福岡県へ 1日目-1(岩戸山古墳)
11月25日(木)
今回の旅行地域
ホテルを出て天空橋駅へ 6:58発7:03空港第1・2ターミナル駅着
空弁で今半のカツサンドを買いました。旅行者が多くて保安検査の列が長く、14番乗り場も遠くて、すぐ搭乗開始。満席です!
8:00発 サンドイッチは機内で食べましたが、三分の一しか食べられなかったのでそのまま持っていくことにしました。
9:55福岡空港着 順路に従って出ると高速バス乗り場はすぐでした。久留米行のバスは1時間ごとです。
10:27発のバスに余裕で乗れました。11:20西鉄久留米駅着の予定が少し遅れて28分頃着きました。
すぐに岩戸山古墳に向かう予定です。
八女行きのバスに乗ります。下調べでは高速バスの停留所のすぐ横のはずです。最初は気がつかなかったのですが、床に大きく行先表示がありました。
11:48分頃乗車 12:20頃福島高校前着
道路を渡って坂道を上がって行きます。
いわいの郷(さと)八女市岩戸山歴史文化交流館 (12:28~14:05)
お天気が悪そうに見えますが、大丈夫でした。三日間とも晴天に恵まれました。
入ってすぐ受付はありますが、入場無料です。写真もOK。ロッカーはありますが、カートは大きくて入らなかったので受付で預かっていただきました。
すぐ常設展示室へ
ビデオで説明がされています。
岩戸山古墳は筑紫君磐井の墳墓です。
筑紫君磐井とは?私はこの人物を知ったのはkikuko様の記事からでした。詳しく知りたいとカルチャーの講座で「磐井の乱」についてのお話も聞きました。
資料も少なく見方も学者によって違うようですが、朝日新聞社の「週刊日本の歴史、ヤマト王権誕生の実態」「歴史道 古代史の謎をときあかす」と 岩波書店『シリーズ古代史をひらく 渡来系移民』それにカルチャー講座のレジュメなどを参考にしながら簡単にまとめたつもりです。理解不十分でおかしなところがあるかもしれません。
筑紫磐井(?~528年?)と言う人物は本拠地を現在の久留米市、八女市、筑後市、みやま市とし北九州を支配する豪族の首長でした。
邪馬台国がこのあたりだったという説をとる人は磐井をその政治的末裔と考えているようです。
石人山古墳(ここから西に約5㎞)が磐井の祖父の墓ともくされていることから彼の一族がここを支配するようになったのは5世紀初頭と考えられています。
邪馬台国北部九州説もあるように、北部九州は対外交通の拠点で大陸文化の窓口として古くから栄えていました。
この頃は倭王権による一元的な外交関係を確立できていたわけではなく、列島の諸勢力がそれぞれ独自の外交と交易をおこなっていたのです。
磐井一族は新羅と外交関係を樹立していました。博多湾や唐津湾経由ではなく、筑後川から有明海に出て大海を渡っていました。
一方、倭国は鉄を生産する技術を持たなかったので朝鮮半島南部の伽耶地域(特に南部の金官国は鉄の供給の中心地)と関わりをもつようになっていました。
4,5世紀中国が五胡十六国の乱世へと突入すると、朝鮮北部の高句麗が勢力拡大をねらって南下。新羅は高句麗に従属して生きていく政策をとったのですが、百済は抵抗。百済は伽耶南部と友好関係を結びます。
倭国としては、高句麗と闘う百済に援軍を送る見返りに技術者や鉄素材を入手するという政策をとりました。(朝鮮半島からの鉄素材の依存は、百済が滅びる7世紀中葉まで続いたようです)
新羅と外交関係を樹立している磐井とは真っ向から対立することになるのです。
そういう背景のなか527年(?)磐井の乱といわれるものがおこるのです。
ただ、磐井は若年時、靫負の大伴として大王の身辺を警護していたことがあったといわれ、後に起こる乱にかかわりのある人物(近江毛野)とは旧知の間柄であったとも思われています。
そのためか、この乱は倭王権の一翼をになっていた地方勢力と倭王権中枢部との間に起こった、対半島外交の路線を巡る衝突だったといわれています。
継体21年(527年)倭国は近江毛野率いる対新羅軍6万を派遣しようとしたのですが、これを筑紫磐井が妨害したのです。
実際は軍事行動を起こしたのではなく、毛野が筑紫において兵を徴発しようとしたのを磐井が拒んだ、というのが実態らしいです。
然し勢力を拡大していく磐井に対して大王継体は倭王権の存在があやうくなるとみて528?年、物部麁鹿火を将軍にして磐井征伐に乗り出し、11月筑紫国御井郡(今の久留米あたり)で磐井はきられます。
敗因に、磐井側は火の国(熊本県)豊の国(大分県)と連合して戦ったのですが、その結束力が弱かったことが挙げられています。
磐井の息子葛子は糟屋屯倉(福岡市近く)を献上して死罪を逃れ、其の後も一族は筑後国一帯を治めていきます。乱後も一族の古墳はつくられ、日本書紀 天智10年( 671年)の条に筑紫君薩野馬の名称をみることができることから、乱の150年後でも筑紫一族は影響力を行使続けていたことがうかがわれます。
古事記や日本書紀では磐井は「天皇の命に従わない悪者」扱いですが、地元の人はそう思いたくはないようです。この交流館も磐井を郷土の英雄としてみています。
九州の豪族たちは朝鮮半島への進出を目指すヤマト王権から、人や船や食料を提供させられ不満がたかまっていました。軍事・外交・内政すべてに自立し財力を持つ磐井は火の国、豊の国と力を合わせて立ち上がった郷土の英雄だと考えています。
これはもう少し後の白村江の戦いの時ですが、百済復興戦争は必ずしも無謀な戦争ではなかったし勝敗を全く度外視したわけでもなかったが、なおかつ負けてもかまわない、戦争を起こすこと自体が目的だった。それは国内的要因だった。中央集権国家を目指す中大兄と鎌足にとって邪魔な存在は豪族層。その豪族層の勢力をそぐ、戦死させれば障碍が取り除ける、というものであり、その目的は果たせた。(『はじめての古代史』倉本一宏著より)
なるほど、と思った次第です。
この磐井の墓が岩戸山古墳です。
古墳を見に行く前に展示をみることにしました。
八女丘陵には八女古墳群と総称される5~6世紀に築造された前方後円墳や円墳など約300基近くが群集しています。これらからの発掘品が多く展示されていました。カメラOKでした。
先ず入って目につくのは
武装石人です。鶴見山古墳
その後ろには、分かりにくいですが馬の胴の部分です。
石馬 伝 岩戸山古墳 6C 馬鐸、鐙、手綱、鞍、杏葉 などが浮き彫りされています。
古墳の周りには埴輪を並べるのが一般的ですが、筑紫一族の古墳には地元の石で作った石の彫刻が並んでいました。
ヤマト王権とは異なるのだ、ということを表現したくて、あえて埴輪ではなく石人、石馬を置いたのだと言われています。磐井の乱の後、ヤマトから来た兵は殆どの石人、石馬の手足を打ち落としました。
靫(ゆぎ)を負う石人 岩戸山古墳の後円部頂部から出土
石盾 岩戸山古墳 古墳時代・6世紀
石人・石馬類/八女市ホームページ (city.yame.fukuoka.jp)
石人、石馬が全てここに出ています。
埴輪もありました。
古墳時代から6世紀頃のもので 高さが70㎝くらいでした。立山山古墳など八女古墳群のものです。
副葬品として武具などもありました。
特に目をいるのは金製品。磐井と関係の深い新羅は金の装飾品で有名です。これらの耳飾りは磐井と朝鮮半島との緊密な関係をうかがわせるものです。
なかなか楽しい展示でいつまでも見ていたかったのですが、主人にうながされて古墳を見るため外に出ました。
↓グーグルマップから
交流館から緑の芝生に出て木立を回り込んで少し上がって行くと下中央の四角い緑の所に出ます。ここは別区とよばれるところです。
木立の向こうに何か見えています。別区には石人のレプリカが置かれています。
ここが別区です。一辺43mの正方形で岩戸山だけにある全国でも珍しいものです。ここは政治の場で、解部と呼ばれる裁判官が、偸人(盗人)が猪を盗んだ罪を裁いた、と言う記事が筑後国風土記にでているそうです。(磐井は裁判権も持っていた、と言うことになります)
向こうのこんもり樹々が生い茂っているところが古墳本体です。(後円部になります)
岩戸山古墳
北九州最大規模の前方後円墳です。
墳丘長135m、別区を加えると170mにもなり、これは継体の真陵とされる今城塚古墳の190mに近い規模です。
ここでどんぐりを拾っていらっしゃった地元の方がそこを回っていくと階段があって古墳の上までのぼれることを教えてくださいました。それで時計回りに回っていきました。
カルチャ―の先生は「上に行くと神社があります。古墳の上というのは大体神社になっています。」とおっしゃっていました。それを確かめにいきたいのです。
↓溝が掘られたようになっています。環濠?
ここかな?そこにいらした方にお聞きすると上がり口はまだ先、私の方をみて「階段上の方は急ですよ。奥さん大丈夫かな?」
さらに回り込んでいくと
ここでした。
上から見下ろすとこんな感じです。少し息が切れましたが、大丈夫でした。
矢張り神社はありました。
この小さなお社は前方後円墳の「方」の部分にあります。
「円」の方にむかう道です。幅が少し狭くなっています。
実を言いますと、私は疲れてこの階段をあがる気力がありませんでした。先がみえなかったのです。ここで待っていました。
↓主人が撮ってきた写真です。
もとは神社はこの「円」の部分にあったようです。
満足してゆっくりおりてそのまま時計回りを続けると展示館から上がってきた場所に出ました。
八女古墳群、そしてほかにも近くに古墳はたくさんあるのですが、なかには絵がかかれているものもあるそうで、もう一泊してそれらを見て回ると面白いのに、と思いました。古代史ってロマンがあっていいですね。日本と半島との交渉ももっとしりたいとカルチャーの関連講座をさがして申し込みました。
ここにきて大正解!
疲れておなかも空いてきました。どこかで朝の残りのサンドイッチを食べましょう。展示館の方に戻ると出てきたところの横がウッドデッキになっていてベンチが置いてあります。その前に水道もありました。手を洗って、お昼にしました。幸い暖かくて、紅葉を眺めながらのひと時気持ちがよかったです。
ここを出てバス停へ、見るとどれもJR久留米行です。14:13がありますがいってしまったかな?とりあえずJRの駅へいってそこから西鉄久留米へ行く手立てを考えましょう。
遅れたのか14:19にバスは来ましたが、みると西鉄の駅を経由することになっていてほっとしました。
14:48頃 西鉄久留米駅到着
15:08 西鉄甘木線甘木行乗車
15:50 甘木駅着
天城駅は二箇所あり、もう一つの甘木線甘木駅の方がメインでバスの始発駅もそちらにあります。徒歩3,4分の距離です。
秋月行のバスが出るまで30分あります。急に風がでて寒くなったので、タクシーで行くことにしました。(タクシー代は 2500円でした)
車は小石原川沿いに走りだんだん山が迫ってきて素敵です。秋月の町に対する期待が高まります。
16:17 今日の宿 清流庵 到着です。
宿のこと夕食のことは次回に。
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