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長崎旅行(平戸、生月、そとめ)

2015年7月 9日 (木)

キリシタンの跡を訪ねて 平戸・生月・そとめへ 本のことなど

平戸・生月・そとめへの旅はたった三日間でしたが、とても充実していました。
これまで知らなかった日本のキリスト教の歴史の一端を知ることができたからです。

切支丹弾圧は秀吉のころから江戸時代の初期だと思っていたのですが、それが明治初めまであったこと、隠れキリシタンが現在なお存在すること、これらは大きな驚きでした。
また キリシタンはとても生活が苦しくて祈る他ない人々だとばかり思っていたのですが、生月島は捕鯨で潤っていた島で、むしろ経済力がキリシタンを支えていた、ということも驚きでした。 こういう事柄は 今回の旅行がなければ 知らないまますぎていったことだと思います

しかしながら、禁教下 何故、隠れてまでも、見つかれば棄教か拷問が待っていることを分かっていながらも、信仰を守りつづけたのか、ということはとても気になるところです。
単純に一つの答えが出せる問題ではなさそうですが。

旅行前、遠藤周作の作品を読みながら、拷問を受けてでも 棄教しない、信仰、これがその人のアイデンティティーなのだ、と考えたりもしましたが、明治になって カソリックの再洗礼を受けようとする人に対して、井戸を使わせないなどという嫌がらせもあったことを聞くと、村、集団としてのしばりも大きかったのかもしれません。近代的自己の観点からだけでは説明はつかないのでしょう。
ここでは 農民が対象ですが、武士道的な考えもあったのかもしれない、あれやこれや想いをめぐらせますが、わかりません。 
勿論 信仰の深さはあると思います。 
26聖人の中には少年もいましたが、みんなと一緒に天国に行きたい、という気持ちもあったのでしょう。
信仰を持たない者には伺い知れぬところがあります。

今回、50年も前に読んだ 古い『沈黙』を読み直しましたが、外海のMさんによると、当初この本は カソリックでは禁書だったそうです。 
理由は、宣教師が転んだ、ということは触れられたくない事柄だからです。

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                  (箱)


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今読んでも本当にすごい本で 簡単に感想は書けそうにありません。

拷問が恐ろしくて裏切ってしまう弱いキチジローと 宣教師ロドリゴの 信徒が拷問の末殺されるのを見て苦しむロドリゴ、神はいるのか?信徒たちのために棄教するロドリゴ、、、。

とりあえず読んだ本だけあげておきます。 

今回新たに読んだのは 四冊

切支丹の里

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この表紙は、これまでにも書いた26聖人(西坂で処刑された)の一人、少年ルドビコ茨木です。長崎に関する紀行 エッセイ集

女の一生、一部・キクの場合

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幕末の「浦上四番崩れ」と呼ばれるキリシタン迫害事件をもとにかかれています。
小説としても面白い、というか とても悲しい物語でひきこまれましたが、これはこの時期にもこういうことがあった、ということ それと 欧米に対する外交政策上、禁令を解くことになったいきさつなどもかかれていて、そういう点でも興味深かったです。

女の一生 二部・サチ子の場合

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サチ子の好きになったは 修平は徴兵され クリスチャンとして、戦争で人を死なせなければならないことに苦しみ、その答えが 特攻志願、、、、。

 

遠藤周作と歩く「長崎巡礼」

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これは ガイドブックともなりうる本です。 
上記四冊の あらすじというかポイントも書かれています。

感想など、あとで追記するかもしれませんが、とりあえず旅行記 完

2015年7月 8日 (水)

キリシタンの跡を訪ねて 平戸・生月・そとめへ 3日目ー4

黒崎教会 (15時5分~15時30分)

1920年完成、 明治大正期に建築された教会堂最後の煉瓦建築です。

バスをおりて教会に向かいます。
後陣側 面白い形です。

右手の建物は 司祭館かなにかでしょうか。 建っている像は 男性が子供を抱いている姿なので イエスを抱くヨセフと思われます。 (ヨセフ信仰が強い地域なのでしょうか。ヨーロッパのロマネスク教会ではまずないのでちょっと驚きです)

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頂いたパンフレットに平面図が出ていました。15070630
長方形の左側縦の線の部分が 写真の一階部分の煉瓦壁面にあたります。 
水色(木造)で五角形に突き出ているところが内陣にあたるところのようです。

全長約40m、幅約14メートル 入ってみると分かるのですが、随分大きい(長い)教会で、した。

側面 窓の桟、鎧戸がおしゃれ

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これを見ながら説明。1897年に土地の造成を始めてから、建物完成までに23年かかっています。お金がなかったためです。自分たちでお金を工面し、子供たちまで煉瓦運びを手伝って造ったのです。

設計は ド・ロ神父説もあるが不詳、施工は 川原忠蔵
川原忠蔵は近くに住むカトリックの大工の棟梁で、息子ともども教会建築をいくつも手がけたそうです。(忠蔵の父親は プチ・ジャン神父が大浦天主堂を建てたときの大工の一人で、キリシタンであったので迫害にもあったそうです) 

案内人のM,さんによると「鉄川与助は名前を出しているが 川原忠蔵は <教会は、みんなで造ったのだから>と名前を出したがらなかった」そうです。

昨日見た山田教会によく似た木造リブヴォールト天井ですが、柱と繋がる横断アーチが半円になっています。
山田教会はアーチがもっと深くて 馬蹄形に近く、幾分 尖頭アーチっぽく見えたように記憶しています。そのせいか、山田教会のほうが丈高に見えたと思います

こちらの方が柔らかな感じですが、リブが少し太めのようです。

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左側廊 イエスの聖心(見えにくいですが赤いハートを示している)

柱頭には 蘇鉄の葉がつけられています

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右側廊には 聖母子像

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この教会のある黒崎は遠藤周作の『沈黙』の舞台です。架空の村、トモギ村とはここなのです。この教会の周囲は住宅地になっていますが、次に向かった 枯松神社は森の中で 「沈黙」 の世界を彷彿とさせるところがありました。

********

ここで先に、これまでにMさんから伺ったお話をまとめておきます。

なお、 Mさんはカクレキリシタンだそうです。つまりカソリックの再洗礼をうけず、潜伏キリシタンの宗教を守っている方です。
カソリックに改宗した人としなかった人たちの間には対立感情があり、子供のころは よく カソリックの子と、「筋を曲げた」 とか なんとか言いあってケンカをしたそうです。 今、きかれれば 仏教徒、と答えることにしているそうです。

歴史

1549年 日本へのキリスト教伝来(ザビエル鹿児島到着)
1550年 ザビエルとトーレス神父、平戸へ
1563年 トーレス神父により、 大村純忠とその重臣20余名受洗、領民にもキリスト教奨励
    (藩の財政政策のため貿易に力を入れ、イエズス会を優遇し、信仰するに至った)
1571年 ガブラル神父の外海地区布教
1577年 大村領内キリシタン化 寺社が焼き払われる
      大村領内に最盛期は6万人のキリスト教徒がいた、とされている(当時の日本の信者の半数以上)
1587年 秀吉による バテレン追放令(名目のみ)
1596年 サン・フィりペ号事件を契機として秀吉 禁教令を発令
1597年 この禁教令をうけて 西坂で 26人処刑
   これはルイス・フロイスなどの報告により、ヨーロッパでは広く知られ 1862年には 26人が聖人とされた。 
1606年  禁教の傾向が強まるのをみて、 純忠の子善前は 日蓮宗に改宗
1612年 家康の禁教令から 弾圧が強まる。
1616年 鎖国令


これ以降、隠れキリシタンの発見と強制改宗をおしすすめるようになる。→踏絵の実施など

厳しい取り締まりのため 大村藩では 浦上、外部から接触しにくい外海、島嶼地域を除いて キリシタンはいなくなった。

 

何故 外海地区では信仰を守り続けることができたか 
 ①自然条件の悪さ どこへ行くにも山越えなので、役人の監視が行き届きにくかった
 ②潜伏してやっていける組織ができていた。
   帳方(オラショの伝承、葬式、法事を行う) 水方(洗礼を授ける) 触方(連絡係)
 ③バスチャンの残した 日繰り、遺言 十字架 があった、これが大きかった
 ④佐賀鍋島藩の飛び地があった(ド・ロ様像の横の領界石)
 ⑤農漁業の立地条件が悪く生活の貧しさが信仰につながった。
  この点は 昨日の生月の学芸員の話と違うところです。(氏の話では、外海地区もサツマイモの栽培など農業はさかんで貧しくはなかったようなことをおっしゃっていました)
 外海地区の人は五島や平戸島南部などに移住した人が多いのです。
土地が狭く人口増に対処できなかったためですが、別の見方をすればやはり貧しかったのではないでしょうか。

 江戸時代の断続的に行われる 摘発と 拷問 殉教 という苦難の時代をへて

幕末の信徒発見、 

1873年(明治6年)キリシタン禁制の高札撤廃

秘密裡に信仰しなくてもよくなるわけですが、だからといって、全員がカソリックの再洗礼を受けたわけではありません。

何故 カソリックにならなかった人たちがいるのか
*先祖が大変な思いをして守ってきたものだから 捨てられない。
*カクレをやめると 祟りがあるのではないか(何か悪いことが起こると、そうおもってしまうことはよくあることです)
*名目上、お寺の檀家となっていたが、お坊さんは知らなかったはずはない。守ってくれた。お寺にお世話になったのだから裏切れない

また 隠れは村ぐるみだったので、その縛りも大きかったそうです
村がそのまま隠れを続けようとした場合、個人が抜けようとすると、井戸を使わせない、などのいやがらせもあったそうです。(なんかムラ的)

改宗するかしないかは大きな問題で、黒崎では聖画をめぐって野中騒動、という事件も起こりました。

そういうわけで 潜伏キリシタンは 明治6年以後

* 再洗礼を受けて カソリックに
* お寺の檀家としてとどまり仏教徒に
* カクレキリシタンとして これまでの伝統に沿った宗教生活を

の三通に分かれました。

再洗礼をするときに、仏壇を撤去するよう(フランシスコ会の宣教師だったかが)言ったそうですが、そういうところをもう少し柔軟にすれば カソリックになる人がもっと増えたのではないか、とM さんはおしゃっていました。

カクレキリシタンの数はかなり減ってきて、平成3年以後 洗礼を受ける者はいないそうです。

********

説明が長くなりましたが、枯松神社に行きます。

15時37分バスをおりて 薄暗い山道に入ります。 

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3分ほどで大岩のあるところに来ました。

祈りの岩 です。オラショの練習は村ではできないので ここでやったそうです。

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少し先、神社の右下

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長方形の石なので、キリシタンの墓であるといわれています。仏教徒だと座棺なので正方形だそうです。

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お墓の上の白い石は お参りするときにはこのように十字に並べ、終わったらまたもとに戻しておくそうです。 また手の組み方も 親指を十字になるようにします。

この辺りは 枯松さん、と言われる聖地で、そこに近年こういう神社を建てたものです。

枯松神社

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『遠藤周作と歩く長崎巡礼』 新潮社
には、 沈黙のロドリゴが潜伏した炭小屋は「枯松神社」のような山奥の緑深い場所にあったに違いない  とあります。

内部

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向かって右側壁面
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枯松神社の横に見える十字架石を拡大
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枯松神社は外海キリシタンの信仰を指導したとされる外国人宣教師「サン・ジワンさま」を祭るキリシタン神社です。 キリシタン神社はここを含めて日本に三つしかないそうです。

カソリックになった人と隠れのままの人の仲が悪いのを心配して 2000年から、黒崎教会の野下神父のよびかけで毎年11月3日カソリック、カクレキリシタン、仏教徒になった人たちがここに集い枯松神社祭をおこなうようになったそうです。

 宗派を超えて弾圧の中で信仰を守り通した指導者や 先祖に感謝し、枯松神社を外海地方の精神的よりどころにしていこう、というのが 趣旨です。

カソリックの司祭の御ミサ、お坊さんの講和、オラショの奉納などがおこなわれるそうです。対立から融和に向けて動いているのです。

少し下ると墓地があります。 真新しくどのお墓も大変立派です。

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はっきり見えないとは思いますが、左は十字の印があってカタカナで 洗礼名がかかれています。右端は戒名塔、となっています。 お寺から戒名をもらっているのです。

お寺に属するのなら、と最初は無料で戒名を貰えたそうです(その後も亡くなった人は出るわけですから、それでお寺は結局大儲けした、とはMさんのお話)

外海地区の説明は、主に このMさんのお話とMさんが書いて配ってくださった資料を基にしています。

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紫陽花が満開

これで 旅もほぼ終わり。

16時5分~16時40分 バス

大村湾に面した 時津 に行きました。

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時津・二十六聖人上陸の地 碑

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1596年、ふたたび 秀吉は禁教令を公布。
1597年大阪と京都で外国人宣教師、修道士、日本人修道士と信者の刑24名が捕縛され長崎で処刑されることとなったのですが、 途中世話役二人もキリシタンであることを告白、結局26人が ここに上陸。徒歩で長崎に向い 西坂で処刑されたのです。

どんよりとしたお天気。つらい気持ちでお話を聞きました。

見学はこれで 全て終り。
案内してくださった Mさん、それにもう一泊して長崎の町を観光なさる方と途中で さよならし、空港へ。

途中、明日からの五島列島巡礼の旅に参加なさる方もおろして10名プラス1名が空港に到着 
1時間ほど時間がありましたので お土産物屋さんを物色。

夕食時なので 機内食にと、大村すしというのを買いました。錦糸卵が上にのっていて おいしかったです。それからここではいただかなかった(インスタントの、といっても二人用で 1360円!!) 長崎チャンポン、も買ってみました。 翌日のお昼にしましたが、お肉もはいっていておいしかったです。

皆さんとても気持ちの良い方で、添乗員さんは男性でしたが、細かいところにもよく気が付く方で いい旅ができました。

2015年7月 6日 (月)

キリシタンの跡を訪ねて 平戸・生月・そとめへ 3日目ー3

外海歴史資料館 

すぐ下の 資料館 に行きました。

写真を撮り忘れたので 頂いたパンフレットから

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持ち手のついた道具は ド・ロ神父考案の三本の鋤がついた農具。

ただこの辺りは土地が狭く、段々畑なので三本は必要がなく重量があるので 村人の役には立たなかったそうです。 主に、ド・ロ神父が近くの大平に開墾した土地で使われたそうです。

(実は三日間の旅、と軽くみてカメラの充電器をもってこなかったのですが、昨日の午後三時頃、バッテリー切れ。 それでスマホで撮ることにしました。 こちらは充電器はもってきていますが、道中では充電することはできないので用心して枚数をかなり減らしました。そのため写真が少ないのです)  

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これもパンフレットです。

民芸資料館ですから、農機具、生活用具の展示なども多かったです。

池島炭鉱 1959年(昭和34年)出炭開始、2001年(平成13年) 閉山
旧外海町

町はこの炭坑のおかげで 大変うるおって、このような立派な資料館も建てることができました。(現在は 長崎市と合併したので 市に移管されています) 
通ってきた橋には、よく見ると十字架の印がつけられているのですが、これも外海町が負担してつけさせたものです(普通は 宗教関係のものは つけられない)(グーグルマップのストリートヴューから)

見えにくいですが、炭坑の資料の写真で奥に黒いものがあるのは、掘削のための巨大な(直径2メートルぐらい) 歯車状のものです。

切支丹関係のものとしては

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昨日の大佐志教会でも見たのですが、ここにも ヨセフ像がありました。名目的なイエスの父なので、あまりヨーロッパの教会ではとりあげられないようなのですが、イエスの父親として崇められたのでしょうか。列聖されたのはかなり後の時代になってからのようです。

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案内人のM氏によるとこれらは 誰がそれが持っていた、と明記されていないので、参考資料とすべきだそうです。

ものすごく大きな 杖のような ロザリオ(何人もの人で繰っていったのでしょうか)

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1797年外海から五島に移住した隠れキリシタンが山の神として祀った、と説明書きにあります。(この辺りは五島に逃れた人が多い)

外に出て地図など見乍ら説明。

バスに乗る前に、前の広場、海よりにある 沈黙の碑 を見ました。

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この碑は氏の生前に建てられ、ベストの場所として大変気にいっていらしたそうです。
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   人間が こんなに悲しいのに 主よ 海があまりにも 蒼いのです

海が青くなくて 本当に残念でした。

10分ほどバスに乗って 黒崎の久栄旅館へ 

13時30分 昼食

伊勢エビ海鮮丼です。

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釜飯型どんぶり、ごはんの上に伊勢エビのお刺身がのっています。奥のとろろ(味付き)をこれにかけて混ぜて食べるよういわれました。 美味しーいっ。お向かいの方に少しだけ ビールを分けていただきました。 教会は酒気帯び厳禁ですので。

遠藤周作文学館(14時15分頃~15時)

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奥に見えるテラスに行きます。角力灘の眺め

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拡大しました。

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左端の島、アーチのようになっているのが 大角力、中央が 小角力。池島はどこかその奥に霞んでいるところらしいです。

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右手に白い塔のある建物は出津教会。

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展示品は 撮影禁止

原稿(字が小さい!)や子供のときからの写真、書斎の再現など。

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        (絵葉書)

時間的には丁度よくゆっくりみることができました。

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ホール上部のステンドグラスがとてもすてきでした。
小さなshopがあり、絵葉書を買いました。著作もおかれていて、買われた方も。
ア○ゾンで買うより、ずっと大切な本になるでしょう。

ホールにおかれていた彫刻

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                           「西海」

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                          (玄耀)


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この後黒崎教会、枯松神社に行きます。それは次回

 

キリシタンの跡を訪ねて 平戸・生月・そとめへ 3日目ー2

10時20分   出津(しつ)教会 (1882年)に着きました。

この教会はこの地域での布教だけでなく社会活動にも大きな仕事をしたマルク・マリ-・ド・ロ神父が私財を投じて建てた教会です。

煉瓦の壁をモルタルで白く塗ってあります。
長さ37m、幅11m、下の写真ではあまり感じられませんが、かなり奥行のある教会です。 増築してのびたそうです。

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内部、どうやら写真をとってはいけなかったらしいのですが、すでに一枚撮ってしまっていました。折角なので載せます。

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フランス人神父の設計によるものなのに、和風建築のように すっきりシンプルです。 
柱頭もありません。
とりたてて飾りはなく 壁に14の「十字架の道行き」がかけられているだけです。
右側廊部分を拡大

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天井が平らですが、ここは高台で風が強いので天井を高くすることをしなかったそうです。

入るとすぐ、今回の旅では通例となっている、お祈りをしました。
 
平戸の案内人さんは、今日の旅の安全などを声に出して祈られましたが、今日の案内人さんは黙祷ですので 各自が心の中でお祈りします。 
自分でもとってもびっくりしたのですが(昨日もそうでしたが) 手を組むと、すっと 「主の祈り」 (天にましますわれらの父よ、、)が浮かんでくるのです。子供のころ行った日曜学校の習慣がよびおこされたのでしょう。刷り込みというのは おそろしいものだと思いました。(ヨーロッパの教会でも 時々手はあわせますが、主の祈り が浮かんできたことはなかったのです、、。)

心が清められるようないい教会です。

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10分ほどして外に出ました。

右の碑にかかれているの言葉は
私の兄弟であるこのもっとも小さい者にしたのは私にしてくれてことなのである。(マタイ伝)

この教会は、百合学院、聖トマス大学などの創立者で、カトリック新聞初代社長などを務めた田口芳五郎枢機卿、元長崎大司教の里脇浅次郎枢機卿のほか、多数の聖職者を輩出してきた教会でもあるそうです。
日本人で 枢機卿になったのはこれまでに五人ですが、そのうち二人がここの出身者ということになります。

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東側

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隅に何かの遺構がりましたが、案内人さんも何だか知らないそうです。

これから中央に見える道(歴史の道)を降りていきます。 

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旧出津救助院

授産場へ、 

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綿織物の製紙から、製織、染色、そうめんやパンの製造、しょうゆの製造などがおこなわれていました。 

二階は修道女の生活場所、礼拝堂として使われていました。ここは写真OKでした。

マリア像や 時計、オルガンどれも ド・ロ神父がフランスから取り寄せたものだそうです。長い船旅をしてきたはずなのに、マリア様の衣が欠けたりしてはいず 「リヤドロみたい」 と皆感心して眺めていました。時計もいい感じです。

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時計は15分ごとに音がでます。実際にならして聞かせてくださいました。


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シスターが 実際にオルガンを鳴らして 和音を奏する装置や 移調の装置のあるオルガンであることを示してくださいました。 
ド・ロ・神父様は音楽、歌うことを大事になさったけれど、それはここで働く若い女性たちが結婚して子供を育てるとき、歌ってきかせることによって次の世代にキリスト教が伝えられることを 願ってであったからだとも話されました。
とてもやさしいシスターでした。

マリア像とは反対方向
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時間がおせおせだったのでゆっくりできなくて残念でした。

ド・ロ神父記念館(元 鰯網工場)内部は カメラ禁止でした。

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横の石碑には 従是南佐嘉領 とあります。 佐賀藩の領境石 のようです。??

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この横の壁は ド・ロ壁だと思われます。当時日本では石積みの接合剤として使われていたアマカワが雨に弱いのをみて代わりに赤土を水に溶かして石灰と砂をこねあわせたもので 接合することを考えたのです。石の積み方はさきほど見たこの地特有のやり方です。 

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内部は カメラ禁止でした。
頂いた パンフレットからから

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ド・ロ神父は 名前から察せられる通り、貴族の出ですが、父親は二月革命を経験したらしく、どういう世の中になっても困らないようにと、家庭教師をつけて医学、工学など色々な勉強をさせたそうです。医師の資格はもっていませんでしたが、外科手術用具や、当時の日本ではまずなかったであろう人体内部の模型などもありました。また建築技術も学び、機械用工具などの展示もありました。

洋式作業衣の写真がありますが、着てみたくなるようなシックなものでした。多分日本で初めての制服ではないか、と言っていました。

ド・ロ神父 について 簡単に
1840年 ノルマンディーの バイユー郡ヴォスロール村に生まれる。 
Vaux-sur-Aure 
あの バイユーです!!
1868年、長崎に渡来(28歳)
1879年 外海地区に赴任 
1914年、74歳で亡くなるまで外海地区で宣教活動だけでなく社会福祉や産業開発に力を尽くしました。

具体的には、 救助院を建て、パン、マカロニ、ソーメン 織物などの授産事業を始める。
鰯網工場、保育所を作る。水車による製粉工場を作る。
防波堤を作る。
原野の開拓
腸チフスの流行のため 薬局を設け治療にあたる
貧民救済のための土地購入。
人口増のため、住民を移住させる。
赤痢発生のときには避病舎設置、青年救援隊を編成
県道改修工事(飢饉に苦しむ村民に食糧・労賃を与えた) 

勿論教会堂の設計・施工も

等々、生活の苦しい住民のために、たんに施しをする、というのではなく村人が仕事ができるように、地域が経済的に発展するように指導したのです。
日本人のために、もてる能力をすべて生かし私財を投げ出して尽くしてくださったことに とっても感心してしまいました。

ド・ロ神父の名を私は昨年、お友達からきいて初めて知ったのですが、多分知らない人が多いのではないでしょうか。もっともっと知られていい人だと思いました。

12時20分過ぎにはここの見学を終え、バスで 外海資料館に向かいました。それは次回に 

2015年7月 5日 (日)

キリシタンの跡を訪ねて 平戸・生月・そとめへ 3日目ー1

弓張りの丘ホテルの朝(6月23日)

昨日 夕食のおりに 「この上の展望台から日の出がみえますよ」 と散策マップをいただきました。 日の出、23日は5時13分だそうです。
支度を考えて とりあえず4時に目覚ましはかけておきました。一応目はさましましたのですが小雨のようで、また寝てしまい、5時半ごろ本格的に起きだしました。

うぐいすがよく鳴いています。 
6時30分頃、外に出てみました。少し晴れてきたので歩くことにしました。あるご夫妻とご一緒に、展望台に向かいます。 ところが、昨日のダンジク様への往復のせいか、腿がはって、歩くと痛いのです。 戻ろうかと 奥様とはなしていると、先にいらしたご主人様が「すぐそこだよ」 展望台まで行きました。

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コワーイ、戦争のお船!!見ただけで寒気がします。 こういうのが尖閣あたりに行くのでしょうか。(帰って主人にきくと 護衛艦だそうです)

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嬉しいことに少し晴れてきました。

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緑地としてひろがっているところが 自衛隊員の駐屯地だそうです。

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これが展望台。 すぐ上なのですが行く元気はなく、写真はその下の展望台で撮りました。

 

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そろそろ下り始めます。 歌碑とか文学碑などが建っていました。

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上りより、下りのほうが足が痛い。足をおろすたびに飛び上がりそう(大袈裟ですが)。やっとのおもいでホテルにたどりつきました。 

7時 朝食。 ビュッフェは とても充実していましたが、例によって私の分量は少し。

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レストランは5階、 4階には あのようなアーチがあります。 結婚式用でしょうか。
ヨーグルト(昨日のホテルのヨーグルトも美味しかったのですが)がとても ネットリしていてお味が、水牛っぽい、ととっさに思ってしまいました。(水牛ヨーグルトいただいたことはないのに)つまり ちょっと野性味を感じたのです。 兎も角 初めてのお味で感動。

これだけの分量ですから、すぐに終ってこのアーチのあるテラスにおりました。

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7時20分 お部屋に戻り、 荷物をまとめて 配られていた 新聞を読み増した。うぐいすが上手にないています。

ホテル内のショップは8時からなので、行ってみました。ホテルのホームページでは ガラス製品によさそうなのがあったのです。

欲しいと思っていた ビール用はデザインが今ひとつピンと来ない。結局、小さな冷酒用お盃を買いました。
ここは1万円以上買うと配達料無料だそうです。空港で買おうと思っていたカステラ、母や妹など数が必要、軽いけれどかさばるので ここで買うことにして、一万円以上になるように、あれこれ迷って買い足して、結局 随分時間がかかってしまいました。

ラッコのお箸置きも買いました。

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主人も喜んでくれたのですが、帰ってよく見ると、メイドインチャイナ!!

ところが、こういうときに限って(出発時間がせまっているのに)お部屋の鍵が開かない!フロントにもどって 頼んで、、。

8時50分 出発

西海橋を渡っています。(9時28分)

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西彼杵(にしそのぎ)半島に入ります。

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大村湾をみているわけです。

この辺りで山越えをして、西側に向い西海市から海岸沿いに南下。
ながさきサンセットロードを 道の駅 夕陽が丘そとめ まで行きました。 ここで 案内人の Mさんと待ち合わせ。

20分ほどお買い物・トイレタイム

10時40分バスで来た道を少し戻ります。途中橋がかかっています。白と青を渡りました。 もう一つは赤で フランスの三色旗からとられたそうです。この辺りは 山と谷なので橋が架かっていますが、昔は通行が不便で、それがキリシタンが隠れ住むのに適していた、というわけです。

(頂いたパンフレットにでていた地図)

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戻って大野教会入口のところからバスではぎりぎり一杯の細い道に入ります。 大野教会は予定にははいっていないのですが、行ってみたいとおもっていたので、嬉しい! と思ったらぬか喜びでした。時間がないし、工事中でもある、ということで、行かないで反対方向の山道に入りました。入れなくてもいい、建物を見るだけでもよかったのに、残念。 

大野教会 は1893年(明治26年)マルク・マリ・ドロ神父が設計、私財を投じて建てられた小さな教会堂で、世界遺産候補にもなっているものです。

世界遺産登録待ちのため、道路の整備をしているのです。

平戸の案内人さんもおっしゃっていらっしゃいましたが、今日の案内人さんも、世界遺産に登録されることに信者の多くは戸惑いを感じているそうです。 
市や町は観光客が増えるので、経済効果大とみて熱心に進めているのですが、信徒にとって、教会に多くの人がこられるのは迷惑なのです。
教会は入るのにお金はとりませんが 電気代とか トイレを借りられるので、トイレットペーパー代だってばかにならない、それが全て信徒の負担になるのだそうです。

木の枝ががさがさ触れるような狭い道をバスは行き、10時53分バスをおりて 山道を5,6分歩きます。

バスチャン屋敷跡

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バスチャンは伝説の人物でバスチャンという洗礼名を持つ複数の人物の業績が一人に集約されたのかもしれない、ともいわれていますが、 

そのバスチャンは、1610年にやってきたジョワンという神父の弟子で外海地区行ったを布教してまわった人です。その隠れ家の一つがここにあったとされています。
バスチャンの功績の一つとして、教会歴を太陰暦になおして 日繰り をつくり、これによって、教会の行事をおこなったことがあります。(外海・浦上地区のキリシタンがカソリックへと再洗礼を受けた人が多かった理由の一つに、この日繰りにより、カソリックの行事にあまり違和感を持たなかったことも あげられるそうです。

また 四つの予言をしたといわれ、その予言のうちひとつに  
コンヘソーロ(告白を聞く司祭)が、大きな黒船に乗って来て、毎週でも告白ができるようになる。 というのがあり、これが幕末、大浦天主堂に行く決心をうながした、と考えられています。

つまり、大浦天主堂ができたときに(これは居留地の外国人のための教会で、まだ当時はキリスト教は禁じられていた)1865年 「マリア様はどこ?」と10数名の男女がやってきたのですが、禁教の中、でかけていく決心をうながしたのはバスチャンの予言を信じたからだそうです。

案内人のMさんによると 「信徒発見というのはパリ宣教会側からの見方で 我々から言うと神父発見」なのだそうです。

道の傍らには 小さな流れが、

この辺りの信者はここの水を聖水としてつかうそうです。(井戸があるらしい)

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沢蟹がいました。
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11時5分ごろバスに乗って、 

この石垣 (黒色片岩でできている)はこの地域に特徴的なものだそうです。

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野道キリシタン墓地(バスの中から)

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ド・ロ神父のお墓
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このあと 出津教会に行くのですが、それは次回に

 

2015年7月 3日 (金)

キリシタンの跡をたずねて 平戸・生月・そとめへ 2日目ー6

16時55分 瀬戸市場を出て、一路佐世保へ

佐世保の丘をぐんぐんのぼって 19時50分頃 ホテルにつきました。

弓張りの丘ホテル http://yumihari.club-manatee.co.jp/ 

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このホテルは 昨日と違って見晴がいいはず。ベランダがついていて、九十九島は一望のもと、 ということになっていますが

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生憎のお天気、靄にけむる 九十九島です。

でも 気持ちはいいです。
お夕食は18時40分からなので、着替えをしてお食事前にホテル内の陶芸コーナーにいってみました。

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商談をするためでしょうか、 椅子のセットは。

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源右衛門です。 ステキ~ (18万円とお値段が出ていました)

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源右衛門のティーカップ 、心が動きます。

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こちらは 深川製磁

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目の保養だけにして、 テラスへ

あとでツアーンメンバーにお聞きした話では、源右衛門も年に一度、安く売る時期があるので、その時来るといい、とのことでした。

お部屋は2階、 ここは 4階ですから、見晴がもう少しいいです。

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赤いクレーンは 造船所でしょうか。

そろそろ夕食の時間です。 私たちだけのお食事会場は少しわかりにくかったです。

丸テーブルが二つ。 また夫婦組と一人参加組が分かれて座りました。 私たちのテーブルには 添乗員さんも

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この旅では当然、遠藤周作 のことは話題になるわけですが、お隣に座った方とは前日もご一緒で、そのとき「御実家が長崎で、遠藤周作さんをよく御存じのお友達がいるのよ」と話されていました。
私は氏の『切支丹の里』を読みかけで持ってきていて、それに(文庫本では 48ページ)鼈甲のお店探しを手伝ってくださったお嬢さん、というのが出てくるので、「もしかしたら その方かしら?」 と、その本を持ってきてお見せしたりしました。やはり、お友達はこの本に登場する洋品店(デパートでもあるらしい)のお嬢さんでした。

そんなこんなで 楽しくおしゃべりしながらお食事しました。

アミューズ  サザエのブルゴーニュ風  フォアグラコロッケ

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アントレ  エビとズワイガニ コンソメゼリー

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スープ 桃の冷製スープ (写真撮るのを忘れて途中で撮ったのでスプーンが入ったまま、薄甘で美味しかったです)

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魚料理   スズキと帆立貝のポアレ

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肉料理   牛フレ肉のグリエ 粒マスタードソース

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特製デセール

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結婚式みたいな、本格フルコースでした。 どれも美味しくて大満足

20時過ぎにお部屋にもどりました。お風呂に入って

22時過ぎに見た夜景

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22時30分ごろ 寝ました。

キリシタンの跡を訪ねて 平戸・生月・そとめへ 2日目ー5

切支丹資料館を出てさらに南下

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大佐志教会 (14時45分~15時7分)

大佐志は、五島や黒島から移住してきた人々の子孫が住む集落。1886年頃からマタラ神父の指導を受け、1911年、最初の教会堂が建てられました。信徒の増加により、増改築がおこなわれ、昭和41年(1966)老朽のため損傷が激しく、改築したそうで、新しい教会です。

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内部 すっきりとして落ち着いた感じです。

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向かって右は 聖母マリア様(この教会は 無原罪の聖母 にささげられています。 左、イエス様をだいているのはヨゼフだそうです。大工のヨゼフが抱いている図はあまりみたことがないような、、、。

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窓にかけられているブラインドが ステンドグラス風に塗られています。 カソリックの教会では どこでも 十字架の道行きの絵(彫刻作品のところもある)がおかれていますが、ここではストゥッコによるものでした。
小さな教会は どこでもそうでしたが、専属司祭はいらっしゃらず、ここも(今回は行かない)紐差教会の司祭が巡回してミサを行うそうで、普段は閉まっています。 

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横に立つ鐘もかわいいです。

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川のようですが、リアス式海岸で深い入江になっています。

バスで 北上

途中、今回は行かない紐差教会(昭和4年、鉄川与助 設計・施工のコンクリート製教会)が見えました。 

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そこを右に行って

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南下、  木ヶ津湾
ストリートビューで位置を確認いましたが、真青な海が写っていました。お天気の悪いのがうらめしい。
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木ヶ津教会 (15時30分~55分) 

明治中期、黒島・外海・五島地方よりこの地へ開拓者として移住した人たちは紐差教会に所属して約4kmの道を通っていたのですが、昭和37年(1962)古材を譲り受けて現在地に教会を建設。
現在の教会は 1962年に平戸の猶興館高校の体育館の半分を譲り受け移築して建てられました。

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敷地に入った途端、 ワーッ と声をあげたくなるほど 沢山アジサイが植えられています。おじいさんが世話をしているのですが、去年亡くなった奥さんが、何年か前から植えはじめられたのだそうです。

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曇りなのに、逆光でいい写真ではありませんが、横を見ると、体育館だったことに納得。

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窓など見ても 体育館(講堂)だったのだな、と思われます。壁には十字架の道行きの絵がかけられています。これは 永井博士によるものだそうです。

永井博士の絶筆「十字架の道行き」が掛けられているのです。。あの 長崎原爆の 永井隆博士です。 絵も描かれたのですね。氏はもともとはプロテスタントの信者でしたが、学生時代の下宿先、森山家が隠れキリシタンの家系であったため(後にここの娘と結婚)影響を受けカソリックとなったそうです。

和紙に描かれたこの「十字架の道行き」は博士が亡くなる数カ月前に病床で描かれ博士の死後、長崎の浦上教会に寄進されていたものです。
木ケ津教会が、やっと教会は建てたけれど「十字架の道行き」の絵を買うお金がない、と相談し、譲り受けたのだそうです。

絵の十字架はもとは黄色にぬられていたそうですが、白くなっています。ガラスがかぶさっていますが、はずしたら、絵はバラバラになっていまうのではないか、と 案内人さんは言っていました。
十字架の道行きは14枚で一組になっています。 そのうちの何枚かを。

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十字架の道行き、描きたかったのでしょう。
病という十字架を背負い、遺していく子どもたちを思いながら描いたであろう絵を、少し胸をしめつけられるような気持ちでながめました。

ここで 平戸巡礼の旅は最終です。27巡礼地を回られた方(ツアーの①、②ともに参加された方)7人はここで、巡礼証明書を授けられました 受けられた方たち、学校の卒業証書以来 と喜んでいらっしゃいました。

教会の前のお花を眺めて

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径5㎝くらいのピンクのお花。 夏水仙 だそうです。

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ぼけ写真ですが、。こにはアジサイだけでなく、クチナシ、アガパンサス、カンナなども植えられていました。

バスで 北上、ほんのちらりと 赤いレンガ造りの宝亀教会(世界遺産登録候補の一つ)が見えました。紐差教会も宝亀教会もこのツアーの①で行くことにになっているのです(7人の方はいらっしゃっているわけです)15070321

海沿いに進むと 千里が浜。 児誕石 というのが見えました。(16時26分)

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明朝の忠臣「鄭成功」が1624年(寛永元)7月14日、この岩の上で生まれたので誕生石と呼ばれてます。
成功の父、芝龍は支那は福建省の人で、時の第28代藩主宋陽隆信の寵をうけ川内浦に住み、浦人田川マツを娶ったのですが、 たまたま、マツが千里ヶ浜に貝拾いにいき、俄に産気づき家に帰る暇もなく、浜の木陰の岩にもたれて出産した、のがこの岩だそうです。私はよく知らないのですが、 鄭成功は 「国姓爺合戦」 で有名なのだそうです。

平戸大橋を渡り(16時38分)九州本土へ

ここで、「渦が見えますね」 といわれたのですが、 私にはよく見えませんでした。左奥、白い小さな点が 多分 平戸城。

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橋を渡ったところで、二日間案内してくださったTさんとおわかれ。 
トイレストップを兼ねて、近くの 瀬戸市場に行き、ちょこちょこ買い物。 来たときと同じルートをたどって佐世保にもどりました。

佐世保のホテルは次回に

2015年7月 2日 (木)

キリシタンの跡を訪ねて 平戸・生月・そとめへ 2日目ー4

山屋旅館は少し奥まったところなので、バスは海岸沿いの道で待っていました。

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海沿いの道、 沖には 中江ノ島 がみえます。
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ここで 生月島を出るわけですが、出る前に 橋のたもとにある

道の駅・生月大橋 でお買い物休憩 ( 13時~13時22分)しました。

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右手に売店がありました。昨日いただいて美味しかった 夏香 が人気、私は ふりかけなんぞ買いました。

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右手に少しだけみえている石段を上がると ちょっとした展望台がありました。

生月大橋 がよく見えます。

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橋を渡って平戸島に戻りました。

頂いたパンフレットより

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平戸島に入ったところで西側海岸線沿いに南下、春日にきたところで案内人さんが「春日の棚田は世界遺産候補、来年になったら、こんな狭い所、人があふれて大変ですから今みておきましょう」、と予定にはないけれど、少し見学しました。(14時30分~45分ごろまで)

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(バスの中から) 海まで続く棚田


バスをおりて、谷戸になったところを歩きはじめました。春日は棚田の美しい所であるだけでなく隠れキリシタンの集落でもありました。

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棚田は高い所から見下ろした方がいいのですが、そこまで行く時間はありません。 

中央、霧に霞んでいるのが 安満岳   下にはえているのは ダンジク

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この辺りには奇岩も多く見られるそうで、 中央は 人形岩

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バスに乗って南下を続けます。あいにく私の座席は左側で写真が撮りにくい。

根獅子(ねしこ)の浜に近づくと ルルドのマリア様。この上には ウシワキ様の井戸があるそうです。

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根獅子の浜、曇りでもこれだけですから、晴れていたら どれほどに美しいでしょう。残念!

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どれだかよくわからないのですが、昇天石。 この美しい浜でも多くの人が殉教したそうです。

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灯篭が立っているのがそうらしいですが、、、。 
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平戸氏切支丹資料館  http://www.hira-shin.jp/christian-sl/index.html

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外観写真を撮り忘れたので、上記 ホームページから借りました。

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17C初頭のもので、信者の家にかけられていた掛け絵

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根獅子は外海からの移住者がいたのでしょうか。
外海にあるバスチャン屋敷には 翌日行きました。

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生月では 見られなかった マリア像もありました。

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下のマリア観音は 参考資料です。キリシタンが 信仰の対象にした、という確証のない物は 参考資料、ということになります。
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生月で見たのとおなじような、聖水瓶やオテンペンシャ、メダイなどもありました。

資料館の横の森は ウシワキの森とよばれる聖地です。

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ウシワキ様とも おろくにんさま とも呼ばれます。

神聖な場所なので、裸足ではいらなければいけなかったそうです。

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おろくにん様、といわれは、
夫婦と娘三人が暮らす家に若者がやってきました。働き者なので、長女の婿に迎えました。妊娠したので、もう大丈夫だと自分たちがキリシタンであることを話したところ若者はいなくなり かわりに役人がやってきて、おなかの子も含め 六人とも根獅子の浜の昇天石で処刑されてしまったのです。それで おろくにん様 と呼ばれるのだそうです。
本当にひどい話です。

14時25分頃 バスでさらに南下して大佐志教会に向かいましたが、それは次回に

キリシタンの跡を訪ねて 平戸・生月・そとめへ 2日目ー3

10時22分 生月博物館を出て 

10時31分 ガスパル様の碑 

立派な碑の建つ広場の横の道を行きます。

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この道のすぐ奥です。

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横を見ると 風力発電の風車群

ガスパル様とは、籠手田(こてだ)氏の生月領奉行、 西玄可の洗礼名

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この折れた松の木を使って いくつか十字架がつくられたそうです。 これから行く山田教会にもあったそうですが、盗まれてしまったそうです。 案内人のTさん憤慨していました。

不届き者がいるものです。そういう人がいるから教会は常時入ることができなくなるのです。 

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右は イエスとマリアと洗礼者ヨハネ、 左に 西玄可夫妻と子供、 その他の信者たち

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ここにはちょっとした見晴台があり、沖に中江の島 が見えました。

http://www.hira-shin.jp/record/index.cgi?page=3&field=25

1622年、24年、ここで処刑された何人もの殉教者たちがいました。その一人 ヨハネ坂本の名から、 こはサンジョアン様ともいわれ、洗礼者ヨハネにちなんだのでしょう、ここからの水が 生月の信者たちの聖水として使われるようになったそうです。 

岩が切り立たっていて、船を着けるのが難しく 一般の人は行きにくいのですが、信者たちは汲みにいくそうです。

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ここを(10時46分)出て 

山田教会へ (10時51分~11時13分)

屋根には瓦、壁面が煉瓦 正面が石、ちょっとちぐはぐな感じ

この教会は 明治末期から 昭和にかけて、この辺りの教会建築をになった人として 有名な 鉄川与助 の作品です。 鉄川作品が見られるのは今回のツアーではここだけですから非常に期待していました。

1911年(明治44年)着工 1913年(大正2年) 献堂式

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正面

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敷地に入って左手には ファティマ(ポルトガル)で 三人の子どもたちの前に聖母マリアが現れた様子を示しています。
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トマス西は 先ほど訪れた興江小瀬の辻のガスパル様(西玄可)の息子。 両親が 殺されたとき、彼は 神学校にいっていたので、 殺されなかった、その後Philippinesに渡り ドミニコ会に入り、司祭に叙階、1629年 長崎に戻り、 信者に秘跡をさずけたりしていたがÝ捕まり、拷問載せ殉教。 1987年に列聖されました。その記念碑です。右の京都の聖らざろについてはあまり分かっていないそうです。 
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中に入ります。
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外観は ? でしたが、中は素晴らしかったです。特に木造の 交差リブヴォールトの天井が美しいと思いました。ヨーロッパのヴォールト天井は石造りで、木でできているのは初めて見ました。

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半円面の装飾は近年、神父によってなされたもので蝶の羽を使ったものです。大量の羽が必要とされたはずですが、 この辺りで捕獲したものではなく、ブラジルからキズモノで売り物にならなくなった羽を手に入れたものだそうです。 
秘跡をあらわしているそうでが、なんだかごちゃごちゃしていて悪いけれど好みではありませんでした。
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右側廊の祭壇には 「悲しみのマリア」像
柱がやはりゴシックの束ね柱のように何本もの木の合わせ柱です。
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ちょっと変わっているのが柱頭。イオニア式ですので普通アカンサスの葉模様ですが、渦巻きのところに線が入ってぎざぎざになっています。 これはこの辺りで見られる蘇鉄の葉を表しているそうです。
柱にそって手をあてました。ヨーロッパの教会でも、私はぐ柱に手をあてるのですが、矢張り 木はコチンとした抵抗感がなく暖かくてて、すっと落ち着きました。 

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中央祭壇の 壁画 殉教の様子を描いています。

11時13分教会を出て、 バスで 

壱部教会 (11時28分~11時40分)

最初の教会が建てらたのは1884年 現在の教会は1964年。 なんだか幼稚園の入口みたいなかわいらしさ。

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これは ルルド かな?
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内部は シンプル
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ここで大事なのは、この 絶えざる「御助の聖母」 (右奥の壁にかけられている)のビザンティン風な絵。

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ガラスが はいっているので、映り込みがあって、うまく撮れなかったのですが、イエス様の足、紐が絡まっていますが、その下の茶色が紐でぶらさがっているサンダルです。
色々なタイプの聖母子像をみてきましたが、 このタイプは初めてです。説明がありましたので

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11時50分、この教会を出て、 

 11時55分~12時50分 昼食

 山屋旅館

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左のお皿、トマトの横は クジラの竜田揚げ

皆さん 学校給食以来、とかなんとか、言いながらいただきました。 味は悪くなかったです。

捕鯨は禁止とかなんだかうるさいですが、傷ついたクジラは獲ってよいことになっているそうです。

鯵の横に添えられている卵焼き、甘さ加減が丁度よくて、とっても美味しかったです(私だけでなく、皆さんそうおっしゃっていらっしゃいました)

ここの奥様はさきほどの壱部教会の信徒の方で 案内人さんとはお知り合いのようでした。前に書いたかもしれませんが、案内人のTさんも、もとは隠れキリシタンの家系で現在は別の教会に所属するカソリックの方です。

お店の方のお見送りを受けて(さすが日本ですねえ、宿でも食堂でも どこでも、丁寧なお見送りがありました)出発。

長くなってきましたので、続きは次回

2015年6月30日 (火)

キリシタンの跡を訪ねて 平戸・生月・そとめへ 2日目ー2

生月島 (いきつきしま)は江戸時代から捕鯨で有名な島だそうです。

生月町博物館「島の館」 9時25分~10時22分

http://www.hira-shin.jp/shimanoyakata/index.html

ここで 島の歴史 をクリックすると隠れキリシタンの説明がでます。

入口前広場から

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中では博物館の学芸員の方が説明してくださいました。

まず入ったのは捕鯨ゾーン

1725年(享保10年)から二人の人の共同経営で始まった捕鯨は益富という姓を御殿様から頂いた人物が 経営をはってんさせ、江戸時代には日本最大のクジラ組になりました。 
最盛期には3千人以上の人々が働いていたそうです。(一組500人で6組ありました)

網掛け突取法による捕鯨  勇魚とはクジラの古いよびかた

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今日では クジラ漁はすたれ、代わって鰯漁がさかんになりました。
遠洋巻き上げ漁で 中学を卒業してすぐの若者でも、 年収500万稼ぎ、そのため過疎を免れ、家が残ったので隠れキリシタンも残った そうです。

つまり 信仰の維持と経済的発展には密接な関係がある、ということでした。

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島の暮らしを紹介するゾーン
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いよいよ隠れキリシタンに関する展示コーナーです。

ここには踏絵の展示などもあるので、ゆっくり見たいしお話もしっかりききたいし、なかなか たいへんでした。

ところで、この日の学芸員さんのお話と翌日のキリシタン案内人さんのお話から、私の隠れキリシタンの理解がいい加減だったことが分かりました。(というか 厳密に考えたことがなかったのですが)

隠れキリシタンとは 江戸時代キリスト教が禁じられたときに隠れてキリスト教を信仰した人たち、のことだとおもっていましたが、驚いたことに現代でもいるのだそうです。 
そこで潜伏切支丹とカクレキリシタンと区別するそうです。

潜伏切支丹とは禁教時代、隠れて(潜伏して)信仰していた人々。

カクレキリシタンとは 明治6年 禁教令が解かれてからも(隠れる必要がなくなってからも) カソリックではなくこれまでの信仰形態を保っている人たち
のことなのだそうです。

ここ生月ではこれまでの信仰形態にとどまっている人(カクレキリシタン)のほうが多く カソリックの洗礼を受けたのは 三分の一だそうです。 二日間同行してくださった案内人のTさんはカソリックだそうです。

上記ホームページから引用します。

16世紀後半の日本においてヨーロッ
パ人カトリック教宣教師らの布教によって成立したキリシタン信仰の信仰形態に起源を持
つが、江戸時代に入って本格化する禁教政策下、神仏に対する信仰と併存する事を余儀な
くされる一方で、カトリック教団との接触を断たれる事による教義の希薄化と裏腹に、地
元殉教者に対する尊崇を精神的な拠り所としつつ、キリシタン信仰当時の聖具からなる御
神体や、殉教者が没した聖地などを主要な信仰対象として成立する信仰

従来は、隠れキリシタン信仰は、もともとは西洋と同じ純粋なカソリック信仰だったものが、 禁教時代に、他の宗教・信仰と習合し変容したとみなされていたけれど、実際は他の宗教と並立した形で信仰されていたことが 説明されました。信仰要素の多くは当時の宣教師の 報告と内容的には変わりはないからです。
禁教時代、信者は 組を作って信仰を 秘匿・維持したため、既存信者と無関係な新規参入者は殆どなかったそうです。 

キリシタン信仰の解説は このホームページに非常に詳しく出ています。

http://www.hira-shin.jp/record/index.cgi?page=1&field=24

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ここに読めるように、領主の改宗による一斉改宗によって、村人たちは改宗したのです。村ぐるみ信徒でした。そこで禁教時代、宣教師のいないなか 村の行事として村の長老たちを中心にキリスト教にまつわる行事がなされてきました。その様子を少しヴィデオでみました。

踏絵

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思ったよりも 絵の部分がちいさ小さかったです。
これらは参考資料、として展示されています。(現在 踏絵として確認されているのは東博にある29点だけだそうです)
それにも拘わらず、胸に迫るものがありました。

よくマリア観音などといいますが、この地域では 彫刻作品ではなく掛け絵でした。

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聖家族図 これは (先ほど行った)ダンジク様と その妻マリアと子ジュアンを描いています。普通のキリスト教会がとは かなり違ったものになっています。

オラショ本

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オラショは年二回だけ 実際に歌う(唱える?)そうですが、その時期ではないので聴くことはできず、ヴィデオから流れるものを聴いただけです。
ずっと以前にテレビで、皆川達夫さんが調査された様子を放映、オラショがグレゴリアン聖歌に似ていることをことを話されていました。実際のところをききたかったのに、残念です。 
生月・平戸では男性だけが唱えますが、そとめ・浦上地区では 男女ともに声に出さないで 唱えるそうです。

宗門改手形
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(どこのものか、説明書きを写すのを忘れました)


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胸像型御神体(旧正和1垣内の御前様)   垣内 とは組のこと

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山田教会(大正元年創建)は、このあと行く鉄川与助作の教会ですが、昭和45年 正面の増築の際、不用になった瓦。

一番奥には カクレキリシタンの住まいを再現したものがありました。

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右手、廊下状の奥が 納戸。 壁側には 仏壇、神棚があります。

納戸

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壁には 掛け絵
中央には お水瓶(中江ノ島で汲まれた聖水を入れる) 左の縄を束またものは オテンペンシャと呼ばれるもの。もともとは贖罪のため、体を鞭打つものでしたが、現在は お祓い に使われているそうです。これらは全て御神体で、御神体全体を指して
「納戸神様」と呼ぶがそれは 昔は納戸に祀っていたからです。(中江ノ島の写真はあとで載せるつもりです)

明治6年禁は解かれたのですが、大部分の潜伏信徒には禁教の恐怖は直ぐには払拭できず、また自分達が守ってきた
信仰の形と、明治に伝来したカトリック信仰との違いに戸惑い、素直にカトリック再洗礼、とはならなかったようです。
 
最も問題となったのは神棚仏壇の扱いで、なにか起こると仏壇を粗末にしたせいだ、という気持ちを持ったし、神社やお寺の巻き返しもあったそうです。
キリスト教信仰とともに 先祖崇拝の念も強かったのです。組 の縛りもあったと思います。そういうわけで、ここでのカソリック再洗礼は三分の一にとどまることとなったのでしょう。

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写真がスペースの関係であまり拡大できませんでした。
青○ 在地のカクレキリスタンの多く住む地域
青□ 在地の隠れキリシタンがカソリックとなった地域
赤○ 外海系キリシタン、のちカソリック

はじめて 知ったこととしては
隠れキリシタン、というのは、貧しさの中ひたすら神を信仰していた人々、同情すべき人々のような先入観をもっていたのですが、むしろ 経済力をバックに信仰を維持してきた
ということです。
潜伏キリシタンの場所としては 長崎県のみならず、関西などにもあるそうですが、ここでは 生月と そとめ(外海)について、その違いなどについての説明を受けました。(外海については 翌日、現地ガイドによって実感のこもった話を聞くことが出来ました)

生月では、クジラ漁が盛んでした。 捕鯨に直接携わったのは 全国から来た漁師たちですが、獲ったクジラを捌くなどの仕事があり、そのため沢山の人があつまり、商業が盛んになるなどの副次的効果で島は繁栄したそうです。 また 石積工や酒造などに出稼ぎなども盛んになされていたそうです。
そとめ地区では 18世紀からサツマイモ栽培がおこなわれ、畑作と漁業がおこなわれていました。外海からは五島や平戸などへ 移住がなされたけれど、これは迫害で逃げ出したというより、人口増に起因するところが大きく、また分割相続であったために、土地がなくなったからで、大村藩は分割相続を禁止したほどだったそうです。(外海については、現地ガイドは 矢張り生活は苦しかったようなことをおっしゃっていました)

キリシタンについてきちんと説明してくださったので、蒙を啓かれるところが大きかったです。とても勉強になりました。
ここでは どちらかというと学術的説明が聞け、翌日の現地ガイドさんからは もうすこし実感的なところが聞けました。

少しお土産物も売られていて、ゆず塩、と ゆずピリ というのを買いました。どちらも◎。どちらも、柚子の香が立ち、特にゆずピリは グリーン・タバスコのようで、辛い物好きなので 何にでもふりかけています。(もっと買えばよかった!)

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このあとバスに乗ってガスパル様に向かったのですが、それは次回に