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2021年12月 9日 (木)

福岡県へ 3日目-1 (大宰府政庁跡→坂本八幡宮→戒壇院→光明寺)

11月27日(土)

このホテルは無料の朝食サービスがあります。パン何種類かとコーヒー、ジュースなどの飲み物と卵くらいですが、これで済ませました。10数人はいらしたと思いますが、やはり単身者ばかりでした(苦笑)

西鉄福岡発の電車で太宰府に向かう予定です。
余裕をもってホテルを出たつもりなのに、時間を間違えたのか、大宰府の駅に着いたのは 9:10頃でした。
まず政庁跡に行くつもりですが、予定の9:04発のバスには乗れません。

太宰府駅 プラットホームも駅舎も てんまんぐう と言った感じです。

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駅名は 太宰府 です。中世以降の表記や地名は「太宰府」で古代この地に置かれた役所が「大宰府」だそうです。

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コインロッカーにキャリーをいれて、バス乗り場に行くと 9:30発の太宰府ライナーバス旅人という福岡行の長距離バスが政庁跡にも停まることが分かり、それに乗ると5分くらいで着きました。 

大宰府というと菅原道真ゆかりの天満宮を思い浮かべますが、元号が令和に変わった際、そのゆかりの地として大宰府政庁跡がクローズアップされました。旅人邸で催された「梅花の宴」で詠まれた32首の序文から「令和」がとられたからです。何もない野原がテレビに映っていましたが、それでも行ってみたいと先にこちらに行くことにしたのです。

お宮参りの習慣がない私にとって、天満宮より政庁跡の方に関心があります。

まずは大宰府展示館
大宰府政庁ができたのは718年と年譜にはありますが、別のいただいた資料には7世紀後半になっています。 
この地に7世紀後半から12世紀前半にかけて地方最大の役所「大宰府」が置かれ、西街道(九州一帯)の統治、対外交流の窓口、軍事防衛の拠点という重要な役割をになっていて、遠の朝廷(みかど)とも呼ばれていました。

建物の模型が置かれていました。三回建て替えられていますが、これは第三期(10世紀後半から11世紀中ごろ)の復元模型21120803

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あとで九州博物館でみた南門の模型

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奈良時代後半の石敷き溝が保存されていました。

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九州国立博物館「西都 太宰府」:西都史跡名所案内 (kyuhaku.jp)

政庁の建物の変遷などについては上記に詳しく説明されています。

楽しかったのは「梅花の宴」のジオラマと出されたお食事

大伴旅人は大宰府の長官である大宰帥として727年頃、赴任。旅人は 政治家としてだけでなく歌人としても才を発揮、彼の地でも文人と交わり、のちに「筑紫万葉歌壇」と呼ばれる万葉文化が大宰府の地に花咲きました。
730年1月 旅人は自身の邸宅に役人を招いて当時、中国から渡来した梅の花をテーマに歌を詠みました。これが「梅花の宴」です。

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梅花の歌三十二首 序文」にある
初春の月 気淑しく風ぐ。梅は鏡前の粉に披らき、蘭は珮後の香に薫る。
(しょしゅんのれいげつ きうるわしくかぜやわらぐ。うめはきょうぜんのこにひらき、らんははいごのかにかおる。)
から考えられた元号で「人々が美しく心を寄せ合う中で文化が生まれ育つ」という意味が込められているそうです。

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地元のものだけでなく、各地から納められた品々もならびました。手の込んだお料理、という感じではないですが豪勢なお膳です。
右の酒と酒肴盛り合わせが歌会の席にも置かれています。酒をくみかわしながら歌を詠みその後お食事に移ったようです。

展示品はさほど多くはありません。外に出て政庁跡をみることにしました。

俯瞰することはできないので上記ホームページからお写真を拝借 

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外に出るとお堀の向こうに政庁跡が広がっていました。

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向こうに見える歌碑は

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「あをによしならのみやこはさくはなのにおふがごとくいまさかりなり」小野老
小野老(おののおゆ)が728年太宰の少弐として着任した時の宴で詠んだ歌です。
この席には筑前の守 山上憶良もつらなっており
憶良は     今は罷らむ 子泣くらむ それその母も 我を待つらむそ
という歌を詠んでいます。二人とも梅花の宴のメンバーでもあります。
万葉集4500首の内約320首は筑紫で詠まれた歌だそうです。

展示館にはあと一人、見学の方がいらっしゃいましたが、この跡地は近所の公園のようで子供を遊ばせている家族連れがチラホラ。(今日は土曜日)

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非常に広いです。長閑できもちがいい!
丸い石が等間隔におかれているところは東脇殿の跡です。

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このあたりが正殿でしょうか?

振り返って

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中央の道の先、敷地が切れるところが南門跡のようです。

さて西側から敷地の外にでて奥に進みます。

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道の傍らは梅園、 

目的地は 坂本八幡宮 です。ゆっくり歩いても5分くらいの距離でした。

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古代には九州や大宰府を守護する四天王寺が、形を変えながら現在では坂本地区の鎮守としていきつづけています、と説明版にありました。

ここが大伴旅人の屋敷があった場所の候補地の一つですが、もう確定しているかのようにこの地の人は考えているようです。

令和の里 の旗が翻っています。

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碑も立てています。

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こちらは旅人の歌碑

ここでも熱烈なる郷土愛を感じました。

戻ります。

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これが展示館です。古代のロマンに充分ひたりました。次は観世音寺です。

バス通りを7,8分歩きます。

途中に

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大宰府学校院跡、というのがありました。官人を養成した学校でした。

バス停「観世音寺前」の前に

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おお、ここだ!とこの道を進みました。

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門前に立つには「不許葷酒肉入境内」の碑ですが折れて、並べてたてあります。お肉を食べたりお酒を飲んで入るな、ということでしょうね。

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戒壇院  僧侶となるため、受戒を行う場所。753年、鑑真がここで日本で初めて受戒を行いました。

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まさに鬼の顔をした瓦 これは櫓?鐘楼みたいですけれど、でも kikuko様のブログで拝見した鐘楼とは全く違います。
いぶかしみながら敷地内を見渡します。

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鑑真和尚の供養塔

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お庭もすてきです。

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格子の間にカメラのレンズを突っ込んで撮りました。

どう見まわしてもkikuko様のブログにでていた鐘楼がみつからないのです。変だ、変だと思いながらここをあとにしました。

実は実は大ミステーク!何度も戒壇院という表示をみながらも、ここが観世音寺と思い込んでいたのです。ここは戒壇院で観世音寺は門前をむかって右に進なければいけなかったことを、帰って先達のブログを読み直して知りました。
出かける前忙しくて再度の見直しを怠ったのです。残念、最近 明日香の旅を振り返って記録を書き、斉明天皇に思いをはせたのに、彼女をお祀りするお寺に行けなかったとは!!!それにしても不親切、観世音寺への矢印表示くらい出しておいてほしいものです。

ここに来る途中に大きく大宰府タクシーの表示があったのをスマホでとらえています。そこにお電話、光明禅寺まで行ってもらいました。運転手さんに「開いていないかもしれないけれど、とりあえずいきたい」と告げると「少し前まではいつも開いていたのですけれどね。〇国人が来て荒らしたので閉めてしまったのですよ」

光明禅寺

1273年 鉄牛円心が開山した臨済宗のお寺です。

本堂裏表には1957年に作庭家・重森三玲によって作庭されたお庭があることで知られています。(私が知ったのはKIKUKO様のブログによってですが)

なんと嬉しいことに開いていました。今日はご法事があったようで、それだからでしょうか。

道に向かって左が正門、本堂につながっているのか、そちらでご法事があったようです。もう一つの門から入れました。

表庭 七五三の15石を並べ光明寺の光という文字を抽象的にあらわしているそうです。仏光石庭 と名付けられています。 

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どう 七五三とみるのか分かりません。奥が三で、三尊石でしょうか?分からないながらも気に入りました。

広い畳の部屋が二間ありここと反対側、裏庭に 一滴海之庭 と呼ばれるお庭があります。

カメラいいのかしら?10人くらいの方がいらして皆さん一斉にパシャパシャ、それで私も撮りました。 

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写真より実際の方が紅葉の色彩が強くて、紅葉の時期でないときにこのお庭が観たいと思いました。
苔寺といわれるそうですが、苔にも白砂にも落ち葉が降り敷き、境がくっきりしていません。苔は大陸と島、白砂は水と大海を表現しているそうですが。

ご法事が終わったのか、喪服姿の方々が奥からでてこられ、幼稚園くらいの子供たちが走り回って叱られていました。落ち着いて座ってお庭を見る、という雰囲気ではありませんでしたが、めったにないチャンスに恵まれ、それなりに気持ちは高揚しました。

15分くらいで外に出ました。


 正門

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右の石碑には

石庭 苔苑 一滴海之庭 彫ってあります。
何人もの方が案内板は読んでいらっしゃるのですが、お入りになる方はあまりいません。やはり皆さん天満宮目当てにいらしてるからでしょうか。

左の石壁を折れて進むと天満宮の参道に出られます。このあとのことは次回に

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コメント

kikuko様
勘違いしていきそびれた観世音寺、梵鐘だけはお目にかかれてよかったです。 でも 現地で見てこそ、風情があったのに、と思われます。 行ってもあの時は空っぽだったわけですが。
私は ツアー中心ですから、行ってみてがっくり、ということはあまりありません。
おまかせ旅ですから逆に今回のようなミスをしてしまうわけです。
お任せ旅ですと、折角ここまで来たのだから、あそこもということが 添乗員さんや現地ガイドさんによっては融通をきかせてもらえますが、だめなことも多くて 二度と来る場所ではないのに、と残念に思うとことはありました。
ブログにしろ、ホームページにしろ 記録がある、というのは 本人にとって一番助かりますね。 
ノートも散逸しますし。公開するとなると、私のはお粗末ですが、 それなりに」調べるので、書くことは勉強にもなります。同好の方にコメントお手紙やをいただけるのもうれしいことです。 面倒とおもいながらも あとひと頑張りです。

 観世音寺の梵鐘は2022年3月31日まで九博に行っているようですから、ご覧になったのが本物です。どこまでご運がよろしいのかと羨ましくなります。九博に楽に行けるルートがありますかしら。エスカレーターの下りがとても苦手になってしまいました。五島列島も諦めかけています。
 昔のHPを復元していて、しみじみ行っておいてよかったと痛感しています。そして、どんなに稚拙な文でも、どんなに下手な写真でも記録しておくことの大切さも知りました。それを手掛かりに自分だけしか味わえない幸せな時間が取り戻せます。恥ずかしいので公開したくないのですが、ごくごく稀に読みたいとおっしゃってくださる方がおられますので。

kikuko様 
光明寺、本当に運がよかったと思っています。
ただ、紅葉が華やかすぎてお庭の作りそのものを鑑賞する、と言うことにはなりませんでした。
はっきり言って紅葉にまけるのです。まあ、トータルで景をたのしめばいいわけですけれど。
青もみじの頃のほうがいいとおもいます。
写真はだめなのかとおもっていましたら、皆さん撮っていらして、表庭は受付からみえるのですが、とがめだてはなさいませんでした。 お庭に下りるとか、柵をこえるようなことをしなければいいのではないでしょうか。
戒壇院と観世音寺の混同、お恥ずかしいかぎりです。
でも九博に鐘はあったのですよ。どちらがレプリカなのでしょうか。 

  光明禅寺は非常に難易度が高いので、なんとご運がよいのでしょう! せっかく行ったのに! という嘆きは海外で存分に味わいましたが、やはり落胆します。以前はお庭に降りられたのに、三脚を立てる方が多くて禁止、さらに撮影禁止になったようです。それにしては、お庭の写真をたくさんUPしたブログを見かけますが・・・。できることなら青もみじのころに拝見したいです。

 戒壇院は江戸時代に天台宗の観世音寺から分かれて臨済宗妙心寺派に属しますが、どうもあまり仲がよろしくないような気がいたします。表示がないのは、何か理由があるのではというのは邪推かもしれませんが。甲州でも天台宗と臨済宗は、かなりしのぎを削っていました。天候もご運のうち。政庁跡の青空、心がのびやかになりますね。

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