『山に立つ神と仏』松崎照明著
29日にコロナワクチン2回目接種を受けました。政府のいう予定、「7月末までに高齢者の接種を終える」の最終ラウンドにかろうじてひっかかったというところです。順番が来ないと落ち着かないですが、不要不急の外出しかしない高齢者よりリモートワークのできない仕事をなさっている方たちが先ではないかと申し訳ない気持ちにもなります。おまけにワクチン不足だなんて!
ともかくおこもりして読書とパソコン。スポーツは見るのもするのも駄目なのでオリンピック、私は観ませんがスポーツが好きな人はどうのこうの言ってても観るのですね。
そうそう「黒い雨訴訟」上告しないことになりましたね。当然です。それにしても今頃?の感。
井伏鱒二の『黒い雨』を読んだのは学生時代ではなかったかと思うのですが。
老夫婦と娘(親類の娘だったと思います)。被爆しなかった娘の体が弱ってきてそれが黒い雨のせいだった、というはなしでした。もうほとんどおぼえていないのですが、淡々とした中に静かに悲しみが伝わってくるような小説だった気がします。
とてもいい小説だとおもっているのですが、今回の裁判の新聞記事でこの本に言及しているものはなかったようです(私のみのがしかもしれませんが)。考えてみれば今記事を書いている方たちが生まれていないころ出版された作品だったのかもしれません。
外出ままならない現在、カルチャーセンターの講座をいくつかオンラインで受講中。その一つに「都市を歩く」というのがあります。京都祇園から清水寺、三十三間堂まで歩き、街並みをみて建築の話をきく、というものです。(次回8月3日は高台寺)とても勉強なります。
八坂神社のおはなしの中で、ここは北野天満宮、ひいては日吉大社の造り方に関連している、ということを話されました。
春に行った日吉神社の建て方。日吉造り といって、前、両側面に庇があるけれど、背面には庇がないのが特徴です。
背面をしっかり見なかったのが残念でしたが、その意味までは知ろうとしませんでした。
しかし先生のお話では背面には元は窓があいていたのではないか? 東本宮は向きがずれているがこれは後年の建て替えが原因と考えられ、西本宮は八王子山の方向をむいている。金大巌を遥拝するようになっていたのではないか、つまりもともと本殿ではなく拝殿として造られたのではないか、ということでした。どおりで拝殿が舞殿のようだった、と思い出しました。(本殿はなく拝殿だけ、というのは今東博でひらかれている、三輪山信仰 の大神神社がそうだということです)
このあと高台寺、清水寺とお話が続くことになっています。清水寺と言えば舞台です。
そこで先生のご本が紹介されました。
『山に立つ神と仏』 柱立てと懸造の心性史 松崎照明著 講談社メチエ

この本を読む少し前テレビのグレーとトラバースという番組で(終わりの方をちょっと見ただけですが)車山山頂神社とそれを囲む柱が写っていて、おお、と思い少しこの本に対する期待が大きくなりました。
一般書ではあるのでしょうけれど、先生のこれまでのご研究をまとめられたようなところがあり、膨大な文献を読まれたうえでの力作で、文献からの引用、色々な建物の例が次々あげられていて読み続けるのにかなり努力が要りました(私は)。
とはいっても初心者のために神社の形式(大社造りとか神明造りとか)、平面構成(母屋と庇、二面庇など)屋根の形式(入母屋、宝形など)また寺院建物の名称の説明もありました。
金堂・正堂:信仰対象の本尊を祀る
講堂(まれに法堂):僧たちが説法を聴き、問答するため
礼堂あるいは礼殿:正堂の前に礼拝のため
まず柱について、古事記、日本書紀、万葉集をひきながら<ある種の霊性を持った「柱」は朽ちることなく不変であり、それを建てることは諸霊の鎮魂につながるという信仰的な考え方が反映しているとも考えられる>と結論付けています。上代では柱を立てること自体が大変重要な崇拝の方法であったことが確認できます。
日本人は古くから山を恐れ敬い祀ってきましたが、それがあるときは神と呼ばれ山を遠望する場所に「社」が造られました。
縄文時代から上代まで信仰対象の山の中に常設の建造物が造られた例はみられず、仏教の伝来によって「山林修行」する仏徒が現れ山は修行の場となります。
山岳信仰が神仏混淆を創り出し、その在り方が山岳信仰の建築である懸造に最も象徴的に表現されている可能性が高い
として第二章から懸造を中心に論が進められていきます。
ところで懸造という言葉ですが、最近昔の奈良・明日香の旅日記をまとめているときに東大寺二月堂のところで調べて初めて知った言葉です。建物の前方にせり出しているところを柱で支えるという作り方です。このとき行った長谷寺の舞台も代表的な例として出てきました。談山神社にもあり室生寺金堂も懸造だった可能性があったのです(室生寺は興福寺の僧たちを中心とする山林修行の行場であったと考えられる)。(この旅、復習してよかった!知っていればもう少し丁寧に観たのに、という後悔も)
まずはかけづくりという言葉の由来から、(源氏物語などを引いて)山での修行に関係が深いことが述べられます。
10世紀半ばから11世紀にかけて都周辺の霊験仏が貴賤の信仰を集め大きぼな懸造が造られるようになります。
その代表的な例が京都の清水寺、奈良の長谷寺、滋賀の石山寺それに東大寺二月堂。いずれも奈良時代までに創建。いずれも本尊は岩(清水寺は土壇)の上に立ち、創建当初の建物は、岩上の本尊を覆うように建てられたと推定でき、本尊の立つ岩と 建物が密接な関係を持っていることが分かります。
これらは創建当時は懸造ではなかったのですが、参詣人の増加に伴う礼堂増築の際、仏座が信仰上重要な自然の岩であったため懸造で建立されたのです。
岩座そのものの御利益とともに清水寺や二月堂の場合は湧水のご利益もありました。
続いて平安中期以後の天台・真言両密教系寺院にも懸造が造られるようになったこと(比叡山横川中堂、醍醐寺、上醍醐の如意輪堂、書写山円教寺など)も説明されていきます。
そうして現存する懸造の最古の遺構であるの三朝の三仏寺奥院 投入堂について説明されます。

(お寺のホームページの写真をお借りしました)
三仏寺は706年に役小角によって開かれたとされていますが確証はなく、本尊の蔵王権現が12世紀中葉のものであることから、おそくともこのころまでには修験の行場として開かれていたことは明らかとされています。
島根県の鰐淵字寺蔵王堂の蔵王宝窟に見られるように岩窟そのものに対する信仰も古く、投入堂も役小角が神窟を開いたことに始まるといわれ、建物側面庇後部の板壁には窟への板戸がもうけられていることから、岩窟に対する信仰から特異な場所に建てられ、その結果、懸造になったものと考えられるのだそうです。
ヨーロッパの教会にもどのようにしてこんなところに教会を建てたのかと不思議に思えるものがありますが、そういう教会をはるかにしのぐ恐ろしい場所に建てられたお堂です。屋根なども美しく、どのようにして建てたのか不思議です。
このお堂の下までは行者道をのぼっていくことができるそうですが、そこまでも非常に危険な行程で、一人で入山することは禁じられているそうです。
千日回峰行とか、修験者たちの苦行についても書かれていました。(捨身行なんて恐ろしすぎます)
さらに懸造の例を歴史的にみていきだんだん形骸化していっていることが示されます。
石山・長谷・清水寺など正堂前面に増築された礼堂・舞台の懸造は平地の建築に比べれば垂直性豊だが、際立った垂直性を示しているとは言い難い、しかし平安末から鎌倉にかけて行者が難険な行場に作ったものは 床下の柱も長大できわめて垂直性が強い。これは平地にける摂関浄土教の俗化やそれに伴う美的享楽主義に反発して山岳に入った験者や聖の信仰的態度と対応しており、山岳の修行者に対する摂関院政期の人びとの期待から造り出されたと考えられるだろう。
書き留めておきたいことはたくさんあるのですが、まとめきれないのでこの辺にしておきます。茶色文字はご本からの引用用、ほかにもチョコチョコ引用がさせていただきました。
秋に(もう少し感染状況が落ち着けば)京都に行きたいと思っています。清水寺にいったら、舞台の上で絶景かな!でおわりにせず懸造などしっかり見たいと思います。









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