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« 福岡県へ 2日目ー2(秋月市内観光) | トップページ | 福岡県へ 3日目-1 (大宰府政庁跡→坂本八幡宮→戒壇院→光明寺) »

2021年12月 7日 (火)

福岡県へ 2日目-3 (秋月市内観光続き→今村教会→久留米)

10月26日(金)

武家屋敷の久野邸に向かいます。畑の中の道、心配になりながらしばらく歩きました。10分くらい歩いたところでやっと案内板を見つけました。

久野邸(11:32~11:52)上級士族の屋敷
杉の馬場付近の士族の屋敷が平均400坪であったのにたいして622坪あることから格式が高いことが伺われます。

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入り口手前、二階建ては仲間部屋(久野家の奉公人が常駐した部屋。二階建ては珍しい)
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玄関を境に接客と日常の空間に分離しその奥に隠居部屋がつづいています。

入口の門は腕木門といって、身分の高さがうかがえるのだそうです。

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腕木門(支柱に穴をあけて腕木を刺し、その腕木に桁をのせてその桁と棟木を垂木で連結させるという構造をとる門)  

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観光客はこのお玄関からではなく矢印に従ってまわって、

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台所口から入ります。

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居間(茶の間)向会の間、客間、次の間が一直線に並んでいます。

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主なお部屋は8畳間であるせいか、広々とした感じがしました。

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分かりにくいですが、中央に池があります。

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山を借景としています。

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池泉回遊式の素晴らしい庭園です。

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離れ座敷(茶室)に通じる渡り廊下

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水屋もあります。

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離れ側からの眺めたお庭
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戻って まわっていくと

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冬は寒そうです。

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外に出ます。 

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 奥の白い建物は蔵、資料館になっています。撮影禁止なので遠くから

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お風呂場

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久野邸を出て、旧田代家住宅へ向かいます。
少し坂を上ります。折角坂道をのぼったのに、なんと修復中!入れるかどうか朝倉市の観光課にお電話はしたのですが、把握していなかったようです。10月18日~1月3日まで臨時休館の張り紙がありました。 

田代邸は月見坂にあります。右が田代邸

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瓦の前、厚みのところにかざりがあります。

月見坂 お城の後ろの山にかかる月はここからの眺めが最も美しいとされ、月見坂と言う名前がつきました。 

次は眼鏡橋を見に行きましょう。その前にこのあたり原古処の屋敷跡があるはずでは?
原古処も娘の猷(後に号を采蘋 としいった詩人)も『秋月記』に出てきます。

原先生古処山堂跡 薄れて読めませんが、これらしいです。

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敷地には現在喫茶店が建っていました。

眼鏡橋を目指して歩きます。ところが傍らに「西念寺」の標識を見て「ここに原古処のお墓があるはずだ、見てくる」と言い出しました。階段があるので私には「先に眼鏡橋にいってて」といいおいて階段を上って行ってしまいました。

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階段を上ってしばらくいってみたがみつからないので戻ってきて、眼鏡橋で合流。

私は先に眼鏡橋

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七代藩主が子のないまま亡くなった時、重臣たちは日向高鍋の秋月家から長舒をを八代藩主として迎え入れました。福岡藩は おりあらば秋月藩を吸収しようとしていたのにそれをさせなかったので認める替りに、金銭的負担の重い長崎警備をおしつけたのです。(『秋月記』は重臣がいかにして藩の独立を保つかに腐心、泥をかぶってまでも藩の存続させようと努力した重臣や藩主を諫めて藩の財政を救おうとして汚名を着た人物の話でした)

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町人の家が建ち並らぶ秋月街道 奥の白い家は石田家住宅。

葛屋 廣久葛本舗 十代高木久助

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長舒は殖産興業にも力をいれました。その一つに葛の生産もあげられます。久助も『秋月記』の登場人物です。
ここで葛をいただこうかと思ったのですが、かなりの待ちになりそうで、ほかを探すことにしました。少し杉の馬場方向に もどってお蕎麦や蒸し雑煮を出すお店があったので入りました。二人ほど待っていましたが。順番がきてカウンタ―に座って、聞くと蒸すのに15分かかるというので、普通のおうどんにしました。(この時 既に13:00過ぎ、12:02のバスに乗る予定です。)
先に食べ終わった主人が宿までキャリーを取りに行きました。少し坂をあがることになり、往復20分くらいの距離です。私にはちょっと厳しい。(依存度が高くなって一人旅ができなくなるな、と心配になります)

私は葛屋さんにもどってお買い物。

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これは賞味期限翌日まで、家に帰ってすぐ頂きました おいしかったです。きっと当日ならもっとやわらかかったのかもしれません。

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こちらはまだ作っていません。

レジの行列に並んでいるうちに主人もやってきました。

それで眼鏡橋のところのバス停から乗ることにしました。ここは14:03発 5分ほど遅れてやってきたバスに乗りました。

秋月、すてきな町でした。小石原川沿いにバスは走ります。

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甘木駅
私は気がつかなかったのですが、主人が面白い写真を撮っていました。

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なんと「日本発祥の地 卑弥呼の里 あまぎ」!!と彫られています。

邪馬台国北九州説もかなり有力とはいえ候補地は久留米から西に15キロほど行った佐賀県の吉野ケ里遺跡です。
甘木が候補地とは知りませんでした。
甘木駅から南に3,4キロいったところに平塚川添遺跡という、弥生時代から古墳時代にかけての多重環濠集落遺跡があり、そこを邪馬台国とみているのです。

古くは神功皇后が新羅と闘う前に駐屯した場所にたつ神社があるとか。神功皇后自体、実在したかどうか疑わしいですが。

これは確かですが、斉明天皇が百済復興戦争のとき、軍を進めて朝倉橘広庭宮に居を定め、この地で亡くなっています。

この宮の所在地は特定されていないのですが、朝倉では朝倉インター近くに広庭公園があり(を造り)そこに「橘廣宮之蹟」の碑を建てています。(神功皇后を斉明天皇と同一視する見方もあるようです) 

「いわいの郷」でも感じましたが、自分たちの住む町に対する気持ちの強さに感服です。

この甘木駅でタクシーをひろいました。ここから今村天主堂に行く公共交通機関はないのです。教会で15分くらい待っていてもらい西鉄甘木の大堰駅まで送ってもらう予定です。

今村天主堂は明治から大正・昭和にかけて教会建築家として活躍した鉄川与助氏の作品です。これまで、長崎旅行、五島列島旅行でいくつか氏の作品をみてきて何時か今村にも、という思いをいだいていました。 
ところが調べてみると現在、今村天守堂は耐震工事のため内覧中止となっています。もともと軟弱地盤のため、建てるのも苦労だったようですが、もう限界に達したのでしょう。既にミサも中止になっています。外観だけでもと思い、行くことにしたのです。

今村天主堂
この地方にキリスト教信仰が芽生えたのはいつごろか定かではないが、1560年代には筑後地方での代表的なキリシタン集団が生まれたと伝えられる。1587年の豊臣秀吉によるキリシタン禁令、1614年発布の徳川家康による全国的なキリシタン禁止令に基く弾圧の嵐は、1630年代、特に1638年の「島原の乱」が終わった年からこの地方にも吹き荒れた。しかし、多くの信者が隠れて信仰を守った1867年浦上の信徒により今村の潜伏信徒が発見され、浦上の信徒と交流を保ちながら信仰を守り通した。
キリスト教が解禁されたのは1873年。
1881年 信徒たちが敬愛した殉教者ジョアン又右衛門があったこの地に最初の木造教会が建てられた。
二つの塔を持つロマネスク風様式赤煉瓦造りの現教会は1908年に本田神父により計画され、諸外国、とくにドイツからの寄付、信徒たちの勤労奉仕により1913年に完成した。設計・施工は鉄川与助である。(いただいたパンフレットより)

この地へのキリスト教普及を物語にした作品が帚木蓬生の『守教』です。これについては今年1月に感想文めいたことを本ブログに綴りました。ここでは殉教者は庄屋の道蔵になっています。
200年、約200戸の潜伏キリシタンが外部と遮断されたまま信仰を守りとおしたことのすごさ、又土地の人もうすうす感じとってはいたでしょうに、口外しなかった、これもすごいことだと思います。幕末に知られることになったのは旅の雲水によるかもしれないことが『守教』には示唆されていました。 

着くと、小さな小屋のようなものが敷地内にありました。受付です。なんと入れそうです。
男性が「どうぞ」と案内してくださいました。靴を脱いで入ります。ロープが渡されていて前方へは進めません。撮影禁止です。『守教』を思い出してか気持ちがひきしまります。しばらく無言でみつめました。
 
鉄川作品は、外観はどれも違うのですが、内部は似通っています。下はいただいたパンフレットの写真です。

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あの正面の祭壇の下にジョアン又右衛門の墓があるそうです。今回の耐震補強工事ではその墓も開けることになっていて、実際にそうだったのかが分かるそうです。

来年3月に工事が始まると、8年間はもう全く立ち入り禁止になります。ギリギリまにあったようです。ここは平地で階段や坂をあがらなくてすむのですが、平地であるだけに地盤も弱いようです。ご覧になりたい方はお早めに。

感動で立ち尽くしていましたが、長くなってはご迷惑なので外に出ることにしました。外観写真を撮りましょう。

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強い日差しと影でうまく撮れませんでした。ドイツからの寄付とありましたが、ドイツのヴォルムス大聖堂に少し似ています。↓ ヴォルムス大聖堂 こちらは多塔式ですが。前面が似ています。

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車いす用でしょうか、スロープがありました。

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本田神父像 本田神父様は浦上四番崩れの際、高知に送られ苦しい体験をされた方です。

お礼に少し寄付をしてタクシーで大堰駅までおくってもらって、西鉄甘木線に乗りました。

15:32発 この線は単線です。時々、対向列車待ち合わせで停まります。久留米駅 16:08着
久留米では聖マリア病院にある雪の聖母教会にも行きたいと思っていましたが、まずはホテルに。

久留米に着くと、冷たい風がふいて寒いこと。久留米は便宜上停まるだけです。旅の便利からすると駅に近いところが条件。そうなるとビジネスホテルしかありません。その趣旨からいってビジネスホテルはシングルルームがほとんど。ツインのお部屋があるのは?そういうわけで駅から5分ほどのワシントンホテルプラザです。
でも必要なものはちゃんとそろっていました。スリッパはないだろうとタオル地スリッパを持参しましたが、ちゃんとありました。

さて、雪の聖母教会、ホテルから約1.5 km、歩けば20分、車なら5分です。一応病院にお電話してみましたが「この電話は現在つかわれておりません」とりあえず行って外観だけでも、という気持ちもありましたが、寒いのと今村教会で満足できたので、やめました。

ホテルにレストランはありません。下調べをしてお鮨屋さんに予約をいれてあります。

予約は18:00です。17:40頃ホテルをでました。幸い風はやんでさほど寒くはありません。
7,8分でつきました。 広又 甚六 というお店です。
カウンターに座りました。この店、当たり!でした。とってもおいしかったのです。こんな美味しい御鮨をいただいたのは初めてです。まあ、これまでデパートの御鮨やさんしか入ったことがなかったので当然かもしれませんが。
最初の鯛、塩であじがつけてあるのでお醤油はつけないで、と言われました。お塩の味がして、おいしいのです。次も味がついていました。ネタが新鮮なのは当然ですが、味付けも工夫されているのです。ただわさびとお魚の一切れがのっている、なんていうのではないのです。勿論お醤油をつけていただくのもありました。あのオオトロのおいしかったこと。佐賀のミズ烏賊、私は烏賊が好きではなく、いつも主人にまわすのですが、これはおいしかったのです。小食だと最初に言ってありますから、シャリは少な目、次々美味しくいただき至福の時を過ごしました。
雲丹もおいしかったのですが、温暖化で味がすっかりおちたそうです。

ご主人も気持ちのいい方でお酒も進みました(私ではありません)。久留米って久留米絣が特産というくらいしか知りませんでしたが、いい町!(久留米絣は今は殆ど作っていないそうで、作っているのは「いわいの郷」のある福島くらいだそうです)
19:10過ぎ ホテルに戻りました。お風呂に入り、いつも見ているドラマを見てやすみました。 
 

  (13366歩)

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コメント

kikuko様
どう要約すればよいのか迷ってそのまま写真を載せたのがかえってお役にたてたようでよかったです。 私はどちらの小山田氏もしりません。私が通った中高は京王線沿線にあり、八王子から通っていらっしゃる方もいました。 おやまださんという苗字の方もいらしたような。 松姫も八王子で暮らしたそうですね。武田家家臣も多く住んでいたのだと思います。
今村天主堂、来年三月には全く足をふみいれることができなくなるそうです。これからですと、寒くなりますから、ちょっときびしいですね。
ただ潜伏キリシタンがいた地域の教会は とても重いものがあります。
ヨーロッパの教会でも洞窟教会のように修道士の生活の厳しさがしのばれるところがありますが、そういう自ら進んでの苦労と迫害されるのとは全く違います。その地に立つのがつらくなります。でもやはり、行っておかなければという気持ちになってしまいます。 今度は天草の崎津教会、大江教会にいくつもりです。これで終わりです。崎津教会は 『守教』のアルメイダ神父がもとを築いた教会です。

 西念寺のことは全く念頭になかったのですが、写真を拝見して、いくつか納得のいくことがありました。一つは葛本舗で売っている太閤葛餅です。お寺の由緒を写してきてくださったので、秀吉が秋月に来たことが実感できます。全くの余談ですが、甲州に行ったばかりでしたから、武田氏の家臣の小山田氏とかかわりがあるのかと思いましたら、甲斐の小山田氏は「おやまだし」、薩摩の小山田氏は「こやまだし」で完全に別の家系だそうで、一つ賢くなりました。
 今村天主堂もたぶん行けないと思います。写真をたくさん写してくださって、感謝しています。ロンバルジア帯や付け柱のようなデザインでロマネスクの雰囲気もありながら、屋根のたたずまいなどは日本的な感覚ですね。『守教』を読み返し、キリスト教の日本的需要のあり方も含めて、感慨深いものがあります。

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