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2022年1月

2022年1月29日 (土)

『ハムネット』 マギー・オファーレル著

昨年末の新聞の文芸時評で紹介されていて、すぐに買って楽しみに眺めていた本をようやく読みました。読み始めるとぐいぐい引き込まれて一気読み。

ハムネット』 マギー・オファーレル著 新潮クレスト・ブックス 

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帯の裏表紙側には作者、マギー・オファーレルの言葉として、
シェイクスピアの妻、アン・ハサウェイは無知な百姓あがりの売女で、天才少年を誑かして結婚し、夫は彼女が大嫌いだったので逃げるためにロンドンへ脱出しなくてはならなかった、とわたしたちは聞かされてきました。どこからこんな発想になるんでしょう?どうしてみんな、自由奔放な男性芸術家像にこだわるあまり、彼女をこき下ろさなくちゃいけないんですか?

何故、シェイクスピアはあんな年上(8歳年上)の女性と結婚したのだろう、ではなく、むしろ、何故彼女は金も職もない青二才を選んだのだろう?と考えるべきだと、この小説を書いたのです。

この女性については出生や結婚といった公的記録以外は何も知られていないこと、又シェークスピアについては20歳から28歳くらいまでの「失われた年月」と呼ばれる空白期間の謎があるそうです。そこで想像力を駆使して当時の社会情勢を考えにいれてこの小説が書かれたのです。

ここではウイリアム・シェイクスピアという名前は出てきません。手袋製造業者ジョンの息子、としてしか書かれていません。アグネスはアニェスと発音されて、そのままアンとなる場合があり、ハムレットとハムネットは実際には同じ名前だそうです。シャークスピアを暗示しつつも演劇に携わる男を父親とするある一家の物語となっています。フィクションだからでしょう。それで通常のハムレットではなく、ハムネットにしたのだと思いました。

物語は夫婦の11歳になる息子ハムネットが、双子の妹ジュディスの具合が悪くなったので母を探すがみつからないので医者に行くが医者も不在、という状況から始まります。その時母は1マイルも離れた農園にいたのです。そこでミツバチを飼い、薬草を育てているのす。

そうして時計の針は15年前に巻き戻されます。ジョンの息子とアグネスの出会いのときへと。時計はさらにまきもどされて、アグネスの子供時代へ。アグネスの母は森の民。いつも子どもを背中に括りつけてはだしで歩いていた。その母に愛された記憶、ありのままの自分を愛してくれた、そんな愛情にまた出会えたらそれを両手でつかんでやる!その相手がジョンの息子だったというわけです。

その出会いの場面、二人の付き合い、結婚式の様子、どれも生き生きと描かれ、当時の社会も分かります。  
アグネスは薬草に詳しく、人の運命が分かる、不思議な能力を持っていました。自由で我が道を行く、素敵な女性が書かれています。
夫が横暴な父親のもとで生気をなくしていくのをしって手袋商売の販路を広げるという口実でロンドンに出ることをすすめます。

アグネスたちもいずれはいくつもりでしたが妊娠。
アグネス自分には子どもが二人、ということが
が分かっていました。
しかし二度目の出産で生れたのは双子だったのです。子供が三人に。
妹のジュディスは小さく生まれ体が弱かったので、ロンドンにはいかず、そのままストラッドフォードに住みます。
そうしてペストの流行。

やっと帰ってきた母アグネス。ジュディスが病気!ジュディスの世話にかかりっきりになっているとき、ハムネットも病気になっていたのです。
絶望的な看護の努力、そうして亡くなってしまってからの長く続く哀しみの描写が何ページも続くのですが、胸を打ちます。

ジョンの息子は劇団の仕事に穴をあけるわけにはいかな、とロンドンに行ってしまいます。

家族はばらばらのまま、アグネスは昔の元気はなくなり、息子の幻を追って、ただ生きているだけという状態の内に4年の月日が流れます。

そうして「ハムレット」の上演を知りアグネスはロンドンへ

この小説は子どもを失った家族の再生の物語、といえるでしょう。
感動的ですてきな物語でした。

読みながらもう30年近く前に行ったアン・ハサウェイの家やストラッドフォード・アポン・エイボンの町を思い浮かべました。アルバムを開き(主人がパソコンにとりこみ何とかいう共有システムにいれてあるので簡単に見られます)旅行の時を懐かしみました。
グーグルでストリートビューしてみると町の景色なども違っているので、ここに少し当時の写真を載せます。 

 

アン・ハサウェイの家
たけ高い花に囲まれた家。イギリスの茅葺って日本のとは違うな、とながめました。内部の写真はありません。
多分、ここだったと思います。台所で料理用ストーブをはじめてみたのは。それまで小説でストーブで料理する、というのを読んで不思議だったのです。主人は「二階の寝室の天井がひくかったね。あの頃の人は小さかったのだなあと思った」といっていますが、私は憶えていません。

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建物の前横の庭です。リンゴの木! 小説ではリンゴの保存小屋が密会の場所でした。

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今は整備されて置物や椅子セットがおかれているようです。元の儘がいいのに。

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これがどこだかわからないのですよね。

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ストラッドフォード・アポン・エイボンの町

一家が眠っている ホーリー・トリニティ教会

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シェイクスピアの生家

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通りをみても、昔の方がお花がいっぱいだったような気がします。

もう行くことがないイギリス。ひたすら懐かしい。

 

2022年1月23日 (日)

旧作映画「いのちの停車場」「コンフィデンスマン、ロマンス編」

去年、公開された映画です。妹にとてもよかったとすすめられてはいたのですが、映画館怖しで観ていませんでした。
それがしばらく前からユーネクストでみられるようになっていたのです。

いのちの停車場イントロダクション|映画「いのちの停車場」公式サイト (teisha-ba.jp)

上記ホームぺージの作品紹介から

東京の救命救急センターで働いていた、医師・白石咲和子(吉永小百合)は、ある事件の責任をとって退職し、実家の金沢に帰郷する。これまでひたむきに仕事に取り組んできた咲和子にとっては人生の分岐点。久々に再会した父(田中泯)と暮らし、触れあいながら「まほろば診療所」で在宅医として再出発をする。「まほろば」で出会った院長の仙川徹(西田敏行)はいつも陽気な人柄で患者たちから慕われており、訪問看護師の星野麻世(広瀬すず)は、亡くなった姉の子を育てながら、自分を救ってくれた仙川の下で働いている。ふたりは、近隣に住むたった5名の患者を中心に、患者の生き方を尊重する治療を行っており、これまで「命を救う」現場で戦ってきた咲和子は考え方の違いに困惑する。そこへ東京から咲和子を追いかけてきた医大卒業生の野呂聖二(松坂桃李)も加わり「まほろば」のメンバーに。野呂は医師になるか悩んでおり、そして麻世もまた、あるトラウマに苦しんでいた。
様々な事情から在宅医療を選択し、治療が困難な患者たちと出会っていく中で、咲和子は「まほろば」の一員として、その人らしい生き方を、患者やその家族とともに考えるようになってゆく。野呂や麻世も「まほろば」を通じて自分の夢や希望を見つけ、歩みはじめた。
生きる力を照らし出す「まほろば」で自分の居場所を見つけた咲和子。その時、父が病に倒れ・・・。父はどうすることもできない痛みに苦しみ、あることを咲和子に頼もうとしていた—。

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吉永小百合が演じる女医、咲和子は救急救命医から、在宅医になって訪問診療をする、ということは知っていましたが詳しい内容は知りませんでした。在宅診療というのが昔はよくあった、往診を引き受ける医者、という程度にしか考えていなかったのです。しかし、この映画の在宅医、というのは癌などで治る見込みがあまりない患者を病院ではなく、自宅で治療する医者、と言う意味でした。
救急現場で命を救う仕事をしていたのが、ここでは生きるための治療も勿論するのですが、命の終わりに付き合う、といった 仕事になることが多いのです。いのちの停車場、とはそういう意味だったのです。

いくつかのケースが紹介されます。妻を病院で他人任せにしたくないと、家で頑張る老いた夫、家はゴミ屋敷状態です。
生まれ変わったら人魚になりたいという小児がんの女の子、もと高級官僚だった末期がんの男は家を出て行ったきり帰ってこない息子に会いたがっています。それぞれのケースはこれまでの医療ドラマで似たようなのを見たことがあるなあ、と言うところはありましたが、それなりに一応引き込まれて観ました。
舞台が金沢、私の元本籍地です。もう50年以上いっていません。記憶とは全く違うのですが、それでも懐かしい気持ちで風景を楽しみました。街並み、川筋とてもきれいでした。 

これはネタバレになってしまいますが、劇場公開から日にちがたっているので書いてしまいます。一番考えこんでしまったことですから。

咲和子の父は骨折から始まって色々な病気になりその結果、脳が誤作動を起こして絶えずものすごい激痛を感じるようになってしまったのです。それ以前にも点滴につながれて生きるのはいやだ、ということは咲和子に話していました。

私はこれまで痛みというのは薬によってとれるものだと信じていました。それで「癌になったら治療はしなくていいから、痛くないようにだけはして」と言っていました。それがお薬によっても取れない強烈な痛みがあるなんて、想定外です。

考えた末、咲和子のとったのは安楽死させることでした。日本では安楽死させることは法に触れる行為です。それも自分の父親をわが手で、なんと恐ろしいことか。しかし痛みから解放させてあげたい気持ちも娘だからこそ、より強くせまってくるのです。

日本では本人や家族の意思で、積極的な延命措置はしない、ということはできます。
母が高齢で入院した時は細かく医者から聞かれました。胃ろうはするかとか呼吸が止まった時に心臓マッサージは?等々。
然し命を積極的に終わらせる行為はできないことになっています。
でも治る見込みがなくて薬でも取り切れない痛みが続くときなど、私なら絶対、死なせてほしいです。国によっては 安楽死が認められている国もあります。日本も早くそうなってほしいです。
重い映画でした。見終わってぐたり、疲れてしまいました。

この映画、主演は吉永小百合さん。実は私と同じ年齢。おきれいでとても若く見えます。でも医者というテキパキ判断をくだして人を引っ張っていく、という仕事をするにはエネルギーが足りないような気がしました。これの撮影時は75歳くらいかもしれませんが、それでも救急救命医というハードな仕事をするという役どころは無理な気がしました。最初の画面で違和感を感じてずっとそれが抜けきれないまま観てしまったせいか、映画としては平板なものになっている、と思いました。

救急の現場で切った貼ったの手術を次々精力的にこなし、死から救い出す仕事をしていた医者が、終末医療の場では体をかがめて患者に寄り添い安らかに死を迎えられるようにする、そういう医者への転換、この戸惑いと変身があってこそ、映画としてのうねりが出ると思うのです。 
でも吉永小百合さん、救急医としてのエネルギーは発散させていません。患者に寄り添う医者としては向いていると思いましたが。

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年齢より若く見えるとはいっても若い人達の間に立つと、どうも。
上の写真は映画の1シーンを私がこいに切りとったわけではなく、公式ホームぺージの写真(海や砂浜などは切り詰めましたが)です。
調べてみると父親役の田中泯さん、診療所の院長役の西田敏明さん、と実年齢が同年と一年上です。みかけは決してそこまで老けてはいませんがやはり演じるのに無理があるような気がしました。(これは私だけの感想かと、ネットでパラパラ感想をみてみましたら、ミスキャストという意見もいくつかありました)

ドラマなどで一生を演じるために少女期から老年までを同じ俳優が演じることはあり、それはそれとして納得してみるわけですが、最初から登場人物と実年齢が離れすぎているのは、やはり考えものです。

自分が高齢者であるだけに身につまされるところがありました。

 

重い映画でしたので、気分転換にとみつけたのが

コンフィデンスマン」ロマンス編

シリーズ第三作が公開中、ということで内容はよく知らないけれど、ともかく愉快な映画らしいということで第一作を見てみました。

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詐欺師三人組(上写真の三人)が香港の氷姫と呼ばれる女性実業家の持つ何百億という値のつくパープルダイアモンドを狙うのが目的、それを赤星という闇の帝王も狙っています。
あれやこれやのトリック、どんでん返しのどんでん返し。抱腹絶倒ものの映画だったはずです。
ところが、このスティール写真では分からなかったのですが、主要な役どころである氷姫、よく見ると演じているのは竹内結子、ダー子(長澤まさみ)の元恋人詐欺師ジェシー
が三浦春馬だったのです。 
ハラハラドキドキ、手を打って笑いたくなるような場面も、なんだかただただ痛ましくて見ていられない感じでした。
また東出昌大が愛は尊いものだ、とか何とか言うせりふ、どの口が言ってるのが?と言いたくなってしまったり。

コロナ感染が始まってから丁度2年経ちます。改めて色々なことがあったな、としみじみ感じてしまいました。

 

2022年1月19日 (水)

『倒産続きの彼女』『黒牢城』

秋から旅行が続いて、旅関係以外の本が読めませんでした。旅日記を書き終えるまでは、と読書は封印してきましたが、間に息抜きに読んだのが『倒産続きの彼女』

倒産続きの彼女』新川帆立著 宝島社

去年(と言ってもこの本も実は去年の内に読んだのですが、旅行記の途中には挟みにくかったのです)面白く読んだ『元彼の遺言状』の続編とあらば、読まずにはいられません。    

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若い女性弁護士が事件に巻き込まれる話ですが『元彼の、、』で活躍する剣持麗子ではなく一年後輩の新米弁護士・美馬玉子が活躍というか、巻き込まれます。上司として剣持麗子も出てきます。
いきなり合コンの場面から始まります。本の帯にもあるように、玉子は時間をかけてメイクして、弁護士であることで相手がひかないようにブリっ子ぶって婚活に励む普通の女の子。可愛い女の子のお喋りのような文章です。
玉子は両親を早くに亡くして祖母と二人暮らし、このおばあさんも微妙に事件に絡んできます。

表紙折り返しの内容紹介から

山田川村・津々井法律事務所に勤める美馬玉子。事務所の一年先輩である剣持麗子に苦手意識をもちながらも、コンビを組むことになってしまう。二人は「会社を倒産に導く女」と内部告発されたゴーラム商会経理課・近藤まりあの身辺調査を行うことになった。ブランド品に身を包み、身の丈に合わない生活をSNSに投稿している近藤は会社の金を横領しているのではないか?しかしその手口とは?ところが調査を進めるなか、ゴーラム商会のリストラ勧告で使われてきた「首切り部屋」で、本当に死体を発見することになった彼女たちは、予想外の事件にまきこまれて、、、。  

裏社会の話が出てきたりするのですが『元彼の、、、』よりストーリーはすっきりしているような気がしました。気分転換にはもってこいの一冊。一気読みしてしまいました。

***

面白いと評判のこの本、早く読みたいと買っておいて、人参にして旅日記をがんばりました。がまんできずに日記完成前に 少し読んでしまいましたが。 

黒牢城』 米澤穂信著 角川書店

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帯の紹介から
「おぬしならばこの曲事を解ける」
本能寺の変より四年前、天正六年の冬。織田信長に叛旗を翻して有岡城に立て籠った荒木村重は、城内で起きる難事件に翻弄されている。動揺する人心を落ち着かせるため、村重は、土牢の囚人にして織田方の軍師・黒田官兵衛に謎を解くように求めた。事件の裏には何が潜むのか。戦と推理の果てに村重は、官兵衛は何を企む。

私は歴史に疎いので荒木村重という人物をよく知りません。大河ドラマ「黒田官兵衛」に出てきた、官兵衛を閉じ込めた人、演じた田中哲司の顔がおもい浮かぶだけで、よい印象はありません。
池田家の家臣の子に生まれながら、伊丹(有岡)城主となり、摂津一国を任せられたほどの人物ですから、それだけの器量のあった人物なのでしょう。 
あたかも巌のごとく、体の大きな男だ。顔は浅黒く焼け、細く落ち窪んだ目は、どこか眠たげで、人が見れば鈍根とも思うだろう。だがかれはひとたび戦場に立てば火を噴くように烈しく戦い、重い口を開けば諸人を説き伏せ、要に応じて奸計をめぐらせる乱世の武士であった。
と書いています。

「進めば極楽、退かば地獄、戦え、戦え」の戦国の世です。
天正六年、村重は信長に叛旗を翻します。理由は諸説考えられていますが、本当のところは分からないようです(この物語では最後に述べられていますが、もちろん作者の解釈)。
翻意を促すために、信長は黒田官兵衛を送り込みます。

村重は決意を変えず、通常ならば使者は送り返すか、殺すかするところを生かして、土牢に閉じ込めます。官兵衛は殺せ、と 非常に抵抗します。どうやら生かして返されないのは、使者は寝返った、とみなされ人質が殺されることを意味するようです。わが子が殺される、もう殺されている、と官兵衛は村重を恨んでいます。 

十一月、有岡城を巡る状況は、周囲の味方の城が次々と信長の軍門にくだり厳しくなっていきます。

そういう状況の中、城の中で不審な事件が起こります。城中に裏切者がいるのではないか?己の統率力が疑われている、なんとか早急に解決しなければ。謎を解けるのはただ一人、村重よりも知恵のある者、黒田官兵衛。

地下に下りて官兵衛に事の仔細をはなして謎解きを頼みます。はぐらかすような返答しかしない官兵衛。私はわからなかったのですが、官兵衛の話をヒントに村重は事件に手を下した人間を突き止めます。

そうして又次の事件が、そのたびに村重は官兵衛に謎解きを求めるのです。(事件についての詳細は省きます)

語られているのは事件とその解決だけではありません。長引く籠城に将兵の気のゆるみ、村重の将としての資質に対する彼らの疑問、それらは村重の気持ちそのものも不安定にしていく様子が語られます。御前衆にも裏切られているのではないか、と疑いの眼を向けてしまうようにもなるのです。
籠城も一年近く、食料もつきかけています。毛利は援軍をよこしそうにもない。官兵衛に翻弄されている?
手を下した人物は分かったが、誰が命じたのか? 城の中に謀反人がいる?

だしと呼ばれた側室千代保の死生観も語られています。
千代保のことを美しい女性であった。しかし生の輝きのない女性であった。肌は白く、青みを帯びているようでさえあり、目元にはいつもそこはかとない悲しみが漂う、と書いています。楊貴妃にもたとえられた美しい女性であったとか。
長嶋の戦いで阿鼻叫喚の地獄を生きのびた千代保は
あの時退いたものどもは地獄に落ちるのか、さる高僧に尋ねると
末法の世、凡愚の身で自ら救うことの不可を説き、、、、、、進めば極楽とは自らの力で自らを救おうとする、教えに沿わざる振る舞いぞ。退かば地獄とは、阿弥陀仏がなにとてそのよううなことを誓われようか。なんたる愚かな方便よ」とお怒りになられたと言います。それで私が声をかけられる者には進もうにも進めぬ者にも極楽はあるのだと伝えてきました
刀や鑓をもって戦う男とただ翻弄される女性の世界観と言うか死生観の違い
彼女にとって死ぬことは極楽にいくことで恐れることではなかたのかもしれませんが、そういう死生観しか持ちえなかったあの時代の武家の女たちが気の毒に思われてなりません。切支丹の殉教者のようにも思われます。

辞世の歌が何種かありますが、この小説にあげられているのは

*みがくべき心の月のくもらねば ひかりとともににしへこそ行
しかし
*残しをくそのみどり子の心こそ おもひやられてかなしかりけり
現世に心を残すところがなかったわけではないのです。

最後は少しの供と村重は城を出るのですが、出た理由、其の後恥を忍んで生き延び続けた理由もを私なりに考えてみたり、しばらくこの本の周りをぐるぐる回っておりました。

の小説は単に謎解きミステリーに収まらない奥行のある内容でした。お薦めです。(茶色の文字は本書からの引用)

追記 
なんと昨夜のニュースでこの『黒牢城』の直木賞受賞が報じられました。
グッドタイミングでブログアップしたことになります。(😊)
候補作品となっていることも知りませんでしたが、候補になっていたならもちろん受賞は確実だったと思います。
米澤さん受賞おめでとうございます。

2022年1月16日 (日)

本年もよろしくお願いいたします。

旅日記がなかなかはかどらず新年の御挨拶もできないまま1月も半ばを過ぎてしまいました。

あらためまして、今年もどうかよろしくお願いいたします。

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今年のお正月は31日に娘たちがワンちゃん連れでやってきて3日まで滞在、息子たちは1日夕方やって来て(泊まらない)6人プラス1匹のお正月でした。

柴犬さくらちゃんは気が弱いので、知らない家だと椅子にもぐりこんで出てこないのでは?と心配しましたが、トコトコとあちこち見て回った後はリビングにゆったりねそべってくつろいだ様子でホッとしました。 

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(おりこうさんで食卓に手を出したりしません)

お正月、殆どの品は生活クラブで出来合いを単品ずつ購入しました。 
作ったのは 海老の旨煮、シイタケ含め煮、紅白なます、数の子味付け、それにお煮しめ替わりに筑前炊きをお鍋に一杯。黒豆は一度しわしわになってしまって以来出来合いを買っています。
1日夜は息子がワインとチーズをもってきたので、 

*ワイン、チーズ、生ハム(暮にスペインの主人の友人からから届いたので)で乾杯
そのあと 
*手巻き寿司(これは我が家のお正月の定番)
*スペアリブ(マーマレード、お醤油などにつけておいたものをオーブンで焼く)いつもならローストビーフにするのですが、 適当なのがなくてこれにしました。結構好評で来年もこれにしようかと思っています。
*アイスクリーム、イチゴ

お正月だか何だかわからないメニューですが、まあよかったのではないかと、メモとして書き残しておきます。

我が家は2日はもう朝はパンです。
お昼もいつものようにパスタ。丁度伊勢丹ドアがくる日でオイシックスのサラダが添えに役立ちました。
*
紅芯大根と蒸し鶏のアップルソースサラダ 
アップルソースがきいていておいしかったです(甘いは美味しい)。
紅芯大根はよくレストランではでますがスーパーではみかけません。
わさび菜、と言うのが入っていました。これは初めて、ほんのり、わさびの味がしました。。伊勢丹ドアのサラダは家でもできそうですが
材料に揃えにくいものがあるので高くつくな、と思いながらもたまにはと注文してしまいます。分量が多いので、4人でも大丈夫でした。

夜はやっと筑前炊きの出番、煮かえしすぎて里芋が柔らかくなってしまいました。
まあ、そんなこんなでぐったりして、だらだら過ごしておりました。

やっとなんとか旅日記をしあげたので、買っておいた本を読み、ユーネクストで映画をみておこもり生活を続けます。 

コロナウイルス退散を願いつつ 

 

2022年1月15日 (土)

天草・長崎旅行 3日目―3 (大浦天主堂~空港・帰宅)

10月18日の続き その3です。

グラバー園からグラバー坂をおりて大浦教会に向かいます。

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(左の木の横辺りがおかしいですが、そこにいた私を消した跡です。それにしても今のPhotoshopはスグレモノです)

おりて左を見ると茶色い煉瓦造りのカトリック大浦教会、がありました。白いはずでは?あとで分かったのですが、本来の大浦教会(天主堂)は観光客が多くて祈りの場に適さなくなったので教区民のために1975年に建てられたものだそうです。上から見たとき、白い教会の奥に茶色の教会が見えたのがこれでした。

右に目的の大浦天主堂が見えました。(階段に人物がいたのを消したので少しおかしくなっています)

美しい教会です。

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階段を少し上がった所の左側の建物がチケット売り場です。

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博物館の入場料込みとのことですが、お高いです。京都のお寺でもちょっとないです。
教会はお祈りの場ですから無料、できれば献金を。博物館はお金を取りますよ。と言うのが本来の在り方のような気がします。(私はこれまでの教会では千円ずつ献金してきましたが、徴収されるとなると?です)
まあ、ここはグラバー邸も近くて長崎でも特に人気の観光スポットでしょうから、人数制限の役割を果たすかもしれません。

ただ、20ページの「大浦天主堂物語」という日本のキリスト教の歴史や浦上、大浦天主堂についての説明が要領よく書かれた冊子がいただけたのはよかったです。

階段を上がり中程左に少し開けたところがあります。

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信者発見記念碑

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記念碑の左横を見ます。 白い立ち姿はプティジャン神父、
その左はヨハネ・パウロ二世です。

池、灯籠、庭園風にしつらえられています。ヨーロッパの教会でこのようにお庭を造るということはないように思います。お寺のお庭が頭にあるのでしょうか。

大浦天主堂  国宝 大浦天主堂 (nagasaki-oura-church.jp)
このホームページはとてもよくできています。これをお読みいただければ私が書くことは何もありませんので
簡単に。

1858年、米・英・仏・露・蘭と修好通商条約を結び、1859年には横浜、長崎、函館に港を開きました。
1863年に長崎に天主堂を建てるために、ローマ教皇庁はフューレ神父、次いでプティジャン神父を派遣。フューレ神父は帰国したため、プティジャン神父が日本人大工たちと建てたのがこの大浦天主堂です。以前、外海の黒崎教会をみたことがありますが、それを建てた川原忠蔵の父川原粂吉もその大工のひとりでした。日本の初期教会建築では鉄川与助が有名ですが、川原忠蔵も忘れてはならない人物です。
外海でド・ロ神父の下、出津教会を建てた日本人大工や、この大浦で大工だった人たちや彼らに学んだ人たちがが其の後、日本の初期教会建築を担ったと言えるのでしょう。
  
1597年、スペイン人司祭などとともに日本人信徒20名とあわせて26名が西坂(長崎駅近く)で処刑されました。
これは西欧では広く知られていて(1862年には26人は列聖されています)フューレ神父も西坂の地に教会を建てたかったそうですが、居留地の外には建てることが許されなかったので、教会は西坂に向けて建てられることになったそうです。
  
1864年末完成、1865年2月献堂式。日本二十六聖殉教者聖堂と命名。当時は禁教時代なので、これは外国人用でした。
その一か月後、男女子供あわせて12~15人達が門のところにいるのを案内すると、自分たちが切支丹であることを明かしました。「信徒発見」です。これは教会側からすれば、で切支丹たちにとっては「神父発見」だったのです。
以前、外海でバスチャン屋敷跡に行ったことがありますが、そのバスチャンの預言に「コンヘソロー(告白を聞く司祭)が大きな黒船に乗ってやってきて、毎週でも告白ができるようになる」というのがあり、それで彼らはやってきたのです。潜伏切支丹たちにとっては大きな喜びだったでしょうが、これが遠因となって(と私は考えている)役人に存在が知られてしまい、恐ろしい浦上4番崩れも起きてしまうのです。
 

1839年に教会は増築され現在の形になりました。 

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中央のマリア像は信徒発見の記念にプティジャンがフランスに注文した「日本之聖母」

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中は写真禁止でした。外からならいいかと撮ったのですが、よく見ると「室内の撮影はご遠慮ください」となっていて外からでも室内を撮ったものは駄目そうなのでここには載せません。望遠がきいてとても綺麗に撮れたのですけれど。

入口あたりなら許されるでしょうか。

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でも53年前に来た時は写真はとってよかったのです。その時のぼんやりした写真。(現在は祭壇の横に、室内の撮影禁止の立て札があります)

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これでは仕方がないのでホームぺージからお借りして

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お天気のせいもあってか、中は薄暗かったです。それだけに余計ステンドグラスが映えて美しかったです。
この教会は他の日本人が見様見真似で建てた教会(悪く言っているつもりはありません。素晴らしい教会がたくさんありましたから)とは違って、ヨーロッパの教会そのものだと思いました。 

ヨーロッパのカテドラルではない、小さな町の教会にいるようでとても落ち着いた感じがしました。
いい教会です。

左奥にはクリスマスが近いからか、かなり大がかりなプレセピオがしつらえられていました。 

右奥 (これもホームページからお借りした写真です)

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1865年、潜伏キリシタンたちが駆け寄ったというマリア像です。

ところで、このブログでは時刻を時々記していますが、実際には道中、時計は殆ど見ませんでした。そうしてなんとなく、 長崎に泊ったのだから、時間に余裕はあるはず、美味しいお昼をいただいて、出島にも行ってみたいと考えていました(他の観光名所は一応、昔観ていますから)。ところがもう13:45。空港バスは20分間隔で、14:35発に乗る予定です。あらあら、博物館に寄る時間もありません。

この教会、気にいったのでもう少しゆっくりしたかったのに。

教会からの階段をおりたところで「祈念坂」に行くべきことを思い出しました。
教会の横の細い道↓へ入りました。

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↓途中、右に坂道

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違うのかしら?階段を上がって進み、車の所を右に折れればよさそうに思えます。坂、階段が苦手なので間違っていると困ると迷っていると、主人が「ここで待ってて、様子を見てくる」しばらくして「どこまでも階段だから、違うのじゃないかな」それで時間もないことだし、ホテルに戻ることにしました。ところが家にかえって写真を見ると、これは教会ではありませんか!頑張って私も行けばよかった!ここが遠藤周作氏お薦めの祈念坂でした。もう少し上がれば、教会を左に見下ろせる地点(『遠藤周作と歩く長崎巡礼』100ページの写真)だったのです。(13:49)

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(この道は車の泊まっている道を右に進み もう一度左に折れた道)
教会前に戻り、グラバー通りを下りていきます。折よくコンビニの前に泊っていたタクシーに乗ると、ホテルまで5分くらいでした。荷物を受け取って(預かり札が見つからなくて慌てましたが)バス乗り場へ向かいます。

へんな迂回路を通って東口へ行きます。長崎駅前には広場がありその向こうに大通り。この大通りを渡ったところに長距離バスターミナルがあるのです。ところがここには横断歩道(信号)がないのです。広場の上に屋上広場がありそこを経由して向こう側に行くようになっています。道路まで行ってそれに気づき、戻って広場に上がる階段へ。ともかくバリアフリーではないのです。
(グーグルマップから)左下が駅東口です。

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主人は坂道も階段も平気な人ですから、キャリーと私の手提げも持って駆け上がっていきます。私はあとからヨタヨタ。一人だったら途方にくれていたと思います。 

それでもぎりぎり14:25(調べたときにこの時刻はなかったのですが)のバスに乗れました。
空港までバスで1時間くらいかかります。バスは空港までノンストップではなくしょっちゅう停まります。

バスだと渋滞を心配しなければならないので、早めに乗ったのですが、順調に行けました。
17:00発の」飛行機ですから、時間は充分にあります。
この空港は三回目です。少し変わっているところもありますが、前回五島からの帰りと同じお店で遅めのお昼にしました。

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長崎ちゃんぽん、美味しかったです。

これまで殆ど買い物ができなかったのであれこれ物色、ぎりぎりで、出発が15分遅れた飛行機に乗り込みました。

全て順調で無事帰宅。 
原城址に行けなかったのは残念でしたが、天草が満足できるものでしたから、今回の旅はよし、とすることにしました。(16787歩)


家に帰って空港で買った大村寿司(角寿司)で夕食としました。

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食べ終わってから写真の撮り忘れに気が付きました。角寿司は一種の押しずしで、上部は錦糸卵におおわれていて、下のごはんの間に具がはさまれているものです。四角く(この場合は2×3に)切れ目がはいっていて、一切れずつとりだしていただくようになっています。
ちゃんぽんも角寿司も長崎名物で、前にもいただきましたが、どちらもまあ、美味しいです。

買った食品はいくつかありますが、ひとつだけ。「からすみスライス」

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飛行機から下りるときお土産物の袋にウールのスカーフをいれておいたら、なんだか濡れているよう、それに何とも言えない匂いが、、、。 少し焦げたような、いやな匂いではないのですが、気になる匂いでそのもとが、このからすみオイル漬けでした。(スカーフは手洗いで無事でした)
からすみってこんな匂いだったのかしら?以前トルコで買ってきて、おろしてパスタにかけていただいたことがあります。 その美味しさが忘れられずに買ったのです。

スライスが4切れ程オイルの中に浮かんでいます。おろすのも薄い上に油まみれでおろしにくいので、とりあえず2切れだけ細かくきざんでパスタに混ぜてみました。オイルはたっぷりお皿の上でパスタに混ぜました。このオイルがいいのです。非常に美味でした。まさにご褒美食卓ものでした。(好みはあろうかと思いますので、うのみになさらないでください)

2015年の長崎(平戸、生月島、外海)旅行、2017年の五島列島旅行に続いての潜伏キリシタン関連地への旅行は、原城址へ行けなかったのは残念ですが、これで一応終わりです。

*******

ヨーロッパを旅行してキリスト教の歴史を勉強しなければ、と思い、朝日カルチャーセンターで「ヨーロッパのキリスト教の歴史」と言う講座を長く受講しました。それが終わる頃、ちょうどドレフュス事件のところで今野國雄先生は癌で倒れられ、一年後に復帰。
いそぎ20世紀まで終わったところで、今度は日本におけるキリスト教の歴史をやります、と始められたのですが1ヶ月後に再発、とうとうお亡くなりになられました。日本の歴史に入る前に今野先生は長崎にいらしたことをお話くださいました。それで、いつか長崎を中心とするキリスト教関連の地を巡りたいと願うようになったのです。

ヨーロッパキリスト教史でもカタリ派とか、異端審問とか恐ろしい話がありますが、日本の切支丹は非常に苦難の歴史を歩んできました。特に長崎では原爆までおとされて、禁教がとけたあともなお試練にあわなければなりませんでした。

こういう土地を訪ねるのは心が重く、年のせいか、それに耐える気力もなくなってきました。

学生時代、津和野に行ったときに乙女峠で、ここで多くのキリシタンが亡くなったということが立て札に書かれていて、何故?と思ったものですが、浦上四番崩れについて知った今、再訪してみたいと思っています。

又数年前、函館から松前に行くバスの中で大千軒岳での切支丹処刑の話を聞きました。私は追われて、流れながれてここまできたのかと思いましたが、今回調べてみると、1618年にイエズス会の神父二人が大千軒岳まで布教に行っていたことを知りました。
浦上四番崩れで
は金沢に送られた人達もいたそうです。

気になる場所は色々あります。でも気力をふるいたたせることができるかどうか。 

今また恐ろしい勢いでコロナが広まっています。旅行体力が落ちる一方の高齢者にとって、感染症の流行で旅を阻まれるのはとても残念なことです。束の間 感染者が激減した時に旅行ができてありがたかったとおもっております。

 旅行記完  

 

2022年1月13日 (木)

天草・長崎旅行 3日目ー2(爆心地公園~グラバー園)

11:28頃 浦上天主堂通りで橋を渡ったところを左におれます。

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浦上川の支流(下の川)沿いに少し歩きます。

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爆心地公園 案内板の一部

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見えにくいですが石壁には 原子爆弾落下中心地 と書いてあります。

ながさきの平和 というサイトによると爆心地は研究によっていろいろ変わってきたものの現在のところこの爆心地公園の範囲にあるるということです。 

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言葉の出ない場所です。

11:40頃ここを出て市電乗り場へ

今度は青の電車に乗ります。朝乗った赤もそうでしたが、電車の入口付近の壁にポリの手袋が入ったティッシュペーパボックスのようなものが二箱ガムテープで止付けてありました。つり革を持つためのようです。どなたも使っていらっしゃいませんでした。座れないとき私は主人のコートにつかまっていましたけれど。かなり人は乗っていました。この時期もっとも感染者数が少ないときでしたから気にはしませんでしたが。新地中華街、というところでおりて緑の電車に乗り換えます。電車の本数は多くさほど待つことはありません。でもspeedはだしていないようです。終点の石橋でおります。

主目的は大浦教会ですが、坂道をあがることになるのでグラバー邸からおりていったほうがよいとの情報をaliceさんのブログからえていましたのでその指示に従うことにしたのです。

「石橋」で電車を降りるとすぐ先にグラバース回ロード方面の看板が見えました。右にまがって行くとすぐ

12:31 グラバースカイロードとやらが見えてきました。

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入口に貼ってあった案内図

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斜行エレベータ―です。5階(終点)まで上がります。(無料です)

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出て外を眺めます。右手がスカイロードです。

この見晴らし台の横に今度は垂直エレベーターがあり、それに乗ります。

そこを出たところがグラバー園入口(第2ゲート)です。その横は普通の住宅街です。実は最初のもそうでしたが、乗り方がわからなくてまごまごしていると教えてくださった方がいらしたのですが、その方はこちらにお住まいの方のようでした。

長崎は50数年ぶり、昔、グラバー邸へは下から坂道を上がって行きました。それに建物もグラバー邸しか見ていません。

頂いたルートマップから

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↑マップの、上の入口から入りました。

入るとすぐある建物(チケット売り場の横)旧三菱第2ドックハウス
乗組員たちの宿泊施設だったそうです。

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 12:40

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長崎港の大パノラマ
左上 稲佐山 右下 グレーの屋根に尖塔がたっているのが大浦天主堂(茶色は違います)、右端中央が出島

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旧長崎地方裁判所長官舎 

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旧ゥオーカー住宅には入りました。 

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西洋料理発祥の地だそうです。

ここには大浦天主堂に行くのに坂道を上がらなくて済むためにきたのであって見るためではなかったのですが。やはりあちこち見てしまいます。園内はよく整備されていて中にもエスカレーターがあり、どの建物もお洒落でついつい目をとめてしまいます。

最後にグラバー邸に行きました。工事中で遠回りして行かなければなりません。

そうしてなんと外観写真撮り忘れ、 

↓は ホームぺージから 拝借 

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夜景はどうも、と思うので 
ルートマップから、見開き閉じ合わせに隙間があります。

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屋敷内をさっと一回り。
13:20頃 グラバー園をあとにして大浦天主堂にむかいました。大浦天主堂は次回に

 

2022年1月11日 (火)

天草・長崎旅行 3日目ー1(浦上教会)

12月18日(土)

気持ちよく目覚めてカーテンを開けてみると
お向かいが稲佐山でした。

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前を流れている川は浦上川だと知りました。

右をみて、 
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左をみて。かすかに白い女神大橋が見えています。
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あら、もう8:20です。朝食に行かなければ。
2階におります。 
ここはこの時期、珍しくビュッフェでした。
客数もそう多くなく(皆さんもうお済ませになったのでしょうか)日本らしく、和食もあったせいか、洋食メニューはそれほど多くはなかったような気がします。

これは私のではありません。私はもっと少量です。

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少ししかいただけなくても五つ星ホテルの朝食は気分がよかったです。ついゆっくりしてしまいました。  

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もう誰もいなくなりました。
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フロントとつながっています。

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お部屋に戻ってパッキング。
キャリーはフロントに預けました。

このホテル、モダンですてきなのですが、バスや市電(正確には電気軌道と言います)に乗るには不便で東口まで行かなければなりません。
昨夜の変な迂回路を行きます。長崎駅は2022年新幹線開通をめざして大改造中なのです。(新幹線開通といっても博多とつながるわけではなく武雄温泉と結ばれるだけです。)
バス乗り場で、浦上行乗り場がよくわかりません。ホテルでも、バスはいろいろあって難しいので市電がいいですよ、と言われました。(事前の調べではバスの方が教会のすぐそばまで行くことになっていました)
市電で 松山 と言うところで降りるとすぐ、だとのことでした。私の調べでは 平和公園停留場 でした。 
バス乗り場を探しているときやはりある方に「市電で松山にいったほうがいい」といわれて結局市電に乗りました。ところが、松山、という駅になかなか到着しません。おかしい!教会は遠くなるような気がして、へんだと言いあっているうちに、若い女性が「駅の名前が最近松山から平和公園にかわったのですよ。おりて戻ったほうがいいです」と教えてくださいました。おりて逆方向の電車に乗り換えて平和公園停車場でおりました。
計画では行きがバス、帰りはこの市電と決めていて、ルートはグーグルマップのストリートビューでしっかり予習してあります。

電車をおりると、向こうの人だかりは平和公園に行く人達です。昔行ったことがあるので、今回はパスです。(10:35)

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浦上天主堂通り、平和商店街と進むと、向こうに教会が見えてきました。(10:43)

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すぐに教会堂には上がらず左に回ります。原爆によって落下した旧鐘楼がそのまま保存されています。(10:55)
今、時刻を記入してみてずいぶん時間がかかっているな、と思いました。私は足がとても遅いのです。

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正門側ではなく、すぐ横の階段をあがって、途中、左に曲がり横からもう一度旧鐘楼を見ました。

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すぐ下に少しだけ堀のような川が見えています。浦上川の支流だと思います。まるでお城の周りのお堀のようにこの小高い丘を囲んで流れています。

教会正面への坂をあがる途中、横に入る小道がありました。

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入ってみると

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被爆した聖人像などが置かれていました。獅子がある、というのが神社みたいです。

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教会のまわりには新しい建物が多いです。
 
私がこの浦上に来たかった理由は 遠藤周作の『女の一生』(新潮文庫)を読んだからです。
この小説の 一部キクの場合 の舞台が浦上なのです。(2015年の長崎旅行の最後、参考書籍のところで少しだけ触れました)

この物語は、江戸末期から明治にかけての浦上四番崩れで津和野に送られたキリシタンの清吉とキリシタンではない娘キクとの話です。浦上山里村でキクの住む馬込郷(長崎駅と浦上天主堂の中間あたりに聖徳寺、というお寺があるのですが、そのあたりが馬込のようです)は非キリシタン、ほかの四郷は潜伏キリシタンの住む郷で、馬込の人たちはよくは分からないけれど、それら他の郷に住む人々をクロとよんで接触を避けていました。
キリスト教のことは皆目分からないキクはただただ清吉にひかれ、そのため遊女にまでなり、清吉が生き延びて戻ってきたときにはすでに亡くなっていた、という読んでいてとてもつらくなる物語です。
然し浦上四番崩れの実態を知るためにも必読と思います。 

遠藤周作は 『切支丹の里』(中公文庫)で
 長崎の人に聞くと浦上村というのは、昔一種、蔑みの眼で見られていたらしい。それはこの村が貧しいうえに、禁教切支丹をひそかに信じていることが、ほのかにわかっていたからかもしれぬ。 
これより少し前に、もう浦上は今日、もう村の面影は全くない。と(初版は1974年)書かれていて、それから50年近くたっているので昔の村の姿はみられないことは分かっていたのですが兎も角きてみたかったのです。

来るときの道筋や上の写真にみられるように今では草深い田舎ではありません。昨日来るとき驚いたのですが、浦上駅は特急停車駅でした。

浦上教会 浦上小教区の成りたち (odn.ne.jp)

浦上教会の歴史は上記 浦上天主堂ホームぺージの歴史のところで詳しく述べられています。

日本には三つの大司教座がありますが、この浦上教会は長崎大司教座教会です。すぐ上の写真左端に見えているドームのある建物は大司教館。立派です。 

有馬晴信は自分の領地である浦上をイエズス会に寄進、それ以後ここには多くのキリシタンが住むようになっていました。

これまでに4回、崩れと言われる切支丹大量検挙がありました。その最大の迫害が四回目で、浦上四番崩れ、といわれるものです。
江戸末期 1867年に事件は起こりました。
1865年に献堂式が行われた外国人のための大浦教会に、話を伝えきいたのか、浦上の信徒たちが訪れます。有名な信徒発見です。
ひそかに村の信徒たちと神父の交流が始まります。自分たちの信仰の正当性をしっかり認識するようになったのでしょうか、これまでは聖徳寺の檀家としてお葬式はお寺でしてもらって(そのあと自分たち流にキリシタンとしての弔いをひそかにしていた)いたのをお寺に頼まなかったことから、キリシタンであることが発覚してしまったのです。
幕府の中には穏便に済ませようという声もあったのですが、厳罰に処するべきという声の方が強く、明治になると、特に新政府は神道を重視した為キリスト教は引き続き禁教とされました。
摘発された人々について諸外国から、斬首は不穏当と抗議され、全員流配と決定。浦上の3394人は20の藩にわかれて流されました。そこで拷問や苦役を受けたのです。
1873年、不平等条約改正には信教の自由を認めるほかはないことから禁教の高札が撤去され、彼らは浦上に帰ることができることになりました。
3394人が浦上を出たのですが、殉教者613人を出し、1011人は苦難に堪えられず、信仰を捨てたましたが、帰郷後、その大部分は再び元の信仰に帰り、一度背教したことに対する償いをしたそうです。

かろうじて生き延びて戻ってきた人々にとってよりどころになる神の家は どうしてもほしいものでした。
貧しい中から、
建てたのが浦上天主堂です。場所としては絵踏みが行われた元庄屋屋敷です。
資金難で1895年着工、1915年献堂式。双塔完成は1925年。
ところが1945年8月 原爆により倒壊。(↓絵葉書)

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廃墟を被爆記念に残して、他の土地に新しい教会を建てるか、いや絵踏みが行われたこの地に再建すべきと議論があったのですが、結局この地に再建されました。1959年完成。

 鉄筋コンクリート造りですが、このように化粧煉瓦が貼られたのは1980年、教皇訪日の機運が高まったときだそうです。

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↓絵葉書 タンパンに相当する場所の彫像、マリアとヨハネはもとからあったもので中央のキリストは新につくられたもの。

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信徒発見150周年記念の碑

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信徒総流配から50周年を記念して建てられた記念碑「信仰の礎」

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中は写真禁止。絵葉書ももう少し普通に撮ったのがあればいいのですが。

中は男性と女性1人づつが腰かけてじっとこちらを見ていて、なんだか見張られているようで落ち着かなくそそくさと出てしまいました。

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この日は非常に寒く、小高くなっているので風当りも強くあまり長く外で立ってはいられません。ざっと回りを歩きましたが、拷問石はみつけられませんでした。

信徒会館の一部が原爆遺物展示室になっているのですが、寄りませんでした。

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坂を下りてこちらが正門です。

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立派な建物、この教会はきれいに整えられすぎていて、おもいえがいていたのとどこか違いました。

11:22 元来た道を戻り平和公園停留場近くの 爆心地公園 に向かいます。 

それは次回に

 

2022年1月 8日 (土)

天草・長崎旅行 2日目―3(大江教会~)

2日目 つづきです。西海岸を行きます。ルート↓  

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岬のマリア像を遠望して美しい海岸線を走ったあと

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トンネルに入りしばらく行くと

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天草ロザリオ館駐車場、丘の上に大江教会が見えます。
来る前にこの真っ白な教会を写真で見たときは何だか安っぽい感じがしたのですが、実際に現地で見上げると周囲に溶け込んでなかなかいい感じでした。

予定ではこのロザリオ館に入ることになっていたのですが、もう時間がないとのことで「カットさせてください」と言われました。そうして車で教会のすぐ真下まで上がって行きました。(大型バスは下に停めなければいけないようです)

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このすぐ下に車を停めて歩いていきました。

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上がりながら横を見ると遠くに入り江が見えました。

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教会横の墓地。長方形の墓碑の上に十字架、まわりに灯籠が立てられ、仏教風とキリスト教風が混ざっているような感じがしました。
↓拡大してみると、左の灯籠の上は 百合?型のようにも見えますが、ほかの灯籠は擬宝珠のようなものが付いています。御線香をあげる台のようなものまであります。

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大江教会
1873年、キリスト教禁止令の高札が撤廃。
長崎神の島の漁師、西政吉が大江村にやってきて、話をしてそれを聞いた道田嘉吉が入信、その後数人が長崎に渡り洗礼を受け、彼らを中心に信仰共同体ができ、旧切支丹を探すことから始めて、教会はしだいに成長していったのです。
1877年には初代司祭としてマルマン神父が着任し、1879年に簡素な教会が建てられました。
1892年 ルドビコ・ガルニエ神父が着任。
ガルニエ神父は約49年間大江教会の主任司祭を務めました(最初の35年間は崎津教会の司祭も兼任)。
神父はここに新しい教会を建てるため、質素な食事ををし、里帰り(フランスへの)のために支給されるお金も帰国せずにためて今ある教会を建てました。 
設計・施工は崎津教会と同じ鉄川与助です。教会は1932年起工、翌年完成しました。
コンクリート造り、天井は折り上げ天上です。(船底天井ともいう)
柔らかいオレンジ色の天井、明るく気持ちが晴れやかになる色合いです。
 
デジャビュ、五島列島の「中ノ浦教会」に雰囲気がとてもよく似ています。こちらの方は誰が作ったのかわかっていないそうです。もう一つ鉄川与助作の作で五島列島にある折り上げ天井を持つ教会は「半泊教会」。とても質素な教会でしたが祈りの場にふさわしい清らかな感じのする教会でした。(2017年、五島列島旅行のおりに訪ねました)

教会に入ると、パーッと明るくはれやかな空間が広がります。あとから入っていらした女性の二人連れは「わあ、きれい」と歓声をあげていらっしゃいました。思わずそう声を上げたくなるような美しさです。

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何だか少女趣味な感じに見えますが、横幅のある教会でゆったり落ち着いた美しさでした。
ガルニエ神父様は教会堂に美しく清らかな天上の世界を再現なさりたかったのでしょうか。

『街道をゆく』で、崎津教会について書かれているところに「教会のなかに入ると、大江教会もそうであったが、畳が敷かれている」とあるので、もとは畳敷きだったということになります。 

ここも後ろから拝見するだけで前方には進めません。
いらしたシスターが「ご説明しましょうか」お二人の女性はお話をおききになっていらっしゃいましたが、私たちは船の時間もあるのでお話は伺わないで、おかれていた絵葉書を買って献金をして出ました。

運転手さんに「横にまわってルルドの聖母の所からおりてきてください。そこで待っていますから」といわれていました。

そこで「ルルドの聖母」の矢印を探して石段を下りました。帰ってから知ったのですが「吉井勇」の歌碑があったのだそうで、見なかったことがちょっと残念に思っています。

吉井勇、北原白秋、木下杢太郎、平野万里らは与謝野鉄幹に連れられて五人で1907年、北九州を旅行したのですが、その一つの目的はここでガルニエ神父に会うことだったそうです。この旅のことを五人が書いた紀行文が「五足の靴」。また白秋は『邪宗門』を書きました。(『邪宗門』は青空文庫で読めますが、ちょっと苦手で読むのをやめました)

教会横には ガルニエ神父像

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ガルニエ神父様はフランスのル・ピュイのお生まれ、とあります。ル・ピュイは93年の初ロマネスクの旅で訪れた町です。大聖堂の他にサン・ミシェル・デ・ギーユと言う岩山の上にも教会がありました。あの頃はあの石段を苦もなく上れたことを懐かしく思い出しました。
大聖堂には黒マリア。又「熱病の石」という病気治癒の黒い石もあります。
生まれ故郷のあの奇岩の町、ル・ピュイに一度も帰ることなく、異国で伝道と奉仕の生活をなさったことに改めて感銘を覚えました。 

階段を下りると

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上の方を拡大すると

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享年82歳。生前、お墓には石一つ置くだけでよい、それよりお金は信者のために使うよう、と言われたそうですが、信者たちとしては建てずにすませるわけにはいかなかったのでしょう。

その横に下りていくと「ルルドの聖母」
1858年、ルルドの14歳の少女ベルナデットが薪を拾いに行ったとき聖母マリアが現れてお告げに従って(マッサビルの洞窟の)地面を掘ると水がわき、その水によって病気が治る奇跡が起きました。そのため、現在もルルドの町には病人が引きも切らずやってきています。
私は2014年に行きました。車いすの行列、きっと病院巡りのはてにここまでやってきたのでしょう。でも本当に治るのかどうか、見ていてつらくなる光景でした。車いすでぐったりした人や担架にのせられた人の群れを思い出すせいかルルドの洞窟はあまり好きではありません。
お寺が素晴らしいお庭を造るように、キリスト教会の庭造りのモチーフがルルドの洞窟ととらえればいいのでしょうか。

やはりルルドの奇跡にあやかろうというのでしょうか、マリアの立つ洞窟があちこちに作られるようになりました。日本では五島列島の 井持浦教会が有名です。崎津教会のように簡単なものは他でもみたことがあります。

この大江教会の洞窟は石組みが立派でした。

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滝石組み、といいたくなります。とても大きな石が使われています。

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11:05 教会を後にしました。

教会を遠望 (車の中からなので ぼんやりしています。
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サンセットラインという海岸沿いの道を走りました。この海は天草灘です。
波が少し出ているような、、、。「さきほど鬼池に電話をしてみましたが、フェリーは出ているそうですよ」と運転手さん。

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11:39 富岡城の真下にきました。タクシー観光のコースには入っていなかったのですが、最終地を鬼池に変更したついでにとおり道だからと、富岡城が見えるところにもよってほしいと頼んでいたのです(追加で3000円増しでした)

富岡城はは砂嘴でつながった陸繋島にあります。

ここはその砂嘴を渡って城の真下、袋池の前です。

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本渡での戦いの後、天草四郎達はこの富岡城を攻めました。
関ヶ原の戦いで東軍に付き、功績のあった唐津城主寺沢宏高は天草郡を与えられ、ここに城を築いて城代を置いていたのです。1637年11月19日と22日に一揆勢は猛攻撃をかけたのですが、城は落ちず、江戸から討伐軍が来るとの報を知り島原に渡ることにしてここをひきました。
元の城はなく、現在見えている建物はビジターセンターだそうです。

戻って鬼池港に向かいます。しばらく走ると「天草四郎乗船之地」という石碑が見えました。

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富岡城を攻めおおせることが出来ず、ここから島原半島に渡ったのです。

ところで船は12:30出発 13:00についてすぐ向こうでタクシーに乗ります。昼食は船ですませる以外にないので、途中のコンビニでとめてもらって急いでお茶とおにぎりを買い込みました。(普段食べるチャンスがないせいかコンビニのおにぎりって買いたくなるのです)
この時かなり風が強く車のドアをあけるのに苦労しました。

12:00少し過ぎに鬼池フェリーターミナルに着きました。先に私が下りると、おりたとたん目についたのが 欠航中 の看板。

ガーン。「大変、欠航よ!」私が叫ぶと、主人はすぐタクシーの運転手さんに待つように言いました。

運転手さんもおりてきて一緒にフェリーの待合室に入ります。係の人がでてきて「11:30が最後で今日はもう船は出ないのですよ」と気の毒そうにおっしゃいます。運転手さんが電話をかけてくださったすぐ後に欠航が決まったようなのです。

離れ島の悪夢再び、です。以前五島列島では台風にあって、予定の教会に行けず一泊余分に泊まることになったことがあるのです。雨の心配ばかりしていて風のことは気にかけていなかったので、しばし茫然自失。

島旅はこういうリスクがつきものだと改めて思いました。

「もう富岡から長崎行も、熊本から島原行も欠航が決定しています」「熊本から少し離れたところから出る島原行で4時過ぎに出る分はまだ欠航のしらせがきていませんが」といろいろなフェリーの時刻表が出ている冊子を持ってきてくださいました。「電話番号も出ていますからきいてみるといいかもしれません」

昨日天草へ来たあのバスは動いているそうです。橋は二本あるので大丈夫だそうです。しかたがないのでタクシーで本渡バスセンター(町の中心)まで行ってもらうことにしました。
車の中から予約しているタクシーの会社とホテルにキャンセルのお電話をしました。欠航のせいか、ハイ分かりました、でおわりでした。
このまま天草に泊ったとしても、一応見るべきところは見たし、寒い中歩き回る気にもなれないし、明日朝フェリーが出る保証もないわけです。
まずは島を出ることとしました。

バスセンターに着いたのは12:40頃。気の毒がってくださっている運転手さんとわかれて、待合室へ。

次の熊本行は14:00発です。
とりあえずおにぎりを食べました。こんなことなら買わなくてもお店はそばにあったのに、と言いながら。
個人旅行ではいつもお昼がプアです。

主人は「今日の内に長崎に行こう、その方が明日すぐ見物できていい」と言います。まあ、それが妥当でしょう。同意しました。非常に残念ですが、原城址に行くことは断念せざるをえません。

何時に長崎に着けるのか調べることとホテルの予約がまずすべきことです。
スマホの出番です。
ホテルは三本目の電話でとれました。長崎駅西口1分のヒルトンです。
バスは熊本駅到着が16:24ですから17:02の新幹線に乗れます。それで新鳥栖と言う所へ行き鳥栖駅で長崎本線の特急に乗り換えれば19:30頃
長崎に着けることが分かりました。5時間半の移動です。

定刻にバスが来ました。今回は化粧室付きの新車です。

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相変わらずのどんよりした空を茫然と眺めながら過ごしました。

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バスが新しくて気持ちのよいのが救いでした。座席の間隔も広いようで、窓ガラスも大きいです。

16時24分 定刻通り、熊本駅前に着きました。Googleマップでは工事中の様子がうつっていてよくわからなかったのですが、綺麗に整備されていて、駅はすぐ向こうに見えました。
券売機では乗り継ぎ切符の買い方がわかりません。すぐ奥に緑の窓口を見つけました。長崎に行きたいことを告げると、
年よりとみてか「座席指定にしましょうね」「混んでいますか?」「それほどではありませんが、並んでは座れないかもしれませんよ」まあまあ、出費のかさむこと。

まだ少し時間があるので、向かい側のショッピングセンターのようなところでお弁当を物色。ピンとくるものがなかったので、長崎に着いてでいいかと買わずにホームへ。

新幹線はすいていましたが、自由席は満席なのか、連結部分に立っている方がいました。
座席は2-2でゆったりしています。熊本~新鳥栖は新幹線さくらで25分です。

新幹線、新鳥栖駅から在来線、鳥栖駅への移動が心配でしたが、窓口の人に新幹線の出口をでるとそこが在来線の入口です、と言われていましたが、まさにその通りで駅構内を長々移動とか、ましてや一度外に出る必要もありませんでした。
ただ長崎方面への乗り場ホームは跨線橋を渡ることにはなりましたが。

新幹線駅に着いてから在来線発車までは15分、ホームで10分以上待っている間が寒かったです。

特急かもめは乗った車両の後方が自由席、前方が指定席でした。後方はほぼ満席、前方はガラガラでした。これには1時間43分乗ります(時間がかかりすぎ!)。
新幹線と違って車内は暗く、座席間隔も狭いです。外はもう真っ暗で、旅の寂しさがひしひし(オーバーですが)。
長崎にはまだ新幹線は通ってないようです。
そうそう、もう遠い昔のようですが、崎津で「杉ようかん」を買ったことを思い出しました。甘いものは慰めになります。 おなかもすいてきましたし。早速バッグの中をゴソゴソ。ようかん、といっても実際はおもちでした。中に漉し餡がはいっていました。あとはひたすら時計とにらめっこ。
19:25長崎駅到着です。
西口を出ると道路を隔てて斜め前が長崎ヒルトン

ホテル一階はベルボーイのデスクがあるだけです。すぐ係の人が近づいてきて、キャリーをもって、エレベーターに案内され一緒に二階のフロントに行きました。宿泊手続きをして一緒に9階のお部屋に。

このホテルは先月開業したばかりだそうです。お部屋のドアはシールで封印されていました。
ロビーもモダンでステキでしたが、お部屋もステキです。(後から気がついたのですが、奥に本来ならあるはずの椅子テーブルセットがありませんでした)

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不思議なつくりでお部屋の中に洗面台?バスルームの扉はガラスで中が見えます。後で疑問解決。この洗面台と寝室部分を仕切るように板戸をひきだせて廊下とバスルームも引き戸で仕切ることが出来るようになっていました。
何ともお洒落。二人とも、やはり高級ホテルはいいわね、と大満足。

ところで、ぎりぎり滑り込みだったせいか、ホテル内レストランはどこも満席だそうで、外に出る以外にありません。おまけにこの辺りは夜8時には閉めるお店が多いそうです。そうしてこの西口と言うのは何もないところでお店は東口です。駅上にもレストランはあるそうですが、東口に回らなければなりません。

工事中でう回路を行くようになっていました。階段をあがるようなことはないものの、寒い中、かなり歩きました。アミュプラザと言うのが駅上商店街のようです。

エレベータ―でレストランのある5階に行きました。もう20時です。
折角の長崎、おいしいものをいただきたい。本来ならば島原でまた海鮮三昧だったはずですから。
でもここは?家族が買い物帰りに寄っていく、という雰囲気のお店ばかりです。

見ているうちに、どんどんラストオーダーの声が聞こえてきます。大体:15がラストオーダーの所が多く、もう入れてはいただけません。
主人は 刺身、と言います。一つのお店は宴会なのか、賑やかな声がきこえてきます。これはだめです。
お寿司屋さん? 回転ずしですが、仕方がありません
20:20 すし活、に入りました。

さほど込み合ってはいません。

回転はしていますが、殆どまわっていなくてオーダーをするとそれを運んでくる方式です。

主人はまずビールと刺身盛り合わせ、其の後日本酒。
私はおもいつくままに、大トロ、雲丹、いくら、穴子、
20:30 ラストオーダーです、といわれてヒラメを注文しました。主人は握り3種盛りを。   

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大トロ、おいしかったです。うっかりシャリを半分に、と頼むのを忘れたので、ほかはどれも一つずつしかいただけませんでした。穴子は固かったです。

21:00近くにお店を出ました。アミュプラザのほかのフロアはもう閉店で、エレベーターでおりたところが入った所と違っていました。大きく迂回して又変な通路を歩いてホテルに戻りました。

こうして大変な一日は終わりました。(10104歩)

2022年1月 3日 (月)

天草・長崎旅行2日目ー2(崎津)

12月17日(金)続き

網元の家の後、崎津諏訪神社に行きました。(前回載せたマップ⑪)

豊漁・海上安全祈願のため、1647年に創建したと伝わっていて、境内には創建にかかわる1685年銘の鳥居が現存しており、天草市内で最古の鳥居です。

ネットで検索した時は階段が急で上がれるかと心配でしたが、段差もさほどではなく、楽に上れました。

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階段の途中、左側にある建物は崎津教会のシスターたちの修道会でここは旧崎津教会があった場所。マップ⑩

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崎津諏訪神社は1805年の「天草崩れ」では、潜伏キリシタンたちが持っていた信心具を差し出すように指定された場所でした。

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禁教時代 崎津の潜伏キリシタンたちはこの神社の氏子になっていました。この階段を「アンメンリウス、アンメンリウス」(アーメン、デウス)と唱えながら上がったそうです。

鳥居越しに見る教会

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鳥居,としふりて満身創痍です。↓ここに年がきざまれているとおもうがはっきりしません。肥前州になっています?

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 途中にハルプ記念堂

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階段降りてを海にむかって進み左に入ると

崎津教会 マップ4⃣

1569年、アルメイダ神父によって崎津に教会が建てられました。
当時この地の領主だった天草鎮尚は南蛮貿易の目的でアルメイダを河内浦に招いたのです。
貿易港はできなかったのですが、 鎮尚の妻子に続き鎮尚自身も入信、住民の多くも信者となりました。。

禁教時代、信者たちは真夜中に集まって礼拝していました。神父様がいないので村人から先生として7人を選び「水方」としました。(水方とは洗礼を授けるひと。)

来ることが念願だったアルメイダゆかりの地に立つ教会、クリスマスのためでしょう、ライトの連なりが邪魔で少し興覚めでした。

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現在の教会は、フランス人ハルブ神父の時代1934年に鉄川与助によって建てられました。コンクリートで建てる予定が資金不足で途中から木造になっています。↓ 白っぽいところが木の部分です。

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ハルブ神父は新しい教会を絵踏みが行われた吉田庄屋宅に建てたいと長い時間かけて買いとったそうです。(踏み絵とは踏まれる絵のことで絵踏み、とは踏む行為のこと)
 


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ハルブ神父の碑、奥にルルドの泉を模したものが奥に見えます。写真ではマリア様ははっきり分かりますが、ベルナデットは丁度手前の白い柵のところに頭が重なってしまって分かりにくいです。、
「守教」でアルメイダ神父のことを知って、神父ゆかりの地に立つことを楽しみにしていたのでハルブ神父だけで、アルメイダ神父顕彰碑がないことを寂しく思いました。

内部は撮影禁止です。ネットからお借りしました。

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中央を挟んで両側に畳が置かれています。昔は直接座ったのでしょうけれど、行ったときはこのように椅子が置かれていました。三廊式ですが、それほど広くはありません。後方に立って見るだけで前方には行けないようになっていました。
中央の祭壇が置かれている場所が絵踏みが行われた場所です。
明るくすっきりした感じの教会で忌まわしい思い出が残る場所とはおもえません。ほかにお一人いらしてその方もすぐ出ていかれました。しんと静まりかえった教会に佇むと心が落ち着き祈りを捧げたい気持ちになります。

教会を出て次に案内されたのは(運転手さんはガイド役をしてくださいました)崎津資料館みなと屋です。マップ3⃣
点数は少ないのですが、他では見られない貴重なものがいくつかありました。

一見普通の家のようですが、もとは「みなと屋」という昭和11年に建てられた旅館だったそうです。そういえば受付が帳場のようでした。昭和初期、崎津は海産物や木材や木炭の交易によって栄えていて町中には木賃宿や旅館が建ち並んでいたそうです。(写真はパンフレットtから)

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二階に上がって休憩室で何分かの天草の歴史のビデオをみたあと、展示品を見ました。

 宗門心得違之者糺方日記 (上田家文書)上田家は今富村の庄屋

一「御天地にましますおんあるじでいうすさまあんめんりうす」と朝夕唱え祈ります。豊漁の神様とよんでおります。
一 11月の中旬を祝日として牛肉をお供えします。牛肉がないときは魚をお供えします。次の春から55日目は精進の日で、さらに49日目を「上がり」といい魚を用いて、お祝いします。祝日はおにぎりを、精進のときは豆腐を用います。
一 墓参りの時は、手をあわせて「さんとめ、さんとめ、みちのさんとめ、あんめんりうす」と唱えます、、、

など信仰の様子が記されていて非常に興味深いものでした。

これは 天草崩れ と呼ばれる潜伏キリシタンが発覚した時のことだと思われます。
1805年 大江村、崎津村、今富村、高浜村の5205人がキリシタンとして摘発されました。が信心具をすてさせ、心得違いということで絵踏みをさせたうえで無罪放免としました。
幕府側としては一揆のおそれがなければ、変質して土着の異宗となっている信者を、処罰して亡き者とするより、改宗させて村人を確保したほうが得策とふんだようです。(これだけの大人数を処刑したら年貢もはいらなくなる)
その後、潜伏キリシタンとして残った人々は明治になってカソリックに帰依しましたが、今富村のキリシタンたちは今なおこれまでの信仰を守り隠れキリシタンとして生きる道を選びました(現在では神道や仏教に帰依している)。

ここでは写真はとってよいがSNSなどにはのせないように、ということですので、撮った写真は残念ながらのせられません。壁に貼られた解説やチラシの写真をのせることにします。

興味深かったのは
今富の「ウマンテラ様」 怪物?を踏むお地蔵様風の高さ50センチ足らずの石造物です。
今富は崎津の奥にある集落です。

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頂いたチラシの解説から
ウマンテラ様は今富集落で 潜伏キリシタンたちの信仰対象として祀られてきた石造物です。地蔵尊のような外見ですが、不自然に長い錫杖(剣)や背に生えた翼を備え、また総髪で、鼻筋の通った目鼻立ちをしています。これらの特徴は西洋画の「天使ミカエル」に類似しており、これをモチーフに成立した可能性が考えられます。ミカエルはキリシタン時代のメダイや禁制期の平戸地方の「お掛け絵」でもモチーフとして採用されていました。素材は砂岩で、おそらく天草上島に産する下浦石でしょう。下浦石の石造物は近世以降に一般化するため、ウマンテラさまも近世以降に制作されたものと考えられます。単体の直方体石材を掘りこんでつくられています。
この像はかつては、今富集落志茂の丘陵上の同名墓地に、傘、台座付きで祀られていました。

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この今富集落では水方が修験者というのも、おもしろいです。隠れに隠れて、巡礼とか?伝道の旅とか?あるいは修験者がキリスト教信仰に目覚めたのか。

関連サイト 天草の今富集落 | 「おらしょ-こころ旅」(長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産) (oratio.jp)

調べてみるとなんと朝日新聞に記事がでていたのです。私の見落としです。

 坊主頭に天使の羽?潜伏キリシタンが信仰したレアな石像:朝日新聞デジタル (asahi.com)

又 この像と修験道とのつながりに触れている記事として 

天使か天狗か…天草「ウマンテラさま論争」|【西日本新聞me】 (nishinippon.co.jp)

天草テレビ・amakusa.tv 「ウマンテラさま」大天使ミカエルの羽それとも天狗の翼?

などもみつけました。不明をはじるばかりです。

「おらしょーこころ旅」に出てくる 幸木

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柱をくりぬいて隠したというのは、平戸でも見た記憶があります。ここではそのスライドさせる柱そのものが展示されていましたが、これだけは写真不可でした。鮑の貝殻はもっと真っ白でしたが、模様が浮き出る、と言うのは見方によればそうなのかな? という感じでした。
子の今富集落は以前平戸・生月の旅で訪れた外海地区、枯松神社やバスチャン屋敷のある場所に相等するのでしょうか。非常に興味深い場所です。

1階には崎津集落の模型 左奥には旧教会敷地に建つシスターの家が見えています。はっきりしませんが、白い十字架が木壁に付けられています。

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みなと屋、と言う名前から、ちょっとした個人コレクションで、なぜこのようなところにいくのかしら?と思っていましたが、認識不足も甚だしい。貴重な資料や石造物などを持っていて絶対外せない資料館でした。つれていってくださった運転手さんに大感謝です。
崎津では教会と信者が隠れ蓑に使った諏訪神社を訪ねることしか念頭になく今富と言う集落も知りませんでしたが、潜伏キリシタンの歴史を知るうえで外せない場所でした。
知っていたら今富を入れて全体プランを練ったのに、と思いました(タクシーのモデルプランには入っていないが交渉して島原で時間調節すればよいのです)。

10:28 非常に満足して資料館をあとにしました。
車に乗る前に名物として売っていた「杉ようかん」を買いました。日持ちがしないということなので二つだけ。

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10:33 岬に立つマリア像を遠望する写真スポットへ

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向こうは東シナ海、上海まで何もなくひたすら海、だそうです。

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岬に立つマリア様、アイルランドのディングル半島の先にもおかれていたことを思い出しました。

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この後、大江教会にいきましたが、それは次回に

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