北関東(埼玉・群馬)の旅 2日目ー3(高麗神社)
12:00に高崎駅について お昼をどうしましょう。駅ビルに色々ありますが、電車の時間もあることですし、特に何か食べたいものがあるわけでもありません。とにかく少しおなかに入れればいいだけなので、一階のパン屋さん、ビ・ド・フランスにはいって菓子パンと言うことにしました。お粗末ですが、私にはこれでじゅうぶん。
少しここでゆっくりして 12:35過ぎに出て 2階へ
コインロッカーでバッグを出して、さてホームは?
八高線は3番線なのですが、表示に従って階段を下りると2番線と4番線しかありません。どんどん走っていく人たちがいます。ついていってみると二つの線の先ホームの行き止まりのところにもう一つあってそれが3番ホームでした。2両ですが、結構人が乗っています。といっても一つおきくらいに座ってほぼ満席。取り合えず座れました。
電車は1時間に1本しかありません。
高崎12:56発 高麗川駅14:26着。鈍行で気動車です。この区間は電化はされていないのです。でも座席は一部ベンチシートですが向い合せのボックスタイプもあります。
1時間半の乗車時間ですが、探偵小説を持ってきています。だんだん佳境にはいってきて高麗川駅に到着して本を閉じるのが残念なほど夢中になって読みふけりました。
高麗川駅を出ると駅前広場左手にタクシーが一台停まっています。(神社の案内で駅にタクシーは常駐しているとはありました)
神社まで、途中少し山の中(大袈裟ですが)のようなところを行きました。5,6分くらいで神社門前へ。(800円)
高麗神社(こまじんじゃ)
保渡田古墳群などでは4世紀末から5世紀にかけての半島の混乱の中からやってきた渡来人が活躍しました。ヤマト王権を介してきた人もいれば首長自らが連れてきたと考えられている人たちもいました。
その後も半島での戦乱は続いていました。
660年 百済滅ぶ 663年白村江の戦い
668年 高句麗滅ぶ機
これらを機に渡来人は一気に増加します。王権は彼らの多くを難波に留め置き新たな受け入れ先の準備をしたうえで東国などに移したそうです(天智から桓武期)。
その後『続日本紀』によると716年5月 駿河、甲斐、相模、上総、下総、常陸、下野の7国の高麗人1799を移して武蔵国高麗郡が建郡されました。このリーダーと言うことになっているのが高麗王若光(こまのこにしきじゃっこう)です。
(高麗王といいますが、後の朝鮮半島の高麗ではなく高句麗のほうです。最近までNHKBSでやっていた「王女ピョンガン」のコグリョです)
若光は666年高句麗の使節として来倭した「玄武若光」と同一人と解され、668年本国滅亡により国に帰れなくなり、帰化してウジ名高麗、カバネ王を与えられました。
神社の社伝によると、716年高麗王若光を中心とする高麗人1799人が高麗郡に来住し開拓を行い、高麗王は748年に没した、とあります。
70歳前後で高麗人を率いてやってきて100歳前後で亡くなった、というのは年齢的に無理がありそうで信憑性はどうか、というところはあるのですが、高麗人たちは徳を讃え、若光を守護神とする社を建てたということです。以後、代々高麗家当主が宮司を務めています。その高麗家住宅が敷地内にあります。予約すれば中も見せていただけるそうなので、あらかじめお電話してあります。
将軍表 寺院の入口に立つ、魔よけ、道標のようなものです。
手水舎 コロナ下なので 使わないように、とありました。
奥右が参集殿、立て札の奥が社殿です。
↓水天宮への入口。10分ほどの登りだそうですので、行きませんでした。
外拝殿はわりに最近のものです。
外殿からご社殿を覗く。
安土・桃山時代の建立と言われるご本殿は見られませんでした。
お隣の参集殿に行きました(お手洗い拝借、ここで老婆心ながら書いておきますが、埼玉、群馬というところは駅、公園などの外のお手洗いは和式です。建物の中だと一つは洋式がありました。)
ここの受付で高麗家見学を申し込んであるむね伝えました。3時から4時の間と言ってあったので3時まで待つようにいわれて待ちました。イスはあります。ここではお祓いの受付をしていました。私は孫がいないので知りませんでしたが「ランドセルのお祓い」というのがあるのですね。待っている間もランドセルをしょった子供を連れた親子が二組やって来ました。
この神社は天皇皇后両陛下はじめや皇族方が参拝されたことをしるしてあったりするのですが、基本、地域の氏神様のようです。
現れたのは背が高く目元涼しい好青年、高麗家住宅に向かいながら、先に書いたような由来などを話してくださいました。
高麗家住宅
ただ残念なことに1259年の失火で、宝物、系図が消失してしまっていて、渡来人のものと分かるようなものは何一つ残っていません。焼失後、高麗一門が再編集した系譜をもとに歴史を見ることになります。
現在、高麗家は現在60代目です。59代当主までここに住んだそうです。
建物は入母屋造り平入りの茅葺屋根。桁行7間半、梁間5間。大黒柱はなく細い柱で梁を支えているのが特徴です。
建築年代は慶長年間と伝えられています。17世紀のものであることは確実だそうです。昭和51~52年の修復の際、建設当初の姿を復元したそうです。
最近の行事で使われたので仕切りの戸はすべて取り払われていました。先代は「ここは寒かった」とおっしゃっていらしたとか、戸があっても冬は寒そうです。
左手前「四帖」奥に通される来客はここから出入りしました。
左奥が「奥」と呼ばれる客間です。右手は 21畳の表座敷
土間から見ています。
天井裏で蚕を飼っていたそうです。このあたり養蚕業が盛んだったらしいです。
土間
土間には 昭和30年代ごろ近隣の農家で実際に使われていたものが置かれていました。
勝手
20分くらいお話しを伺いながら見せていただきました。別に見学料などはおとりになりませんでした。
正面、端正ないい形だと思いました。
高句麗の片鱗もみられない、と言うのは残念でもありましたが、これはこれで見る価値はあったと思っています。
裏にお庭がありました。
高句麗伝来の品はなくても、霊亀2年(716年)1799人の高麗人がこの地に再配置されたことは史実で、彼らが心のよりどころとして連綿と1300年守り続けてきた神社の存在意義は大きいと思いました。
参集殿の受付の横にタクシーの電話番号が書かれていましたので電話をしてあれこれ思いながらしばらく待ちました。
タクシー(呼び出し込みで 1200円)で高麗川駅に着くと15時40分頃。高麗川~八王子の八高線は電化されていて、電車も30分間隔であります。
16:00発 座れましたがかなり乗っていました。16:48八王子着
16:59八王子発 18:03横浜着 これも混んでいましたが座れました。長旅ですがクライマックスを迎えた探偵小説に夢中であっという間でした。(日本の5,6世紀から20世のアイルランドへ、苦も無くとんでいける頭なのです)
私鉄にのりかえて、わが家へ (11011歩)
実に充実した旅であったと大満足しております。
ところで 翌日、買ってきた群馬県立博物館の図録を見ていたら、なんとこの写真が!
金銅製出字形立飾冠です。これは朝鮮半島では新羅独特のもので、これが出れば新羅の権力下にあったということになるものです。韓ドラ「善徳女王」で女王がかぶっていました。(2016年8月に書きました)
「見逃したか!」と大ショック。でもくまなくみたつもりなのに、いったいどこに? 博物館にお電話してみました。私が購入した図録が「国宝決定記念 第101会企画展」のものであることをいいますと、この金銅冠は常時展示ではなくその時は 展示したのだ、ということを告げられました。みたかった!!
この出字形金冠は王のみに許されるもので、首長クラスのものは金銅製など材質が少し劣るものになっているそうです。
日本では完全なものはこれ一つ、他に断片などはあるのですが、畿内には出ていないそうです。
矢張り上野(こうずけ)にはヤマト政権を介さない半島との独自ルートがあったということになるのでしょうか。
これが出土したのは前橋市の金冠塚古墳(6世紀後半)です。ちょっとググっても被葬者が誰かの記述はみあたりません。古墳もさほど大きくはない(全長52m)のです。ここでは金銅製大帯も見つかっています。やはりある程度力のあった人であることは察せられます。
図録によると、被葬者は畿内中枢の勢力とはかかわりなく直接入手、あるいは模倣した可能性を想定する意見もあるそうです。
カルチャーの先生は けぬ(毛野)はヤマトと対等関係にあるほど勢いがあったのではないか、とおっしゃっていました。当時ヤマト王権は百済と交流していましたが、新羅といつもたたかっていたわけではなく、中央ではなく、けぬ と新羅は繋がっていた、ともおっしゃっていました。(筑紫の君磐井が繋がっていたと同じように)
当時の人のことを考えるってとてもロマンがあります。
もっと知りたくて同じ先生の「東アジアの古墳文化と対外交流」という講座を受講することにしています。
この記事も訂正しなければならないことや書き加えるべきことがたくさん出てくるかもしれません。
旅行記は以上で終わりです。
余計な世話かもしれませんが、博物館には定休日だけでなく、展示品入れ替えなどで一週間くらい休館、と言うことがあります(群馬県立歴史博物館も私が行った翌週はお休みでした)。コロナのこともあります。お出かけ前はホームページで確認されることをお勧めします。
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