていないが、外出はひかえたほうがよさそうな状態です。まったく弱くなったものです。

そういうわけで お気楽小説とDVD三昧で過ごしました。

娘が しばらく前にもってきて 面白いから絶対にみるよう、とおいていった DVD.

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韓流ドラマ、10年以上前でしょうか、娘につきあって 「天国の階段」というのを延々見たことがあります。ドロドロのジェットコースタードラマ。こういうものを見続けていたら他のことができなくなる、と以後韓流はみていませんでした。

でも風邪で シンドイ本をよむ気力もなく、娘に促されるまま三日間ほど見続けました。

シンイ

高麗という国のあった時代の話です。
恭愍王(1330~1374)のお妃が負傷し、救えるのは神医(タイトルはこの神医と信義をかけている)しかいない、ということで 近衛隊の隊長である崔瑩が ワープして 現代のソウルから 整形外科医のユ・ウンスをつれてきて うまくお妃を治療するのです。 約束通り手術を終えたので 元の場所に返そうとするのですが、当時の高麗は色々と大変な時代で その渦中に巻き込まれ、波乱万丈の展開となります。 その間隊長と女医二人のあいだに愛情がめばえ、、、。歴史ファンタジー、活劇&胸キュンドラマ。
元の統制下に置かれようとする状況の中 頑張る王のもと、崔瑩はユ・ウンスを守りつつ戦うのですが、主役の二人だけでなく王の反対勢力である徳成府院君キ・チョルという人物が、悪役ながら憎めなくて面白く、延々見続ける嵌めに陥りました。 

DVD 12枚、24時間 浸りっきり。マンガと言ってしまえばそれまで。
ミーハーでおはずかしいです。でも面白かったですよ。
これまで全く関心のなかった朝鮮半島の歴史にも少し目が向きました。 

お気楽小説のほうは

ここのところはまっているジェームズ・ロリンズの作品です。

アイス・ハント』 ジェームズ・ロリンズ著

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おなじみのシグマフォース・シリーズではありません。

裏表紙の案内には

北極海を潜行中の米海軍調査潜水艦が、最新鋭ソナーで浮標する氷島の内部に廃棄された基地らしきものを発見した。モニタには多くの人間の死体と、何物かの蠢く影が映り込んでいた―。2か月後のアラスカ。元グリーンベレーで野生動物監視員のマットが、攻撃を受け墜落したセスナから新聞記者のクレイグを救出。クレイグは北極の米軍基地オメガへ取材に行く途中だった。マットは別れた妻とともに、謎の追撃者を振り切り記者をオメガへ送り届けようとするが、そのとき北極では恐るべき事態が出来していた―。

とあります。やはり 科学&冒険ミステリーです。北極の基地という閉ざされた状況の中 冬眠していた怪獣が目覚めて襲ってくる。 アメリカとロシアの争い、それに新聞記者は一体、、、?
楽しめました。

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