先日、二冊本を買いました。偶然ですが二冊とも訳者は淺井晶子さんでした。
一冊はローベルト-ゼーターラーの作品。この人の作品はこれまで二冊読んでいます。邦訳のあるのはこれを含めて三冊だけ。いずれも良かったのてす。特に ある一生 は年に一冊出会うか出会えないかと思われるほど良かったので、同じ作者のこの本も迷わず買いました。
孤児院で育ち、十五歳で学校を去ったローベルト•ジーモンは、自分の体ひとつでできる市場での日雇い仕事が好きだった。だが、ある日ジーモンは人生を前に進めたいという思いにかられ、店主が行方不明となったカフェを借りることにする。名前もつけないままで始めたカフェは、わずかなメニューしか供さないものの繁盛し、さまざまな身の上の人々が集まるようになる。戦後の発展の中で取り残されていく人々を、冷静な筆致で、愛情深く描く、、、表紙袖の内容紹介より
ウイーンのカフェというと昔一度行ったあの素敵なカフェ・デメルを思い出します。ザッハートルテで有名な。
でもここに出てくるのは場末のマルクト市場にある庶民相手のカフェです。疲れて一休みしたくなったらカフェへ。今ならペットボトルというものがありますから、カフェに入ることは何か目的がある場合に限られるような気がしますが。
1961年の晩夏、ジーモンは31歳、戦争未亡人の家に部屋を借りて住んで荷積場で働いていたジーモンは自分を一方で前に進めたいとカフェを開くことにしました。
カフェを開いてうまくいくかどうか心配するジーモンに未亡人は、人っていうのわね、いつも心配よりは希望のほうを少し多めに持ってなきゃ、とはげまします。
失業して、職のみつからないまま空腹でジーモンの店の前で倒れてしまったミラ。向かいの肉屋にすすめられ、反対する理由を見つけれないまま彼女を雇い店を続けていきます。
ミラと結婚することになる、巨漢だけれど気の弱い殴れられ役のレスラー、レネ。二人の待ちに待った子は死産でした。
十五歳も年上の牛乳-チーズ商のハイデ-バルトローメに恋をするロシア生まれの画家ミーシャ-トロガニエフ。
向かいの肉屋ゲオルグとその少し呆けたお爺さん。
カフェは大繁盛とは言えないまでも恥ずべき有り様ではない様子です。
でもカフェを開くという夢を実変させるとある種空しさも覚えます。
そういう頃、トイレで腕を傷つけて自殺を図ったヤーシャという娘がいて、ジーモンは一度ヤーシャとデートしたのですが、手痛く振られてしまいます。でも深入りして振り回されなくてかえって良かったと思うのです。
結局ジーモンはずっと独身です。
店に来る様々な人々、楽しそうにおしゃべりするご婦人達もいますが、多くは一人だけでどこか哀しい。
戦後復興のこの時期、地域の再開発が進んでいきます。
このカフェの入っている建物の持ち主はお金に困って手放す事になりカフェも閉めざるを得なくなります。その間の十年間、周囲の変化も描きながら多くは時流に乗れない人々が描き出されます。
十年間続いたカフェ、自分にとってカフェがどれほど大切な存在であったか。いちど市当局に陳情書を書きかけます。
ここは暖かく、、、、、なにより、話をする必要がある人は話をすることができますし、黙っていたい気分のときには黙っていることもできます。世の中の回転速度はどんどん上がっていますから、人生に充分な重みのない人たちが軌道から投げ出されてしまうことがあります。
そんなときにしがみつくことができる場所があるのは、いいことではないでしょうか?
しかし、終わりのときはやってきます。ジーモンは事態を受け入れ、さよならパーティーも開きます。
一方、下宿先の未亡人は認知症がどんどん進んでいくようです。
陳情書の最後は、賃貸契約の延長のお願いを認めながらも、できないことは当然と思い、たったひとつ残されたのは できれています。
認知症になった未亡人の言葉 私だったのよ、、、どうかあの人たちには言わないで
何のことでしょう。分からないけれど分かる気もします。人生にはそういうことってあるものですから。
ある一生 も良かったですが、これも感銘を受けました。
やはり、ゼーターラーはいいです。
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