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2021年7月

2021年7月31日 (土)

『山に立つ神と仏』松崎照明著

29日にコロナワクチン2回目接種を受けました。政府のいう予定、「7月末までに高齢者の接種を終える」の最終ラウンドにかろうじてひっかかったというところです。順番が来ないと落ち着かないですが、不要不急の外出しかしない高齢者よりリモートワークのできない仕事をなさっている方たちが先ではないかと申し訳ない気持ちにもなります。おまけにワクチン不足だなんて!

ともかくおこもりして読書とパソコン。スポーツは見るのもするのも駄目なのでオリンピック、私は観ませんがスポーツが好きな人はどうのこうの言ってても観るのですね。

そうそう「黒い雨訴訟」上告しないことになりましたね。当然です。それにしても今頃?の感。
井伏鱒二の『黒い雨を読んだのは学生時代ではなかったかと思うのですが。
老夫婦と娘(親類の娘だったと思います)。被爆しなかった娘の体が弱ってきてそれが黒い雨のせいだった、というはなしでした。もうほとんどおぼえていないのですが、淡々とした中に静かに悲しみが伝わってくるような小説だった気がします。
とてもいい小説だとおもっているのですが、今回の裁判の新聞記事でこの本に言及しているものはなかったようです(私のみのがしかもしれませんが)。考えてみれば今記事を書いている方たちが生まれていないころ出版された作品だったのかもしれません。

外出ままならない現在、カルチャーセンターの講座をいくつかオンラインで受講中。その一つに「都市を歩く」というのがあります。京都祇園から清水寺、三十三間堂まで歩き、街並みをみて建築の話をきく、というものです。(次回8月3日は高台寺)とても勉強なります。
八坂神社のおはなしの中で、ここは北野天満宮、ひいては日吉大社の造り方に関連している、ということを話されました。
春に行った日吉神社の建て方。日吉造り といって、前、両側面に庇があるけれど、背面には庇がないのが特徴です。
背面をしっかり見なかったのが残念でしたが、その意味までは知ろうとしませんでした。
しかし先生のお話では背面には元は窓があいていたのではないか? 東本宮は向きがずれているがこれは後年の建て替えが原因と考えられ、西本宮は八王子山の方向をむいている。金大巌を遥拝するようになっていたのではないか、つまりもともと本殿ではなく拝殿として造られたのではないか、ということでした。どおりで拝殿が舞殿のようだった、と思い出しました。(本殿はなく拝殿だけ、というのは今東博でひらかれている、三輪山信仰 
の大神神社がそうだということです)

このあと高台寺、清水寺とお話が続くことになっています。清水寺と言えば舞台です。

そこで先生のご本が紹介されました。

『山に立つ神と仏』 柱立てと懸造の心性史 松崎照明著 講談社メチエ 

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この本を読む少し前テレビのグレーとトラバースという番組で(終わりの方をちょっと見ただけですが)車山山頂神社とそれを囲む柱が写っていて、おお、と思い少しこの本に対する期待が大きくなりました。

一般書ではあるのでしょうけれど、先生のこれまでのご研究をまとめられたようなところがあり、膨大な文献を読まれたうえでの力作で、文献からの引用、色々な建物の例が次々あげられていて読み続けるのにかなり努力が要りました(私は)。
とはいっても初心者のために神社の形式(大社造りとか神明造りとか)、平面構成(母屋と庇、二面庇など)屋根の形式(入母屋、宝形など)また寺院建物の名称の説明もありました。
 金堂・正堂:信仰対象の本尊を祀る
 講堂(まれに法堂):僧たちが説法を聴き、問答するため
 礼堂あるいは礼殿:正堂の前に礼拝のため

まず柱について、古事記、日本書紀、万葉集をひきながら<ある種の霊性を持った「柱」は朽ちることなく不変であり、それを建てることは諸霊の鎮魂につながるという信仰的な考え方が反映しているとも考えられる>と結論付けています。上代では柱を立てること自体が大変重要な崇拝の方法であったことが確認できます。
日本人は古くから山を恐れ敬い祀ってきましたが、それがあるときは神と呼ばれ山を遠望する場所に「社」が造られました。
縄文時代から上代まで信仰対象の山の中に常設の建造物が造られた例はみられず、仏教の伝来によって「山林修行」する仏徒が現れ山は修行の場となります。
山岳信仰が神仏混淆を創り出し、その在り方が山岳信仰の建築である懸造に最も象徴的に表現されている可能性が高い

として第二章から懸造を中心に論が進められていきます。

ところで懸造という言葉ですが、最近昔の奈良・明日香の旅日記をまとめているときに東大寺二月堂のところで調べて初めて知った言葉です。建物の前方にせり出しているところを柱で支えるという作り方です。このとき行った長谷寺の舞台も代表的な例として出てきました。談山神社にもあり室生寺金堂も懸造だった可能性があったのです(室生寺は興福寺の僧たちを中心とする山林修行の行場であったと考えられる)。(この旅、復習してよかった!知っていればもう少し丁寧に観たのに、という後悔も)

まずはかけづくりという言葉の由来から、(源氏物語などを引いて)山での修行に関係が深いことが述べられます。

10世紀半ばから11世紀にかけて都周辺の霊験仏が貴賤の信仰を集め大きぼな懸造が造られるようになります。
その代表的な例が京都の清水寺、奈良の長谷寺、滋賀の石山寺それに東大寺二月堂。いずれも奈良時代までに創建。いずれも本尊は岩(清水寺は土壇)の上に立ち、創建当初の建物は、岩上の本尊を覆うように建てられたと推定でき、本尊の立つ岩と 建物が密接な関係を持っていることが分かります。
これらは創建当時は懸造ではなかったのですが、参詣人の増加に伴う礼堂増築の際、仏座が信仰上重要な自然の岩であったため懸造で建立されたのです。
岩座そのものの御利益とともに清水寺や二月堂の場合は湧水のご利益もありました。
続いて平安中期以後の天台・真言両密教系寺院にも懸造が造られるようになったこと(比叡山横川中堂、醍醐寺、上醍醐の如意輪堂、書写山円教寺など)も説明されていきます。

そうして現存する懸造の最古の遺構であるの三朝の三仏寺奥院 投入堂について説明されます。

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(お寺のホームページの写真をお借りしました)
三仏寺は706年に役小角によって開かれたとされていますが確証はなく、本尊の蔵王権現が12世紀中葉のものであることから、おそくともこのころまでには修験の行場として開かれていたことは明らかとされています。
島根県の鰐淵字寺蔵王堂の蔵王宝窟に見られるように岩窟そのものに対する信仰も古く、投入堂も役小角が神窟を開いたことに始まるといわれ、建物側面庇後部の板壁には窟への板戸がもうけられていることから、岩窟に対する信仰から特異な場所に建てられ、その結果、懸造になったものと考えられるのだそうです。
ヨーロッパの教会にもどのようにしてこんなところに教会を建てたのかと不思議に思えるものがありますが、そういう教会をはるかにしのぐ恐ろしい場所に建てられたお堂です。屋根なども美しく、どのようにして建てたのか不思議です。
このお堂の下までは行者道をのぼっていくことができるそうですが、そこまでも非常に危険な行程で、一人で入山することは禁じられているそうです。
千日回峰行とか、修験者たちの苦行についても書かれていました。(捨身行なんて恐ろしすぎます)

さらに懸造の例を歴史的にみていきだんだん形骸化していっていることが示されます。

石山・長谷・清水寺など正堂前面に増築された礼堂・舞台の懸造は平地の建築に比べれば垂直性豊だが、際立った垂直性を示しているとは言い難い、しかし平安末から鎌倉にかけて行者が難険な行場に作ったものは 床下の柱も長大できわめて垂直性が強い。これは平地にける摂関浄土教の俗化やそれに伴う美的享楽主義に反発して山岳に入った験者や聖の信仰的態度と対応しており、山岳の修行者に対する摂関院政期の人びとの期待から造り出されたと考えられるだろう。

書き留めておきたいことはたくさんあるのですが、まとめきれないのでこの辺にしておきます。茶色文字はご本からの引用用、ほかにもチョコチョコ引用がさせていただきました。
秋に(もう少し感染状況が落ち着けば)京都に行きたいと思っています。清水寺にいったら、舞台の上で絶景かな!でおわりにせず懸造などしっかり見たいと思います。 

2021年7月24日 (土)

本を二冊『いのちがけ』、『ミトン』

最近読んだ本を二冊

いのちがけ』 砂原浩太朗著 講談社文庫 

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つい最近読んだ『高瀬庄左衛門御留書』を書いた砂原浩太朗氏のデビュー作が文庫になったことが紹介されていたので買ってみました。
前田利家主従の話で、私の両親は加賀金沢出身なので結婚するまで私の本籍地も金沢市でしたから、そういう点からの関心もありました。

この小説は利家より5,6歳年下の家臣、村井長頼が語る前田利家の生涯の記録です。
記録、というと小説なのにおかしいですが、まさに記録なのです。
村井長頼18歳、主の前田又左衛門利家は笄事件(笄のことで同僚拾阿弥を切り捨てた)により、信長から追放されて各地を転々としていた時期から始まります。
そのとき
三河の御油という地の郷士、林家に主従は身を寄せています。そこには長頼より1歳年下の出戻り娘がいて、平凡な顔ながら少しひかれるものを感じています。ところが、主の方が手がはやい、というか、、、。色恋というほどのことはないかもしれませんが、そう言った話はこれだけ、(最後に思いがけないことが分かるのですが、、、)。後は延々と続く戦いの話です。
記録、と書きたくなってしまったわけです。しかしひたすら戦い記録のようでいて、長頼の人生形成物語、19世紀ドイツの教養小説的色彩も読
よみとりました。

利家は6尺豊かな偉丈夫で、長頼は常にすぐその後ろに付き従っていました。背中越しに主の声を聞きあるいは意をさとって行動します。18歳ですからまだ少年、憧れと尊敬の念を持ち大きな背中のすぐ後ろに従います。時にはどうしようもない人だとあきれもしながら。
利家一の子分として仕え、後に長瀬家は前田八家の一つとして代々家老職をつとめることになるのですが、その祖たる人物の語る利家記です。

佐久間大学の死を知って、これでは犬死にと嘆く長頼に 
「犬死になどない。もののふはいつもいのちがけじゃ」 
斎藤家との戦いで利家が斎藤家の足立と凄まじい一騎打ちの後信長から帰参の許しをえるのですが、その時の寂寥感も書いています。そうして
「死にとうないとおもうたであろう。生きたい、死にたいは二の次、ただ目の前の敵を斃せ、ただそれだけをかんがえよ」と声を震わせて言うのです。

こうして常に利家に付き従い、戦乱、謀略、秀吉のわがまま(朝鮮征伐)等様々なことに出会い、また長頼の苦手な家臣とのことなどからその晩年(利家亡き後、最後は徳川の人質となったまつに従って江戸に行きかの地で亡くなる)までを書いています。
記録であって、やはり小説、葉室麟とは傾向が違い、波乱万丈というわけではないのです。淡々と描かれていてそれでいて 気持ちはこもっていて魅了するところがあるのです。この人の小説、これからも読んでいきたいと思いました。

 

ミトン』小川いと著 幻冬舎文庫

今NHKBSで「ライオンのおやつ」という小川いと原作のドラマをやっています。
島にある「ライオンのおやつ」という名前のホスピスにやってきた、死期の近い雫というまだ若い女性が主人公です。ホスピスですから周りの人は次々亡くなっていきます。雫も体が弱っていくようです。録画してみているのですが、つらくなりそうで再生もためらいがちになっています。

ただこのホスピスの建物がとってもすてきなのです。母も最後の最期は都下のホスピスでホテルのように豪華でしたが、ここは島ですからロケーションがいい、建物も真っ白なメルヘンチックなおうち。中もおしゃれです。こういうところで最期を迎えられたらどんなにいいでしょう。

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『ミトン』はaiai様が教えてくださった本でいわばメルヘンでした。   

カバー裏の紹介から
マリカは外で遊ぶことが大好きな女の子。代々受け継がれる糸紡ぎや手袋(ミトン)を編むのが大の苦手。そんな彼女に気になる男の子が現れて。この国では「好き」という気持ちやプロポーズの返事を、手袋の色や模様で伝えます。おばあさんに手ほどきを受け、想いをこめて編んでいきます。昔ながらの暮らしを守るラトビア共和国をモデルにした心温まる小説。

マリカは17歳でヤーニスと結婚、ヤーニスは養蜂家になり、マリカは花をそだて、手作りの瓶詰めを造り、ミトンを編み、休日は二人でピクニックを楽しむ、それはそれは幸せな毎日を過ごします。ただ残念なことに赤ちゃんにはめぐまれませんでした。然しコウノトリがやってきて電柱に巣を造ったのです。
二人の国はルップマイゼ国、氷の帝国に占領されてしまいました。マリカが30になった時ヤーニスは国を愛している、という理由で連行されてしまうのです。コウノトリ夫妻はマリカの慰めとなりました。

ルップマイゼ国は今のラトビアそうして氷の帝国はソ連でしょうか。
これを読みながらラトビアにいったときのことを懐かしく思い出しました。
もう12年も前になります。現在は状況が違っていると思いますが、当時は貧しい国だったようです。ガイドさんの話では平均給与が5万円くらい、でも森へ行けばベリーもあるし、これだけの給料でもやっていけるのだと話していました。またバルト三ヶ国を巡った
バスはエストニアのバスでしたが、運転手さんと各国のガイドさんとの共通語はロシア語でした。ラトビアは三ヶ国の中で確かロシア人の占める割合が一番多いということでしたが、ロシア人は優遇されていないらしかったです。

作品の中で手袋に編み込む模様に色々意味があることが書かれていました。私はミトンはラトビアではなくエストニアで買いましたが、アクセサリーは買いました。その中に面白いピアスがあります。 

旅路はるか~200?年バルト三カ国旅行記 (xrea.com) このホームぺージの おわりに のところに写真はのせたのですが、

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大好きで今も愛用しているピアスです。

こういう模様をルップマイゼ国の女性たちはミトンに編み込んでいたのです。

懐かしく心が安らかになるメルヘンチックなおはなしでした。

2021年7月18日 (日)

シリーズ古代史をひらく『渡来系移住民』を読みながら

シリーズ古代史をひらく『渡来系移住民』半島・大陸との往来 岩波書店

という本を読みながらあれこれ思いを巡らせています。

春に滋賀県の坂本に行ったとき、天台宗を開いた最澄が渡来人の子孫だと知って渡来人に関心を持つようになりました。 

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      (坂本で見かけた案内板)

ここに書かれている後漢の孝献帝(献帝)は後漢最後の皇帝(在位189~220)です。余儀なく曹操の子曹丕に帝位を譲ることになりこの代で漢王朝は滅んでしまうのです。その裔を自称(?)した東漢氏(やまとのあやうじ)という大きなグループがあり、滋賀県にはその漢人を称する人が多かった、と司馬遼太郎は『街道をゆく』で書いています。ただ、あやうじのアヤというのは南朝鮮の加耶地方を指す、というのは今日では定説、と司馬遼太郎は書いています。 

余談ですが、今華流ドラマ「三国志 Secret of Three Kingdoms」をユーネクストで観ています。献帝が病気で亡くなったので皇后たちが謀って別の家に」ひそかに預けられていた双子の弟を替え玉として漢王朝の再興をもくろむ、という話です。この子孫と称する人達が日本に来た?日本古代史への関心とリンクするところがあって少しワクワク。

もう行けそうにないヨーロッパ・ロマネスクに代わる新たな関心事ができました。

秦氏 というグループもいましたが、これは弓月君が祖とされるが、のちに太秦を名乗る支族は「蓁始皇帝の三世孫」と主張しています。
京都に太秦というところがあります。弥勒菩薩像のある広隆寺、あれは秦氏の氏寺ですね。昔行ったような、、。 
(今度京都に行ったら、あのあたりにも行きたいと思っています)

直接中国大陸から渡ってこ
なくても前漢時代の楽浪郡、後漢時代の帯方郡には漢族が住んでいたので出航地が中国大陸ではなくても漢族ということはあり得るそうです。 

私は高校時代、日本史は特に好きではなく試験のために年代を暗記するだけの科目で意味内容を考えたことはありませんでした。
でも今考えてみると57年「漢倭国王金印」を賜った、とか魏志倭人伝に卑弥呼が239年に魏に使いをおくった、とか好太王の碑のことなど、あのような遠い時代によく海を渡って行き来したものだと驚いてしまいます。

金印を考えると紀元前後にすでに大陸と行き来があったことになります。
いやそれよりずっと以前、稲作は
朝鮮半島経由で伝わったと言われています。(2500年前、北九州)大陸と地続きであった時期は過ぎています。九州と朝鮮半島は近そうですが、あの当時大きな船が造れたとは思えません。間には対馬海流が流れていてこれを横切るだけの動力がないと北に流されて行ってしまいます。怖くて普通は行こうとは考えないのではないでしょうか?
ネットで検索 
九州から壱岐は見えるらしいし、対馬から釜山もかろうじて見えるそうです。
ああ、見えれば行ってみようかという気にはなるかもしれません。
海流ではなく潮流のことを考えられた方もいらして、季節や時刻を考えれば潮流によって比較的容易に渡れそうなことは分かりました。それにしても決心はいることでしょう。中国へ行くのはもっと大変、遣唐使の船もよく難破しています。

古代のことを想像するのって、とてもロマンがあります。
最初に種もみをもって渡ってきた人たち、って一体どういう思いで海を渡ったのでしょうか?それも鍋かま抱えて。故郷を出なければならない理由があったのか?それも海の向こうは住みやすい所だと聞いて。冒険心?

それとも日本から何らかの理由で半島に出かけた人がお米を食べることの良さに気がついて種もみをもちかえった?ついでに土地を耕す為に鍬も?

    
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ところがこの本は、どういう気持ちで、どのような方法で日本に渡ってきたか、ということは書かれていませんでした。
渡来人がどの地域に住み、何を伝えたのか、どのような仕事をしたのか、ヤマト王権の対処の仕方は?などについて資料に基き、あるいは考古学的発見から明らかになったことが記されていました。
一般書というより、研究論文、章によっては調査資料をまとめたようなところもありました。学術論文というのは依ってきたる証拠がないと価値がありません。海を渡ってきた人の気持ちが書かれている資料などないのでしょうから、この本に書かれていないのは当然ではあります。 

日本は独自の文字をもっていませんでした。
中国は世界四大文明の発祥地の一つ。文字はそういう時代から文字はありました。漢字・漢語・漢文はまず朝鮮半島によって受容され、日本に伝来しました。
魏志倭人伝に240年「倭王、使に因って上表し、詔恩を答謝す」とあることから、このときが日本での最古級の文字使用とされているそうです。
文字を読み、文章を綴ることは日本人には難しく、そういう方面を担ったのは渡来人でした(フミヒト)。大学寮で教えたのも渡来人が多いし、又大学に入る学生の中心は「東西の史部(フヒトベ)の子」でした。
もう少し時代が下って608年、小野妹子の遣隋使でも、大使の妹子以外は小使・通事・留学生・学問僧等 全員渡来系移住民から選ばれています。
また、陶器、鍛治生産等にあたったのも渡来人(テヒト)。
馬が本格的に飼育されるようになったのは5世紀頃からだそうですが、その馬の飼育にあたったのも渡来人(河内の牧で飼われていたが、飯田市を中心とする伊那谷でも飼育されていた)。
(5世紀頃、広開土王の碑から分かるように朝鮮半島では政情不安が続いており、人びとが海を渡る契機になったであろうとおもわれ、又質として貴人がやってきたが、工人・知識人が伴ったと考えられるそうです。)
昔の家の台所の土間に備えられていたカマドも朝鮮半島からもたらされたものだそうです。(それまでは囲炉裏で煮炊きをしていた)
朝鮮半島経由で色々なものが
伝わった、という程度の認識しかなかったのですが、この本ではそれが出土品の分布図なども添えられて具体的に書かれていました。考古学的発見が大きく寄与しているようです。

改めて、高校日本史の教科書をみると、こういうことは詳しく書かれているのですね。私が知らなかっただけで、今の高校生はちゃんと知っているのです!恥ずかしい限りです。

この本で書かれていたことで最も興味深かったのは、ヤマト政権の帰化人に対する扱いです。(この章を書いた田中史生氏は 帰化人と書いています)
帰化という言葉は古代、華夷思想・中華思想と密接な関係があります。皇帝の教化の直接行き届く範囲を「化内」の文明世界とみなし、外側には「化外」の野蛮な世界が広がっていると考えました。「化外」からやってきて皇帝の民となることを望むことを「帰化」と呼びます。したがってたんに物理的移動しか示さない「渡来」とは区別されます。

日本と中国との関係は、朝鮮半島の鉄生産に依存していた倭は、五王時代は朝貢して柵封をもとめる、つまり臣下となっていました。臣下となって○○将軍に任じてもらい、朝鮮半島における軍事指揮権を認めてもらった、というわけです。(『はじめての古代史』倉本一宏著では、倭国王が新羅や伽耶諸国に対する軍事支配権を中国の皇帝から認められたことは、倭国の支配者の記憶に深く刻印され、後世にまで大きな影響を及ぼした。とあります)

しかし遣隋使のときからは柵封をもとめていません。それどころか日出ずる国の天子です。中国に倣って自分たちの国を小帝国と考えるようになっていったのです。中国の中華的な考え方を唐の法制度とともに体系的に継受したのです。
757年に施工された養老律令によると、
化外人の帰化があった場合は、来着地の国郡は衣食を保証し、急ぎ中央へ報告する
:その後化外人には食料を支給しつつ「寛国」まで逓送し、そこの戸籍に附して安置する。
戸籍につけられると化内の民は(領民と賤民に二分されるが)彼らは化内良民にの身分に編入された。
他の化内良民と同じく、口分田が支給され、10年は庸・調・雑徭などの賦役は免除されました。
(寛国とは豊かな国、つまり受け入れる余裕のある地域、という意味)
白村江の敗戦(663年)により多くの百済人がやって来ました。律令的な帰化の成立は687年(持統初年)には確立していますが、既に665年には近江国神崎郡に移配した百済の男女四百余人に田が支給されたこと、666年の百済人、二千余人はある場所で三年間、官の食糧支給を受け居ていた、ことなどから王権は白村江直後から渡来人の多くを難波に安置し、食料を支給しつつ新たな受け入れ先で、田畑等を準備し、近江や東国への移配をすすめた、のです。

このような政策は あくまで文明世界の頂点に君臨する天皇の威徳を示す意図があったことによるもの、だそうですが、現在の日本は難民の受け入れに消極的ですし、ベトナムからの技能実習生の問題を思うと、とても手厚い対策と感心してしまいました。
ただ、「帰化人」は天皇が中華の王たることを保証する不可欠の存在であった、と結論付けられると、ちょっと複雑な気がします。

倭国の時代は(倭というのは小柄、従順という意味がある、日本は太陽ののぼる地を表す、明確に日本としているのは大宝律令の頃と言われる)移住民は技術者、知識人、支配層が多かったが、その背景には、朝鮮半島の入り組んだ状況がありました。しかし8世紀以降は渡来系移住民に出身・階層の多様性がみられなくなりました。百済は滅亡し、百済から二十社が亡くなると次は新羅からきたのですが、842年には帰化が中止されています。

渡来の波は一部地域では3,4世紀にもありますが、多くの地域では5世紀に大きな波がやってきて、 彼らの知識・情報・技術などに期待して、地元に受け入れその地域を発展させていたのですが5世紀以降段階的な王権の強化によって、地方豪族たちは王権のもとに抑え込まれ、渡来人たちも王関与の中で移動したのです。

6世紀半ばから7世紀前半にかけて五経博士や僧尼がやって来ます(仏教)。これ以降は輸入した書物や師弟関係をつうじて非渡来系のひとたちにも高度な技術や文化が広まっていくことになるのです。
8世紀以降が中央貴族が文化的に成長し、大陸文化の吸収時代は終わるのです。

帰化人を含む渡来系移住民の総数は書かれていません。ヤマト王権に直接かかわることなく各地の豪族の元に行った人も多くいたようです。はっきり書かれているのは815年に選進された「新選姓氏録」で、京・畿内の古代氏族1182氏のうち、326氏が朝鮮・中国から渡来した諸蕃の出自となっています。28%ですから、かなりの割合です。(ただこれは 9世紀の政治的な課題をベースに編纂されたものなので科学的な血統書とは違うこと、「書蕃」氏族の多くは日本にやってきて数百年が経過しているので在来者との混血も相当進んでいると考えられる、とこの本の最後の座談会のところで述べられています) 
それにしてもちょっと驚きました。以前 今の上皇様がふれられたことがありますが、桓武天皇の母親は高野新笠という百済出身の家系のひとでした。

たいていの人は自分が純日本人(こういう言葉があるかどうか知りませんが)と考えているとおもいますが、だれしも血の1滴や2滴くらいは朝鮮半島の人の血が流れていないとはいいきれないのではないか、と思いました。

この本に書かれていることで記録しておきたいことはたくさんありますが、内容が細かく多岐に渡るので簡単に要約することが難しいので、ここまでにしておきます。
ふれませんでしたが、渡来系文物についても興味深く読みました。
我ながらよい本をほりあてた、とワクワクしながら読みました。
古代史に関心のある人にはとても勉強になる本だと思います。
    

 

2021年7月 4日 (日)

ブッラータ

お友達の紹介で最近、伊勢丹ドアなる食料宅配を利用するようになりました。

食料品の殆どは生活クラブに頼っていますが、長く利用していると、あきてきます。それで軸足は生活クラブにおきながら、ちょっと浮気することにしたのです。生活クラブと同じものもありますが、そこはデパート。ちょっとしゃれたものもあります。先週はブッラータがありました。ブッラータはプーリア特産チーズで、モッツァレラを薄く延ばして中にモッツァレラを小さく刻んだものと生クリームをいれて丸めたものです。作って24時間しかもたない、というものでなかなか手に入りにくいのです。今、Amazonをみると、ネットでも買えるようです!私は以前、デパートの北海道物産展で見かけて買ったことがあるだけです。

さて届いたものは200gです。冷凍で来て、24時間かけて冷蔵庫で解凍するようにと、指示があります。
南イタリアに旅したとき、前菜の一つとして出てきたのは、ゴルフボーツくらいの大きさでしたが、これはソフトボールより大きい?それなのに一回で食べきらなくてはいけません。切ればたらりと生クリームがあふれでてくるはずです。

それでネット検索をして冷製パスタに載せることにしました。生クリームはパスタにからめれば無駄がなさそうですから。
パスタを(水にさらしてオリーブオイル、塩を入れたボールであえて)お皿にのせ周囲をトマト、バジル、ルッコラ、生ハムで飾り中央にデンとブッラータチーズを置きます。チーズに胡椒を振り、オリーブオイルをかけましたがこれだけではものたりないので、食べるときにはバルサミコもかけました。

私のおなかはこれ一皿で十分なのですが、夕食に一皿ではものたりないのでズッキーニと冷凍庫にあった帆立をオリーブオイルでさっと炒めて(帆立は半生)添えました。

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パスタは二人分(このお皿は径30㎝です)帆立・ズッキーニは一人分

写真撮影してチーズにナイフを入れました。
ところが、このチーズ、中から生クリームがたらり、ではなかったのです!
中は柔らかではあったのですが、全体モッツアレラチーズの味でした。生クリームを絡めてクリームパスタ風になるかとおもっていたのに、ちょっと残念でした。やっぱり冷凍ものはだめかもしれません。以前駒込のプーリア料理店でできたてをいただいたことを懐かしく思い出しました。
添えの方、これまで我が家では帆立はトマトと合わせてパスタが多かったのですが、ズッキーニと合わせたのは初めて、でも正解でした。ズッキーニが帆立の旨味をすって、とてもおいしくて、もっと作ればよかったと思いました。帆立、今回は生活クラブのお徳用でワレ、カケのあるもので、見かけはよくないですが、味は大丈夫。添えのほうが美味しかった!です。

今日、新しいboxが届きました。今回は 穴子炊き込みご飯セットがはいっていました。これから仕込みます。
自粛で外食もできないのでちょっとプチ贅沢(我が家にとっては)を楽しんでいます。 

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