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大分旅行

2020年12月10日 (木)

大分旅行 3日目ー2 宇佐神宮

富貴寺をあとにして宇佐神宮に向かいます。25分くらいかかったでしょうか。観光案内所の前に着いたのは(写真からすると)11:45頃 (参考までにタクシー代は9020円でした。Go To割引の大半がタクシー代に消えた感じです)

観光案内所で地図をいただいて、しっかり道を教えてもらいました。「前の道をまっすぐいけばいいです。それが参道ですから」 出て前の道を右にまっすぐ進んだのです。でもなんだかおかしい。引き返しました。そうすると「宇佐神宮」と書いた石の標識があります。道もそれらしいので進みました。

       ↓それらしい道

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お土産物屋さんがいっぱいあります、と言われたのにないのですが、ともかく5,6分進みました。そうしたら鳥居がありました。やれやれ、参道と並行した道を歩いたようです。
正しい道は 観光案内所を背にしてまっすぐです!

鳥居が見えるところの角にカフェらしきものがあって、食事をしている方が見えています。 私も、 とおもいましたが、この宇佐神宮、地図で見るととても広大で時間がどのくらいかかるかわかりません。帰りのバスを逃すと飛行機に乗れませんから、ともかく神社をみようと先を急ぐことにしました。

   20120901

宇佐神宮 全国4万6千社余りある八幡様の総本宮で伊勢神宮に次ぐ宗廟だそうです。
祀られている八幡大神とは応神天皇の御神霊です。応神天皇の母 神功皇后も祀られています。そういえば松山の伊佐爾波神社も神功皇后と仲哀天皇(応神天皇の父)が祭神となっていました。
神功皇后とは?調べてみると仲哀天皇(とともに、実在しなかったらしいです。192~200年)は14代天皇で日本武尊の子ということです。神功皇后は夫の死後、おなかに子(応神天皇)をやどしながら熊襲征伐、海を渡り三韓征伐をしたという女傑で摂政として政を行ったそうです。聖母ともいわれたそうで、まあ、神様にされるのもうなづけます。
725年創建  広さ約14万坪
神仏習合 八幡信仰とは応神天皇を讃えるとともに、仏教文化と浸透を集合したものと考えられています。八幡大菩薩という言葉をきいたことがあります。

私の関心は建築です。去年、松山の伊佐爾波神社を訪ねたとき、八幡造りというのを知りました。二棟つなげて建ててあって、横から見ると屋根が開いたMの字に見えるものです。八幡造りは三つしかなくて松山と岩清水八幡と宇佐だけなのです。

さて鳥居です。

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鳥居は鳥居でしょう、と思っていましたが、色々形があるようで、上の横棒が太刀のように反り返り柱の上に鉄の輪がついているのがここの特徴だそうです。(旅の先達のblogで初めて知りました。調べて見ると、下の横棒が突き抜けていないもの、とか二本平行とか色々のスタイルがありました)。

ここまで鉄道が通っていた時代もあったそうです。

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ここからが境内だそうです。この神橋を
わたります。 

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道なりに進むと大鳥居。そこを抜けると 右手に宝物館、前の池は
初澤の池です。宝物館には入りたかったのですが、土日祝日しか開いていません。残念!

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その先、神宮庁、だそうです。

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今日もお天気が良く風もなく、気持ちがいいです。この辺で上宮へのモノレール乗り場へ行く道をさがしました。通りがかり(tourの人が三々五々歩いていました)の人にきいても皆さん階段をのぼられたようで ご存知ないのです。結果的には今まで来た道をそのまま進み、広場にでて左上宮に行く最初の広い階段を(段数は少ない)をあがったところにモノレール乗り場の案内がありました。そこを右に進みます。モノレールを利用する人はいないとみえて誰も歩いていません。 

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この先もう少し木々が多くなります。誰もいないのをいいことにバッグの中からカロリーメイトを取りだして、神聖な場所でいいのかな?と思いつつかじりながら歩きました。ところが一本食べ終わったかどうか、というところでもう乗り場についてしまいました。朱色の小さなお社みたいな建物。子供連れの母娘(三世代)がベンチに腰掛けていて、使い方を教えてくださいました。ボタンをおして戸をひらいて閉まったらまたボタンを押す、自分で動かすミニケーブルカーです。さほど時間もかからず上に着き、くねくね結構長い板の道を歩くと西大門を左に見る広場に出ました。 
   神井と西大門

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西大門は 文禄(1592年~)に改築されていますが、桃山文化の華麗な唐破風を持ち内部も極彩色で飾られているそうです。帰りはここから出ました。
この門を背にして右手の方に回ると、正面になります。

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階段のあるところ向こうから、一之御殿、二之御殿、三之御殿となります。

二之御殿のところ これが南中楼門です。右手の大楠は樹齢800年。

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この楼門をみていて、昨日観た見星寺の入口の門となんとなく似ている気がしてきました。去年の松山の伊佐爾波神社の楼門はもっとあのお寺のものに似ています。お寺の方があとですから、神社建築がルーツsだったのでしょうか?一般的に神社建築そのものに関してはお寺を真似た、
とあるのですが、、、。

ところで八幡造りです。ここは段を上がってお賽銭をあげて段をおりて二礼四拍手一礼することになっていますが、私は段の上にたって奥を眺めました。信仰心のかけらもない行為です。兎も角目的が八幡造りの確認ですから。

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何か奥にみえていますが、、、。あとで広場のほうにもどって通りがかった白い着物をきた神社の人にきいてみましたが、八幡造りをみることはできないそうです。 
家に帰って図をながめているうちに我々がみられるのはいわば外囲いであることがわかりました。
国宝である本殿は一般参観者にははいれないところなのです。家で撮ってきた画像をみていて発見したのがこれです。一之御殿の奥、手前の赤いのは春日神社です。

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屋根がつながっているのが見えています。一番完全なのは三之後殿だそうですが。
松山では外囲いの外側を歩けたのできれいなM型をしっかりみることができたのに、残念です。
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「あ、七五三だあ」という声がしました。神主さんに案内されて男の子を連れた男女が廊下をやってきました。あそこに入れれば見えたかもしれないのに。(あそこでキョロキョロしたりしてはいけないのでしょうね)
ホームぺージに出ていた本殿の写真、

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広場にはいつの間に来たのか小学生の大群。ガイドさんがいたので修学旅行でしょうか。彼らをやり過ごしして下りていきました。

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恨めしいおもいで振り返りました。何とか横からみたいのですがこの崖みたいなところをまわっていくわけにはいかないです。

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そうは言っても森の中を歩くのは気持ちがよかったです。

下宮に出ました。下宮は嵯峨天皇の時、810年に勅願によって創建されました。

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上宮、下宮両方行かないと片参りといってだめなのだそうです。

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矢張り中を覗き見ています。どうなっているかしりたいのです。平面図がほしいです。

表参道に戻ると、絵馬堂が休憩所になっています。その先に池らしきものが見えます。赤っぽくて水とは思えないのですが、これが菱形池のはずです。向こうが能楽堂。

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行きには気が付かなかったのですが(宝物館の向いだったので)手を洗うところがひしゃくを使わないですむ工夫されていました。ご時世ですね。

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さてここで13:52です。バスは14:32発です。食事をする暇があるかどうか?カロリーメイト一本ですが、おなかはすいていないのです。バス停も確認しておく必要があります。

今度は参道を歩きましたが、高校生の大群です。修学旅行でしょうか。しっかりくっつきあって組ごとに記念写真を撮っていました。慎重によけて歩きました。
結局 食事をしないで停留所で待つことにしました。バスは30分に来ました。

宇佐駅を経由します。ここであらっと思ったのは下宮で参拝していらした女性が乗り込んできたことです。なぜ、神宮前で乗らなかったのかしら?分かりました。キャリーを持っていらしたのです。きっと駅で預けられたのでしょう。神社のhome pageには出ていませんが、手を浄めるところあたりに「総合案内所でキャリーバッグ預かります」の立て札がありました。その時によって違うかもしれませんからキャリー持っていらっしゃる方、ホームページに出ている電話番号にかけて確認なさるといいですよ。
空港行きのバスは大回りをして豊後高田経由です。ここを昔は鉄道が通っていたけれど今は通ってなくて駅のホームがバスセンターになっています。 

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そのうち見たことがある川のそばを走りました。道路工事もやっています。朝、富貴寺に行く時通った道です。車内放送で「次はふき」と言っています。カメラを構えました。

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朝はここを左に下っていく道を行ったのです。
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最初、公共機関を利用していく方法を考えたのですが、バスで行くとしたら豊後高田から乗って降りるのは、ここだったのだと分かりました。2キロ30分の歩き、とありました。私の足では30分ではすまないはずです。そうして行ってあの階段を上って、だめです。本数はもちろん少ないですし、それにこのバス停、女一人で待つにはどうか、と思われます。
ところでこの空港行きリムジン 成田~横浜がノンストップであるのにくらべてよく停まります。途中で女子高校生や買い物袋を持った女性が乗ってきました。(もちろん途中でおりました)路線バスの役割もはたしているようでした。

定刻より10分くらい遅れて空港に着きました。ここでは食事の時間はありそうでしたが、おなかはすいていないので、また少し買い物をして飛行機に乗りました。
羽田空港の京急の乗り場で聞くと、ここでスイカのホーム入場記録は消せるということで、無事使えるようにしてもらえてやれやれでした。

海が好きでホテルも海辺を選びました。でも今回、山に囲まれた町を歩きながら<山懐に抱かれる>という言葉を何度も思い浮かべました。山に囲まれているって心穏やかになれて、いいものだと改めて思った旅でした。

家では主人がすき焼きの用意をして待っていました。(13442歩)

大分も私が行っている間に感染者は200人台になり、もう今では400人台になっています。Cocoaをスマホにいれていきましたが、陽性者との接触はなし、ということです。もう帰ってから2週間たちました。あやしい症状はありません。当然ですがやれやれです。行先を選べば大丈夫とはおもいますが、当分旅行は自粛すべきなのでしょうね。

買ってきたものから

おせんべい、固いけれど美味しい、 
お醤油はまだ使っていませんが野上弥生子さんの生家のお醤油会社のもの。
ご飯ダレ とても美味しい!
 

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 12月10日旅行記完

2020年12月 7日 (月)

大分旅行3日目 -1 富貴寺へ

11月25日 今日はもう家に帰る日です。

その前に昨日書き忘れたことを書いておきます。
2日間とも夕食にカボス鰤というのが出ました。これの説明をききそこなったので家に帰って調べました。要するに餌にカボス果皮パウダーなどをまぜて食べさせた鰤のことです。比較的新しいもので平成22年度から販売開始されています。鰤にカボスをたべさせることで味、香りがよくなり、お刺身にしたとき、血合いの部分が黒ずまない、という利点があるそうです。カボスがそえられていたので魚そのもののにおいは気にしませんでしtが、たしかに生臭さはなかったと思います。臼杵などが生産産地で10月末からが旬。旅行が丁度その時期だったということで 味わうことができました。

朝起きてまずパッキング。キャリーを宅急便で家に送るつもりでお土産など詰め込むと丁度満杯になりました。下のショップで宅急便は扱ってもらえます。ここで一昨日、車に乗せてくださったお嬢さんが応対してくれました。

手続きをしてから、フロントで支払いも済ませて朝食会場に。

7:00の予定がもう45分くらいになってしまいました。もちろんOKです。そうしてとてもすいているのです。「今日は空いていますね」「これから180人の団体が入りますよ」ええーっ、急がなければ、でも結局客の大群はおしよせませんでした。朝食は一斉ではなくそれぞれの都合にあわせて来るせいでしょうか。昨日とおなじようなものをいただきましたので写真省略。
ホテル入口です。

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今日の予定 宇佐行列車は少なく8:10発の次は1時間半後です。

ホテル→豊後豊岡駅(9:38発)→宇佐駅(10:17着)→富貴寺→宇佐神宮→大分空港(17:00発)→羽田

宇佐神宮から国東半島のお寺をいくつか回って16:00には大分空港に着く観光バスがあるのですが、コロナ禍のこの時期 土日祝日しか運行していません。それで一番行きたい富貴寺だけタクシーで行くことにしました。

送迎サービスを利用させていただいて9:20に駅に着き増した。(利用者はいつも一人で申し訳なかったです)
この駅は無人駅です。でも人がいました。この方は駅員ではなくJR友の会の方だそうです。昨夜は人がいないのに、部屋に明かりがついていて変だな、とはおもっていましたが、そういうことでお手伝いしている方がいたのですね。 

宇佐駅 
駅で一応、空港行きのバスは平日でも運行していることを確認しておきました。もしなければ、先に宇佐神宮に行きそこからタクシーで富貴寺に立ち寄って空港までそのままタクシーで行く以外手はありません。(うまく電車があれば
杵築まで電車で戻ってそこからタクシーのほうが安く行けそうです)

豊後豊岡からくると、この駅では跨線橋を渡る必要があり、やはりキャリーを宅急便にすることにして正解でした。タクシー乗り場に電話番号が書いてあります。

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そこにお電話、5分くらいと言われましたが、結構待ちました。お手洗いを済ませて並ぶと前の方ももう15分待っていらっしゃるとか。
やっと来た車で富貴寺に向かいます。富貴寺で待ってもらって、そのまま宇佐神宮まで送ってもらうつもりです。
乗っている時間は25分くらだったかもしれません。(富貴寺、10:59~11:20がここでの写真の撮り初めと撮り終わりです)車を降りるとき「長距離ですから待ち時間代はとりません、ゆっくりしてください」と言われました。

富貴寺(ふきじ)

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幟に「六郷満山」の文字が見えます。六郷とは国東半島の六つの郷のこと。
富貴寺は養老2年(718年)、仁聞が開基したと伝えられます。この仁聞という人は国東半島に28寺院を開設し6万9千体の仏像をつくったといわれる人で、国東半島の仁聞関連のお寺を総称して、六郷満山というようです。

もともとは山岳信仰の修行地、霊場だったものが、奈良時代末から平安時代初期にかけて寺として整備され、宇佐神宮の神宮寺である弥勒寺の参加に入ったものと思われています。
寺の記録として遡れるのは1147年。
キリシタン大名大友宗麟の時代には多くの寺院が破壊されたのですが、ここはその難を免れました。 

上写真、富貴寺という石柱の後ろの石の家みたいなものは、石殿、これも大分県指定有形文化財だそうです。ちゃんと写真を撮ればよかった!

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門、仁王像が立っています。
現在右側にある本堂は修理中です。でも見どころは大堂(阿弥陀堂)ですから大丈夫。それにこの修理のため
阿弥陀堂で阿弥陀三尊像が100年ぶりで御開帳ということになっていました。

奥に見える階段を上がって行きます。 

これが国宝の大堂です。平泉中尊寺の金堂、宇治平等院鳳凰堂とともに日本三大阿弥陀堂の一つです。

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屋根のそり具合、美しいです。木の古び具合、いいです!これをみただけで、やはり来てよかった、と思いました。
描かれている壁画などから平安後期に造られたものとされる榧の総素木造りです。現存する九州最古の木造建築物ということです。

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左側、戸が開いていますが、後ろに回ると階段、売店がありそこから回ってこの戸から中に入れました。

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中に太い四本の柱がたてられていてそこに三体の仏像が安置されていました。堂内はカメラ禁止です。

いただいたパンフレットから。阿弥陀如来像や壁画は国の重要文化財に指定されています。壁画は色がぬけていて白いものが点々としている程度にしかわかりません。

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私が行ったときは脇侍の観音菩薩と勢至菩薩を伴ったものでした。

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↑豊後高田市のホームページから拝借しました。私が観たのはこの状態でした。

入場券と一緒にいただいた絵葉書 これがおかれていたわけです。

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観光バスで来たツアーの一行でお堂は満杯です。お坊さんが「〇〇ツアーの皆さん、お昼の支度ができるまでここで15分留め置いてくださいと言われましたから話をさせてください」と言いはじめました。ゆっくり見ていられません。聞いていてもよかったのですが、書いてあるものを読めばいい、と出てしまいました。周り、紅葉はもう少しですが、木々に囲まれて気持ちがいいです。

薬師岩屋への階段、大変そうなのであがりませんでした。

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面白い石造物もいろいろありました。

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12体あります。両端をのぞいてでしょう。「十王像」とありました。十王とは、地獄で亡者を裁く尊者だそうです。こういう座像がたくさんならんでいるのを見ると
黙示録の長老たちを思い浮かべてしまいます。よく見るとお坊さんの顔をしているのですけれど。

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右端には「奪衣婆」とあります。だつえば、とは三途の川を渡るとき亡者の衣服をはぎ取る鬼婆だそうです。

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卒塔婆 分かっているものでもっとも古いものは1241年のものだそうです。
奥は国東半島に独特な宝塔で国東塔と名付けられています。基台と塔身の間に反花または蓮華を持つのが特徴だということです。 

  五輪塔群

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苔むしたところも風情があって、これら石造美術は楽しめました。

このくらいにしておりて 宇佐神宮に行くことにしましょう。 
続きは 次回に
 

2020年12月 6日 (日)

大分旅行 2日目7-4 臼杵市内

臼杵観光続いています。

文学館のすぐ横にある、久家の大蔵
江戸時代後期に建てられた酒蔵にポルトガル人に依頼したアズレージョが貼られています。

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次は見星寺(けんしょうじ)です。やはり道が分からなくなりました。丁度目の前にあった眼鏡屋さんで聞こうとすると奥さんをよんで道案内をさせようとしてくださって、結局お寺まで連れて行ってくださいました。臼杵の人って皆さん、いい方。感激です。

見星寺(見星禅寺)創建は1634年 門が立派です。

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  看板拡大

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目的はマリア観音です。探しながらゆっくり進みます。
   

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お尋ねしようにもどなたもいらっしゃいません。右手が墓地です。そちらへ入ってどんどん進んで。
みつかりました。上が手水鉢になっています。

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目をふせて祈っている姿。これは禁教時代、迫害をおそれて川に投げこまれていたのを5世住職が拾いあげてお寺に安置されたのだそうです。マリア様が救われた切支丹そのもののように思われました。     

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夢中で写真を撮って結局どなたにもお目にかからないままお寺をあとにしましたが、探しながら気が付かないうちに図らずも奥に入り込んでしまって、これでよかったのか気になりました。これではまるで侵入者。帰ってからホームぺージに出ていた住所にお手紙を書いていくばくかの拝観料も同封いたしました。
その時思ったのですが、ここに電話番号がでています。お電話をしてあらかじめ承諾を得ればよかったのではなかったか、と
。(行ってみるまで、そんな奥にあるとは思わなかったのです)これからいらっしゃる方はぜひそうなさってください。このお寺は別の場所で精進料理を出すお店を経営しているようです。そこでお食事をなさってお願いするのもいいでしょう。私もお昼をそこでとも考えたのですが、その日はお店がお休みの日でした。

さてこれから二王座歴史の道に向かいます。お寺を過ぎて左に曲がると甚兵衛坂 

金毘羅水 という井戸

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そのまま進むと(坂は短いです)

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直良信夫顕彰記念館、素通りしました。さてここで 右か左か(地図を見ればすぐ左と分かったものを)通りがかりの観光客に聞いて左と分かりました。(臼杵は平日だからか、観光客は殆ど見かけませんでした)

二王座歴史の道は大友宗麟時代からの街道筋で、武家屋敷やお寺の続く道です。二王座は約9万年前の阿蘇噴火で形成された凝灰岩の丘で街道筋を確保するため、あちこち凝灰岩を切り割って造った切通しがあります。

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 善法寺
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1334年創建、現在地に移ったのは1624年、真宗のお寺としては九州最古だそうです。ここの門も立派です

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あの半分だけ立て札が見えているところは稲葉家の土蔵を利用した休憩所でした。ここに親娘の観光客がいました。観光客、これで3組目です。そのまま進むと稲葉家長屋門。藩主稲葉家の分家の長屋門だそうです。

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ここを過ぎて左に折れてまっすぐ行けば八町大路に出られるのですが、曲がってすぐ右に折れて進みます。突き当り手前が旧後藤家長屋門です。

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ここを左に曲がれば出発点の観光案内所に出ます。

案内所の右向こうに城山がみえていますが、もう15:00を回っています。42分の電車に乗るには駅にまっすぐ向かわなければいけません。城址を歩くのはあきらめました。鳥居の見える港町商店街を進み15:20ごろ駅に着きました。15:42発だと豊後豊岡着は17:12、日の入りは17時ちょっと過ぎ。女独り旅は日のあるうちにホテルに入ることが鉄則。短い滞在で見逃がしが多く残念ですが、仕方がありません。駅に着いてすぐホテルにお電話、5分ほどでお迎えの車がきました。

今日は温泉大浴場にはいかずお部屋のお風呂にしました。新しくてとてもきれいです。

着替えてショップへ。今回は地域共通クーポンを7000円分いただきました。それを使うつもりです。 

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大分は カボスが特産、カボス醤油、カボスドレッシング、おせんべい、そうそうフンドーキン醤油も買いました。口に入るものばかりです。
買ったものを持ったまま夕食レストランへ、今日は洋食で2階のレストラン四季でいただきます。
4組くらいだったでしょうか。すいていてテーブル間隔も十分あります。

19:45スタートです。

カボス鰤のカルパッチョ  美味しい!

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キノコのスープ 赤ワインを頼みました。

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 真鯛のポワレ、海老とカニのソース  これがまた絶品!  

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もうこのあたりでおなかがいっぱい、ポワレも少し残しました。お肉はもう無理

温野菜と牛ヒレのステーキ  一切れの四分の三、頑張って食べました。 

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 デザートは別腹 でも残念、モンブランは半分しかいただけませんでした。

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昨夜の和食も今日の洋食もおいしかったです。このホテルのお食事、いいです。

1時間くらいでお食事を終えてお部屋に戻りました。(14014歩)   

2020年12月 5日 (土)

大分旅行 2日目ー3 臼杵市内

臼杵市内 予定している観光ルートは
臼杵城址→(観光案内所)→稲葉家下屋敷→野上弥生子文学記念館→見星寺→二王座歴史の道 です。

鎌倉時代から戦国時代にかけて豊後の国を支配したのは大友氏です。1562年に大友義鎮(宗麟)は丹生島(現在、城のある場所はもともとは島で明治になって埋め立てられて地続きになった)に新城を造ったが、56年にはすでに豊後府内(大分市)から本拠地を臼杵に移していたと思われています。ザビエルは51年には府内を訪れています。宗麟はキリシタン大名として有名で、天正の少年使節を送ったことでも知られています。宗麟が洗礼を受けたのは77年。
然し、大友家は宗麟の子の義統が敵前逃亡の咎で改易処分となりこの地を去ります。その後福原氏、太田氏などの居城となった後、稲葉氏(5万石)が15代にわたって臼杵を統治していました。
稲葉氏ときいてピンとくるものがあります。家光の乳母、春日局の苗字は稲葉だったのでは?
いただいたパンフレットを見ると、春日局は初代城主稲葉貞通の父、稲葉一鉄の姪の娘であり、一鉄の長男重通の養女でもあったそうです。稲葉一鉄は「麒麟がくる」にも登場しました。 
   

駅を背に広い道を歩き始めます。橋を渡って少し行くと朱色っぽい黄色の鳥居が左に見えます。石仏に行く時この道を通りました。お城に行くには少しこの道に入ってから右に折れればいいはずです。ところが曲がり角がなかなかみつかりません。いい加減なところで曲ががってみましたがお城にたどり着けず細い道を城山に平行して歩きました。崖の緑は絶えず見えているのに人家でそばにはいけないのです。困ったなと思いつつ歩いているうちにとうとう城山が終わる所に来てしまいました。

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城は廃藩後取り壊されましたが、一部は残されていて、右の畳櫓は昔のものです。
ここを背中にしてすぐ前の道を渡ったところに観光案内所(臼杵市観光交流プラザ)があります。 
観光マップをいただいてお城に行けなかったことを話すと、駅からまっすぐに来た道からも入れたそうです。帰りにあの上がり口(写真では見ええませんが、もう少し左手)から上がって城址を抜けて駅への通りに出るとよい、と言われました。 

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この地図を見るとお城の右手の通りに城南というバス停があります。ここをバスで通ったのです。ここから城山へあがれるようです。でも座っていた席が反対だったせいか分からなくてこの道を直進、駅までいってしまったのです。

まず稲葉家下屋敷への行き方を聞いてそちらへ向かいます。すぐ近くです。
入口をまちがえて正門ではなく東門から入ってしまったようです。脇の家はカフェになっていました。

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正門からくる道に出ると入場券販売所がありました。
そこでいただいたパンフレットから

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帰りは正門から出たのですが、写真を撮り忘れたのでパンフレットから拝借

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この屋敷は江戸時代のものではなく、東京住まいの元藩主の臼杵での滞在所として明治35年に建てられたものです。近代の建物ではあっても武家屋敷の様式をよく残している建物といわれています。

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玄関左手の脇室から玄関を見ています。順路としては右の畳廊下を進みます。
 
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お居間につながっています。
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次の間、三の間、御取次の間を備えたもので、やはりお殿様の滞在所です。

お庭は池や築山がなくて、昨日みた大原邸と比べ少し平板な気がしました。

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受付で「サンダルをはいて旧平井家住宅へ行くように」と言われています。

ところがこのサンダル私には大きすぎなのです。足の甲とサンダルの帯との間がありすぎで、いちいち足を持ち上げるようにしてしか進めません。それで庭石伝いとなるともうひっくり返りそうでこわくて。失礼して芝生を歩いちゃいました。

旧平井家住宅は1856年に建てられたとみられる住宅で禄高200石の上級武士の住宅ということですが、最初に見かけた家はどうも違うようです。

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後で調べると 西の間 と分かりました。もう一つ建物がありましたが、これもらしくなくて歩きにくさにまけて母屋に戻ってしまいました。パンフレットを見れば分かったはずなのに、眼鏡を出すのが面倒で見なかったのです。(kikuko
様のブログを拝見して残念がっております)

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   どこだかよくわかりません。

母屋にもどって 

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大書院 お客様を迎え入れる部屋です。

この下屋敷、豪華ではありませんが、元殿様の滞在所らしい間取りでなかなかいい建物だと思いました。

ここを出て次は 野上弥生子文学記念館に向かいます。稲葉家のチケット販売の人にしっかりきいて歩き始めたのに、やはり道に迷ってしまいました。5分で着くところを2回人にきいて 最後は前までつれていっていただいて15.6分かかりました。途中でみかけた

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あの金とあるタンクは醤油樽のようです。野上弥生子はこのフンドーキン醤油の創業者の娘です。フンドーは分銅で「確かさ、正直」を表し、創業者の名が小手川金次郎だったことから 金 が入っているのだそうです。あとでホテルのショップでこのお醤油の小瓶を買いました。

野上弥生子文学記念館

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ここが 野上弥生子の生家です。向こうの白い建物が伯父の経営する小手川酒造会社、写真を撮り忘れたのですが、向いがお醤油屋さんでした。

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入ってすぐこの左の部屋で5分ばかり紹介ムービーを見せられました。座れたので足休めにもなりました。展示場
は二階です。スリッパに履き替えるのですが、これまた苦労。よくある合成皮革の固いもので足の小さい私は甲の部分が浮いてしまって階段を上がるのに一苦労しました。写真禁止です。手紙類のほか写真や晩年にお召しだった着物(濃い灰色)などがありました。
野上弥生子の小説『真知子』は読んだ気がするけれど、ほかには? 思いつかないのに、なぜ懐かしい気がするのかとおもったら翻訳もいろいろしていたのですね。それで親しみを感じて是非とも訪ねなければ、と思ってしまったのです。今も手元にあるのはブルフィンチの『ギリシャ・ローマ神話』(岩波少年文庫)だけですけれど。
お子様のうちお二人は東大の物理の教授、もうお一人はイタリア文学者、作家としてだけでなく家庭人としても立派な方だったのです。凄い人です。
写真が撮れないのに、絵葉書も売っていませんでした。野上家のお墓は 鎌倉の 東慶寺にあります。 以前に入った時の写真を追加しておきます。 

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ここを出て次は見星寺です。ところがまたまた道に迷って一苦労。私はものすごい方向音痴なのです。 

続きは次回に

 

2020年12月 3日 (木)

大分旅行 2日目ー2 臼杵 石仏 

石仏観光続けています。さらに緩い坂、階段を行くと山王石仏があります。

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左手に折れればショートカットして古薗石仏のところに行けますが、順路通り道なりに進みます。 

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右に日吉神社への門、時間を考えてここへは行かないことにしました。

山王石仏

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ここは小じんまりしています。

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 如来三尊像 中尊に大きな如来坐像をその左右に脇尊としての如来像を配するのは珍しいそうです。

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なんだか眠そう。かわいいです。

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横からみてもかわいらしいです。

向いに最初に見たホキ第二群が見えます。

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今日も本当にいいお天気です。

ここをおりて右の方に回りこんで少し上がって行くと古薗石仏があります。

石仏手前の岩壁 ここに金剛力士像が彫られているそうですが、判然としません。  

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古薗石仏 

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解説によると 大日如来像を中心とする曼荼羅を構成し、臼杵の中でも中心的存在で古薗十三仏ともいわれているそうです。「特に中心の大日如来は日本の石仏のなかでも最高傑作のひとつでもあると言えます)とありました。

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切れ長の目にひきしまった口もとが極めて端正で各方面から限りない絶賛をうけているそうです。(私にはそういう鑑賞眼がなくて、、、。本当をいうと好みでもありません)
むしろ横の小さい方が好み。(感想がミーハーすぎます。仏像に対して失礼ですよね)。
   

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この頭部はおっこちて台座の横にずっと置かれていたそうで、このレプリカが臼杵駅のホームにあったのです)

これら石仏群は国宝に指定されています。これは摩崖仏では全国初、彫刻においても九州で初めての指定だそうです。(平成7年)

3、40年も前 母が「摩崖仏に行ってきた」というのを聞いたのが、摩崖仏、という言葉を聞いた最初でした。(私の両親も子供たちが結婚してからよく旅行していました)当時はこのようにきれいに整備はされていなかったでしょう。その様子を聞こうにももう両親ともいません。

ああ、とうとう修学旅行の一団が追いついてきました。くわばら、くわばら。
出口へは階段をどんどん下りていきます。 

これは 最初の第二群の前から撮った写真です。
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古薗から下りてくると右手の山陰に来ます 橋を渡らず、そのまま左に進むとチケット売り場のところに出ました。(石仏群には戻れません)

戻ってきたとき11:53でした。(見学時間1時間) 
バスは12:24発があります。途中に食事が出来そうなお店はありましたが、間にあわないかもしれません。チケット売り場の横が無料休憩所でした。そこで自動販売機でお茶を買ってバッグにしのばせておいたカロリーメイトでお昼とすることにしました。ひと箱の半分(二袋入りの一袋)小食の私にはこれで充分なのです。(夕食まで空腹は感じませんでした)

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バス停にあった、句碑

時間より少し遅れてきたバスで臼杵市内へ。途中ここで降りたほうが観光にはよいかもしれない、と思うところがありましたが、帰りの道順を確認するためにも駅までいきました。乗客は私一人。本数が少ないのも当然かもしれません。

市内観光は 次回に 

2020年12月 2日 (水)

大分旅行 2日目-1 臼杵へ

6:00 起床
今日は臼杵に出かける予定です。日の出は7時少し前、お部屋から見えるのではないかと窓の外をみていると、徐々にお日様が出てきました。方向は大分市の左手の方、そのまま佐賀関に続いていますが、その山の上に見えてきました。完璧な日の出です。ホテルの場所は日出町。ひじまちと読むのですが、日の出が見えるからでしょうか? 

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6:58 です。

7:00から朝食なので2階のロイヤルホールへ。

ホワイエというのでしょうか、入口前の広間、そこの手前に人が立っていてポリの手袋とkeepの札(座席確保用)を渡しています。個人客はホワイエ部分で食事をします。テーブル間隔OK.とみて座席確保に札をおいて手袋をはめてビュッフェの食べ物をとりにホールに入ると、まあ、ものすごい人数。満席です。団体が多いようです。帰ってホテルのホームぺージで確認すると、新型コロナ対策で着席ビュッフェの場合は通常350人を140人に、とありました。椅子と椅子との間隔は人が通れるだけはあいていて、テーブル同士の感覚もある程度はあります。でも多いなあ、という印象でした。手袋は他人が触ったトングを使うことの感染対策です。個人客の所は安心できる間隔です。でも窓側がよかったなあ。

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お魚類、焼いた鮭や干物など、パン、ウインナなどもありましたが、例によって私は少な目。でも和食の方がたくさんいただけます。上の写真は7:29

7:49 気が付くと窓側席は あいていました。

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8:10 お部屋に戻りました。
臼杵行は8:16にも電車はあるのですが、通勤・通学客で混かもしれないので、8:56豊後豊岡発に乗ることにしています。
フロントにお電話をして40分頃車をお願しました。(いつでも無料で駅まで送迎しいていただけるのです)

普通列車利用です。在来線特急は大幅減便で、詳細が分からなかったので、あてにしないことにしたのです。駅のホームから、向こうの白い建物が宿泊しているホテルです。

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予想通り列車はすいています。
大分で乗り換えです。30分くらいの待ち。特急ソニックは8便くらい運休であることが分かりました。
次の電車は2両のワンマンカー。これは新しくてとてもきれいなのです。最初は10人くらい乗っていましたが、最後はそれぞれの車両に1人ずつでした。

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窓が広くてよく見えます。殆ど山あいを走っています。
途中駅で特急待ち合わせがありましたが、見えた限りでは乗客の姿はなく、乗降客もいませんでした。減便やむなしです。

10:30 臼杵駅着

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これは何だかよくわからないです。どうやら向こう側を撮るべきで、向こう側が仏様のお顔だったのかもしれません。(爆笑)石仏の頭部のreplicaだそうですから。
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早春賦 春は名のみの風の寒さや を作詞した方はこの町の出身だったのですね。

改札を抜けるとき問題が。入るときはスイカでタッチして入りました(九州でもスイカが使えることは確認済み)臼杵駅にはタッチするところがないのです。駅員にわけを話すと、現金払いで領収書をだして「これを見せて別府か大分で記録を解除してもらうように」とのことでした。その時間があるかな?横浜でも大丈夫だそうです。(このため、クレジット機能も使えなくなっていました。カードは他にも持っているので支障はありませんでしたが)
石仏のところに行く予定ですが、この時間バスはありません。タクシーで行かざるをえません。タクシー乗り場に会社の電話番号がありましたので、かけるとほどなくやってきました。

石仏をみたあとそのまま市内観光をしないかと薦めます。2時間で4500円というcampaignをやっているのです。市内観光といっても稲葉家下屋敷と二王座歴史の道だけです。ネットで知っていましたが、もう少し色々みたいので、断わったら無理強いましませんでした。道中、コロナであまり人はこないのではないかと聞いたら「そういうことはないですよ。もう8回その周遊コースをやりましたよ」と言っていました。

11:10頃 チケット売り場の前に着きました(タクシー代は2000円)

チケットを買って帰りのバス時刻をたしかめて歩き出しました。ネットで検索した時は森の中を行くようで人がいないとこわいのではないかと心配でしたが、綺麗な周遊コースがつくられていて明るくて安全でした。お電話でお聞きすると「一周800m 皆さん3,40分で帰られますよ」とおっしゃっていました。下左の矢印を進んで黄色い道を行きます。

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石仏が彫られた事情は分かっていないそうですが、制作年代は作風からみて平安末期から鎌倉時代にかけてだそうです。

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橋を渡ってチケットをみせます。
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そこを過ぎると、もう向こうに最初の摩崖仏が見えてきます。
以前、イランに行ったときシラーズとイスハファンの中間あたりでクセルクセスやダレイオスなどを彫った素晴らしい摩崖彫刻をみたことがあって、その時日本にも摩崖仏というのがあるけれどいつかそれを観に行こう、と思って以来やっと実現させることができたのです。イランでは野ざらしでした。ここでは小屋がけしているようだな、と思ってはいましたが、小屋ではなく完全にお堂として造られていました。

ホキ石仏第二群

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ホキというのは崖という意味の地名です。
ここではこの時期、表面の苔などをとるために紫外線照射の足場が組まれていることはホームページでしらされていました。

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           九品の弥陀

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               阿弥陀三尊
レリーフというより丸彫りです。背中の部分だけ崖にくっついているようです。不信心者ですから、横から一生懸命覗き込みました。もう一組(これはどうやら周遊タクシー組のようで)タクシーの運転手さんらしい人から説明をうけていてお賽銭をあげておがんでいらっしゃいました。

前庭 20120215

階段をあがって 

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振り返って、紅葉はあと一息、というところです。のどかです。

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でも のどか、などといってはいられません。がやがやがやがや、修学旅行の高校生一行がやってきました。この時期、修学旅行なんてするの?どうも大分は感染者は少ないからかユルイのではないかしら?
説明を受けながら来るので、慌てなくても大丈夫そうですが。

ホキ石仏第一群

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     如来三尊像 平安末期

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如来三尊像 彫法はやや劣るそうです。

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   如来三尊像 中央が 大日如来(平安末期)    地蔵十王像(鎌倉期)
十王は冥府で亡者の罪を裁き、救済するのだそうです。着色されていたようで向かって右はかなり色が残っています。

途中ですが写真が多くなってきましたので 続きは次のページにします。   

    

 

2020年12月 1日 (火)

大分旅行 1日目―3 杵築からホテル

資料館を出て少し進んで右手の階段を上がって行くと一松邸

先ずお庭から杵築城を遠望。今回は大きいG3Xを持ってきていますからしっかり望遠がききます。(重いので最近は持たないのですが、旅行中とても元気でカメラの重さが苦になることはありませんでした)

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あわてていて一松邸の全景が撮り忘れ観光案内の ホームぺージから無断拝借。

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一松定吉像。

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女学校時代、同級生にお孫さんがいらっしゃいました。本当にかわいい美少女でいらしたのです。お元気でしょうか。一松定吉氏は検事さんで戦後はいろいろな大臣を歴任された方です。
昭和2年~2年間かけて建てられた私邸で当時の贅と技をつくして建てられた屋敷でそれを寄贈移築されたものだそうですが、残念ながら上がる時間はなさそうで、外から見える範囲を写真に撮っただけです。(kikuko様のブログを拝見すると中は欄間などの装飾もよさそうで数分でいいから上がってみるべきだったと後悔頻りです)

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先を急ぎます。 

奥に見えるのが一松邸です。南台武家屋敷は白壁が続いています。

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この道を進み最初の角を右に折れると塩屋の坂ですが、通り越してしばらく行って右に折れると飴屋の坂に出ます。 

マンホールの蓋

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飴屋の坂 別名 雨夜の坂、 雨の夜 階段が白く映えて美しいからだそうです。

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下りて見上げる、折れ曲がった階段、いいではありませんか。  

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私は小さいころ坂や石段の多い場所で育ちましたから、こういう階段には既視感があり、懐かしい思いで眺めました。

斜め前には岩鼻の井戸。岩鼻とは岩の出っ張りのこと。街道筋の水場は貴重。この井戸は誰でも使うことができました。

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このあたりは商人の町です。(井戸は写真の手前左手にありました)

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私は買い物好き。松山堂というお菓子屋さんに入りました。

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あれこれ買って次は 萬力屋 という曲げ物屋さん。

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九州では1、2軒となった曲げ物を作るお店(製造販売)。
135年5代にわたって伝統を受け継いできたお店です。でも せいろ、とかは使わないので、穴あきしゃもじ(ジャム用)それに、なんと落とし蓋を買ってしまいました(いつもキッチンペーパーで代用しているので)。Go toクーポンが使えるようですが、まだホテルにいってないので、現金でお支払い。

向こうは備後屋   

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さあ、もう時間がありません。引き返して酢屋の坂をあがります。

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右手が大原邸 坂の上の常夜燈のところを曲がっていくシーンが「居眠り磐音」にありました。道の中央辺りの石は張替えられたのでしょう。脇は昔のままかな?

そのまま進んで、もう竹の伐採は終わったようなので、番所の坂 をおりることにしました。

下りくち  右に北浜口の番所

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下りて振り返って

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当時はこの坂の下に番屋があり、人や物資の出入りを厳しく取り締まっていたそうです。
北浜、かつてはここまで海が広がっていました。

ここを右に曲がってしばらく行くと出発点の、ふるさと産業館に出ます。15:47到着。荷物をうけとって裏手のバスターミナルへ。

16:00発のバスは少し遅れてきて、路線バスですから、道中乗り降りはありましたが、すいていました。 40分余りでホテル近くの 小浦 到着。歩道は狭いのですが、キャリーが引けなくはありません。でも近づいてエッ、ホテルは坂の上なのです。うーん、仕方がないと覚悟をきめて上がろうとしたところ、小型車が通り越してすぐ停まりました。「ホテルにお泊りの方ですよね。どうぞ、私は従業員ですから、大丈夫ですよ」キャリーも積んでくださりホテル玄関へ。このホテルは豊後豊岡駅へは送迎があります。でも駅を利用しないのでお電話はしていません。丁度、この方が通りかかった、というだけでした(あとで売店の方と分かりました)ご親切ありがたかったです。

すぐチェックインできて17:00にはお部屋へ 
13階(最上階)のオーシャンビュー・ハリウッドツインのお部屋、35㎡で一人にはもったいないようなお部屋です。海辺のホテルで海が見えないお部屋ほど残念なことはありません。個人旅行の利点はこういう指定ができることです。
荷物を置いてすぐ海を眺めました。

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右奥の町は別府です。中央奥には高崎山。その左手に伸びているのが大分市です。
ホテル到着時刻の見当がつかなかったので夕食は遅い方の19:45にお願いしてあります。時間は十分あるので、地階の温泉にいくことにしました。最初の回のお食事時間中なのですいていると思ったのです。

大浴場に抵抗はあるのですが、ツアーでないので知っている人はいないから気は楽です。先客は2,3人。とても広いお風呂でした。途中で一人になりました。外に露天風呂もあるのですが、戸を開けると寒かったのでやめました。お湯はやわらかい、というのでしょうか。硫黄とかのにおいはありません。ただ出てきたとき私の隣のロッカーを使おうとしている子供連れの方がいらして必然的に密になってしまったのが少し気になりました。

19:30過ぎにお電話で「お食事の準備度ができました」というお知らせがありましたので、1階のレストラン「城下」へ。二泊するので初日は和食、2日目は洋食を指定しています。

テーブル間隔は充分にあり、お隣とも仕切りがあり、これなら安心です。
お料理はスタンダードコースです。

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 お刺身は かぼす鰤 鮪 鯛

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鮭錦秋焼き 上に溶けるチーズがかかっていたのですが、いただくのをあとまわしにしたら固まってしまっていました。

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牛肉すき焼き風、 一人なので飲まないでおこうとおもったのですが やっぱりビールをたのんでしまいました。奥の席がみえていますが、間は通路で間隔は広いです。
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 奥豊後豚陶板焼き

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とくに凝ったお料理ではないのですが、味付けがよくてどれもおいしかったです。小食なので後半はかなり残しましたが。

21時少し前にはお部屋にひきあげ、歯をみがいてバタンキュー。(11547歩)
 

大分旅行 1日目-2 杵築続き

大原邸を出て右に進むと隣は能見邸、能見邸は幕末時代の建物。能見家は杵築藩5代藩主親盈の9男幸之丞が初代、という由緒ある家柄だそうです。

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現在は中にカフェもあるようですが、時間を考えて素通り、

その斜め前(写真左)は藩校の門
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7第藩主親賢が1788年に藩校となる学習館を設立。その藩主御成門です。学習館では平民の子も学べたそうで、現在は杵築小学校の門となっています。
  

先へ進むと右側武家屋敷の最後は磯矢邸 

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藩主の休息所として1816年に建てられた御用屋敷「楽寿亭」これを後の当主が増築したもので、3部屋だけもとの楽寿亭のところが残っているそうです。眺めもいいそうで、ここは入りたかったのですが、あとで時間があれば、いうことにして結局入れませんでした。

この先が勘定場の坂

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この坂は下りず、引き返して酢屋の坂をおりることにしました。
書き忘れれましたが、このあたりは北台武家屋敷でした。

酢屋の坂を下りると(酢屋の坂、というのは昔、おりたところに酢屋があったからです)お味噌屋さんがありました。

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酢屋の坂の向いの塩屋の坂をのぼって 振り返っています。
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はっきりしませんが、坂を和服姿の人が歩いています。この町は和服を着ていると入場料が無料、ということになっていてお若い方で和服姿が目につきました。男女のカップルで和服姿という方々も見かけました。向こうに大原邸の茅葺屋根も見えています。

こちらは南台武家屋敷になります。

坂を上がってすぐの武家屋敷は中根邸 家老、中根氏の隠居宅。ここでお茶をたてて余生を過ごされたそうです。

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後で入ることにして(結局入る時間がなかった)その先を左に折れてきつき城下町資料館

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建物はこの道の先で、ここからはみえません。
ここで 初めて couponの入場券をきられ、体温測定。それも「手を出してください」???手は 冷たいのに。もちろん、熱無し。あらためて額をつきだしてOK.結局、旅行中 飛行場以外で検温があったのは、ここだけでした。
入るとすぐ山車(御所車と説明にはありました)
  別の部屋に町のジオラマもありました。 

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主な展示は二階、三階です。お手洗い拝借もあって入ったので三階はパス。展示品の数はそう多くはありません。

弓町の獅子駒 (近現代)

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高津屋の鬼瓦(天保六四月 鷹山 瓦工)の銘があり、 阿吽になっている。
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阿型は舌をだしているそうです。↓がそうでしょうか?

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舌だし鬼面と呼ばれ避邪を目的としたもので県内では珍しいそうです。

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左は 刀筒(武士が旅行の際、刀をこれにいれて携行)。(杵築神社蔵)

右は 能美家の鐙 雪見笹の紋がついています。

ここは展示品は少ないのですが、座り心地の良い椅子がいくつもおいてあって、そこでついゆっくりしてしまい、時計を見ると14:55、慌てて飛び出しました。

写真が多くなってきたのでページを改めます。 

 

2020年11月29日 (日)

大分旅行 1日目ー1(杵築)

11月23日~25日 大分県にいってきました。このご時世に、と顰蹙をかいそうですが閉じこもってばかりだと鬱になりそうですから。
主人は「石仏?興味がない」ということでツアーにものらない一人旅を計画しました。
参考にさせていただいたのはいつもお一人で手作り旅をなさっていらっしゃるkikuko様のブログです。そっくりなぞりたいような素晴らしいプランですが、すっかりまねてしまうのも情けないの
で自分なりの関心を考慮にいれてプランをねりました。
今はGo To でホテル代の割引がありますが
、そのためかえってお部屋がとりにくくなっています。
ホテルは前に行こうと思っていたツアーで泊まる予定だったホテルアンドリゾーツ別府湾とし、JALのマイルが結構たまっているのでそれを利用します。が、出発便は10:00発、帰宅便は17:00発という組み合わせでホテルがとれる、という日がなかなかなくて日にちがどんどん先になりました。
プランを練っている途中でわかったことは、観光バス(宇佐神宮から国東半島のお寺を巡って、大分空港へ行く)がコロナのため平日は運休、ということです。お寺をいくつも巡るつもりはありませんでしたから、一番行きたい富貴寺だけタクシーで、ということにしました。バスの運行については直接電話で問い合わせたのですが、その時はあるはずだった、バスが実際には動いていなかった、という事態もおきましたが、それはおいおい書いていきます。

大まかには初日 杵築、2日目 臼杵(石仏と市内)、3日目 富貴寺と宇佐神宮 というプランです。
雨だと富貴寺の大堂が開かないということなので、お天気によっては初日が宇佐、その場合は前もってキャリーをホテルに送っておこうと考えていましたが、幸い三日間とも晴れの予報でした。

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出かける少し前から新型コロナ感染者数が急増して、少しためらいはありましたが、大分県は感染者が少ないこと(行く前は感染者が100人台、その後増え始めて今は200人台。それでも東京都の1日の感染者数の半数より累積数が少ない)羽田へは我が家からですと私鉄で乗り換えなしに行けることから、大丈夫と判断して決行しました。

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11月23日  羽田発10:00→大分空港11:40着

朝、最寄り駅からの羽田行き急行電車は祝日のせいかすいていて、ずっと一席おきに座っている状態でした。空港も混雑はしていません。8:40頃に空港駅に着きました。私は預け荷物はないのですが、預ける人はselfで荷物の重さをはかってタグをつけるらしかったです。タッチ・アンド・ゴーで9:00にはチェックイン。搭乗まで時間があるのでラウンジへ。去年松山に行く時使ったと同じ場所です。トマトジュースをもらって窓側のカウンター席へ。椅子が座り心地の良いものに変わっていました。カウンターにはプラスティックの仕切りがお隣との間におかれています。

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搭乗、定刻通り出発、かなりの乗客数でしたが、座席は3-3で私は窓側、通路側には乗っていましたが、間は空席でした。向かい風とかで少し遅れて11:45頃 到着。

杵築へは路線バスで行く予定です。杵築バスターミナル行は12:38発ですが、停留所の確認を先にしておこうとバス乗り場(空港を出たところで分かりやすい)へ、チケット販売機を見ると、杵築行は紙で塞がれています。停まっているバスの所に行くと運転手さんが「今コロナで、杵築行は運休ですよ」別の案内係の女性も「杵築に行きたいのなら、このリムジンで大分まで行って、そこから電車で杵築まで戻るといいですよ」これではロスが多すぎます。(ただこのバスは宿泊ホテルのすぐそばでも停車することになっていて、ホテルに荷物をおいて杵築に行く案も考えはしたのですが、先達のblogに杵築観光案内所にはコインロッカーがあることが記されていたので、直接杵築に行くことに変更していたのです)
の前に停まっているリムジンは宇佐神宮行で12:10出発だそうです。先に宇佐にしようかしら、と発券機にお金をいれようとして、やはり、この時間では富貴寺と宇佐神宮両方は時間的には無理かもしれないし、キャリーのこともあるし、、、、そこでタクシーで杵築に向かうことにしました。(先達のblogで杵築の観光案内所にはコインロッカーがあることは記されていたのです)

海沿いを行くのかと思ったら、かなり山の中を行きました。30分ほど走って12:30頃、ふるさと産業館観光案内所前に到着。(参考までに、タクシー代は4500円)

案内所にはコインロッカーがありますが、キャリーがうまくおさまるかどうか?奥のお店に預けるといいと言われて奥へ。 300円なりで預かってもらいました。隣が食堂でしたのでとりあえず、そこへ。二組ほどのお客で密ではありません。
メニューに<りゅうきゅう丼>というのがあり、どんなものかと聞いてみると、ブリを甘醤油で絡めたものを御飯に載せたものだといわれ、それをためしてみることにしました。
ぶりの漬け丼でした。おいしかったです。

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先ほどどなたかがクーポンを買っていたのを思い出しで。私も「きつき観光まち歩きクーポン」なるものを買うことにしました。1000円で500円の買い物券2枚と三か所の入場券がついているので、入場券代がお得になっている、というものです。これを買っているときに「お客さんどこから?どこへ泊るの?」そうして豊後豊岡にあるホテルだけれど駅がバリアフリーではないのでキャリーがあるから次の亀川まで行こうと思っている、と話し、ここから杵築駅に行くバスのことをきいていると「あのホテルに泊まるのならここからバスで小浦まで行くと、ホテルに近いし跨線橋などもないですよ」と教えてくださいました。小浦を通るバスは16:00発が観光時間を考えるとよさそうなので、これを頭にいれて歩き始めました。写真からするとこの時すでに13:20でした。

杵築は江戸時代、杵築藩松平氏3万2千石の城下町でした。旧市街はサンドイッチ城下町といわれていて中央の谷底が商人の町、南北両側の高台が武士の町になっています。江戸時代の街並みをよく保存していることで知られ、映画の撮影にもよく使われています。私がこの町を訪ねたいと思ったきっかけも去年「居眠り磐音」という映画を観たからです。松坂桃李演ずる磐音の家として使われたのが大原邸、坂道は酢屋の坂だそうで、映画をみたときからぜひとも杵築に行ってみたかったのです。

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いただいたパンンフレットの地図、左側の方にもっと江戸時代の街並みは広がっているのですが、私の歩いた範囲だけにしてあります。

観光案内所(地図、黄色の所)のある所から北台武家屋敷までは上り坂です。

先ず、番所の坂というのを上がって行こうとしたのですが、案内所の人に「今は竹を伐っているからそちらの坂を行きなさい、あがれば武家屋敷がワーッとひろがってますから」と普通の道の方を指さします。チェーンソーの唸りがきこえてくるので指示に従いました。

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↑ふるさと産業館

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この道を上がっていきます。番所の坂へ行くには手すり左にみえている道を行きます。

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あがりきって振り返る、ガードレールのところからあがってきました。左ヘルメットの人がいる奥が番所の坂。手前の道を進むと酢屋の坂

進むと、おお!酢屋の坂です。この町で一番美しい坂だそうです。石畳の石はとりかえられているのではないでしょうか。美しい坂というのは両側の建物、壁を含めた景観が美しい、ということのように思われます。

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左が大原邸です。左に曲がって

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右が大原邸の長屋門。

大原邸は家老上席なども務めた上級武士の家。
大原邸のお玄関です。茅葺屋根に紋もついた重厚感あって格式の高さを感じさせられます。

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お玄関の間も4畳だったような。とりあえず外を一回り。ところで入場券はもっているのに、どこで出せばいいのか分かりません。帰りに門の横に小さな小窓があったことに気がつきました。チケットを出さないまま拝見してしまいました。

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長屋門を内側から見たところ、右のほうに入口の門扉がみえています。門番や 使用人をすまわせたところでしょうが、今は物置のようになっていました。

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井戸

お庭が立派です。回遊式庭園というそうですが、池や築山もありました。 

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なんだか松坂桃李、いや磐音さんが縁側に座っていそうな、、、。

家の中に入ってみました。 

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お部屋は8畳乃至6畳のお部屋が表裏5室ずつ計10室、表が広い場合は裏が4畳です。家老の家としては質素な感じがしました。鍵の手になったところはお台所とお風呂場、と言ってもふろおけがあるのではなく、たらいが二つおいてありました。

室内から眺めるお庭もみごとでした。

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築山と東屋がみえています。 

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向こうの家は能見邸です。

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又庭におりて築山のところにいったり、町を見下ろしたり、ゆっくり楽しみました。

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はっきりしませんが下に塩屋の坂がみえています。名残おしいのですが、そろそろ出ることにしました。 写真が多くなってきたので、ページをあらためることにします。