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2021年12月

2021年12月28日 (火)

天草・長崎旅行 2日目―1(天草コレジョ館、崎津)

12月17日(金) 8:00 出発

教会巡り観光タクシー4時間コースで最後は鬼池港につけてもらうよう頼んであります。

ホテルを出てまず祇園橋
昨日行ったことは告げてありますので車から見ただけです。
石造桁橋では日本最大で、長さ28.6m幅3.3mあり45脚の石柱によって支えられています。

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「町山口川の 流れせきとめし 殉教者の むくろ数百千にして 名をばとどめず 徳壽」と刻まれています。

市街地を抜けると山の中を南下、時計回りに回ります。

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運転手さんから懐かしい名前を聞きました。園田直元外務大臣(1913~1984年)(厚生大臣なども務めた、夫人が天光光)は天草の出身で天草五橋や今走っているサザンカロードを造ったのだそうです。

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ずっとサザンカの並木道がつづいていましたが、車の中からはおかしな写真しか撮れませんでした。
私は崎津をしっかり見たいのでコレジョ館は割愛してもいいかとおもっていましたが、運転手さんは「素晴らしいので是非見て行ってください」と車を停めました。結果的には入ってとてもよかったので運転手さんに感謝です。

天草コレジョ館(8:50頃~9:30)

天草にはキリシタン資料館は3館、それと崎津資料館があります。一つは昨日行ったキリシタン館で祈りがテーマ。17世紀の弾圧・禁教時代を扱っています。

このコレジョ館は交流がテーマ 16世紀の伝来・展開を扱かっています。

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かかりの方(あとで知ったのですが、館長さんでした。)が丁寧に説明してくださいました。
他に見学者はいなくて館員の方が多い、という状態です。
まず最初に「ザビエルはよくご存じでしょうけれど、キリスト教伝道に力を尽くした人として大事なのはアルメイダなのです」とルイス・デ・アルメイダの足跡(九州から近畿まで)を記した地図の前で話し始められました。葉室麟の『守教』でおなじみでヴィヴァ・ローダ(生ける車輪)と言われたほどあちこち布教に回った修道士です。
ルイス・デ・アルメイダ(1525年頃~1583年)
リスボンのコンベルソ(ユダヤ教からキリスト教に改宗した人)の家に生まれ、医学を学んだ後貿易商となった人物。
1552年に来日、ザビエルと共に来日して日本布教の礎を築いたと言われるコスメ・デ・トルレス神父と出会い、感ずるところがあって宣教師として生きることを決意。然し布教にお金がいることを知ってしばらく貿易に専念。巨万(?)の富を得てイエズス会入会。私財を投じて大分に乳児院、病院などを建て、お金は全て会に寄付、宣教師として活動をはじめたのです。(今も大分市にはアルメイダの名を冠した病院があるそうです)
1566年には天草最初の宣教師としての志岐(島原半島に近い地域)にやってきました。河内浦には1569年にやってきて天草氏父子など多くの住民がキリスト教徒になりました。アルメイダは1583年この地で亡くなりましたが終焉の地は確定されていませんし、お墓もみつかっていないそうです。禁教時代、秘密にされそのまま分からなくなってしまったのでしょうか。信者たちは嘆き感心だでしょうし、主が嘉みし給えばそれでよしなのかもしれませんが、のちの人々にも賞賛されてしかるべきなのに、そのよすががないのはと残念な気がしました。 

 
館長さんは「天草と言うと天草の乱で知られた哀しい町と思われるでしょうけれど、実は南蛮文化の華開いた所でもあるのです」と 印刷機などを指し示しながらおっしゃいます。

天草のコレジョは1591~1597年まであり、その後長崎に移転。場所ははっきりと特定はされていないのですが、本渡の東向寺のある場所ではないかと言われていました。この東向寺も初代代官、鈴木重成が建てた天草四か本寺の一つです。
然し、最近イエズス会の施設一覧の中に「肥後国 河内浦にコレジオ」とあることがわかったそうです。河内浦(この博物館の所在地)のどこかはわかっていません。
セミナリオを出たあとさらに勉強する場所がコレジョ。履修科目はラテン語、ラテン文学、倫理学、歴史学、宗教学、日本文学、哲学、天文学など。正式な神父になるにはマカオにいって叙階される必要があったそうです。

横には大きなグーテンベルク印刷機(複製)が置かれています。天正の少年使節(1582~1590年)が持ち帰ったものです。四人の少年たちも帰国後このコレジョで勉強しました。

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この印刷機で印刷された本のコピーをいただきました。ポルトガル式ローマ字で書かれていて にふぉんのことばとひすとりあを習いしらんとほっする人のために世話にやわらげたる平家の物語 と読めます。(はひふへほを H ではなく F で表しています)
当時、ヨーロッパの出版部数は300~500部でしたが、ここでは平均1500部、多くは3000部を印刷したと言われています。これは日本人の識字率の高さをしめすものであり、また、世界で最も大きい出版事業であったろう、とのことでした。
7年間に29種類のキリシタン本が出版され、現存するのは12種類(コレジョ館所蔵)。日本語、ローマ字、ラテン語など 様々な本が展示されていました。
宣教師の国外追放とともに印刷機もマカオに送り返されたそうです。

又少年たちが乗った南蛮船の模型も展示されていました。航海に使ったであろう天文儀のレプリカなども。
パイプが竹でできているパイプオルガンもありました。弾いてみてください、といわれてドレミファソラシドと弾いてみました。ちゃんとオルガンの音がしました。 

この後 特別展も見ていってください、と別の部屋に案内されました。

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チラシ裏

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南蛮貿易を物語るものとして発掘、あるいは海底から引き揚げられた陶器の展示がかなりありました。 

私が見られて最もうれしかったのは墓碑です。写真が撮りたい、と思わず口走ってしまったのですが、あっさり「いいですよ」そういえばここはカメラ禁止の表示はなかったのです。慌ててカメラを取り出しました。

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慶弔11年IHS銘半円柱形墓碑 1606年に作られた墓碑で、天草上島の正覚寺で発見されたものです。
正覚寺は南蛮寺(教会)跡地に一揆後1646年に鈴木重成によって建立された曹洞宗寺院。寺のある上津浦地域は一揆軍の根拠地となっていました。切支丹墓碑は1985年の本堂解体時にみつかりました。寺の礎石として使われていて、これは意図的なものであったとみられています。(逆にこのことからここが南蛮寺跡地と特定されたのです)。このカマボコ形の墓碑は全国に4基しかなくそのうち2基がこの正覚寺にあります。
それを目にすることができたので大感激でした。

横を見ると、あら秋月で見たものと同じ、いえ、そのものでした。
「罪表十字紋瓦」特別展のために運ばれてきたようです。
カメラOK なので遠慮なく撮らせていただきました。

 
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花十字紋の瓦も美しいです。

その他 メダイ、これまでもいくつか目にしたことがありますが、白蝶貝に彫られたものは初めて見ました。

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白蝶貝のメダイ(16世紀後半から7世紀初頭、崎津製)聖ロヨラ 裏面はIHS と受難具が描かれています。
これは世界に3点あり一つはローマ、もう一つは長崎26聖人記念館。いずれも崎津製です。 

小さい方
同時代の崎津製で金属製メダイを模倣したもの。磔刑と、裏面は、無原罪の聖母

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二つとも 聖遺物入れで16世紀後半~17世紀初頭のヨーロッパ産

その他 

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中段のクルスは鉄砲玉からつくったもの。これらを手に最後まで戦ったのかと思うと胸にせまるものがありました。

大満足の見学でした。
企画展の図録を売っていましたので、もちろん購入。出品物すべての写真に説明がつけられていました。


館長さんの丁寧なお見送りをうけて恐縮しながら館を後にしました。

9:40 ああ、遠くに崎津教会が見えてきました。

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崎津教会はこのように海辺にたっているので後陣側は湾を隔ててでなければ写真は撮れません。このまま集落の中に入っていくのかと思ったらそのまま少し山の方に入っていきます。どうしたのかと思ったら、対岸の写真スポットにいってくださったのです。

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墓地を拡大すると

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十字架がつけられているお墓も見られます。ここは多分右下がお寺でそのお寺の墓地ではないかとおもうのですが。

その後 集落に入っていきました。

「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」は1637~1638年の島原・天草一揆の後、江戸幕府によりキリスト教が禁じられている中で、日本の伝統的宗教や一般社会と共生しながら信仰を続けた、潜伏キリシタンの信仰継続にかかわる伝統の証となる遺産群です。一揆終焉の地や信仰が続けられた集落など12の資産で構成されていて「崎津集落」はそのうちの一つです。

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まず行ったのが上の地図の1番 よらんかな旧網元岩下家です。勝手に入っていいそうなのではいってみました。

 
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お玄関を入ると土間が突き抜けていてそのまま海側に通じています。

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神棚もあります。

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海側に出ると

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奥の海につきでているベランダは「カケ」と呼ばれています。
カケは縄棚ともよばれ、延縄やその他の漁具を干したり、網の修繕をしたりする作業場でした。漁師たちは棕櫚や竹を使って 自分たちでカケを造っていました。棕櫚は脂分が多いので柱につかっても くさることがないそうです。 棕櫚の柱に 檜の垂木、その上から竹を使って床を造っていました。 

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お隣さんのカケはもう耐久年限をすぎているようです。海に突き出して家をたてているところも見えます。

海側から見た 岩下家

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ここを出て諏訪神社下に移動。

長くなりそうですのでひとまず今回はここまでにします。

2021年12月24日 (金)

天草・長崎旅行 1日目―3(夕食、翌日朝食)

10月16日 続きです。

19:00夕食

テーブルに着くとすでに青竹にのった伊勢海老の半身、しばらくすると横に鮑が置かれました。

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先ず 先付 漬け鮪とズワイガニのカクテル 蕪のブランマンジェ

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蕪のブランマンジェ、なめらかでさっぱりしていて美味しい、最初から満足です。 
ここのお料理はおいしかったのです。
  

御造り 天草海の幸あれこれ
    伊勢エビ、車海老、鯛、間八、河豚タタキ 蛸

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新鮮です。伊勢海老もコリコリしています。

ひょいと横を見ると

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「きゃーっ」鮑がにょろにょろ動いているのです。

台の物 活き鮑と伊勢海老 松茸の セイロ蒸し
この青竹がセイロになっていて蓋をして蒸しあがるのを待ちます。

待っている間に 

炊き合わせ 金目鯛、六方芋、蓮根、茄子オランダ煮

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ここになるともうほんの一口しかいただけません。

合肴 鯖の黒酢餡かけ

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多すぎてこれにそのままのこしてしまいますた。主人も残していました。

鮑、伊勢海老が蒸しあがったようです。

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鮑って、味付けして煮たものしかいただいたことがないのです。少し硬いのですが、これは柔らかい。レモン(ちょっと小さい)オリーブオイル、塩 のお好みで、ということで塩にしました。ほおー。もうすでにおなかがいっぱいですから、伊勢海老も鮑も半分以上、主人に回りました。大喜び、感激しながらいただいておりました。ビールの後、お酒二合、そのあとはストップをかけましたが。

強肴 阿蘇赤牛ロース肉のグリエ 焦がし醤油バターソース

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私はパスましたが、この分量なら主人のためにもらっておいた方がよかったようです。

もうご飯にしていただきました。

鱧山椒煮 香の物、ご飯(熊本県産コシヒカリ)

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ご飯も三分の一に、とお願いしました。(上の方、残したものが写っていてみっともないです)

主人は 
留め鍋 ほうとうと天草大王の鍋 味噌仕立て

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デザートは別腹

ショコラ・グラサージュ・トルテに季節のフルーツを添えて

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ケーキもこってりしすぎず美味しかったです。
別にいいのですけれど、不思議なことにコーヒー、紅茶のサービスはありませんでした。最後になったからでしょうか?ま、いいですけれど。

大満足でまだ席を立ちたくなかったのですが、スタートがもう少し早い方が殆どで後二組くらいしか残っていらっしゃいません。長く居座るとスタッフの方にご迷惑と思い20:30ごろ部屋に戻りました。

お風呂にはもう入っているので歯だけみがいてすぐやすみました。

                   (9551歩)

 

翌朝 10月17日

8:00にタクシーを予約していますので、朝食は7:00の予約です。その時、修学旅行の生徒がいるのですが、といわれましたが、それでもかまわないと言ってあります。

レストランに行ってみると、高校生の男女が20人くらい。修学旅行にしては少ないです。結構楽しそうにおしゃべりしながらビュッフェの列に並んでいます。

その間をぬって。
パンなど洋食系のところには高校生がむらがっていましたから、すいている和食の所へ行きました。

お向かいの人

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私 

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食事中、聞こえてくるのは近くの大人の話声だけ、高校生はしっかり黙食を守っていて、しんと静まり返っているのには感心しました。

7:15  ちょうど夜明けです。

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雨もあがったようです。

8:00 お迎えの車に乗って出発、このあとのことは次回に

  

天草・長崎旅行1日目ー2(天草キリシタン館、明徳寺など)

12月16日(木)
16:50過ぎタクシーで天草キリシタン館に向かいました。15分はかからなかったでしょうか。
かなりの雨です。着いたところにエスカレーターがあり人が近づくと動くようになっていました。慌てて乗りましたので写真は撮っていません。

天草キリシタン館  パンフレットの写真 (15:05~15:52)

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館内はカメラ禁止です。
頂いたパンフレットから

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天草と言えば天草四郎です。

二階に上がるとまず映像コーナーでビデオで流される説明を聞きます。それが終わると暗く灯りを落とした展示室に入りました。 

入ってすぐの硝子ケースに天草四郎陣中旗が収められています。でもこれはレプリカ。実物はしまわれていて特別なときにしか展示しないそうです。この博物館の一番の宝物でしょう。
大きさは約1メートル四方。戦いで破れたところを繕ってあるあとや血痕もうっすら見られます。

パンフレットを拡大しました。

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戦の場には似合わないような美しいものでした。

正式には「綸子地著色聖体秘跡図指物」と言うそうですが、綸子の布に聖体聖餅を拝む二人の天使が描かれています。
日本の初期洋画家である山田右衛門作(やまだえもさく)が原城内で描いたもの、あるいは禁教令以前のセミナリオで聖旗として描いたものとも言われ、日本におけるキリシタン史上、また洋画史上最も貴重な資料として重視されています。
また十字軍旗、ジャンヌ・ダルクの旗とともに世界三大聖旗の一つとされてもいるそうです。
この旗を押し立てて悲壮な覚悟で戦いに挑んだのかと胸があつくなりしばらく見続けました。

翌日のタクシー観光の際運転手さんが話してくださったことも交えて簡単に 

有馬晴信の子直純は晴信と共にキリシタンだったが、家康の小姓をしていて家康の娘(養女)国姫を妻に迎えた。直純はこの妻に頭があがらずキリシタンを捨てて反キリスト派になった(この人が一番悪い、と運転手さん)。
1609年からのマカオにおける晴信の朱印船騒擾事件に単を発する騒動(この時の処分として晴信は死罪)を契機に1613年全国的なキリスト教禁教令がしかれることになった。連座を免れた直純は日野江藩主となり、領内のキリシタンを弾圧。自分の義弟たちも殺害している。島原の乱の前に転封を願い出て延岡に居城を得ていたが、地理に明るいことから征伐軍に加わり、元家臣らと対決している。
代わって1616年島原藩主となったのは松倉重政。これがとんでもない人物で(司馬遼太郎は 日本史の中で彼ほど忌むべきひとは少ない、と書いている)城を建てるのが趣味。石高の二倍以上相当の城(島原城)を建てるために領民から搾れるものは何でも搾り取った。キリスト教徒に対する弾圧も残忍であった。(雲仙地獄で熱湯による拷問、処刑、1627年など)
天草では小西亡き後、唐津藩主寺沢宏隆高が領主になり富岡城を築城。島原の米の取れ高を実質の二倍以上の四万二千石としたため、百姓は重税にあえでいた。
1614年頃からキリスト教弾圧が厳しくなっていた。
そういう状況において武士から百姓になっていた島原の旧家臣らと天草の小西行長の元家臣(行長は1600年、関ヶ原の戦いで負けて亡くなっている)らが中心となり、一揆は企てられた。
その時、軍を統べる象徴的人間が必要とかつぎだされたのが、小西行長の元祐筆・益田甚兵衛好次の子、四郎時貞。優秀で幼いときからカリスマ性があったとか。
軍勢3万7千人の内1万人は元武士。それで武器の使い方はこころえていた。天草・島原両代表者が談合したのがバスの中からかすかに見えた湯島。

天草・島原の乱(1637~1638年)はキリシタンが弾圧に対して戦ったのだというイメージをもっていたのですが、百姓一揆の要素も強いようです。

決戦の場、原城包囲陣営図やメダイ、マリア観音像などをみて外に出ました。雨は来た時より小降りになっていました。
キリシタン館を背に左の方へ進みます。

墓地の続く緩やかな坂道を5,6分下っていくと、明徳寺が見えてきました。

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乱の後、天草は天領となり、初代代官として赴任したのが鈴木重成。
彼はその死後、土地の人が神と崇拝したほどの善政をし
きました。
石高に関して、石高4千2千石はおかしいと再検地。実高は2万1千石として幕府に何度も掛け合ったが取り合ってもらえず、晩年、出府して歎願、自刃してやっと半減してもらえた、と言うことになっています。実際は自刃はしなかったらしいです。この自刃説により、重成は神とあがめられるようになり、鈴木神社が建てられています。
祀られているのは重成と重成の兄、正三、正三の子で重成の養子、重辰の三人。重辰は二代目の代官でこの時、石高半減が実現しました。
半減されてもなお暮らしは貧しく、其の後も天草ではしばしば、百姓一揆はありました。 

鈴木重成はキリスト教からの改宗を目的として四寺院をひらきましたが、その一つが1645年に開いたこの明徳寺です。
曹洞宗の禅寺で開山は中華珪法
重成の兄で禅宗の僧であった正三に来てもらい説法を頼みました。正三の著した『破切支丹』は優れた仏教思想書として評価が高いそうです。 

この場所は本渡城の一画です。
山門は1717年に建てられました。再建は1808年。天草の山門のなかではもっとも古いものです。

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門の中の双聯には
「祖門晋師行清規流通仏海正法 将家直正革弊政芟除耶蘇邪宗」と掲げられています。これは、仏陀の正しい説法をひろめ、耶蘇の邪宗を芟除(刈り除く)するという意味合いの言葉だそうです。

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本堂

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子安観音 マリア観音のようにも見えます。しかしこれは古いものではなく大正時代のものです。

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長い階段を下ります。

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(左側もやもやしておかしなところはPhotoshopで人物を消した痕です)

右手に建てられているお地蔵様、お顔が少し日本人離れしています。
そのため「異人地蔵」とよばれているそうです。

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ところであの長い階段には十字が刻まれているそうです。隠れキリシタンに対する踏み絵のような役割ではなかったか、と言われています。しばし十字探し。

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光の具合でみえたり、見えなかったりするのですが、中央奥はその一つでしょうか。よく見るとあちこち、大小様々な十字が見えました。
異人地蔵、マリア観音、石段の十字、なかなか面白いお寺でした。

このまままっすぐ行くと
延慶寺 ここには兜梅と言う梅があるそうです。

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「兜梅」の案内に従って、寺庭を回っていきます。引き戸を開けて入ると

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さらに奥に進みます。ひと様のお庭に勝手に入っていくようでためらうところはありましたが、案内版がありましたので指示通り進んで行くと

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横に広がった梅の木がありました。樹齢約500年、その姿から臥竜梅ともいわれるそうです。お花が咲いたらどんなに見事でしょう。市の観光サイトからお写真を拝借しました。

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兜の緒が絡まるのも頷ける、あちこち伸び放題の枝です。

ここで16:40 道路に出たところでタクシーをよぼうとしたら「後10分歩けば祇園橋だから、それをみて帰ろう」と言います。まだ日没に少し間があります。雨も止んでいるので祇園橋まで歩くことにしました。

結局20分近くかかって16:59 橋の見えるところに来ました。

祇園橋

国の重要文化財に指定されている国内最大級の石造桁橋です。天保3年(1832年)長崎のオランダ坂を手がけた天草の石工が作った石橋で、長さ28.6m、幅33mの多脚式アーチ橋です。現在は危険なので渡れません。

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なんとも無骨な橋です。
橋脚の多さに驚きました。川は町山口川という名です。

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この付近は1637年の天草の乱の激戦地で、多くの犠牲者がでました。反対側の岸に立つ慰霊碑を翌日見ました。

17:03 少しずつ日が暮れてきています。タクシー会社に電話をかけました。3,4分で着く、とのことでしたが、10分近く待ったと思います。風もなく暖かい日だったので助かりました。

17:25分ごろ ホテルのお部屋に戻ることが出来ました。
夕食は19:00にお願いしてあります。その間にお風呂に入ることにしました。
このホテルにはペルラの湯という温泉センターともいうべきものが丘の上にあります。歩いてもいけますが車もだしていただけるそうです。一つだけですが
中程度の広さの温泉も館内にある、と言うことですので、そちらに行くことにしました。

温泉にはお二人はいっていらっしゃいましたが、すぐ出られて後は貸し切り状態でした。柔らかいお湯で、肌がとてもつるつるになりました。

お食事の様子をのせるつもりでしたが、もう写真がはいらなくなりましたので次回にします。

2021年12月21日 (火)

2021年12月 天草・長崎旅行1日目―1(羽田→熊本桜町バスターミナル)

12月16日(木)から19日(土)念願の天草に行ってきました。潜伏キリシタンの地巡り、も一応これが最終です。
今回も夫婦二人旅です。

12月も半ば過ぎ、旅行に適切な時期ではないのですが、理由があります。ためたエール・フランスのマイルの有効期限が今年いっぱいで切れるのです。この時期、海外には行けません。でもJALには乗れるので国内で使えます。交換率はとても悪くJALのマイルだと二人で3万マイルですが、エール・フランスのマイルだと二人で5万8千マイル必要でおまけに手数料が1万円近く(ウェブで手続きをすればもっと安くはなります)かかります。しかし使わなければ消滅するので、行くことにしたわけです。残りは捨てです。

前回の旅行が終わってからの間隔と、博物館の開館日(天草は月曜ではなく水曜、木曜が休館)の関係から16日木曜日出発としました。出発は羽田8:05ですから前回同様、天空橋の京急EXイン羽田イノベーションシティに前泊しました。
15日(水)からですから3泊3日の旅、ということになるでしょうか。

天草では公共機関を利用しての旅は時間がかかりすぎて考えられません。
観光バスも何コースかあり、教会巡りのコースもあります。お値段1000円!です。ただ、お昼ごろの出発で、間に合いそうもないのです。前泊を羽田ではなく熊本にすれば間に合ったことに後から気が付きました。
でもタクシーの運転手さんがよい方で、考えていなかったところも案内してくださって結果的にはタクシーにしてよかったと思っています。
島原もバスは1時間に1本、見学時間の見当がつかないこと、寒さも予想されることですからタクシーと決めました。
口之津~島原は1万円で2か所の待ち時間であと3000円くらいだそうです。      

予定
16日 羽田(8:05)→(10:00)熊本空港→10:25(バス)熊本桜町バスターミナル(11:15)(11:30)バスあまくさ号→(14:04)天草本渡バスセンター→ホテル(時間の許す限り市内観光、九州の日没は17:00過ぎ)

17日 ホテル発8:00~12:00すぎまでタクシー観光(コレッジョ館、崎津教会、大江教会など)そのまま鬼池港へ  

 鬼池フェリー12:30→13:00口之津港→タクシーで原城址、有馬キリシタン遺産記念館→15:00島原のホテル
   着後島原(武家屋敷、四明荘など)小観光

18日 ホテル→(諫早経由)長崎 浦上天主堂→爆心地公園→大浦天主堂など→長崎空港17:00→羽田(18:30)

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12月15日夜から16日

予定通りホテルに泊まり、翌朝は空港の空弁で今度は、まい泉のカツサンドにして、ラウンジに行くと、食事禁止になっていました。去年は大丈夫だったのに!飲み物だけいただいて、搭乗待ち。機内でサンドイッチをいただきました。機内は空いていました。2-3-2でしたが、3のところは一人のみ。後部席は全て空席でした。

熊本空港は正式には「阿蘇くまもと空港」と言うようです。阿蘇山に近いのです。予想はしていましたが、小雨でした。

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↑空港のバス乗り場から

順調に進み、予定通り熊本駅行バスに乗ります。

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農村地帯をひた走ります。

熊本市内、白川を渡りました(大甲橋)。
突然、歌人安永蕗子が熊本の人だったことを思い出しました。

安永蕗子は白川のそばに住んでいたはずです。家に帰って調べると、蕗子が生まれたのは橋を渡った側で、戦後住んだのは九品寺。橋を渡る前のバス停が九品寺交差点でした。(↓写真では右方向にはしっていて左側が九品寺)

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「水ひびく冬河の橋わたり来て星のありどを空に失ふ」 
河はこの白川でしょうか。昔の面影はみられないようですが。ただこの辺り平行して細い堀もあるようです。

蕗子の歌で好きなのは
「何ものの声至るとも思はぬに星に向き北に向き耳冴ゆる」
「突き抜けて虚しき空と思ふとき燃え殻のごとき雪が落ちくる」

雪が落ちてきそうな空の下、歌を思い出しているうちにバスターミナルに着きました。

事前の下調べとちがって空港バスの降車場とあまくさ号の乗り場はレーンが違っていました。どちらも赤だと思っていたのが着いたのは青でした。あせりましたがでも横にエスカレータ―があり、上がると広い通路、向かいはお店がずらり、左に少しいったところに赤レーンに下りるエスカレーターもありました。新しくできたバスターミナルのようです。乗り場の横に清潔なお手洗いもありました。
車道と待つ場所は扉でしきられていて、定刻になると運転手さんがやってきてバスに乗れる仕組みです。
11:30 2時間40分のバスの旅の始まりです。私たち以外に二人、途中で乗り降りがあり最終的には二人だけ、貸し切り状態でした。

熊本駅から宇土駅までまっすぐ南下します。宇土城はキリシタン大名小西行長の城だったことがあります。宇土駅で右に曲がり間もなく海岸通りに出ます。残念乍ら時折小雨の降るお天気で寂しい景色を眺めながらいくことになりました。

出発して約1時間後     

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手前は干拓をしているのでしょうか。

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海苔の養殖?

宇土半島の先、中神島向こうが大矢野島です。遠くの台形の島が湯島(談合島)です。
湯島は 島原の乱で天草・島原の代表者たちが相談したことから談合島と呼ばれています。

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いよいよ天草5橋を渡ります。

1号橋が見えてきました。お天気が良ければ青空に白い橋がくっきりと映えるはずなのですが、、、。

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2号橋

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 3号橋

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4号橋 
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5号橋
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渡り終えて松島というところで(13:15)3分間トイレストップ。
これからも海岸沿いを走りますが、メインをすぎたので、お昼にしました。といってももうひと箱買っておいたカツサンドとお茶ですが。

この道を ありあけタコ街道 というようです。

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サンタマリア館 閉鎖中のようです。

天草瀬戸大橋

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この橋を渡ると天草下島 向こうの赤い橋は歩道橋です。
ようやく到着です。

本渡バスセンター前、ホテルにお迎えをお願いしてあります。先の車庫までバスでいくつもりでしたが、運転手さんに「どこへ行くのですか? ホテルアレグリアのお迎えが来てますよ」そこで慌てておりました。

ホテルは車で10分くらいでした。雨が降っています。

フロントで手続きをしてお部屋へ

和洋室でゆったり広々としています。

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4階です。ベランダから見下ろすと

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すぐ下におりてタクシーを頼みました。ロビーからの景色

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雨ですが、2時間ほど観光するつもりです。それは次回に 

 

2021年12月11日 (土)

福岡県へ 3日目ー2(太宰府天満宮→九州国立博物館→帰宅)

11月27日(土)続き

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光明寺から天満宮参道まではほんの数分です。

土曜日なので覚悟はしていましたが、ものすごい人出です。

人の流れに押されて行くと赤く塗られた太鼓橋、

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ここで11:48 先にお昼を済ませましょう。地図から「うぐいす茶屋」というのが場所的に良さそう、と一応予約のお電話を入れてあります。お店の方は「予約なしで大丈夫ですよ」

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太鼓橋を又戻って脇の道を行きます。
家族連れの多い大衆的なお店でした。すぐ座れましたが、かなり待たされました。

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私は釜揚げ野菜天婦羅細うどん、主人は鍋焼きうどんでした。

頂く前に写真を撮り忘れたのでメニュー写真です。
普通に美味しくいただきました。

12:35過ぎにお店を出て、まずは天満宮へ

お店は境内と言える場所にあります。出てまっすぐ行くと
「如水の井戸」

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黒田如水、黒田官兵衛は剃髪して二年くらいこの天満宮内に庵をむすんで住んでいたのです。キリシタンでしたけれどね。弟の直之が秋月のところで出てきたので、なんとなく懐かしさみたいなものを感じました。

すぐ横が宝物殿。結局、ここには入りませんでした。曲がるとすぐ楼門です。

太宰府天満宮 
菅原道真(845~903年)学者の家系でしたが、宇多天皇の側近として出世、娘を女御として出すほどとなりましたが、(カルチャ―の先生によると、いい加減でやめとけばいいのに、欲をだした、と言うことになるのですが)妬みをかったようで、左遷、大宰権帥として901年九州にくだることになったのです。住んだのは地図左下の今は榎社となっている、もと府の南館があった所ではないか、と言われる場所です。亡くなられて
門弟であった味酒安行が亡骸を牛車に乗せて進んだところ、牛が伏して動かなくなり、これは道真公の御心によるものであろうと、その地に埋葬されることになりました。
905年 墓所の上に
祀廟が創建され、919年には勅命により社殿が建立されました。

その後、道真の無実が証明され「
天満大自在天神」という神様の位を贈られ、「天神さま」と崇められるようになったそうです。

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楼門は何度か火災にあい、現在のものは1911年に再建されたものです。内側と外側が違っていて、内側は屋根が一層だそうですが、行ったときは知らなくて、内側からみた写真は撮っていません。 
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↑手水舎

現在の本殿は1591年、小早川隆景が再建。いかにも桃山時代!と言う豪華さです。

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本殿の前はざっとみて十数人が7,8列にならんでいる、という状態です。横の方に回って撮りました。

少しおくれての七五三の御参りの方も多くて、きれいな着物姿の子供さんを多く見かけました。あの中もお祓いの順番を待っている人達のようです。
右手が「飛び梅」です。
東風吹かばにほいおこせよ梅の花 あるじなしとて春な忘れそ
道真公を慕って、都から一夜にして飛んできた、として知られる梅、だそうです。

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いの外を一回りしました。この天満宮は流れ造りです。切妻平入り。

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大楠

後ろ側もみたくて敷地の外側をぐるっと回りました。

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後ろ姿 垂木の先には梅のマークがついています。

このまま向こうに回り込むようにして進むと 池がありました。

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梅の種納め所

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紅葉がみごとでした。

御神牛 

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頭をなでると知恵が授かるそうですが、コロナ時期ですから触りませんでした。

ひとまわりしたので博物館に向かいます。

九州国立博物館(12:55~14:25)

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この入口から長い長いエスカレータ―にのり、動く歩道に乗っていくと

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ここに出ます。中に入って聞くとなんと70歳以上は常設展は無料だそうです。特別展は海幸・山幸というのをやっていましたが、それはパスすることにして3階に行きます。保険証か何か年齢を証明するものを見せることになっています。 もちろんもっていましたから、すんなり入れました。

展示は、「縄文人、海へ」「稲作りから国造りへ」「遣唐使の時代」というふうに時代ごとに分けて展示されています。そうして特にカメラ禁止のマークがついていないものは撮影OKです。ヨーロッパの博物館並みです。

特に気になったものだけ写真を撮りましたのでそれを並べます。

残念なのは撮ったつもりで縄文時代の丸木舟を撮っていなかったことです。

そうして、ここで観世音寺の梵鐘が展示されていたのです。まだ 戒壇院と観世音寺を混同したままの私は、ああ、ここに鐘をおいたから、なかったのだなと思いました。どちらかがレプリカということになるのでしょうか。(kikuko様がコメントを下さいまして、来年3月までこちらこちらに展示されていることになっているそうで、大失敗にもかかわらずホンモノを目にすることができました!)現地でみられれば雰囲気があってよかったのに、とは思いますが。

ここでは1分毎に鐘の音が流れるのです(実際に撞いているのではなく録音)。音量をしぼってあるのかもしれませんが、大きな音ではなく又グワーンなどという濁った響きでもなく、優しく柔らかいといってもいい音でゴーンとなっていました。

九博のホームページを見ますと、来年1月16,17日 妙心寺の鐘ときき比べ 鳴鐘会(めいしょうえ)をするそうです。

九州国立博物館 | 催し物案内:「妙心寺鐘・観世音寺鐘」鳴鐘会(めいしょうえ) (kyuhaku.jp)

観世音寺の梵鐘 

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観世音寺は天智天皇が朝倉広庭宮で661年に亡くなった母親の斉明天皇も冥福を祈るために発願されたもので、80年後の746年に完成。九州の中心的なお寺でした。
鐘は日本最古の銅鐘で京都・妙心寺の梵鐘と兄弟鐘といわれています。
鐘の正確な鋳造年代はわかっていまないが、兄弟鐘の京都・妙心寺鐘が698年であることから、このころ鋳造された、考えられている。この梵鐘の撞き座の蓮華模様は蓮弁の表現、中房の周りの蕊の表現などが、田川市・天台寺跡(新羅系)軒瓦と酷似しており、両者の関係は古くから注目されていた。梵鐘の口縁部に線刻された「上三毛」も豊前国上三毛郡を示すと考えられている。
この地の朝鮮半島系の人々が観世音寺の梵鐘の鋳造に際して、工人としてかかわったことを示している。

『渡来系移民』岩波書店より
菅原道真が家の外に出られないのを嘆いて作った詩には「都府楼は纔かに瓦色を看る 観音寺は唯(ただ)鐘声を聴く」というのがあります

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遣唐使船の模型

 

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パキスタン クシャーン朝 2,31世紀 仏伝「結婚」 (個人蔵)

 

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中国 西安市 8世紀の仏像レリーフ  仏像にはいまだ関心がもてないのですが、これは好きでした。
どこかヨーロッパのロマネスク彫刻に通じるものを感じます。

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花鳥蒔絵螺鈿聖龕 16~17世紀

近世初期、西欧に輸出された教会祭儀用の漆器の一つ。聖画を納める厨子形式になり、器形はヨーロッパ人(イエズス会宣教師)の注文、技術は日本の蒔絵、螺鈿などの漆芸、意匠は和様折衷という特色をみせている。近世初期の日本と西欧の文化交流の象徴的な作品。南蛮漆芸の中でも最上等のもので、油彩の聖母子像はヨーロッパで制作されたものである。(解説より)

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ここれは時代が下って19世紀のものになりますが、フリーメーソン螺鈿箱 長崎製輸出漆器(長崎青貝細工)
上に「プロビデンスの目」がついてコンパスや定規など石工職人ギルドだったことの名残からくるシンボルもちゃんとつけられていて、驚きです。日本でこういうものが作られていたなんて。
 
私が今受講しているカルチャーの先生は「日本が鎖国をしていた、というのは間違い。窓口が幕府に一本化されていただけで、交流はあった」とおっしゃっていますが、春に見た朝鮮人街道のこととも思い合わせて頷けるものを感じました。

潜伏キリシタン関連として

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徳化窯 明~清時代17世紀、1856年の浦上三番崩れの没収品 (東博蔵)

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長崎奉行所が1669年に作らせたとされる真鍮製の20枚の内の一つ(東博蔵)

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ロザリオ 1867年の「浦上四番崩れ」の没収品(東博)

琉球王国のてわざ として模造復元品の展示がありました。私は「琉球紅型」の着物がみたかったのですが、その展示はありませんでした。

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聞得大君御殿雲龍黄金簪(きこえおおぎみうどぅんうんりゅうおうごんかんざし)

径が7,8㎝もある大きなものですが、中は空洞でごく薄いものなので軽いそうです。
かなり前にNHKで琉球王国が舞台の「テンペスト」というドラマがありました(仲間由紀恵が主演)。
これを見て以来、沖縄に行きたいと願っているのですがまだはたせていません。
そのドラマに聞得大君がでてきました。いじわるだったような、、、。 もう殆どおぼえていないのですけれど。

作品のいくつかは九博のホームページでご覧になれますので、このくらいにします。

外へ出て また 太鼓橋

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参道 

大宰府と言えば梅が枝餅、やはり買うことにしましょう。売っているお店はたくさんありますが、傘之家が有名店のようです。

あら、お隣はスタバです。 木材の積み重ね、隈研吾氏の設計ということがすぐ分かります。

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傘之家はこの向かい側にもあります。向かい側の方が行列が長かったです。

二個だけ買いました。今なら15:00発の大宰府ライナー旅人に乗れそう、となると急ぎたくなりました。あとから思うと飛行機は18:00ですから、それほど急ぐ必要はなかったのですけれどね。この辺のお店を覗くのだって楽しそうでしたから、残念なことをしました。

西鉄大宰府駅には15時10分前に着きました。
15時少し前にバスが2台来ました。座れそうでしたが、かなりの人が並んでいました。そのため臨時便をだしたようでした。

バスは渋滞が心配で、早い方がいいかと思ったのですが、係の人に聞くと「渋滞しても福岡まで40分くらいですよ」

この大宰府ライナーというのは福岡国際空港に停まって、国内空港にはとまらないのです。終点の博多ターミナルから地下鉄で空港に行くらしいのですが、国際空港と国内空港間のシャトルバスがあります。それに乗ることにして国際空港でおりました。
15:29国際ターミナル着 すぐ隣のバスストップに
シャトルバスが来ます。

15:30 シャトルバス到着 ピッタリのタイミングでした。この時間帯バスは15から20分間隔であるようでそれほど長く待つことはなさそうです。(でも利用なさる方はあらかじめお調べになってください)

無料です。でも座り心地は悪いです。空港内で移動するときに乗るあのバスですから、座席も少ないです。今回は乗る人も少ないので座れました。広い飛行場の中をぐるぐる回ります。ところどころゲートがしまっているところを開けながら。
15:45 国内線ターミナル着

福岡空港は広いです。カードで入れるラウンジに行きました(端の方で遠かったです)

長ーい待ち時間。17:00までそこですごして 

ここはチェックインカウンターが1階で保安検査が2階、迷ってぐるぐるまわって 搭乗、 

無事家に帰れました。 16927歩

九州はこれで四回目です。でも古代に目を向けたのは初めてでした。それぞれどこもお国自慢、郷土を誇りに思う気持ちはあると思うのですが、北九州は特に熱気を感じました。邪馬台国、やはり北九州かな?

このような充実した旅ができたのはkikuko様のブログを読ませていただいたからこそです。
心から感謝いたしております。

 福岡旅行 完

2021年12月 9日 (木)

福岡県へ 3日目-1 (大宰府政庁跡→坂本八幡宮→戒壇院→光明寺)

11月27日(土)

このホテルは無料の朝食サービスがあります。パン何種類かとコーヒー、ジュースなどの飲み物と卵くらいですが、これで済ませました。10数人はいらしたと思いますが、やはり単身者ばかりでした(苦笑)

西鉄福岡発の電車で太宰府に向かう予定です。
余裕をもってホテルを出たつもりなのに、時間を間違えたのか、大宰府の駅に着いたのは 9:10頃でした。
まず政庁跡に行くつもりですが、予定の9:04発のバスには乗れません。

太宰府駅 プラットホームも駅舎も てんまんぐう と言った感じです。

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駅名は 太宰府 です。中世以降の表記や地名は「太宰府」で古代この地に置かれた役所が「大宰府」だそうです。

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コインロッカーにキャリーをいれて、バス乗り場に行くと 9:30発の太宰府ライナーバス旅人という福岡行の長距離バスが政庁跡にも停まることが分かり、それに乗ると5分くらいで着きました。 

大宰府というと菅原道真ゆかりの天満宮を思い浮かべますが、元号が令和に変わった際、そのゆかりの地として大宰府政庁跡がクローズアップされました。旅人邸で催された「梅花の宴」で詠まれた32首の序文から「令和」がとられたからです。何もない野原がテレビに映っていましたが、それでも行ってみたいと先にこちらに行くことにしたのです。

お宮参りの習慣がない私にとって、天満宮より政庁跡の方に関心があります。

まずは大宰府展示館
大宰府政庁ができたのは718年と年譜にはありますが、別のいただいた資料には7世紀後半になっています。 
この地に7世紀後半から12世紀前半にかけて地方最大の役所「大宰府」が置かれ、西街道(九州一帯)の統治、対外交流の窓口、軍事防衛の拠点という重要な役割をになっていて、遠の朝廷(みかど)とも呼ばれていました。

建物の模型が置かれていました。三回建て替えられていますが、これは第三期(10世紀後半から11世紀中ごろ)の復元模型21120803

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あとで九州博物館でみた南門の模型

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奈良時代後半の石敷き溝が保存されていました。

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九州国立博物館「西都 太宰府」:西都史跡名所案内 (kyuhaku.jp)

政庁の建物の変遷などについては上記に詳しく説明されています。

楽しかったのは「梅花の宴」のジオラマと出されたお食事

大伴旅人は大宰府の長官である大宰帥として727年頃、赴任。旅人は 政治家としてだけでなく歌人としても才を発揮、彼の地でも文人と交わり、のちに「筑紫万葉歌壇」と呼ばれる万葉文化が大宰府の地に花咲きました。
730年1月 旅人は自身の邸宅に役人を招いて当時、中国から渡来した梅の花をテーマに歌を詠みました。これが「梅花の宴」です。

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梅花の歌三十二首 序文」にある
初春の月 気淑しく風ぐ。梅は鏡前の粉に披らき、蘭は珮後の香に薫る。
(しょしゅんのれいげつ きうるわしくかぜやわらぐ。うめはきょうぜんのこにひらき、らんははいごのかにかおる。)
から考えられた元号で「人々が美しく心を寄せ合う中で文化が生まれ育つ」という意味が込められているそうです。

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地元のものだけでなく、各地から納められた品々もならびました。手の込んだお料理、という感じではないですが豪勢なお膳です。
右の酒と酒肴盛り合わせが歌会の席にも置かれています。酒をくみかわしながら歌を詠みその後お食事に移ったようです。

展示品はさほど多くはありません。外に出て政庁跡をみることにしました。

俯瞰することはできないので上記ホームページからお写真を拝借 

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外に出るとお堀の向こうに政庁跡が広がっていました。

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向こうに見える歌碑は

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「あをによしならのみやこはさくはなのにおふがごとくいまさかりなり」小野老
小野老(おののおゆ)が728年太宰の少弐として着任した時の宴で詠んだ歌です。
この席には筑前の守 山上憶良もつらなっており
憶良は     今は罷らむ 子泣くらむ それその母も 我を待つらむそ
という歌を詠んでいます。二人とも梅花の宴のメンバーでもあります。
万葉集4500首の内約320首は筑紫で詠まれた歌だそうです。

展示館にはあと一人、見学の方がいらっしゃいましたが、この跡地は近所の公園のようで子供を遊ばせている家族連れがチラホラ。(今日は土曜日)

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非常に広いです。長閑できもちがいい!
丸い石が等間隔におかれているところは東脇殿の跡です。

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このあたりが正殿でしょうか?

振り返って

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中央の道の先、敷地が切れるところが南門跡のようです。

さて西側から敷地の外にでて奥に進みます。

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道の傍らは梅園、 

目的地は 坂本八幡宮 です。ゆっくり歩いても5分くらいの距離でした。

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古代には九州や大宰府を守護する四天王寺が、形を変えながら現在では坂本地区の鎮守としていきつづけています、と説明版にありました。

ここが大伴旅人の屋敷があった場所の候補地の一つですが、もう確定しているかのようにこの地の人は考えているようです。

令和の里 の旗が翻っています。

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碑も立てています。

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こちらは旅人の歌碑

ここでも熱烈なる郷土愛を感じました。

戻ります。

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これが展示館です。古代のロマンに充分ひたりました。次は観世音寺です。

バス通りを7,8分歩きます。

途中に

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大宰府学校院跡、というのがありました。官人を養成した学校でした。

バス停「観世音寺前」の前に

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おお、ここだ!とこの道を進みました。

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門前に立つには「不許葷酒肉入境内」の碑ですが折れて、並べてたてあります。お肉を食べたりお酒を飲んで入るな、ということでしょうね。

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戒壇院  僧侶となるため、受戒を行う場所。753年、鑑真がここで日本で初めて受戒を行いました。

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まさに鬼の顔をした瓦 これは櫓?鐘楼みたいですけれど、でも kikuko様のブログで拝見した鐘楼とは全く違います。
いぶかしみながら敷地内を見渡します。

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鑑真和尚の供養塔

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お庭もすてきです。

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格子の間にカメラのレンズを突っ込んで撮りました。

どう見まわしてもkikuko様のブログにでていた鐘楼がみつからないのです。変だ、変だと思いながらここをあとにしました。

実は実は大ミステーク!何度も戒壇院という表示をみながらも、ここが観世音寺と思い込んでいたのです。ここは戒壇院で観世音寺は門前をむかって右に進なければいけなかったことを、帰って先達のブログを読み直して知りました。
出かける前忙しくて再度の見直しを怠ったのです。残念、最近 明日香の旅を振り返って記録を書き、斉明天皇に思いをはせたのに、彼女をお祀りするお寺に行けなかったとは!!!それにしても不親切、観世音寺への矢印表示くらい出しておいてほしいものです。

ここに来る途中に大きく大宰府タクシーの表示があったのをスマホでとらえています。そこにお電話、光明禅寺まで行ってもらいました。運転手さんに「開いていないかもしれないけれど、とりあえずいきたい」と告げると「少し前まではいつも開いていたのですけれどね。〇国人が来て荒らしたので閉めてしまったのですよ」

光明禅寺

1273年 鉄牛円心が開山した臨済宗のお寺です。

本堂裏表には1957年に作庭家・重森三玲によって作庭されたお庭があることで知られています。(私が知ったのはKIKUKO様のブログによってですが)

なんと嬉しいことに開いていました。今日はご法事があったようで、それだからでしょうか。

道に向かって左が正門、本堂につながっているのか、そちらでご法事があったようです。もう一つの門から入れました。

表庭 七五三の15石を並べ光明寺の光という文字を抽象的にあらわしているそうです。仏光石庭 と名付けられています。 

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どう 七五三とみるのか分かりません。奥が三で、三尊石でしょうか?分からないながらも気に入りました。

広い畳の部屋が二間ありここと反対側、裏庭に 一滴海之庭 と呼ばれるお庭があります。

カメラいいのかしら?10人くらいの方がいらして皆さん一斉にパシャパシャ、それで私も撮りました。 

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写真より実際の方が紅葉の色彩が強くて、紅葉の時期でないときにこのお庭が観たいと思いました。
苔寺といわれるそうですが、苔にも白砂にも落ち葉が降り敷き、境がくっきりしていません。苔は大陸と島、白砂は水と大海を表現しているそうですが。

ご法事が終わったのか、喪服姿の方々が奥からでてこられ、幼稚園くらいの子供たちが走り回って叱られていました。落ち着いて座ってお庭を見る、という雰囲気ではありませんでしたが、めったにないチャンスに恵まれ、それなりに気持ちは高揚しました。

15分くらいで外に出ました。


 正門

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右の石碑には

石庭 苔苑 一滴海之庭 彫ってあります。
何人もの方が案内板は読んでいらっしゃるのですが、お入りになる方はあまりいません。やはり皆さん天満宮目当てにいらしてるからでしょうか。

左の石壁を折れて進むと天満宮の参道に出られます。このあとのことは次回に

2021年12月 7日 (火)

福岡県へ 2日目-3 (秋月市内観光続き→今村教会→久留米)

10月26日(金)

武家屋敷の久野邸に向かいます。畑の中の道、心配になりながらしばらく歩きました。10分くらい歩いたところでやっと案内板を見つけました。

久野邸(11:32~11:52)上級士族の屋敷
杉の馬場付近の士族の屋敷が平均400坪であったのにたいして622坪あることから格式が高いことが伺われます。

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入り口手前、二階建ては仲間部屋(久野家の奉公人が常駐した部屋。二階建ては珍しい)
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玄関を境に接客と日常の空間に分離しその奥に隠居部屋がつづいています。

入口の門は腕木門といって、身分の高さがうかがえるのだそうです。

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腕木門(支柱に穴をあけて腕木を刺し、その腕木に桁をのせてその桁と棟木を垂木で連結させるという構造をとる門)  

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観光客はこのお玄関からではなく矢印に従ってまわって、

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台所口から入ります。

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居間(茶の間)向会の間、客間、次の間が一直線に並んでいます。

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主なお部屋は8畳間であるせいか、広々とした感じがしました。

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分かりにくいですが、中央に池があります。

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山を借景としています。

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池泉回遊式の素晴らしい庭園です。

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離れ座敷(茶室)に通じる渡り廊下

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水屋もあります。

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離れ側からの眺めたお庭
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戻って まわっていくと

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冬は寒そうです。

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外に出ます。 

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 奥の白い建物は蔵、資料館になっています。撮影禁止なので遠くから

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お風呂場

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久野邸を出て、旧田代家住宅へ向かいます。
少し坂を上ります。折角坂道をのぼったのに、なんと修復中!入れるかどうか朝倉市の観光課にお電話はしたのですが、把握していなかったようです。10月18日~1月3日まで臨時休館の張り紙がありました。 

田代邸は月見坂にあります。右が田代邸

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瓦の前、厚みのところにかざりがあります。

月見坂 お城の後ろの山にかかる月はここからの眺めが最も美しいとされ、月見坂と言う名前がつきました。 

次は眼鏡橋を見に行きましょう。その前にこのあたり原古処の屋敷跡があるはずでは?
原古処も娘の猷(後に号を采蘋 としいった詩人)も『秋月記』に出てきます。

原先生古処山堂跡 薄れて読めませんが、これらしいです。

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敷地には現在喫茶店が建っていました。

眼鏡橋を目指して歩きます。ところが傍らに「西念寺」の標識を見て「ここに原古処のお墓があるはずだ、見てくる」と言い出しました。階段があるので私には「先に眼鏡橋にいってて」といいおいて階段を上って行ってしまいました。

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階段を上ってしばらくいってみたがみつからないので戻ってきて、眼鏡橋で合流。

私は先に眼鏡橋

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七代藩主が子のないまま亡くなった時、重臣たちは日向高鍋の秋月家から長舒をを八代藩主として迎え入れました。福岡藩は おりあらば秋月藩を吸収しようとしていたのにそれをさせなかったので認める替りに、金銭的負担の重い長崎警備をおしつけたのです。(『秋月記』は重臣がいかにして藩の独立を保つかに腐心、泥をかぶってまでも藩の存続させようと努力した重臣や藩主を諫めて藩の財政を救おうとして汚名を着た人物の話でした)

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町人の家が建ち並らぶ秋月街道 奥の白い家は石田家住宅。

葛屋 廣久葛本舗 十代高木久助

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長舒は殖産興業にも力をいれました。その一つに葛の生産もあげられます。久助も『秋月記』の登場人物です。
ここで葛をいただこうかと思ったのですが、かなりの待ちになりそうで、ほかを探すことにしました。少し杉の馬場方向に もどってお蕎麦や蒸し雑煮を出すお店があったので入りました。二人ほど待っていましたが。順番がきてカウンタ―に座って、聞くと蒸すのに15分かかるというので、普通のおうどんにしました。(この時 既に13:00過ぎ、12:02のバスに乗る予定です。)
先に食べ終わった主人が宿までキャリーを取りに行きました。少し坂をあがることになり、往復20分くらいの距離です。私にはちょっと厳しい。(依存度が高くなって一人旅ができなくなるな、と心配になります)

私は葛屋さんにもどってお買い物。

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これは賞味期限翌日まで、家に帰ってすぐ頂きました おいしかったです。きっと当日ならもっとやわらかかったのかもしれません。

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こちらはまだ作っていません。

レジの行列に並んでいるうちに主人もやってきました。

それで眼鏡橋のところのバス停から乗ることにしました。ここは14:03発 5分ほど遅れてやってきたバスに乗りました。

秋月、すてきな町でした。小石原川沿いにバスは走ります。

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甘木駅
私は気がつかなかったのですが、主人が面白い写真を撮っていました。

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なんと「日本発祥の地 卑弥呼の里 あまぎ」!!と彫られています。

邪馬台国北九州説もかなり有力とはいえ候補地は久留米から西に15キロほど行った佐賀県の吉野ケ里遺跡です。
甘木が候補地とは知りませんでした。
甘木駅から南に3,4キロいったところに平塚川添遺跡という、弥生時代から古墳時代にかけての多重環濠集落遺跡があり、そこを邪馬台国とみているのです。

古くは神功皇后が新羅と闘う前に駐屯した場所にたつ神社があるとか。神功皇后自体、実在したかどうか疑わしいですが。

これは確かですが、斉明天皇が百済復興戦争のとき、軍を進めて朝倉橘広庭宮に居を定め、この地で亡くなっています。

この宮の所在地は特定されていないのですが、朝倉では朝倉インター近くに広庭公園があり(を造り)そこに「橘廣宮之蹟」の碑を建てています。(神功皇后を斉明天皇と同一視する見方もあるようです) 

「いわいの郷」でも感じましたが、自分たちの住む町に対する気持ちの強さに感服です。

この甘木駅でタクシーをひろいました。ここから今村天主堂に行く公共交通機関はないのです。教会で15分くらい待っていてもらい西鉄甘木の大堰駅まで送ってもらう予定です。

今村天主堂は明治から大正・昭和にかけて教会建築家として活躍した鉄川与助氏の作品です。これまで、長崎旅行、五島列島旅行でいくつか氏の作品をみてきて何時か今村にも、という思いをいだいていました。 
ところが調べてみると現在、今村天守堂は耐震工事のため内覧中止となっています。もともと軟弱地盤のため、建てるのも苦労だったようですが、もう限界に達したのでしょう。既にミサも中止になっています。外観だけでもと思い、行くことにしたのです。

今村天主堂
この地方にキリスト教信仰が芽生えたのはいつごろか定かではないが、1560年代には筑後地方での代表的なキリシタン集団が生まれたと伝えられる。1587年の豊臣秀吉によるキリシタン禁令、1614年発布の徳川家康による全国的なキリシタン禁止令に基く弾圧の嵐は、1630年代、特に1638年の「島原の乱」が終わった年からこの地方にも吹き荒れた。しかし、多くの信者が隠れて信仰を守った1867年浦上の信徒により今村の潜伏信徒が発見され、浦上の信徒と交流を保ちながら信仰を守り通した。
キリスト教が解禁されたのは1873年。
1881年 信徒たちが敬愛した殉教者ジョアン又右衛門があったこの地に最初の木造教会が建てられた。
二つの塔を持つロマネスク風様式赤煉瓦造りの現教会は1908年に本田神父により計画され、諸外国、とくにドイツからの寄付、信徒たちの勤労奉仕により1913年に完成した。設計・施工は鉄川与助である。(いただいたパンフレットより)

この地へのキリスト教普及を物語にした作品が帚木蓬生の『守教』です。これについては今年1月に感想文めいたことを本ブログに綴りました。ここでは殉教者は庄屋の道蔵になっています。
200年、約200戸の潜伏キリシタンが外部と遮断されたまま信仰を守りとおしたことのすごさ、又土地の人もうすうす感じとってはいたでしょうに、口外しなかった、これもすごいことだと思います。幕末に知られることになったのは旅の雲水によるかもしれないことが『守教』には示唆されていました。 

着くと、小さな小屋のようなものが敷地内にありました。受付です。なんと入れそうです。
男性が「どうぞ」と案内してくださいました。靴を脱いで入ります。ロープが渡されていて前方へは進めません。撮影禁止です。『守教』を思い出してか気持ちがひきしまります。しばらく無言でみつめました。
 
鉄川作品は、外観はどれも違うのですが、内部は似通っています。下はいただいたパンフレットの写真です。

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あの正面の祭壇の下にジョアン又右衛門の墓があるそうです。今回の耐震補強工事ではその墓も開けることになっていて、実際にそうだったのかが分かるそうです。

来年3月に工事が始まると、8年間はもう全く立ち入り禁止になります。ギリギリまにあったようです。ここは平地で階段や坂をあがらなくてすむのですが、平地であるだけに地盤も弱いようです。ご覧になりたい方はお早めに。

感動で立ち尽くしていましたが、長くなってはご迷惑なので外に出ることにしました。外観写真を撮りましょう。

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強い日差しと影でうまく撮れませんでした。ドイツからの寄付とありましたが、ドイツのヴォルムス大聖堂に少し似ています。↓ ヴォルムス大聖堂 こちらは多塔式ですが。前面が似ています。

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車いす用でしょうか、スロープがありました。

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本田神父像 本田神父様は浦上四番崩れの際、高知に送られ苦しい体験をされた方です。

お礼に少し寄付をしてタクシーで大堰駅までおくってもらって、西鉄甘木線に乗りました。

15:32発 この線は単線です。時々、対向列車待ち合わせで停まります。久留米駅 16:08着
久留米では聖マリア病院にある雪の聖母教会にも行きたいと思っていましたが、まずはホテルに。

久留米に着くと、冷たい風がふいて寒いこと。久留米は便宜上停まるだけです。旅の便利からすると駅に近いところが条件。そうなるとビジネスホテルしかありません。その趣旨からいってビジネスホテルはシングルルームがほとんど。ツインのお部屋があるのは?そういうわけで駅から5分ほどのワシントンホテルプラザです。
でも必要なものはちゃんとそろっていました。スリッパはないだろうとタオル地スリッパを持参しましたが、ちゃんとありました。

さて、雪の聖母教会、ホテルから約1.5 km、歩けば20分、車なら5分です。一応病院にお電話してみましたが「この電話は現在つかわれておりません」とりあえず行って外観だけでも、という気持ちもありましたが、寒いのと今村教会で満足できたので、やめました。

ホテルにレストランはありません。下調べをしてお鮨屋さんに予約をいれてあります。

予約は18:00です。17:40頃ホテルをでました。幸い風はやんでさほど寒くはありません。
7,8分でつきました。 広又 甚六 というお店です。
カウンターに座りました。この店、当たり!でした。とってもおいしかったのです。こんな美味しい御鮨をいただいたのは初めてです。まあ、これまでデパートの御鮨やさんしか入ったことがなかったので当然かもしれませんが。
最初の鯛、塩であじがつけてあるのでお醤油はつけないで、と言われました。お塩の味がして、おいしいのです。次も味がついていました。ネタが新鮮なのは当然ですが、味付けも工夫されているのです。ただわさびとお魚の一切れがのっている、なんていうのではないのです。勿論お醤油をつけていただくのもありました。あのオオトロのおいしかったこと。佐賀のミズ烏賊、私は烏賊が好きではなく、いつも主人にまわすのですが、これはおいしかったのです。小食だと最初に言ってありますから、シャリは少な目、次々美味しくいただき至福の時を過ごしました。
雲丹もおいしかったのですが、温暖化で味がすっかりおちたそうです。

ご主人も気持ちのいい方でお酒も進みました(私ではありません)。久留米って久留米絣が特産というくらいしか知りませんでしたが、いい町!(久留米絣は今は殆ど作っていないそうで、作っているのは「いわいの郷」のある福島くらいだそうです)
19:10過ぎ ホテルに戻りました。お風呂に入り、いつも見ているドラマを見てやすみました。 
 

  (13366歩)

2021年12月 5日 (日)

福岡県へ 2日目ー2(秋月市内観光)

素敵なお宿、チェックアウトをするのが残念でした。

ノンビリしているうちに10:00近くなってしまいました。

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朝食前、私を探して主人は日限地蔵院へ行ったそうです。

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9:50 秋月散策開始です。

ところでで秋月という町は?

大蔵姓秋月氏の祖とされる種雄は1203年に鎌倉幕府より秋月庄を賜り、その地名にちなんで秋月姓としその後400年近く秋月の古処山城を本城として朝倉地方を領有していました。
(秋月博物館で頂いたチラシによると、後漢霊帝の子孫、とありました)
最も勢力を広げ、筑前制覇に近付いたのが第16代当主秋月種実、しかし全国統一をめざす織田信長の命をうけ、秀吉がやって来ます。岩石城の落城により降伏。名器である茶入れ「楢柴肩衝」を献上、秋月家の存続は許されたのですが日向高鍋に減移封されました。
その後小早川隆景の時代を経て(1587年には黒田長政、長政の叔父、直之は受洗している)黒田長政が1600年に入国すると、叔父の直之(官兵衛の弟)は秋月に1万2千石を与えられました。
1623年初代福岡藩主黒田長政の遺言により、長政三男黒田長興に秋月周辺の五万石が分与され、支藩秋月藩が誕生します。
江戸時代後期、7代藩主の死後、当時の日向高鍋藩主の次男幸三郎が跡を継ぎます。
幸三郎は黒田家の血も受け継いでいました。この人物が秋月藩中興の祖と言われる黒田長舒(1765~1807)です。

この藩主の時代に眼鏡橋が造られました。緒方春朔や儒学者・原古処がいた時代で、これらを扱っているのが葉室麟の『秋月記』です。

話が前後しますが、
1570年、秋月で種実に修道士ルイス・デ・アルメイダは会い、説教をすることを許されます。10日間の滞在で24名が受洗、其の後も洗礼を受ける人が続き、秋月氏の領内には1581年には700人のキリシタンが、翌年には860人に信者がふえていたそうです。教会も秋月には建てられましたが、場所がどこかは特定できていません。
秋月におけるキリスト教布教については帚木蓬生の『守教』に詳しく作品化されています。
このキリシタン関係の品々が秋月博物館にある、ということをkikuko様が書いていらしたので是非とも博物館で確認したい、と言うのがこの町に来た理由の一つです。

街全体が国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されています。

城下町として栄え歴史的建造物の残る秋月は筑前の小京都とも呼ばれています。

めざすは博物館です。
途中にあるはずの
古心寺は黒田藩の菩提寺ですが、行き方が分からず通り過ぎ横の浄覚寺を眺めて進みます。

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この通りは全くひとけがありません。国道322(秋月街道)にぶつかります。秋月のメインストリートでバス道です。

左折し秋月街道をバス一停留所分進んで右折 杉の馬場に入ります。

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種痘と言うとジェンナーを思い浮かべますが、ジェンナーより6年早く藩医、緒方春朔が発明したのです。

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この橋を渡ると 杉の馬場

昔このあたりに大きな杉の木があったことにちなむ名。ここは藩主の御成り道であり、両側には土塀を巡らした武家屋敷が建ち並んでいたそうです。

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秋月の町は武家ゾーンと町人ゾーンがわかれていて、黒い線で示した右側がおおよそ武家ゾーンです。(旧田代家住宅のあたりはいい加減です。また武家ゾーンが右半分全てというわけでもありません。)このように分かれていた、ということを簡単に示しただけです。

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橋をわたってすぐ右手、上写真の白い建物は 秋月美術館
その向かいには秋月博物館
藩校であった稽古館跡に建てられています。

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秋月博物館 
丁度 秋月種実展をやっていました。しかし、甲冑や刀などの展示には目もくれず、キリシタン関連の展示物を探しました。 

ありました!切支丹灯篭、織部灯籠ともいわれるそうです。(↓ホームぺージから)

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竿上部の丸く膨らむ形状は十字架、中央部のローマ字様の意匠はラテン語pater(父)またはfilus(子)を、下部の人物像はイエス・キリストや修道士を意匠化したものではないかとする。出土したとされる場所は「興膳屋敷」と伝承が残り、戦国末期~江戸初期、キリシタン商人として名高い米次(コスメ)興膳の屋敷地である。
と説明版にありました。曼殊院でもキリシタン灯籠をみましたが、こちらの方がキリシタンらしく見えます。曼殊院も傘がまるみをおびているのは同じです。
コスメ興膳は『守教』でおなじみで、おお、と思いました。。

実はこの灯籠ともう一枚写真は撮りました。そばに写真禁止のサインはありませんでしたから。でも撮ってから心配になって主人に受付にききにいってもらいました。やはりだめでしたが、、、。絵葉書もないようです。図録もないのですが、かわりに秋月についての説明がある本をすすめられて購入。それに写真はでているのですが、不許複製と書かれています。それで悪いのは承知の上一枚だけ載せてしまいます。いわいの郷でも翌日行く九州国立博物館でも写真OKだったのに、解せないからです。

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他はザザーッとみて、外に出ました。 

お隣の奥まったところは秋月藩上級藩士、戸波半九郎屋敷跡です。塀があるので塀越しに見るだけです。私はこの程度の坂でもつらいのでサボりました。この町はあらゆるところ、きれいな水が流れています。

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主人が撮った写真です。

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さらに杉の馬場を進みます。

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瓦坂です。土砂の流失をふせぐためらしいです。

さらに進むと 
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長屋門 
江戸時代に建造され、建てられた当初の位置に残る唯一の史跡。正しくは内馬場裏御門。かつては側室や家族の住むひと構えの屋敷(奥御殿)があり、この門はその通用門でした。

このあたりになるとぐっと人が多くなってきました。少し進むと

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階段を上がると黒門があります。


黒門 秋月城の大手門として、城の前面掘割にある瓦坂の奥、右側にたっていたものです。明治13年、秋月黒田藩藩祖である黒田長興公を祀る垂裕神社の参道に移築されています。

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門をくぐって振り返る。ここが一番の紅葉の名所です。

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もう少し階段を上がりました。

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しかし、さらに階段は続きます。上がっている方の中に四つん這いになって上がっていらっしゃる方が見えたので私はやめてここで待ちました。

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垂裕神社です。

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長興没後200年を記念して長興を祭神とする神社創設を目指し、1859年、京都の吉田家より神号「垂裕明神」を賜り、1864年秋月城内の梅園御殿に勧請、明治8年、現在の神社が落成しました。

おりてきたところでそのまま横に回ると

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あの急な階段ではなくこちらをまわっておりてくることもできたようです。

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さて、次は武家屋敷を見に行きます。写真が多くなってきたので今回はここまでにします。

 

2021年12月 3日 (金)

福岡県へ 2日目ー1(秋月観光)

11月26日(金)

6:00起床
7:15~7:45 散策 

お部屋の横の渓流が気になります。

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玄関の横を少し降りてみました。石伝いに行けそうです。苔で滑ると、大変。しばらく躊躇、意を決して足を踏み出しました。

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渡って回り込んで振り返った所。右が私たちのお部屋の広縁部分です。

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ここが旅館の敷地内とは信じられないですよね。石段をあがり

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細い道を通り、

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上の写真を撮った時から↓の写真を撮った時まで5分かかっています。まるで岩登りで(ちょっとオーバ-ですが)危なくて写真をとる余裕がありませんでした。でも一応「散策路」の表示はあったのです。

先がどうなるか心配で怖くてどうしようかとおもったのですが、引き返すのはもっと大変(上りより下りの方が怖い)ともかくひたすら進みました。

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上りの最後が行き止まり、で少し戻ったところにこの上り口があり、やっと平らなところに出ました。

あとでわかったのですが、ここは大広間から見えるお庭でした。三階分を15分かけて登ってきたことになります。他の人ならこの半分の時間で上がってこられたかもしれませんが。主人はあとから行くと言ったので、私が先に部屋を出たのですが、まさか岩伝いに上まで行くとはおもっていなかったそうで、あとで別のところで出会いました。

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矢張りこのカメラだめです。明るいと色が飛びます。スマホを持ってくるべきでした。

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池の向こうが大広間です。

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敷地内に稲荷神社がありました。このあたりで下から上がってきた主人に出会いました。広くて緩やかな階段坂があるのです。

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少し下がったところに小さな池がありました。

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また、滝です。まさにここは清流庵!

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このままおりて門のところへ。そこで、ここの夜警をしている、という男性と少しおしゃべり。今年は暖かかったので紅葉がきれいでないそうです。紅葉しないまま茶色くなって落ちてしまう葉が多いとか。いつもだともっと全体が真っ赤だそうです。今回の旅行で一番紅葉が見事だったのはこの旅館だったのに。

そろそろ時間なので朝食をとりに行きました。

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ごはんはそれぞれお釜のままでてきました。サラダも新鮮でおいしかったです。
ここから下の写真は主人が自分のスマホで撮った写真です。色
味が違います。

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大広間から

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池床(鯉の餌やり台)から

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お部屋に戻って一休みしてキャリーをフロントに預けて街の観光にでかけたのですが、それは次回に

2021年12月 2日 (木)

福岡県へ 1日目ー2(宿)

10月25日(木)続き

今日の宿は 秋月 清流庵です。甘木ならホテルはありますが秋月にはこの旅館以外ありません。
客室は全6室で各室温泉付き。料亭旅館と銘打っていますから、お料理も期待できそうで選びました。
結論から言いますと、実際のお料理よりさらに景色が御馳走、と言いたいほど敷地の様子が素晴らしいのです。

タクシーが着くと、すぐお出迎え(↓の写真は翌朝撮ったものできれいにお掃除されていますが、着いたときは紅葉が散り敷いていました。)

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門を入って、あの階段ではなくすぐ左に折れます。

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フロント棟です。

ここで蜂蜜レモンならぬ蜂蜜柚ドリンクが供されました。ここでとれた柚だそうです。暖かく甘さも程よく酸っぱ過ぎず美味しい飲み物でした。

飲み終わるとお部屋に案内されます。

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お部屋は「あやめ」を予約してあります。お部屋の写真を見て決めて、その時は知りませんでしたが、1階はこのお部屋だけです。足元が心配な方はこのお部屋でないと大変かもしれません。

池を回っていきます。 

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この階段を上るお部屋ではありません。向こうに見える建物がフロント棟です。

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玄関付きのお部屋です。これは一度お部屋に入った後(一時間ほど経ってから)撮りました。左手の灯りが付いているところがお風呂場です。

玄関の間は畳敷きでそのまま廊下のようになっています。そうしてお部屋の戸を開けると、アッと思わず歓声をあげてしまいました。

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写真では(多分お部屋の灯りのせいだと思うのですが)紅葉がさえませんが、実際の光景は紅葉の赤がパっと飛び込んできて、とてもきれいだったのです。

あの広縁の所から見ると。 この景色が目に飛び込んできたのです。

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お部屋のご案内を、とお風呂場や洗面所、それとお食事会場である大広間への行き方を教えていただきました。大広間へは階段をかなり上がるので主人だけが行きました。「大変でしたらお食事はお部屋におはこびします」といわれましたが、館内を見たいですから、行くことにしました。 

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縞翡翠風呂、温泉なのでお湯が絶えず流れています。浅そうにみえますが、普通の深さでした。

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 案内された後「すぐお茶を持ってまいりますから」

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お薄に栗入りチョコケーキ?女将考案のお豆腐を使ったチョコレートケーキでした。しっとりとして美味しかったです。お薄にもあっていました。

夕食は18時にお願いしました。時間に余裕があるので 主人はお風呂に入りました。 

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右手の窓から外を見たところ。

その間、少し暗くなりましたが外に出て探検。

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左が私たちのお部屋です。渓流独り占めです。橋から見ています。(Photoshopで明るくしました。実際はもっと真っ暗でした。)

18時10分くらい前になると、お電話「後5分くらいしたらお迎えに上がります」なんとご丁寧な。

途中廊下もありましたが、合計普通の家なら2階半くらい絨毯敷きの階段を上がりました。

大広間、今日は三組のようです。広いお部屋を衝立で仕切ってありました。

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人物を消したので 左側おかしくなっています。

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 先付け 川茸のジュレ、雲丹、カリフラワーのクーリー
川茸とは 朝倉市の黄金川にのみ自生する海苔。

 

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前菜 鹿のたたき ふろ吹き大根 小松菜のお浸し 生湯葉 木ノ子の南蛮漬け

ビールの後、お酒は
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吸い物 彩り紅葉 人参と生麩で紅葉を表しています

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お造り

 

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凌ぎ 帆立と鹿児島牛炙りのてまり寿司

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煮物 炊き合わせ

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焼き物 甘鯛の幽庵焼き

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揚物 鮑と蟹と帆立のクリームコロッケ 古処鶏と自家製おから巻き上げ

  
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替え鉢 九州和牛のしゃぶしゃぶ食べ比べ
柔らかくておいしかったのですが、私は既におなかがいっぱい。かなり手伝ってもらいました。

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お米は夢つくし、おいしかったです。

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お腹がいっぱいなのに、モンブラン、お菓子は別腹とはいいますが、さすがに完食はむずかしかったです。

ゆっくりお食事を楽しんで20時少し前にお部屋に戻りました。
既にお布団が敷かれていました。

暫く休んでからお風呂に、優しいお湯でした。

 9655歩

  

福岡県へ 1日目-1(岩戸山古墳)

11月25日(木)

今回の旅行地域

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ホテルを出て天空橋駅へ 6:58発7:03空港第1・2ターミナル駅着
空弁で今半のカツサンドを買いました。旅行者が多くて保安検査の列が長く、14番乗り場も遠くて、すぐ搭乗開始。満席です! 

8:00発 サンドイッチは機内で食べましたが、三分の一しか食べられなかったのでそのまま持っていくことにしました。

9:55福岡空港着 順路に従って出ると高速バス乗り場はすぐでした。久留米行のバスは1時間ごとです。 

10:27発のバスに余裕で乗れました。11:20西鉄久留米駅着の予定が少し遅れて28分頃着きました。

すぐに岩戸山古墳に向かう予定です。

八女行きのバスに乗ります。下調べでは高速バスの停留所のすぐ横のはずです。最初は気がつかなかったのですが、床に大きく行先表示がありました。
11:48分頃乗車  12:20頃福島高校前着 
道路を渡って坂道を上がって行きます。

いわいの郷(さと)八女市岩戸山歴史文化交流館 (12:28~14:05)

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お天気が悪そうに見えますが、大丈夫でした。三日間とも晴天に恵まれました。

入ってすぐ受付はありますが、入場無料です。写真もOK。ロッカーはありますが、カートは大きくて入らなかったので受付で預かっていただきました。

すぐ常設展示室へ

ビデオで説明がされています。

岩戸山古墳は筑紫君磐井の墳墓です。
筑紫君磐井とは?私はこの人物を知ったのはkikuko様の記事からでした。詳しく知りたいとカルチャーの講座で「磐井の乱」についてのお話も聞きました。
資料も少なく見方も学者によって違うようですが、朝日新聞社の「週刊日本の歴史、ヤマト王権誕生の実態」「歴史道 古代史の謎をときあかす」と 岩波書店『シリーズ古代史をひらく 渡来系移民』それにカルチャー講座のレジュメなどを参考にしながら簡単にまとめたつもりです。理解不十分でおかしなところがあるかもしれません。

筑紫磐井(?~528年?)と言う人物は本拠地を現在の久留米市、八女市、筑後市、みやま市とし北九州を支配する豪族の首長でした。
邪馬台国がこのあたりだったという説をとる人は磐井をその政治的末裔と考えているようです。
石人山古墳(ここから西に約5㎞)が磐井の祖父の墓ともくされていることから彼の一族がここを支配するようになったのは5世紀初頭と考えられています。

邪馬台国北部九州説もあるように、北部九州は対外交通の拠点で大陸文化の窓口として古くから栄えていました。
この頃は倭王権による一元的な外交関係を確立できていたわけではなく、列島の諸勢力がそれぞれ独自の外交と交易をおこなっていたのです。

磐井一族は新羅と外交関係を樹立していました。博多湾や唐津湾経由ではなく、筑後川から有明海に出て大海を渡っていました。

一方、倭国は鉄を生産する技術を持たなかったので朝鮮半島南部の伽耶地域(特に南部の金官国は鉄の供給の中心地)と関わりをもつようになっていました。
4,5世紀中国が五胡十六国の乱世へと突入すると、朝鮮北部の高句麗が勢力拡大をねらって南下。新羅は高句麗に従属して生きていく政策をとったのですが、百済は抵抗。百済は伽耶南部と友好関係を結びます。
倭国としては、高句麗と闘う百済に援軍を送る見返りに技術者や鉄素材を入手するという政策をとりました。(朝鮮半島からの鉄素材の依存は、百済が滅びる7世紀中葉まで続いたようです)

新羅と外交関係を樹立している磐井とは真っ向から対立することになるのです。

そういう背景のなか527年(?)磐井の乱といわれるものがおこるのです。
ただ、磐井は若年時、靫負の大伴として大王の身辺を警護していたことがあったといわれ、後に起こる乱にかかわりのある人物(近江毛野)とは旧知の間柄であったとも思われています。
そのためか、この乱は倭王権の一翼をになっていた地方勢力と倭王権中枢部との間に起こった、対半島外交の路線を巡る衝突だったといわれています。

継体21年(527年)倭国は近江毛野率いる対新羅軍6万を派遣しようとしたのですが、これを筑紫磐井が妨害したのです。
実際は軍事行動を起こしたのではなく、毛野が筑紫において兵を徴発しようとしたのを磐井が拒んだ、というのが実態らしいです。
然し勢力を拡大していく磐井に対して大王継体は倭王権の存在があやうくなるとみて528?年、物部麁鹿火を将軍にして磐井征伐に乗り出し、11月筑紫国御井郡(今の久留米あたり)で磐井はきられます。
敗因に、磐井側は火の国(熊本県)豊の国(大分県)と連合して戦ったのですが、その結束力が弱かったことが挙げられています。
磐井の息子葛子は糟屋屯倉(福岡市近く)を献上して死罪を逃れ、其の後も一族は筑後国一帯を治めていきます。乱後も一族の古墳はつくられ、日本書紀 天智10年( 671年)の条に筑紫君薩野馬の名称をみることができることから、乱の150年後でも筑紫一族は影響力を行使続けていたことがうかがわれます。

古事記や日本書紀では磐井は「天皇の命に従わない悪者」扱いですが、地元の人はそう思いたくはないようです。この交流館も磐井を郷土の英雄としてみています
九州の豪族たちは朝鮮半島への進出を目指すヤマト王権から、人や船や食料を提供させられ不満がたかまっていました。軍事・外交・内政すべてに自立し財力を持つ磐井は火の国、豊の国と力を合わせて立ち上がった郷土の英雄だと考えています。

これはもう少し後の白村江の戦いの時ですが、百済復興戦争は必ずしも無謀な戦争ではなかったし勝敗を全く度外視したわけでもなかったが、なおかつ負けてもかまわない、戦争を起こすこと自体が目的だった。それは国内的要因だった。中央集権国家を目指す中大兄と鎌足にとって邪魔な存在は豪族層。その豪族層の勢力をそぐ、戦死させれば障碍が取り除ける、というものであり、その目的は果たせた。(『はじめての古代史』倉本一宏著より)
なるほど、と思った次第です。

この磐井の墓が岩戸山古墳です。

古墳を見に行く前に展示をみることにしました。
八女丘陵には八女古墳群と総称される5~6世紀に築造された前方後円墳や円墳など約300基近くが群集しています。これらからの発掘品が多く展示されていました。カメラOKでした。

先ず入って目につくのは
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武装石人です。鶴見山古墳

その後ろには、分かりにくいですが馬の胴の部分です。

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石馬 伝 岩戸山古墳 6C 馬鐸、鐙、手綱、鞍、杏葉 などが浮き彫りされています。   

古墳の周りには埴輪を並べるのが一般的ですが、筑紫一族の古墳には地元の石で作った石の彫刻が並んでいました。

ヤマト王権とは異なるのだ、ということを表現したくて、あえて埴輪ではなく石人、石馬を置いたのだと言われています。磐井の乱の後、ヤマトから来た兵は殆どの石人、石馬の手足を打ち落としました。

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靫(ゆぎ)を負う石人 岩戸山古墳の後円部頂部から出土

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石盾 岩戸山古墳 古墳時代・6世紀

石人・石馬類/八女市ホームページ (city.yame.fukuoka.jp)

石人、石馬が全てここに出ています。

埴輪もありました。

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古墳時代から6世紀頃のもので 高さが70㎝くらいでした。立山山古墳など八女古墳群のものです。

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副葬品として武具などもありました。

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特に目をいるのは金製品。磐井と関係の深い新羅は金の装飾品で有名です。これらの耳飾りは磐井と朝鮮半島との緊密な関係をうかがわせるものです。

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なかなか楽しい展示でいつまでも見ていたかったのですが、主人にうながされて古墳を見るため外に出ました。

↓グーグルマップから
交流館から緑の芝生に出て木立を回り込んで少し上がって行くと下中央の四角い緑の所に出ます。
ここは別区とよばれるところです。

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 木立の向こうに何か見えています。別区には石人のレプリカが置かれています。

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ここが別区です。一辺43mの正方形で岩戸山だけにある全国でも珍しいものです。ここは政治の場で、解部と呼ばれる裁判官が、偸人(盗人)が猪を盗んだ罪を裁いた、と言う記事が筑後国風土記にでているそうです。(磐井は裁判権も持っていた、と言うことになります)

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向こうのこんもり樹々が生い茂っているところが古墳本体です。(後円部になります)

岩戸山古墳
北九州最大規模の前方後円墳です。
墳丘長135m、別区を加えると170mにもなり、これは継体の真陵とされる今城塚古墳の190mに近い規模です。

ここでどんぐりを拾っていらっしゃった地元の方がそこを回っていくと階段があって古墳の上までのぼれることを教えてくださいました。それで時計回りに回っていきました。
カルチャ―の先生は「上に行くと神社があります。古墳の上というのは大体神社になっています。」とおっしゃっていました。それを確かめにいきたいのです。

↓溝が掘られたようになっています。環濠?

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ここかな?そこにいらした方にお聞きすると上がり口はまだ先、私の方をみて「階段上の方は急ですよ。奥さん大丈夫かな?」

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さらに回り込んでいくと

ここでした。

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上から見下ろすとこんな感じです。少し息が切れましたが、大丈夫でした。

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矢張り神社はありました。

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この小さなお社は前方後円墳の「方」の部分にあります。

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「円」の方にむかう道です。幅が少し狭くなっています。

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実を言いますと、私は疲れてこの階段をあがる気力がありませんでした。先がみえなかったのです。ここで待っていました。
↓主人が撮ってきた写真です。

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もとは神社はこの「円」の部分にあったようです。

満足してゆっくりおりてそのまま時計回りを続けると展示館から上がってきた場所に出ました。

八女古墳群、そしてほかにも近くに古墳はたくさんあるのですが、なかには絵がかかれているものもあるそうで、もう一泊してそれらを見て回ると面白いのに、と思いました。古代史ってロマンがあっていいですね。日本と半島との交渉ももっとしりたいとカルチャーの関連講座をさがして申し込みました。
ここにきて大正解!

疲れておなかも空いてきました。どこかで朝の残りのサンドイッチを食べましょう。展示館の方に戻ると出てきたところの横がウッドデッキになっていてベンチが置いてあります。その前に水道もありました。手を洗って、お昼にしました。幸い暖かくて、紅葉を眺めながらのひと時気持ちがよかったです。

ここを出てバス停へ、見るとどれもJR久留米行です。14:13がありますがいってしまったかな?とりあえずJRの駅へいってそこから西鉄久留米へ行く手立てを考えましょう。
遅れたのか14:19にバスは来ましたが、みると西鉄の駅を経由することになっていてほっとしました。

14:48頃 西鉄久留米駅到着

15:08 西鉄甘木線甘木行乗車

15:50 甘木駅着

天城駅は二箇所あり、もう一つの甘木線甘木駅の方がメインでバスの始発駅もそちらにあります。徒歩3,4分の距離です。

秋月行のバスが出るまで30分あります。急に風がでて寒くなったので、タクシーで行くことにしました。(タクシー代は 2500円でした)

車は小石原川沿いに走りだんだん山が迫ってきて素敵です。秋月の町に対する期待が高まります。

16:17 今日の宿 清流庵 到着です。  

宿のこと夕食のことは次回に。

 

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