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2017年1月31日 (火)

映画 「沈黙ーサイレンスー」

昨日30日は冬とは思えない暖かい日、チャンスとばかり出かけ、映画 「沈黙」 をみてきました。
遠藤周作の作品を日本人ではなくマーティン・ スコセッシ監督が映画化しているのです。
 
「沈黙ーサイレンスー」  http://chinmoku.jp/
 
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非常に感動しました。最近観た映画の中でもっとも感銘を受けた映画でした。まだ、あの打ち寄せる強い波の音が耳の奥に響いています。
ストーリーは遠藤周作の原作に忠実なように思えました。
 
1600年代半ばフェレイラ神父が棄教した、という知らせをきいて信じられない気持ちを持った二人の弟子、ロドリゴ神父とガルベ神父はことの真相を確かめ、師を救わなければ、と日本に向かい、そこで想像を絶する事態に遭遇。性格の対照的な二人、ガルベは死に、ロドリゴは棄教する、その出来事、心の動きを主にロドリゴを中心に丁寧に描かれていました。
 
しっかりした原作があるからかもしれませんが、人物造形がくっきりしていて、それに役者がうまい。
試されるとすぐに、教えを捨ててしまう、でもすぐ赦してほしくて告解を求めるキチジロー。ひとの顔色をうかがいながら ヒョコヒョコ走り回る俗物。演じるのは 窪塚洋介。吊り上がり気味の目で じっと見つめる姿が印象的でした。
 
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棄教したフェレイラ神父が日本にキリスト教を根付かせることはできないことを説く、苦渋と憐みの表情が 非常に印象的でした。
下の写真は信徒が拷問をうけているところを見させられているフェレイラ
 
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通辞を演じたのは、浅野忠信。 彼はキチジロー役でオーディションを受けておちたそうですが、通辞役のほうが向いていたと思いました。 (キチジローになるには立派すぎ)
お奉行とロソリゴの通訳をするのですが、ろどりごに対する 道場もないではないが、どこか 高みの見物的でもある立場を少しニヒルな感じのする表情、目の動きでよく表している、と思いました、この俳優 テレビドラマで何度かみたことはあるのですが、今回の芝居が一番よかったと思いました。
 
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ロドリゴ役のアンドリュー・ガーフィールド
オールバックにした長い髪がまるで、イエスのよう。 右はガルベ神父
 
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信仰熱い幼く見えるほど一途な信仰あつい神父が、たんに自分の苦痛、だけでなく信仰を持ったために 逆さづりで苦しみながら時間をかけて殺されていく様子を見ることが耐え難く、棄教してしまうのですが、その後の自分の存在理由を失った、表情の消え失せた顔。 胸にせまるものがありました。
 
映画として、とてもよくできている、と思いました。
2時間40分という時間も全く長いとは感じませんでした。
今私はこの前のドイツ旅行のHPをつくっているところですが、映画をみながら修道院や教会のあり方が どうしても頭にうかんできました。
 
ドイツでは教会司教や修道院長が非常な富と力を持ち、台頭してきた市民勢力 争うのです。 
クウェトリンブルクでは都市と女子修道院が争い、修道院長は都市のシンボルであるローラント像を壊すのです。自分の所領、権力が大切な宗教勢力がある一方、ぎりぎりのところで信仰が試されている宣教師がいる。
帰ってからも 気になったことがあります。フェレイラ神父が
 「この国は沼のようなところで、沼地にはキリスト教は根付かない」 
ロドリゴはそれに反論するのですが、結局は屈服してしまうことになるのです。
生半可な知識のせいでしょうか、私はいろいろ疑問をもってしまいました。
 
ロドリゴとガルベは 海の中に簀巻きにされて信者が突き落とされるのをみたり 海中に立てられた十字架で波をかぶりながら死んでいく信者の姿を恐ろし気に眺めるのですが、カソリックの異端審問はどうなの? と言いたくなってしまうのです。そもそも彼らの属するイエズス会、ザビエルはインドのゴヤに異端審問所を開くべき、と進言したりしているのです。ロドリゴたちだって知らないはずはないのと思うのですが。
 
布教活動、ここでは 神父二人がつれだって説いて回る、というスタイルですが、歴史的にみれば、十字軍を派遣したり騎士団をおいて武力で改宗を迫った事実があります。
ラトヴィアから始まる北の国には十字軍が送られ、改宗しない村では道が血の川になった、と言われるほどの大虐殺があったそうです。
十字軍が去ると改宗した村で (洗礼は村人を川に入らせることで行った)人々は再び川に飛び込んで、キリスト教を洗い流したぞ、と言ったとか。 
武力をもってしても改宗させるのはなかなか大変だったようです。
そうしてキリスト教化された結果、固有の文化が失われれ、少数言語は消えたといいます。
イエズス会もすでに当時としては文明化していた日本への布教はそれなりに考えてなされたようで論理的についてくる質問に驚かされたりもしています。
映画では 底辺で 苦しい生活にあえぐ、 死後の世界に望みを託す以外にないような人々が出てきますが、高山右近などのような人もいました。国中の人を信徒にすることは不可能にしても、ある程度の数の信者は得られたはずです。隠れキリシタンが禁教下も存在しつづけたという事実もあります。 
 
大体ヨーロッパでもみな、もとは自然崇拝だったのですから。アイルランドのようにその国、地域の居住形態にあわせたり、フランスでも聖所だった井戸のあったところに教会をたてて、 聖なる場所として存続させたりしたのですから、やりようもあったかもしれません。
 
他の要因も作用したかもしれませんが、結果的には当時の日本の幕府のほうが強く、これに対抗するほどの気持ちもカソリック側にはなかった、ということのように思えます。
 
 
本当はこの映画の制作意図、遠藤周作の気持ちに沿った感想を書くべきで、見当違いなことを書き連ねました。フェレイラの 「この国にキリスト教は根付かない」 も遠藤の、キリスト教が日本人である自分の身にそぐわないことを感じていたことから発せられたものとも取れます。
ただ信仰の問題について書くことは荷が重い。
ここでは信仰が問題になっています。ロドリゴにとって信仰を守り伝えることが おのれの存在理由だったわけです。
信仰を持たない人間としては自分の良心にそむかなければならないような事態に遭遇した時、選択しがたい二者択一を迫られたときなどとおきかえて考えたくなります。
この映画で一番 胸にせまったのは おのれの存在理由 raison d'etre を失った ぬけがらとなってしまったようなロドリゴの姿、と 棄教したフェレイラの苦しみとロドリゴに向けた憐みに満ちた表情でした。
 
一昨年の長崎旅行つながりで五島列島にもますます行きたくなりました。
 
 
 
 
 

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