3月17日(日) 続き
ホテルから出雲市駅を見ています。見ている側に空港行のバス停。駅に近い方のバス停が出雲大社行バス停。奥にタクシー乗り場。また裏側には一畑電鉄の駅。非常に立地条件がいいです。それなのに広めのお部屋にしてもお値段は松江よりお安いのです。いいお宿は大社のほうにあるようですが、交通の便を考えてこちらにしました。
雲行きがあやしいですが、観光中は持ちました。
タクシーで西谷墳墓群に向かいます。10分ほどで着きました。バス便は少ないので考慮にいれませんでした。ともかく地方は公共の交通機関が少なく、私の体力のこともあって今回は特にタクシーに頼ることが多かったです(マイレージのおかげで航空券代がういていることもあって、気軽に利用できた、というところもあります)。
西谷墳墓群
kikuko様のブログでこの地域に特徴的な四隅突出型古墳、というものがあることを知りました。
古墳=ゼンポーコーエンフン(前方後円墳)と思う人も多いのではないかと思います。円墳、単なる方墳も知っていましたが、四隅突出型墳丘墓というお座布団に房が付いたような形(こたつ布団型)はこれまで知りませんでした。
これから見に行くのは四隅突出型墳墓です。ところで墳墓と古墳は違うそうです。
墳墓 :弥生時代まで 小規模 形は様々 被葬者は複数
古墳 :古墳時代(3世紀半ば~) 大規模 (前方後円墳 円墳など)一人の首長のため
弥生時代中期に造られた四隅突出型は墳墓に属します。 (14:13)
赤字の現在地表示のところから緩やかな坂道をあがります。現在地表示地の下の茶色の建物は、後で行く「出雲弥生の森博物館」です。
標高45m位だそうですが、坂道に弱い私にはつらかったです。しかしこれを見なければ来た意味がない、と何度も休み休み行きました。でも実は5分位しかかかっていません!
お天気は悪いですが、寒くはありませんでした。
四隅がはっきりしない5号墓を過ぎると
4号墓、奥に3号墓
振り返って4号墓を見ています。大きさ32m×27m
3号墓(14:27)
突出部を除いた墳丘主部の長軸40m、短軸30m裾部からの高さは4.5m
方形台状の四方の稜が縁なしの滑り台のようになっています。
突出部は昇り路、と考えられています。
異説もあります。『出雲と蘇我王国』斉木雲州著 大元出版
この著者は向家という第一次出雲王朝の血を引くお家柄だそうですが、この本によると、米子の洞ノ原遺跡には、こどもの墳墓があり、高さ2mに満たないず昇り路は必要ないのに四隅突出になっている。これは(俯瞰すると)バツ印をあらわしており、サイノカミ男女神の体が重なる姿だと解釈しています。支社の魂が、新生児の体にはいって、生まれ代わることを祈るシンボルであった、と考えています。
この墳墓はあがることができるので上がってみました。
ここには少なくとも八つの墓穴が彫られていました。
一番大きな埋葬施設には四本の柱が立っていたと思われる穴がありました。その柱も示されています。
柱はの案内板にあるように祭祀のためにたてられたようです。
出雲の王ともいえる人の墓と考えられています。(博物館では3号墓がジオラマで再現されていました)
墳丘の上にたって、しばし悠久の時の流れに想いを馳せました。
殆ど人のいない古代の墳墓、ロマンを感じます。しばらくぼーっとしていました。
古墳はひそかなブームらしく、古墳女子という言葉もあるようです。その古墳女子二人組も佇んでいました。
2号墓はかなり崩れていたので修復して内部には入れるようになっていました。
2号墓 2号墓は出土品から考えて3号墓の初代出雲王から王権を引き継いだ王の墓と考えられています。
埋葬されているところが作られていました。
丘の上に1は時間位いたでしょうか。ぐるーっとまわっておりて博物館へ
出雲弥生の森博物館(15:08~14:15)
展示室は2階です。
展示室中央には3号墓のジオラマ 18×年のある日の葬儀の様子を想像力豊かに再現してみたそうです。
斜面に置かれた石の数は2万から3万個
反対側
↓ 衝立の左側、男王は墓穴に埋められ、それを囲むように柱が建てられています。東側では続いて女王の埋葬がおこなわれています。(殉死ということでしょうか?)
棺の蓋が閉じられようと、しています。
神聖な石を前に座っているのは次の男王と女王です。楯を手にした兵士が場を守っています。
拡大。ボケてしまいましたが、顔に入れ墨をしています。
なお男王と女王は必ずしも夫婦というわけではありません。
『魏志倭人伝』の、挨拶のしかたや弥生の人々は生まれつき酒好きだった、入れ墨をしていたことなどの記述をもとに造られています。
参列者 青は吉備から 緑は越(北陸)から 手前の青い人の腕にいれずみ。
壁面に沿って出土品が解説をそえて展示されています。
3号墓では300個以上の土器が発見されています。出雲だけでなく、吉備や越越の特徴をもつものがあることから、地元だけでなく、200キロを超える遠くからも人が集まったことを示しています。
男王の墓から出た首飾りと鉄剣
女王の墓からでたビーズ類 右のような状態で発見されました。
棺内に厚く敷かれた朱、ガラスや鉄はどれも中国や朝鮮半島からもたらされたものでした。
腕輪は 2号墓から出ました。
別の部屋に移り 上塩治築山古墳(かみえんやつきやまこふん)の出土品を観ました。
6世紀末頃の出雲を治めた最高権力者の墓と考えられています。西谷墳墓群より4世紀くらい後の時代です。
直径46m周囲の堀を含めると直径77m以上の出雲地方最大の円墳です。
内部、横穴式石室は切り石で精巧に造られていました。出土品の内140点は国の重要文化財に指定されています。そのいくつかをみることが出来ました。
また未盗掘だった国富中村古墳の出土品も展示されていました。
わくわくはこの金銅冠です。(上塩治築山古墳)
小石棺内から発見されました。この人物は大和の大王や王族に仕えた人物だったと推測されています。
6世紀末ともなると馬具もいれられています。群馬の古墳をみにいったことを思い出しました。
国富中村古墳の埋葬想像図
奥の部屋 鏡、飾り付きの三本の刀、三組の馬具、数多くの須恵器、奥の部屋への埋葬後、前の部屋にも追葬が行われています。
大がかりな墳墓を造ったり、貴重な装飾品などを副葬したり、、、。
古代の人々の死生観に思いを巡らしてしまいます。ドライに、死んだらそれで終わり、とは考えなかったのですね。
そのおかげで私たちは当時の文化の一端を知ることができるわけですけれど。
倉庫も開放されていてみることができました。
16:00頃みおわって、受付でタクシー会社の電話番号を教えていただき、15分ほど座って待ちました。
この時代に対する興味があったからかもしれませんが、この博物館と遺跡、とても気に入りました。取り澄ましたところがなく、携わった方たちの地元愛、こういう遺跡をもっていることに対する誇り、というものが感じ取れました。
16:40 ホテル ツインリーブス着
お部屋はゆったり広めでソファーも座り心地がよくて、多少古めですが居心地がよかったです。
ところでこのホテルには夕食を出すレストランがありません。あいにく今日は日曜日で殆どのレストランはお休み。日が落ちると急に冷え込んできました。日曜日に開いているところのリストを頂いて、一番近い居酒屋に行きました。はずれで、お刺身と何かを少しつまんだだけでお部屋にひきあげ、買ってきたお菓子をいただいて済ませました。
13733歩
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