天草・長崎旅行1日目ー2(天草キリシタン館、明徳寺など)
12月16日(木)
16:50過ぎタクシーで天草キリシタン館に向かいました。15分はかからなかったでしょうか。
かなりの雨です。着いたところにエスカレーターがあり人が近づくと動くようになっていました。慌てて乗りましたので写真は撮っていません。
天草キリシタン館 パンフレットの写真 (15:05~15:52)

館内はカメラ禁止です。
頂いたパンフレットから

天草と言えば天草四郎です。
二階に上がるとまず映像コーナーでビデオで流される説明を聞きます。それが終わると暗く灯りを落とした展示室に入りました。
入ってすぐの硝子ケースに天草四郎陣中旗が収められています。でもこれはレプリカ。実物はしまわれていて特別なときにしか展示しないそうです。この博物館の一番の宝物でしょう。
大きさは約1メートル四方。戦いで破れたところを繕ってあるあとや血痕もうっすら見られます。
パンフレットを拡大しました。

戦の場には似合わないような美しいものでした。
正式には「綸子地著色聖体秘跡図指物」と言うそうですが、綸子の布に聖体聖餅を拝む二人の天使が描かれています。
日本の初期洋画家である山田右衛門作(やまだえもさく)が原城内で描いたもの、あるいは禁教令以前のセミナリオで聖旗として描いたものとも言われ、日本におけるキリシタン史上、また洋画史上最も貴重な資料として重視されています。
また十字軍旗、ジャンヌ・ダルクの旗とともに世界三大聖旗の一つとされてもいるそうです。
この旗を押し立てて悲壮な覚悟で戦いに挑んだのかと胸があつくなりしばらく見続けました。
翌日のタクシー観光の際運転手さんが話してくださったことも交えて簡単に
有馬晴信の子直純は晴信と共にキリシタンだったが、家康の小姓をしていて家康の娘(養女)国姫を妻に迎えた。直純はこの妻に頭があがらずキリシタンを捨てて反キリスト派になった(この人が一番悪い、と運転手さん)。
1609年からのマカオにおける晴信の朱印船騒擾事件に単を発する騒動(この時の処分として晴信は死罪)を契機に1613年全国的なキリスト教禁教令がしかれることになった。連座を免れた直純は日野江藩主となり、領内のキリシタンを弾圧。自分の義弟たちも殺害している。島原の乱の前に転封を願い出て延岡に居城を得ていたが、地理に明るいことから征伐軍に加わり、元家臣らと対決している。
代わって1616年島原藩主となったのは松倉重政。これがとんでもない人物で(司馬遼太郎は 日本史の中で彼ほど忌むべきひとは少ない、と書いている)城を建てるのが趣味。石高の二倍以上相当の城(島原城)を建てるために領民から搾れるものは何でも搾り取った。キリスト教徒に対する弾圧も残忍であった。(雲仙地獄で熱湯による拷問、処刑、1627年など)
天草では小西亡き後、唐津藩主寺沢宏隆高が領主になり富岡城を築城。島原の米の取れ高を実質の二倍以上の四万二千石としたため、百姓は重税にあえでいた。
1614年頃からキリスト教弾圧が厳しくなっていた。
そういう状況において武士から百姓になっていた島原の旧家臣らと天草の小西行長の元家臣(行長は1600年、関ヶ原の戦いで負けて亡くなっている)らが中心となり、一揆は企てられた。
その時、軍を統べる象徴的人間が必要とかつぎだされたのが、小西行長の元祐筆・益田甚兵衛好次の子、四郎時貞。優秀で幼いときからカリスマ性があったとか。
軍勢3万7千人の内1万人は元武士。それで武器の使い方はこころえていた。天草・島原両代表者が談合したのがバスの中からかすかに見えた湯島。
天草・島原の乱(1637~1638年)はキリシタンが弾圧に対して戦ったのだというイメージをもっていたのですが、百姓一揆の要素も強いようです。
決戦の場、原城包囲陣営図やメダイ、マリア観音像などをみて外に出ました。雨は来た時より小降りになっていました。
キリシタン館を背に左の方へ進みます。
墓地の続く緩やかな坂道を5,6分下っていくと、明徳寺が見えてきました。

乱の後、天草は天領となり、初代代官として赴任したのが鈴木重成。
彼はその死後、土地の人が神と崇拝したほどの善政をしきました。
石高に関して、石高4千2千石はおかしいと再検地。実高は2万1千石として幕府に何度も掛け合ったが取り合ってもらえず、晩年、出府して歎願、自刃してやっと半減してもらえた、と言うことになっています。実際は自刃はしなかったらしいです。この自刃説により、重成は神とあがめられるようになり、鈴木神社が建てられています。
祀られているのは重成と重成の兄、正三、正三の子で重成の養子、重辰の三人。重辰は二代目の代官でこの時、石高半減が実現しました。
半減されてもなお暮らしは貧しく、其の後も天草ではしばしば、百姓一揆はありました。
鈴木重成はキリスト教からの改宗を目的として四寺院をひらきましたが、その一つが1645年に開いたこの明徳寺です。
曹洞宗の禅寺で開山は中華珪法
重成の兄で禅宗の僧であった正三に来てもらい説法を頼みました。正三の著した『破切支丹』は優れた仏教思想書として評価が高いそうです。
この場所は本渡城の一画です。
山門は1717年に建てられました。再建は1808年。天草の山門のなかではもっとも古いものです。


門の中の双聯には
「祖門晋師行清規流通仏海正法 将家直正革弊政芟除耶蘇邪宗」と掲げられています。これは、仏陀の正しい説法をひろめ、耶蘇の邪宗を芟除(刈り除く)するという意味合いの言葉だそうです。



本堂

子安観音 マリア観音のようにも見えます。しかしこれは古いものではなく大正時代のものです。

長い階段を下ります。


(左側もやもやしておかしなところはPhotoshopで人物を消した痕です)
右手に建てられているお地蔵様、お顔が少し日本人離れしています。
そのため「異人地蔵」とよばれているそうです。

ところであの長い階段には十字が刻まれているそうです。隠れキリシタンに対する踏み絵のような役割ではなかったか、と言われています。しばし十字探し。

光の具合でみえたり、見えなかったりするのですが、中央奥はその一つでしょうか。よく見るとあちこち、大小様々な十字が見えました。
異人地蔵、マリア観音、石段の十字、なかなか面白いお寺でした。
このまままっすぐ行くと
延慶寺 ここには兜梅と言う梅があるそうです。


「兜梅」の案内に従って、寺庭を回っていきます。引き戸を開けて入ると

さらに奥に進みます。ひと様のお庭に勝手に入っていくようでためらうところはありましたが、案内版がありましたので指示通り進んで行くと

横に広がった梅の木がありました。樹齢約500年、その姿から臥竜梅ともいわれるそうです。お花が咲いたらどんなに見事でしょう。市の観光サイトからお写真を拝借しました。


兜の緒が絡まるのも頷ける、あちこち伸び放題の枝です。
ここで16:40 道路に出たところでタクシーをよぼうとしたら「後10分歩けば祇園橋だから、それをみて帰ろう」と言います。まだ日没に少し間があります。雨も止んでいるので祇園橋まで歩くことにしました。
結局20分近くかかって16:59 橋の見えるところに来ました。
祇園橋
国の重要文化財に指定されている国内最大級の石造桁橋です。天保3年(1832年)長崎のオランダ坂を手がけた天草の石工が作った石橋で、長さ28.6m、幅33mの多脚式アーチ橋です。現在は危険なので渡れません。

なんとも無骨な橋です。橋脚の多さに驚きました。川は町山口川という名です。


この付近は1637年の天草の乱の激戦地で、多くの犠牲者がでました。反対側の岸に立つ慰霊碑を翌日見ました。
17:03 少しずつ日が暮れてきています。タクシー会社に電話をかけました。3,4分で着く、とのことでしたが、10分近く待ったと思います。風もなく暖かい日だったので助かりました。
17:25分ごろ ホテルのお部屋に戻ることが出来ました。
夕食は19:00にお願いしてあります。その間にお風呂に入ることにしました。
このホテルにはペルラの湯という温泉センターともいうべきものが丘の上にあります。歩いてもいけますが車もだしていただけるそうです。一つだけですが中程度の広さの温泉も館内にある、と言うことですので、そちらに行くことにしました。
温泉にはお二人はいっていらっしゃいましたが、すぐ出られて後は貸し切り状態でした。柔らかいお湯で、肌がとてもつるつるになりました。
お食事の様子をのせるつもりでしたが、もう写真がはいらなくなりましたので次回にします。
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コメント
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kikuko様
いろいろお教えくださりありがとうございます。
私は 参考書としては 司馬遼太郎の『街道をゆく 島原・天草の諸道』しかもっておりません。 複数読んで検討すべきかとはおもうのですが、、、。ただ司馬遼太郎は学者ではないので、自説を固持するというのではなく、色々話を聞いての上で書いているので、とりあえずこれでよし、としています。
その司馬遼太郎も山田右衛門作ただを一人の生き残りとしています。
陣中旗は原城で彼が描いた、と言う説と禁教以前にセミナリオで描かれたという説とがあるそうです。原城たてこもりの時に絵が描けたのかしら? むしろそれ以前に描かれたものを もちこんだのでは? と言う説の方をとりたくなるのですが、どうでしょう。
知恵伊豆ですが、私は全く知らなかったのですが、先日NHKBS時代劇「剣樹抄」で光圀が知恵伊豆に会いに行く場面があり、あっと思いました。
山田右衛門作、もその一人のようですが、司馬遼太郎は「一揆に加わりたくないひとがおおかったに違いない。、、、(中略)、、、、、もし反対したり、入信を拒んだりすれば、かつて松倉氏が切支丹を虐殺したように、今度は切支丹によって非切支丹が虐殺された。このことは、僧侶や神主が見せしめの虐殺刑に遭っていることで 想像がつく」 と書いています。
そういうどっちつかずの人こそ憐れ、とかいていますが、そういう人々が空堀にこもって飢えて死んでいったのかと思うと、もう言葉もありません。生き延びるためにスパイの道を選ぶ人がでてもふしぎではありません。 もし陣中旗を彼が描いたとしたら、手本になる絵を知っていなければいけないわけです。切支丹ではあったのでしょうか。あれこれ想像をふくらませてしまいますね。
一揆鎮圧側にも犠牲者はでたのですね。そのことには思い至りませんでした。
平林寺、 野火止用水のあるところですよね。 昔 武蔵野の風景がみられるところとして行きたいな、 と思ったことがあるのですが、行かないまますっかり忘れていました。機会を見つけて行ってみたいと思います。
アレグリアガーデンズのお食事、豪華版でした。ずっとお高い秋月とは比べ物にならないおいしさでした。
投稿: yk | 2021年12月26日 (日) 11時24分
大間違いでした。田中じゃなくて山田でした。全くどうかしてました。恥ずかしいです。
投稿: kikuko | 2021年12月25日 (土) 23時46分
紅葉のころに行こうと計画しながら実現しなかった埼玉県新座市の平林寺に島原の乱の供養塔があります。はっきりとした表記はありませんが、幕府側の戦死者の供養塔でしょうね。平林寺は乱を制圧した松平信綱の墓所のある寺院で、供養塔は乱の200年後に建てられたようですが。信綱は一揆勢では唯一の生き残りと言われた(本当は唯一ではない?)田中右衛門作を江戸に連れ帰った人物ですよね。諸説ありますが、右衛門作は、どうやら内通していたらしく、重文の旗を複雑な気持ちで見せていただきました。「田中右衛門作口書」で、しきりに切支丹という言葉が使われたのが、乱のイメージに大きく影響したような気がいたしますが、そこに信綱の意図があったという説もあります。知恵伊豆と謳われた秀才だという程度の知識しかなかったのですが、江戸幕府の権力基盤の確立に大きな力があった信綱のことがもっと知りたくなりました。
原城の発掘調査の状況を少し読んで、とても重い気分です。天草も島原も行けそうにないので、興味津々で拝読しています。
お泊まりになったホテルのお料理がすごくて、先日利用した温泉旅館の倍はするでしょうと思いましたら、そんなでもなくて驚きました。素晴らしいチョイスです!
思い付きをダラダラ書いて、申し訳ありません。
投稿: kikuko kuwata | 2021年12月25日 (土) 18時06分