北関東(埼玉・群馬)の旅 2日目ー2 かみつけの里博物館
かみつけの里博物館は保渡田古墳群を含む上毛野はにわの里公園内にあります。
古墳は大きな前方後円墳が三基あり、そのうち二つの上には上がれるようになっています。
まず博物館を見てから古墳にのぼることにしました。
かみつけの里博物館 (火曜日定休 9:30~17:00入館は16:30まで 入館料大人200円、ただし 65歳以上は無料)
つかいませんでしたが、ここにはロッカーがありました。
カルチャーセンターの先生は、丁度ポンペイ展をやっていたせいか群馬県のことを「この辺りは日本のポンペイだ」とおっしゃっていました。火山灰の下から5世紀のムラが現れたからです。
榛名山は6世紀初頭と6世紀中ごろ大噴火しました。雲仙普賢岳の噴火と同じで、火砕流プラス土石流が高速で山を下り麓の村を蒸し焼きにしたのです。当時の状態が瞬時にパックされたのです。土石流はこの博物館のある一帯も襲いその厚さは4メートルにも達したそうです。
火砕流は北群馬郡、前橋市、渋川市、高崎市北東部を襲っています。
普通、人が住まなくなって何世紀もたって地面の下に埋もれてしまった町は痕跡がはっきりしないのですが、火山灰でおおわれた土地は(当時の人々にとっては大惨事で気の毒なのですが)災害直前まで人が行っていた行動や構造物の跡が現在鮮明に残されているのです。
この地域では王の館と呼ばれる首長館の跡や水田の跡などが発見されています。
そのためか、この博物館は古墳からでた埴輪も多く展示されていますが、古墳時代の暮らしについての説明や復元模型、遺跡からの発掘品の展示が多いことが特徴のように思われました。
拡大 古墳時代から力士がいたのですね。武士の影になっていますが、祭礼の場面を表した埴輪もあります。
興味深かったのは古墳時代の村の様子や王の館、水田などを表した復元模型でした。火山灰の下から現れた遺跡をもとに作られたものです。
5世紀の「榛名山東南麓古墳社会推定模型」 500分の1の縮尺で造られていて、紙面の関係上どれも同じ大きさの写真になっていますが、かなり大きなものでした。
右上に王(豪族)の館、左上に古墳がみえています。 王の館のまわりには村人の家
この博物館では豪族のことを王とよんでいます。
↓王の館(三ツ寺Ⅰ遺跡)縮尺は100分の1 発掘されているのは全体の3分の1なので、残りは想像で造られています。
館は猿府川の流れを利用して造られ、その本体は80m四方で、張り出しを設け三重の柵を巡らせています。内部は2ゾーンに分かれ北側は従者や工人がいる家政ゾーンです。南北を分ける柵の手前は水道橋。南側は儀礼ゾーンで主殿や井戸、外部から聖水を流す「石敷きの祭場」があり、祭場では流水を介した農耕儀礼が行われました。館の外周斜面には石を貼り、幅30m、深さ3mの大規模な濠を巡らせています。この濠は貯水池の役目もしていました。
遺跡からの発掘品
左が井戸枠 その横の細長い木材は水道橋 手前の土器は従者の家から出た生活用具、その横、灰色などの土器(須恵器)などの高坏は 祭祀用
下手前は とりの形をした木製品(楽器?) 上から ササラ子(楽器か?) 丸木弓 黒漆の塗られた弓 木刀(祭祀使われた?)
水田模型 (高崎市浜川町の芦田貝戸Ⅲ遺跡の発掘結果をもとに作られた模型)
働いている人を見ると分かるように水田の一区画は小さいです。小区画の方が地勢に合わせて水をひくときの微調整が可能。左の茶色いところは去年の畔を壊し田起こしをしている部分。下に少し見えているのはどのようにして田に水を引いたのかの説明。
古墳時代モデル ムラの模型 黒井峯遺跡などをモデルにして作られています。
この一つの柵に囲まれたところと手前の家で一世帯と考えられます。柵の中には祭祀の場と畑、複数の平地住宅(住居、作業小屋、倉庫、家畜小屋など)があります。左には馬をひいている人がいます。
手前のわらぶき屋根の家、突き出ているのは竃の煙突。
中央の白い色が見えている部分、よく見ると土器類、そうして人がひれ伏しています。祭祀の場です。
この博物館でも最も見たかったのは飾履(しょくり)です。百済または伽耶系のものです。
想像していたのより大きいので驚きました。男性のかなり大足の人でもブカブカくらいの大きさでした。
これは少し離れた谷ツ古墳から出ました。大半が盗掘されていたのですが、遺体の足元だけが破壊をまぬかれ、鉄さびの塊が残されていました。それが華麗な靴の片方だった、というわけです。
ところでこの谷ツ古墳は一辺約20mの方形積石古墳です。積石古墳は高麗をルーツとする朝鮮半島独特の古墳なのです。他に半島製の耳飾りや馬具も出ていて、近くの村からは半島製の土器も出ていることから、この墓は渡来系の人々のリーダー格の人のものではなかったかと想像されるそうです。王のもとで先進技術をもって金属加工や馬の生産、土木技術などを進めたと考えられます。
飾履は細かい加工技術が必要で6世紀には日本でも作られるようになったらしいのですが、5世紀はどうなのでしょうか。舶来の貴重品だったのだと思われるのですが。誰が手にいれてどうしてこの被葬者のものとなったのか気になります。
飾履は日本では20くらいしか発見されていなくてそれも完全なものはとても少ないそうです。飾履の出た藤の木古墳(6世紀)は天皇または皇族クラスの墓とされていますし、鴨稲荷山古墳(6世紀)は継体天皇を擁立した三尾氏の族長の墓です。それらに比べると谷ツ古墳の被葬者は少しクラスが低いような気がするので不思議です。王(この地の首長)の信が厚く王から贈られたのでしょうか。
渡来人に関する考古資料は近畿に多いのですが、東日本では榛名山の東南麓に目だって多いそうです。
馬はもともと日本にはいなかったのですが、5世紀、倭が百済に援軍を送った時騎馬戦力の必要性を実感したことから軍事力強化のために朝鮮半島から馬を連れてきました。飼育や馬具製造も渡来人の力が必要でした。
その飼育地、最初は河内地域だったのですが、其の後 東日本にも牧がつくられるようになり、上毛野にも牧が出来ました。馬の飼育に適していたことと、政権の東北への権力拡大の意図とがあったようです。また牧ができるとともに、馬具工房も設置されたとみられます。
群馬県渋川市の金井東浦遺跡では被災した「鎧を着た古墳人」がみつかっているのですが、馬の足跡とともに、火砕流に巻き込まれた馬二頭がみつかっています。この「鎧を付けた古墳人」は顔面の骨が残っていて復元すると渡来人の容貌だったそうです。
首長は治水技術により水利を掌握して農業経営を行い、窯業を起こし馬生産もおこなったと考えられています。
このようなことを成し遂げてきた首長(王)とは?
『日本書紀』には群馬県地域出身の豪族・上毛野君の祖である荒田別・鹿我別が、将軍として新羅に出兵したする伝承記事があります。この記事はそのまま信用はできないのですが、この地の誰か半島に渡った人がいて彼が谷ツ古墳に葬られた渡来人のリーダーを連れてきた可能性が推測されるそうです。(この辺り資料によって少しずつ違っていますが大体こんなところです)
居館や古墳の主は上毛野氏関係の車持氏ではないかと言う説があります。群馬は奈良時代以前、クルマとよばれていたこともわかっているそうです。ただこの人物は榛名山噴火以後どうなったのかはわかっていません。
三ツ寺遺跡の主が葬られたのは保渡田八幡塚古墳です。
説明によると、この八幡塚古墳の工事費は10億円と推定、大半は人件費だそうです。当時はお金というものがないので、食事支給や褒美があったかもしれない、とすると富の再配分ととれるかもしれないそうですそれにしても王はものすごいお金持ち、権力者だったのですね。
外に出て古墳に行ってみることにします。(10:42~ 11:23)出てまっすぐ、道路を渡ると数段の階段があり上り口はすぐわかりましたが、あがる前に少し右の方へいって全体を眺めました。古墳の右奥は榛名山、左手奥にうっすら白く見えているのが浅間山です。
全長96m、三段の斜面は葺石でおおわれています。(5世紀後半の築造)
左に見えている階段から古墳に上がって行きます。
それにしてもこれまで見てきた古墳とイメージが違います。石でがっちりおおわれていて、何だか宇宙人の基地みたいだと思ってしまいました。
左手に埴輪をたくさん置いてあるスペースがあります。
内堀の中に中島が4個あります。祭祀の場所と思われています。
くびれ部から後円部に行く坂道、短いけれどかなり急でした。
後円部には下に下りる階段があり、降りてみると石棺が置かれていました。
舟型石棺。舟形石棺とは両端が丸みを持ち突起(縄掛け突起)があるもの。ヤマトの大豪族が使った長持ち型石棺に次ぐ格式のあるものです。外寸長さ3.2m 幅1.5m 高さ 1.4m
違う角度から
奥に竪穴式石郭があります。この古墳には二人以上が葬られていたことになります。(なお実際は墓を入れると河原石で被い土を盛るのでこのドームのような空間は存在しません)
こういう説明がありましたが、博物館では見なかったような、、、。
外に出て周囲を眺めました。
上の案内板からすると正面が二ツ岳 ということになります。右の白い建物は土屋文明記念館です。ここに寄って見学、ランチのつもりでしたが、レストランは休業のことでしたので、寄りませんでした。
ここは関東平野の北西の端、遠くの山々を眺めながら遠い昔のロマンにおもいをはせてしばし風に吹かれていました。
浅間山
二子山古墳にも上がれます。そばにいた小学生の男の子は「僕、全部上るよ」とはりきっていましたが、私はこの一つで十分。春休みもそろそろおしまいの頃だからでしょうか、母子連れと言う方が結構いらっしゃいました。
博物館にもどってタクシー会社に電話。電話をかけたイスの前には埴輪の展示
15分くらい待ちそうです。その間にショップで本を買いました。
この項についてはこの本と『渡来系移民』岩波書店、週刊日本の歴史(朝日新聞社)カルチャーのレジュメ、パネル説明などを参考にしてかきました。大きさや由来に違いがみられるところもあって書き方が混乱しているところもあるのですが、大体こんなところ、ということで書いてしまいました。大幅なミスなどありましたらご指摘くださいませ。
やってきたタクシーで20分くらい? 12:00に高崎駅に着きました。呼出し(初乗り運賃を最大にして請求ということになっていて最初から600円ついていました)込で行きとおなじ3200円でした。
このあとのことは次回に
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