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滋賀・京都花の旅

2021年4月22日 (木)

滋賀・京都花の旅  3日目―4

13:23 三宝院を出て伽藍エリアへ向かいます。

歩いているところは 桜馬場 
もう葉桜になっていました。

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その先に仁王門 1605年 豊臣秀吉が再建したものです。
仁王像、もとは南大門にあったもので平安後期(1134年のもの、重文)

道を曲がりながら行くと横に 清瀧殿拝殿
端正で美しいです。

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ホームぺージの説明によると
 <醍醐寺の総鎮守清瀧権現(せいりゅうごんげん)を祀る鎮守社。永長2年(1097)に、最初に建立された上醍醐より分身を移し祀りました。

清瀧殿本殿の写真はありません。向こうに見える五重の塔に気をとられていたようです。

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五重塔(国宝)
醍醐天皇の菩提を弔うために朱雀天皇が起工、村上天皇の天歴5年(951年)に完成した京都府最古の木造建築です。

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矢張り五重塔には桜です。金堂側から撮りました。
境内いたるところが五三の桐の紋の入った万幕が張り巡らされていました。桜まつり?

金堂(国宝)秀吉の命により紀州・湯浅から移築(1600年)されたもの。安置されている薬師如来像が醍醐寺の本尊。

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私はもう疲労困憊、主人は階段を上がって中を観に行きましたが私は遠くから眺めるだけにしました。

鐘付き堂 

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境内案内図を見ると色々まだあるようでしたが、これくらいにして戻ることにしました。

今度は霊宝館です。お寺の宝物を保管、展示している場所です。

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この中央の枝垂れ桜が有名だそうですが、もうおしまい。八重桜の時期です。
丁度この写真を撮る一にベンチがあって、私はもう座り込み。動く気はなかったのですが、先に行った主人がたいして広くないからと呼びにくるので仕方がなく入りました。ここは靴ままでいいので助かりました。

仏像その他の展示がありましたがカメラ禁止で写真はありません。ホームページの寺宝・文化財のところでいくつか写真は見られます。
ありがたいことに中央に座りやすいソファがいくつもあって遠慮なく座らせていただきました。そこでツアーメイトの御姉妹に会ったので少しおしゃべり。なんと早朝、北野天満宮までいらしたそうです。朝のうちに既に1万歩あるかれたのです。添乗員のUさんとはこれまで「街道を歩く」のシリーズでご一緒になられたことがあるそうです。私よりはお若いのですが、それにしても凄いです。私は今回ほど体力不足を痛感したことはありません。この旅行で歩かされた余波をかってウオーキングを頑張ろう、と決意しました。でもこれを書きあげる方が先、いまのところ殆ど歩いていません。

これで観光は終わりです。

15:00バス集合ですが、皆さん15分くらい前には集まって14:47出発しました。

多分30分くらいで京都駅に到着したと思います。17:34発に乗るので17:20までフリータイム。
八条口 1階新幹線乗り場改札前で待ち合わせです。

私たちは伊勢丹に行きました。駅舎の外に出てエスカレーターで2階にあがります。中央通路左が伊勢丹。右に駅上ホテル入口(いつか泊まるつもりの)も確認できました。

地下の食品街でお菓子やおつけものを買ったのですが、ここが混んでいたのです。後からしまったなあ、と思って気になりました。(18562歩)
旅行から戻って今日で20日。二人とも無事です。感染はまぬがれたようです。

僥倖のように緊急事態と蔓延防止の狭間、雨にふられず、桜の花もギリギリセーフで旅をすることが出来ました。

目にもおなかにも嬉しい旅、またおこもりにたえられそうです。
早くワクチンがいきわたって心配なく旅行ができる日が望まれます。
  

 

 

2021年4月21日 (水)

滋賀・京都花の旅  3日目―3 醍醐寺

12:55 頃 醍醐寺 駐車場に着きました。

醍醐寺は以前友人に「ちょっと離れているけれどいいわよ」といわれていて いつかは、と思っていました。

何よりも 秀吉の醍醐の花見 で有名ですし。でもこの時期、ものすごい混雑では?
添乗員さんが「この時期 観光バスが他にないなんて初めてだ」と嘆息なさったほどで、団体客は他にいないようでした。 でもそこそこ人出はありました。もちろん感染の危険はかんじません。

醍醐寺  世界遺産 京都 醍醐寺 (daigoji.or.jp)

874年 弘法大師の孫弟子にあたる理源大師聖宝が 笠取山山頂に開山。笠取山山頂付近を醍醐山となづけました。
926年 麓の平地に醍醐天皇の御願により金堂が建てられました。

山の上の上醍醐と下醍醐あわせて200万坪以上の境内を持っています。上醍醐に行くには山登りで1時間はかかるらしくて、私たちは下醍醐だけ見ます。

下醍醐 案内図

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駐車場から、スゥ・ル・スリジェという文字のかかれている通りを歩いています。

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桜は 花吹雪状態。

残念と言えば残念ですが、昨日,おとといと桜はしっかり見たのでさほど残念感は持ちませんでした。

つきあたった所で 金堂、三宝院、霊宝館 の三か所が入れるチケットを渡され散会。
バスの所に15:00集合。それまで各自自由にみてまわるように、でした。
「奥の金堂から回るといいでしょう」と言われていたのですが、すぐ前が三宝院の入口でしたので、そのまま三宝院の方から見ることになりました。

三宝院
定賢、義範、範俊の三人の師から法を授かった勝覚僧正が平安時代(1115年)の創建。応仁・文明の乱で荒廃、其の後1598年、秀吉によって催された「醍醐の花見」を契機に復興。

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玄関(お天気が回復したと思ったら写真がまたハレーションをおこしてヘンです)
左に少しみえているのは太閤枝垂桜ですが、もう葉桜状態です。奥村土牛の「醍醐」のモデルになった桜だそうです。

右の門から少しお庭がのぞけます。

靴を脱いで上がります。お庭は写してもいいのですが、室内は撮影禁止です。(襖絵などは上記ホームページでに写真があります) 


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左、松のしげっている島は 鶴島 橋が鶴の首にあたります。

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中央が亀島 この五葉松は 樹齢500年以上の名木。

手前の砂の上の石は 賀茂の三石
奥は賀茂川の速い流れを、中央は川の淀んだ状態を、手前は川の水が割れて砕ける様子をあらわしています。

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奥中央の長方形の石は 藤戸石 天下を治める者が所有する石として室町時代から権力者によって引き継がれてきたもので「天下の名石」。醍醐の花見の後、聚楽第から運び込まれて「主人石」として庭園の中心に据え、左右にも低い石を置いて三尊組としています。
奥に「三段の滝」石組みの名手、賢庭が組みました。

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本堂

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奥宸殿(左)の前のお庭 奥は 茶室・松月亭(江戸末期) 

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奥宸殿廊下

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いいお庭でした。ところで 歩いているとき 後ろの男性が大声でお連れの女性にはなしかけていたのです。 うるさいな、とだけおもっていたのですが、横に曲がった時追い抜かれました。その時、かの男性、顎マスク!だったのです。猛烈に腹が立ちました。感染していたら あなたのせいよ! 

ここをでて(中からも内側の方がみえましたが)金堂の方に向かう時唐門(国宝)をみました。

三宝院の勅使門で1599年に建立、2010年に創建当時の姿に復元されました。

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一気に最後まで書くつもりでしたが疲れましたので次回に

 

2021年4月20日 (火)

滋賀・京都花の旅 3日目ー2 平安神宮

円山公園を出発して6,7分?くらいで平安神宮の駐車場に着きました。今日はお天気がよくなくて写真がさえません。

平安神宮(10:15~11:20)

バスの中で少し説明。平安神宮は新しいものだそうで、明治28年(1895年)創建
幕末の戦乱で荒れ果てた京都のいわば町おこしのため平安遷都1100年を記念して建てられたものでご祭神
も遷都した桓武天皇と幕末の孝明天皇です。

大鳥居 高さ24m、幅18m (次への移動中のバスの中から)

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応天門

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私が京都に来るのは学生時代を含めて今回は多分6回目、10年ぶりです。少ないですが一応有名どころは見ています。でもこの平安神宮は前を通り過ぎただけです。こういうまっかっか(朱塗り)は好みではないのです。

これは1階部分にも屋根があります。にわか勉強では大門という造りで最も格式が高いのです。 
屋根、神社には瓦は使わない、とありましたが、瓦(これは碧瓦というそうですが)が使われています。平安京を写したものだからでしょうか。

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中央に 應天門 という扁額がかかっていますが(平安京の應天門を模している)この應のを書くとき、弘法大師は一画目のテンを書き忘れて、後からエイっと筆を投げて書き加えた、といういわれがあるそうです。(弘法も筆の誤り、はここからきている、という説明がありました。

門を入ると

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正面が 大極殿 
大きさは平安京の5分の3だそうです。
ホームぺージの説明によると 
大極殿(重要文化財)…平安京の大内裏の正庁である朝堂院の正殿で、即位、朝賀をはじめ国の主要な儀式が行われる中枢である。大極とは、宇宙の本体・万物生成の根源を示す言葉で、不動の指針北極星に比定され、天皇の坐す御殿を意味する。

左右対称のように見えます。 向かって右側 蒼龍楼

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屋根は 四方流れ 二重5棟の入母屋造りだそうです。

今回の目的は拝観ではなくお庭を見ることです。(もちろん拝んでもいい)

左側、白虎楼のところから神苑に入ります。ここで散会、11:20駐車場集合まで各自、自由に見てまわってください、でした。主人は昔、修学旅行で入ったことがあるそうです。

神苑 円山公園と同じ小川治兵衛作のお庭です。入口にあった案内板

池は琵琶湖疎水から引き入れて造られています。

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平安の庭から歩きます。

この紅枝垂桜が有名なのだそうです。ちょっと満開は過ぎていました。

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ここは西苑になります。白虎池

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矢張り人出はありました。ソーシャルディスタンスを保ちながら気を付けて歩きました。例年ならきっと池に落っこちるくらいの人出ではないでしょうか。

花しょうぶ、6月に来れば素敵でしょう。

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西神苑に行く途中です。京都の町中の神社内とは思えません。

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 中神苑 蒼龍池

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臥龍橋
使用された石材は天正17年に秀吉が造営した三条・五条の大橋の橋げたです。

東神苑が見えてきました。池は栖鳳池

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泰平閣(橋殿)と尚美館(御所にあった京都博覧会の中堂を移築したもの)

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大体見終わって11:00頃にはお庭を出ました。京都の町中とは思えない、森閑としたところもあり、広大で素晴らしいお庭でした。彦根の
玄宮園より広そうです。調べてみると、ここは 3万㎡、玄宮園は楽々園とあわせても3万㎡に少しかけるようです。昼食の場所は近いので徒歩で向かいますが、バス停に集合です。道路の横にショッピング街があってお土産をかうことができるし、お手洗いもきれいです、といわれていたのでそこをとおってみました。お店は全て閉まっていました。お手洗いは使えて非常にきれいでした。お手洗いにはいるたびに、日本ってなんていい国なんだろうと思います。

皆さん早めにもどっていらしやので、11:13頃出発。 琵琶湖疎水に沿って歩きます。

早すぎたのでお店の前で少し待ちました。

六盛 でお食事です。

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向こうに我々のバスが見えます。

用意ができて入ります。入ったところで検温、手指消毒

ておけ弁当です。

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これも楽しみにしていました。おいしいのですが、でも、たん熊 の後ではちょっと分が悪いです。こう思ったのは私だけかもしれません。主人は家に帰ってから「おいしかったよ。たけのこご飯、もっと食べたかった」と申しておりました。

黙々といただいた後で私の斜め前が添乗員さんだったので、マスクをつけて少しお話しました。会社がJTB にはいってしまってお世話になった添乗員さんがどうされたか気になっていたからです。残られた方、新聞社に行かれた方、全く別の道にいらした方がいらっしゃるそうで、一昨年、西フランスロマネスクでお世話になったMさんは残っていらっしゃるそうです。

バスのところまで歩いて戻ります。

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12:20 醍醐寺に向けて出発です。

 

2021年4月19日 (月)

滋賀・京都花の旅 3日目―1

4月3日(土) 今日は旅行最終日です。予定は

 円山公園・八坂神社→平安神宮(神苑)→醍醐寺→京都駅

土曜日の京都です。緊張感を持って臨みます。マスクは二重にしました。

9:00少し前 ホテル出発 

今日はバスが変わってガイドさんも別の人です。今日のガイドさん、コロナ禍で四カ月ぶりの乗務だそうで「緊張してます」やはり旅行業界、たいへんそうです。

9:11 知恩院前駐車場着

着くと横にとても立派な門がありました。知恩院の山門(三門というらしいです。国宝)です。知恩院と言えば鴬張り、が有名だったのではないでしょうか。

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円山公園南門から入ってすぐの所にある案内板

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祇園桜 祇園枝垂桜 としてとても有名だそうですが、残念だいぶん散っていました。
でも私は後ろの建物に注目。あれはアフタヌーンティで有名な長楽館では?いつか行きたい。

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振り返ると、向こうが入口です。

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ここで解散 10:10バス集合までフリータイムです。
人出はありますが、マスク二枚重ねで身構えなければならないほどではありません。
ここを下がると八坂神社です。一緒に行きますか?ガイドさん、添乗員さんと一緒に行きました。

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桜もそろそろおわりです。

鳥居をくぐって左に折れ、少し行くと
美御前社(うつくしごぜんしゃ)

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宗像三女神(宇佐八幡でもまつられていた!)がまつられていて美貌・芸能・財福の神としてしられるそうです。 横に少し水が見えるのは「美容水」だそうです。 

八坂神社

八坂神社という名前になったのは1868年でそれまでは感神院または祇園社と呼ばれていました。創祀は古く、656年(斉明天皇の時代)または876年朝野の崇敬があつかった神社だそうです。

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左から南楼門,舞殿、本殿

なんと本殿の写真撮り忘れ、 ホームぺージからお借りしました。

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どうやらここは直接本殿でお参りするらしいです。
追記(4月20日) 
これも流造りだなあ、と思いながら調べてみると、祇園造りあるいは八坂造りと呼ばれるものだそうです。
本殿と拝殿を一つの屋根で覆ったものでもっとも仏寺建築に近いものとありました。ここだけにみられるもの、とのことです。


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 南楼門と舞殿

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中央の囲いのある灯籠は 忠盛灯籠(1113~1118年以前に建てられていた)
平清盛の父、忠盛は白河上皇に仕える武士で上皇とともにここを通りかかっところ、化け物が通ったようにみえて切るように命じられたが、忠盛は物の怪の正体を社僧だと冷静に見極め、僧を切らずにすんだ、それが出世するきっかけとなったという伝説が残る灯籠。

ざっと見回す程度にここを見てから
上の鳥居の右側の道から円山公園に戻りました。

1912年小川治兵衛による池泉回遊式日本庭園

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 坂本龍馬と中岡慎太郎の銅像がある、というので橋を渡って見に行きました。

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ここで9:45です。

そろそろ公園を出ることにしました。主人は知恩院に行きたがっています。
知恩院の向かって右の坂(階段)は女坂で正面の階段に比べて緩やかなので三門のところまで一緒に上がってみました。

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三門のところに来ました。

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御影堂などがあるところはさらに階段をのぼらなければなりません。女坂の続きで緩やかな坂↑もあるのですが、時間がかかりすぎるかもしれないので私はここで下におりて主人だけ上がって行きました。

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これが御影堂のようです。

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中央の階段は矢張り急で段差が大きかったそうです。

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反対側から見た 三門

間に合いました。10:05頃にバスに乗り込んできました。

平安神宮に向けて出発です。  

 

2021年4月17日 (土)

滋賀・京都花の旅 2日目ー6 京都のホテル

15:34~16:06 バス

今回の旅は移動距離が短いです。渋滞もなく順調にホテル到着です。年寄よりコースなのかホテルインの時刻が早くて現在の私の体力にはあっています。 
ところがすぐにはバスをおりられません。感染対策か、バスの中でチェックインです。ルームキーなどを渡されてから下りました。

京都東急ホテル
長浜より高級感があります。
ただし場所は堀川五条の交差点近くで付近を散歩したくなるような雰囲気はありません。
すぐお部屋に入りました。

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お部屋もきれいで、洗面所も勿論ぴかぴか。アメニティも充実していました。

お隣(私たちの部屋の前)は本願寺門徒会館、今日は金曜日、例年のこの時期ならきっと駐車場は満杯ではないでしょうか。

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夕食が18:00からなので、先にお風呂に入ってしまうことにしました。

楽しみの夕食はホテル内の「たん熊 北」店です。これもこのコースを選んだ理由の一つです。
かなり以前軽井沢で母たちと万平ホテルに泊まった時、夕食が別棟のたん熊さんで、ともおいしかったのです。

入る前、スマホ型の検温器があり手指消毒スプレーもおかれています。

個室です。  

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人物が入っているのでちいさく。四人掛けのテーブルが4卓。それを2卓使って。間に通路。右手の壁の向こうにもう一組4人組さんが座られました。
感染対策、バッチリです。マスク入れもありました。

添乗員のUさん「私はここではいただけません。それだけお高いということです」お気の毒です。長浜のフレンチフルコースはご一緒でしたのに。
まずは生ビールです。

 メニュー

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前菜 この華やぎ、うれしくなります。

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お造り

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この中トロが絶品、こんな美味しい鮪はじめてです。あまりにも感激しているので主人が憐みの目でみて「今度食べに連れて行ってやるよ」 

ここでお酒を注文

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煮物椀

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我が家では茅乃舎の出しをつかっていてカツオの風味がしっかりきいているのですが、これは薄味です。茅乃舎のはっきりしたお味は田舎風なのか、とおもってしまいました。薄味でもとてもおいしいのです。

焼き物

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煮物

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酢の物

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蒸しもの

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ごはん

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水菓子

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このメロンが完熟でとても甘くておいしい! 

やはり たん熊さん美味しい!! 横浜のニューグランドにも入っているのです。今度はル・ノルマンディではなく たん熊 さんにしましょう。

大満足のお夕食、19:40過ぎに終わってお部屋に、途中の中庭

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お部屋に戻ってもうお風呂にはいっているので歯磨きだけしてベッドに倒れこみました。私としては結構飲んでしまったのです。

今日回った三か所ともとてもステキな場所でしめくくりのお食事もよくて大大満足の一日でした。
そうして思ったことは普通、関西方面に観光目的で出かけるときは奈良・京都に行くということになりますが、滋賀県あなどれない、ということです。また滋賀県を色々巡りたいです。


  (11015歩、思ったほど歩いていません)

 

 *****
続けて翌朝出発までのことも書いておきます。

夜中、あまりにも早く寝すぎたのか目が何度もさめてしまいました。

6:00頃本格的に起きて身支度 

朝食レストランは 7:00から開いているというので 7:08でかけました。

場所はオールデイ・ダイニング風花というところです。

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ビュッフェではありません。洋食、和食の選択ができます。

たん熊の和食にしました。先ず飲み物の注文を取りに来て私はトマトジュースにしました。

メニュー

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私は和食のほうが分量がいただけます。御飯は二種類ふつうのとおかゆで、私はおかゆにしました。

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写真ではよくわかりませんが、白く輝くおかゆ、ふっくら膨らんで、家で残りごはんで作るのとは全然違います。(当たり前ですが) 手前の壺に葛餡が入っています。お醤油を葛どきした、といえばいいのでしょうか。うっすらお醤油味でトロリ。 ごはんにかけると、もうこれだけで他に何もいらないくらいです。四つ切りの中から、ちょこちょこのっけましたけれど。
写真が半分欠けてしまいましたが、小鍋が絶品でした。お出しの味が薄味ですがとっても美味なのです。

食後、和食でもコーヒーがいただけるのですが、二人とも断りました。

7:47 きれいな中庭を眺めながらお部屋に戻りました。

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この日の観光については次回に    

  

滋賀・京都花の旅 2日目―5 (三井寺)

13:20~15:34 三井寺(園城寺)

三井寺は小説などにも出てきたりして関心がありました。その上、旅の先達alice様、kikuko様のブログを読ませていただいていよいよ行きたくなっていたお寺です。

バスの中でガイドさんから説明がありました。
三井寺は 686年創建。天智天皇の皇子である大伴皇子(弘文天皇、明治になっておくられた諡号)の子大友村主(すぐり)与多王が父の御霊を祀るために建てたものです。王が田園城邑を投じて建立したので天武天皇より「園城」の勅額を賜り「長等山園城寺)と称しましたが、天智・天武・持統天皇の産湯に用いられた霊泉があるので御井(みい)の寺ともよばれているのだそうです。

貞永年間(859~877)になって、智証大師円珍和尚が園城寺を天台別院として中興、東大寺、興福寺、延暦寺と並ぶお寺となったのですが、円珍の死後、延暦寺とたびたびいさかいを起こし焼き討ちにあっています。

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バスが停まったのは仁王門手前の駐車場です。
私がここでどうしても観たいのは文化財収蔵庫にあるという「訶梨帝母倚像(かりていもいぞう)」です。aliceさんが
聖母子像のよう、とブログに書かれていたので是非ともみたかったのです。皆さんと一緒に歩いていて見る暇があるのかどうか心配で、歩き出す前に「2、30分でいいから収蔵庫に行く時間がほしい」といいましたら、余裕らしかったので最初は一緒に順路通りに行くことにしました。ところが皆さん、三井寺には何度もいらしているのか、金堂の前で散り散りになりました。 

まず目につくのが 仁王門(重文)桧皮葺
1452年の建立、甲賀郡の常楽寺にあったものが伏見城に移され、さらに1601年家康の寄進によってこの三井寺にもたらされたものです。

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寺院建築というのにも不案内です。鎌倉の東慶寺や明月院は門というほど立派なものはありません。(円覚寺には立派な山門がありますが)それにこういう形。(日吉大社もそうでしたが)去年臼杵で驚きました。調べてみると門の形式には色々あるらしくて、このように門の上が二階建てになっているのを楼門というそうです。二階建てだけれど、一階部分に屋根がないのも特徴的です。楼というのは高く構えた建物という意味だそうです。私は横浜ですから、中華街のナントカ楼を思い浮かべてちょっとおちつきません。 

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門をくぐるのではなく脇から入ります。

まっすぐ進むと横にみえているのが 釈迦堂 通りすがりに眺めただけです。室町初期の建築。
御所の旧清涼殿を下賜されたとつたわっているそうです。(買ってきた冊子に書いてありました。中に入ってよくみればよかった!)

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三井寺にはそこそこ人がいました。

進むと階段があります。金堂が見えています。

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左に回って
金堂 (国宝)現在の建築は 秀吉の北政所により1599年に再建されたもので、桃山時代を代表する名建築だそうです。

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(角度をなおしたので少し端がおかしいです。それとカメラのレンズがくもっていることに気がつかなくて、どれも白いもやが浮いています。)

金堂の屋根のそり具合がすてきです。中の仏像を拝むために上がられた方もいらっしゃいましたが、私たちはパス。でも本を見ると、内部構造も面白そうだし、持ち送りの彫刻もよさそうで、しまった、と思っています。ここで御姉妹は観音堂へ行くからと離れ、結局バスガイドさんと私たち夫婦三人で歩きました。 

少し離れて鐘楼 有名な三井の晩鐘がつるされています。1602年の再建

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三井の晩鐘として有名なこの鐘は宇治の平等院、高尾の神護寺の鐘とともに日本三銘鐘といわれています。音色がいいらしいです。

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金堂の横に回ると
閼伽井屋 (重文)三井の霊泉 天智・天武・持統天皇が産湯に用いられたという泉がわきているそうで、覆屋は1600年の建立。正面上部の竜の彫刻は 左甚五郎によるもの。
中には しめ縄をかけた石が見えました。

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むかしこの竜が夜ごと琵琶湖に出て暴れたので甚五郎自ら竜の目に五寸釘を打ち込んだという伝説がつたわっています。(でもどれが五寸釘なのかよく判別できません)

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その横には閼伽井石庭
日本最古(具体的にいつかは書かれていませんでした。創建当時からでしょうか)の庭園で蓬莱山を表していると立て札にありました。

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中央より 人、神仏、鶴、亀 と配されているそうです。

石庭を回り込むようにして 上がって行くと霊鐘堂
ここに 弁慶の引き摺り鐘と呼ばれる鐘(重文)と 弁慶の汁鍋がおかれていました。  

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奈良時代の梵鐘で、弁慶が奪って比叡山に引きずり上げて撞いてみると「イノー、イノー」となったので怒って谷底へなげすててしまった、という言い伝えがあるのでこうよばれています。 

先に進むと一切経蔵(重文)  

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すっきりとしたいい建物なのに、おかしな写真になってしまいました。
室町時代の建築で1602年毛利輝元により山口県・国清寺より移築・寄進されました。
中には 回転式の八角輪蔵があります。軸があって回転します。鎌倉の長谷寺でも見ました。

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先へ進み橋を渡ると 唐院と呼ばれる一角になります。

唐院は智証大師の廟堂としてもっとも神聖な場所になります。
三重の塔(重文)

        

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室町初期の建築、大和の比蘇寺にあったものを秀吉が伏見城に移し家康が1601年に三井寺に寄進したもの

 
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手前が 唐院 潅頂堂 (重文) 奥に少し見えている瓦葺の建物のが長日護摩堂(

右奥にみえているのが唐院大師堂の唐門です。大師堂はかろうじてみえていますが、大師堂には国宝・智証大師像二躯、重文・黄不動尊立像をまつっているそうです。

これまで見てきて気が付いたことは三重の塔と護摩堂をのぞいてどれも屋根が檜皮葺であることです。にわか勉強では神社の屋根には瓦を使わない、とのことでしたが、ここはお寺でも殆ど瓦は使われていません。

理由はわかりませんが、瓦屋根はときにぎらつくこともあります。ここの檜皮葺のお堂はどれもとても落ち着きがあっていいなと思いました。この潅頂堂、胴体の部分はすっきりしてある意味モダンでもあるのですが、屋根を見ると田舎家風にも思えて親しみさえ感じます。

ここで案内予定のところは終わりなのでガイドさんとは別れました。階段をおりて文化財収蔵庫に向かいます。
ここは唐院への参道になっています。  

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美しい参道です。この横に「おちょやんロケ地」の看板がありました。

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↓村雲橋

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この突き当りを左に曲がると収蔵庫はすぐです。空いていました。実は東京の美術館を思い浮かべ、限られた時間で入館制限にあっては困るので前日にお電話しておききしましたら、平日に混むことはありません、ということでした。 
入るときにお一人出ていかれてあとは二人きり、混むどころか閑古鳥が鳴いていました。

写真を撮り忘れたので買ってきた冊子の中から

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左頁は 勧学院客殿の障壁画(狩野光信筆)です。

お目当ての「訶梨帝母椅像」はあの仏像が見えている裏側にありました。

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これは絵葉書 収蔵庫の売店に井浦新さん撮影のクリアファイルがありましたのでそれも買いました。

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いいお顔です。
想像していたよりずっと小さくて、高さ43.5㎝です。鎌倉時代(13世紀)のものです。
檜の寄せ木造りで彩色されています。衣の襞など、鎌倉初期の写実的な表現がよく表れている、と説明がありました。

訶梨帝母 とは鬼子母神のことで1000人の子がありながらよその子供を奪ってたべていたのが、お釈迦様によって改心させられ以後子供の守護神となった女神だそうです。右手には子孫繁栄のシンボルであるざくろをもっています。
キリスト教の聖母子像にも「ザクロの聖母」というのがあります。aliceさんはキリスト教の聖母子に似ているけれどキリスト教伝来は16世紀だから、、、とお書きになっていらっしゃいました。
おっしゃる通り、時代から言って隠れキリシタンが持っていたマリア観音ではありえませんね。
でも 聖母子像に似ている。
キリスト教の聖母子はエジプトのホルスに乳を与えるイシス神の像が元だと言われています。それがキリスト教では聖母マリアとその子イエスになり、仏教になると鬼子母神になる(ほかにもあるのかもしれませんが)という発展の仕方をした、と考えられそうです。図像の類似ということを考えるとキリスト教の図像が先でそれが東の方に伝わってきた(直接にキリスト教伝来ではなくても図像だけ)真似たのかもしれません。そうそう中国にはネストリウス派が入ってきていましたしね。推測するだけでなく詳しく知りたいところです。

調べてみると鬼子母神像は色々でてきますが、この三井寺のものが一番上品で美しい作品だと思いました。

朝鮮鐘もすてきでした。太平年間の銘がありますが、高麗時代の」作品(11世紀)総高77.2 ㎝、口径50㎝

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これはホームページからお借りしました。展示されているときの向きでは下の飛翔天は見えなかったと思います。DVD(後述)では はっきり大写しにされていました。

鐘の形は東西で全く違います。ヨーロッパの教会の鐘は裾が外に開いています。日本(朝鮮も)のものはそのまますっとおりてきて外にむかってひらいていません。音はうちにこもった音になります。打つのも外からと内側から、と違います。どうしてこういう違いができたのでしょうか。
ヨーロッパの教会の鐘は村の人達に礼拝の時を知らせるためといわれています。(修道院では村人に知らせる必要がないので 鐘楼のないところがあります)お寺はお坊さんのため?遠くまで聞こえはしますが、煩悩を鎮めるとかの意味があるから? などと推測もしてみました。
日本を含めた東洋文化について少し勉強したくなりました。

なお 三井寺のホームページはよくできていて宝物は全て解説付きで見られます。
三井寺(天台寺門宗総本山園城寺) (shiga-miidera.or.jp)

帰りにショップで三井寺のものと収蔵庫のものについてのと二冊、本を買いました。いずれも写真が美しいです。
収蔵品ガイドの方はDVDが付いています。

このDVD最初に一覧が出てきて見たいものをクリックするとその作品についての解説が始まります。写真の方も、例えばザクロの部分を拡大するとか、衣の柄を拡大、とか後ろ側を見せるとか、とてもよく分かります。買ってよかったです。 

この収蔵庫、点数はさほど多くなく、二人とも仏様の絵などあまり関心がないので、20分たらずで出ました。15:10前です。集合は 15:40です。ゆっくり戻りました。
だめもとで勧学院に行ってみました。金堂に戻る途中、左の坂を少し上がります。
↓あの坂を少し上がります。人物を消す、という処理をしたので 壁の石が少しずれてしまいました。

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矢張りダメでした。

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丁度3人ばかり女性グループが出ていらっしゃるところで「やっぱりだめだった、そこで入れなくなっていた」とおっしゃっていましたので強引に入ってみることはやめにしました。

aliceさんは智証大師生誕1200年の年においでになり、特別公開でここに入られています。調べてみると(滋賀・びわこ観光情報)3名以上で事前予約すれば入れるそうです。もう一つの光学院客殿も同様。なかなか同じところに二度行く余裕はないのですが、このお寺はとてもよかったので出来れば娘でも誘って人数をそろえてまたきてみたいです。
ゆっくり散歩しながら集合場所に向かいます。

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金堂が見えます。

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このメインの通りは少し人出がありますが、横に入ると殆ど人はみかけませんでした。金堂までは行かないで手前の道をまわるようにして仁王門の方に戻りました。

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桜もそろそろおしまいです。
三井寺、期待に疑わず、というかそれ以上に素晴らしいお寺でした。 

お寺の案内には拝観所用時間5,60分とありました。たっぷり2時間あったのですから 時間配分を考えた歩き方ができればより充実した観光ができたのにという思いが残っています。

皆さん早めに集まられたので15:34出発して今日の宿泊地 京都に向かいました。
ホテルのことは次回に 
 

  

2021年4月14日 (水)

滋賀・京都花の旅 2日目―4 (日吉大社)

12:50~14:00 日吉大社参拝&フリータイム

赤鳥居をくぐります。(下の配置図右下)

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奥にあるのが八王子山 奥宮が見えています。牛尾宮と三宮がおかれ、その間に金大巌宮という高さ10mの岩があり、これがこの神社の始まりとされています。

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日吉大社について ホームぺージには、こうありました。
比叡山の麓に鎮座する当大社は、およそ2100年前、崇神天皇7年に創祀された、全国3800余の日吉・日枝・山王神社の総本宮です。平安京遷都の際には、この地が都の表鬼門(北東)にあたることから、都の魔除・災難除を祈る社として、また伝教大師が比叡山に延暦寺を開かれてよりは天台宗の護法神として多くの方から崇敬を受け、今日に至っています。

赤坂のキャピタル東急ホテル横に日枝神社というのがありますが、その御本家というわけですね。
私は日本史に詳しくないので調べてみると崇神天皇は実在したと思われる最初の天皇(第10代だが)だそうで実在したとすると古墳時代の3世紀後半らしいので2100年前はちょっと前すぎにおもえますが、1700年前としても古いです。

788年に最澄が比叡山にお寺を建て、神仏習合のうごきから次第に延暦寺と合体していきました。
1571年、織田信長の比叡山焼き討ちによって日吉大社も全焼、現在見られるのは1586年~1596年(安土桃山時代以降)にかけて再建されたものです。

西本宮からおまいりします。下手な説明よりは、とホームページからおかりしました。

日吉大社は神代より比叡山にいらっしゃる神(大山咋神)として崇められ、崇神天皇7年、八王子山の麓にお迎えし創祀(東本宮)されました。その後、天智天皇が飛鳥より近江大津宮へ遷都した翌年である天智天皇7年(668)に、大和朝廷の守護神であった大和国三輪山より大己貴神(西本宮)を勧請しました。
以来、国の平安を祈る社として千年の都・京都の鬼門を守護し、また伝教大師が延暦寺を建立してからは天台宗の守護神として崇敬され、現在は全国約3800社の分霊社(日吉・日枝神社等)の総本宮となっております。
西本宮のご祭神である大己貴神は、別名を大国主神・大物主神と呼ばれ、島根県の出雲大社や、奈良県の大神神社などで祀られる国造りの神様であり、我が国で最も貴い神様の1柱であると考えられます。そのため、明治以前は大宮・大比叡とも称され、社殿の規模が一番大きく様式も格式が高い、当大社筆のお社であります。 

大宮橋を渡ったはずなのですが写真を撮っていません。重要文化財なのに、残念。 

横を細い川がながれています。

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緩い坂を上がります。坂道苦手な私は遅れがち。ここも人は少ないです。広い境内、私たち以外は結婚式の前撮りのカップルとカメラマンのグループだけでした。 

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山王鳥居は上が三角になってちょっと変わっています。手を合わせた合掌の形をしているので 合掌鳥居 とよばれています。
はっきりしないのですが左手、灯篭の前の立て札がたっているところは6世紀頃の古墳です。(後で調べてわかったことなのでちゃんとした写真がありません。予習不足です)

暫く歩くとお猿がいました。

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案内によると<そもそも猿は全国に棲息しているがなぜか古来より日吉と言えば猿といわれ、いつの頃からか魔除けの象徴として大切にあつかわれるようになりました。「まさる」は「魔が去る」「勝る」に通じ、大変縁起の良いお猿さんです>とありました。

いよいよ西本宮です。

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この楼門(重要文化財)にもお猿さんがいるのです。
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反対側にもいました。
楼門をくぐると手指消毒!
ご時世ですから左右両方お賽銭もはずんでしっかり拝みました。厄除けにご利益があるといわれていますもの。

 

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拝殿、奥が本殿 1586年造営 ご祭神は大己貴神(おおなむちのかみ) 国宝です。
なんと狛犬が周り廊下(正式に名どういうのか名前を知りません)にのっているなんて、はじめてみました。日吉大社では どこも本殿回廊に狛犬(獅子?)がのっていました。

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私は神社(お寺もですが)建築というものをよくしりません。最近見た松山の伊佐爾波神社や大分県の宇佐神宮とは様子が少し違います。これらは八幡様で神様が違うからでしょうか。ふたつとも拝殿、本殿はしっかり囲まれていて中には入れません。ここは間に廊下みたいなものもなく囲われてもいません。
通ってはいけないのか柵はありましたが。

神社建築の特徴は ウイキによると

 *屋根に妻をもつこと
 *屋根は瓦を使わない
 *床を高く張ること
 *土壁をもちいないこと
 *質素なこと   
 だそうです。 

たしかに、茅葺屋根(たぶん檜皮葺)で板壁です。本殿の床は高いです。

うかつだったのは 後ろにまわれたはずなのに後ろをみなかったことです。
日吉大社の造りは特に日吉造り(ひえづくり)とよばれる独特なもので、後ろは見るべきだったのです。
これは 東本宮にあった説明版ですが、西本宮もおなじです。

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神社のホームぺージから

その名の通り、当大社独特の建築構造であり、東西両本宮と宇佐宮の三社に用いられています。 外観は一見するとお寺によく見られる入母屋造ですが、背面に大きな特徴がございます。 その理由は、内部構造にあります。神社建築に共通する板壁に囲われ、正面中央にのみ扉を設けた閉鎖性と神秘性を兼ね備えた神様のお部屋(内陣)の前面と両側面に庇(外陣)を取り付けているので、入母屋造の背面をバッサリと切り落とした様になります。 また床下に明治の神仏分離まで本地仏を安置していた「下殿」と呼ばれる部屋が設けられているのも特徴です。 古くは北野天満宮や八坂神社も同形式であったようで、神仏習合の信仰形態が影響していると考えられます。 災害による再建に際してもこの形式を守り続けてきたのです。

ここでも予習不足が露呈してしまっています。おまけに看板も写真を撮っただけでその場では読まなかったのです。でも写真からすると後ろ側には庇はなさそうに見えます。

宇佐宮 1598年造営  国の重要文化財 本殿は日吉造りです。

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これは 西本宮に向かう時、横のほうに見えたものです。拝殿の奥に本殿(狛犬が見える)
↓ここは拝殿と本殿の間が通り道になっています。


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宇佐宮には宇佐神宮の田心姫神(たごりひめのかみ)が祀られています。なんとなく懐かしい。

奥に見えるのは白山宮です。

横に包丁塚

      

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階段をおりるのですが、おりたところに小さな滝がありました。

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白山宮少し小さな神殿でした。1598年造営 三間社流造り様式

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流れ造りは、神社に一般的なつくりで前面の屋根が曲線を描いて長くのびます。三間とは柱が4本で間が三つという意味。

白山宮の横には小さなお社がいくつか並んでいました。

ここから少し長めの階段をおりて緩い坂道を下ります。 

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ここでお一人階段を猛烈な勢いで駆け戻って行かれました。何か忘れ物?戻られてお聞きしたら、お守りを買いに行ったとおっしゃって見せてくださいました。とてもかわいいのです。これはホームページで知っていて買う予定でいましたから「ええぇーっ!」でもバスガイドさんが「東受け付けでも買えるはずですよ」ホッ。

しばらくすると神輿収蔵庫

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ガラス越しなのでよく撮れていませんが、ぶら下がった飾りが雅なかんじです。

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さらに下ると東本宮です。ここの楼門のところで件のお守りが売られていました。買うのに、売店ではなく授与所といいます。

神猿(まさる)お守り これは 子供や妹たちのために買い、もう送ってしまったので大社のホームぺージから、ではっきりしませんが、とてもかわいいのです。
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家用にはこれを買いました。茶色もあったのですが、金色のほうが金運がいいそうなのでこちらにしました。高さ3㎝くらいのちいさなものです。

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中におみくじがはいています。末吉でした。 
 旅行 十分ならず。急ぐな
とありました。実は5月末のツアーも申し込んでいるのですが、現状からするとキャンセルが妥当でしょうね。ワクチンが打ててから心も軽く旅がしたいですから。

東本宮の楼門、帰りに撮った写真です。横の岩は「猿の霊石」といわれ、猿がうずくまっている姿にみえる、というものですが、よくわかりません。この石は猿の霊石ではありませんでした。21年11月に再度行って確認した 正しい写真を載せておきます。

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お猿さんの顔に陽があたっています。
 

この域内には東本宮樹下宮があります。

楼門を入ると左右に樹下宮の本殿と拝殿、奥に東本宮の拝殿と本宮があります。つまり参道が直交しているわけです。

左に 樹下宮本殿奥、 東本宮、拝殿奥に本殿

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 右に 樹下宮拝殿奥 東本宮

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樹下宮(じゅげぐう) 1595年造営 三間社流様式。本殿内ご神座の真下に霊泉の井戸があり、以前はご神水を採っていました。祭神:鴨玉依姫神 (国重要文化財)
ここの拝殿に戸がたてまわされています。渋いです。

東本宮 本殿(国宝)1595年造営 ご祭神は大山昨神(おおやまくいのかみ)で樹下宮の鴨玉依姫神(かもたまよりひめのかみ)とはご夫婦だそうです。拝殿は 国重要文化財

   

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横に井戸これは 亀井霊水 
ここにはもともと池があり、伝教大師参拝の折り、霊亀がうかんできたので占ったところ、閼伽井(仏壇に奉げる水を汲む井戸)にすべし、と託宣があったので亀井とした、と説明版にありました。

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これでみるべき神殿はみたわけです。
最近見た二つの神社とちがって日吉大社は楼門以外の建物が、欄干をのぞいては朱塗りではありません。飾りの金が少し気にはなりましたが、木造そのままで年月で古寂びてとても
落ち着いたいい雰囲気でした。

境内に梛(なぎ)の木があります。 雄梛と雌梛です。

      

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これは雄梛 雄梛は女性が男性の幸せを祈る木とされているので(夫婦円満)手を当ててお祈りしました。

境内は宇佐神社ほど鬱蒼とした森ではありませんが、木は多く、それに私たちだけの貸し切り状態だったせいか落ち着いて回ることが出来ました。 

外に出て坂を下り、大宮側を渡ります。二宮橋という石橋があるのですが、これは渡ってはいけなくて横の橋を渡りました。

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ここで13:32です。この坂をあがると赤鳥居のそばに出られます。
それぞれフリータイムを過ごして

お別れにもう一枚

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14:00 三井寺に向かいます。 

坂本という町、光秀の無念を思うと切ない気持ちになりますが、いい町でした。 

2021年4月12日 (月)

滋賀・京都花の旅 2日目-3 (坂本へ)

坂本への移動中です。

護岸工事のされていない寂びさびとした光景がみたかったのですが、、、。ところどころ葦を刈ったような場所もありました。

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近江富士です。

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 びわこ大橋を渡ります。

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湖西道路を走りました。私の席は今度は山側になりました。琵琶湖畔は東側には平野が開けていますが西側は山が迫っています。
坂本に近づいたころ西教寺前を通りました。

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ここは明智光秀のお墓のあるお寺として有名ですが、kikuko様のブログによると素晴らしいお庭が四か所もあるそうです。 地図でみてもかなり大きなお寺のようです。行ってみたいです。

ストップするすぐ手前

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実は坂本という町についての知識は、明智光秀のお城があった場所ということ以外に皆無でした。娘は行ってみたけれどスーパーの前に○○跡という標識が一本たっているだけだった、と申しておりましたから。実は日吉大社というのもよくしらなかったのです。
町の人には申し訳ありませんが、坂本という名前からしてありふれていて想像力のふくらむ余地がありません。期待はしていなかったのですが、一応 司馬遼太郎の『叡山の諸道』を拾い読み。ところがびっくり、里房とか穴太(あのう)衆とかこれまで聞いたこともなかった言葉に出会いました。この町とてもよさそうです。

坂本という町は比叡山延暦寺の門前町です。
比叡山の寺領から運ばれてくる米が浜坂本で陸揚げされ、それらを扱う役人が住み、また建物の修理・普請をする人、仏像をきざむ人、石工などが住み又旅籠もあり、ととても栄えた町だったのです。
比叡山は山の上で冬は寒く湿気も多いので60を過ぎた老僧は麓の坂本におりて住むことが許されました。住まいは里にある房なので里房、とよばれ現在も50以上残っていてどこもお庭がすばらしいらしいです。。

また坂本の町は湖に向かって坂になっているので家を建てるには石垣を組んで平らにしなければなりません。その石垣を組んだのが穴太衆と呼ばれる人たちです。大津方向に電車で二駅行ったところに穴太という駅があります。
穴太衆は古墳時代から石を組んでいた、と言われています。有名になったのは城が土塁ではなく石垣を築いて造るようになってからで、安土城が最初です。これ以後穴太衆は全国の城の石垣を手がけるようになったそうです。現在も粟田建設という会社が穴太衆の伝統を引き継いでいて先々代社長は人間国宝だったそうです。
粟田家の家訓に「石の声を聞け」というのがあるそうです。これを知った時、アッと思いました。私は古いロマネスクの教会が好きです。そうして時々石の壁に手を当てて石の声を聴こうとします。1000年もの間生きてきた教会です。どれだけ多くに人びとの想いをすいこんできたことか、、、。 粟田家の家訓の石の声を聞け、はこの石がどこに置かれたがっているかを聞け、ということで私のとは違いますが、無機質である石も問いかける人間には答えてくれるものだという考えはおなじです。

話がそれました。坂本という町 すごそうではありませんか。バスが止まるすぐ前に見た止観院、これも里房で石垣は穴太衆によるもののはずです。 

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(穴太積、この芙蓉園でお昼をいただきます。文字が続きすぎたので先に写真を載せました))

穴太衆は 石垣を造るので色々な組み方ができるのですが、穴太積み(穴太衆石積み)と呼ばれるのは野面積です。石を加工うしないで自然のまま積み上げていく方法です。『粗い石』という本には教会を建てるときの苦労が書かれているのですが、 そこで表面を平に削ることの大切さが書かれていました。ほんの少しのでっぱりがあっても石が積まれると重みでそこから石がわれてしまうそうです。ル・トロネ修道院の石壁はなめらかですばらしかったのですが 穴太積みは自然のままなので隙間がたくさんあります。でもうまく組み立てると崩れないし、水はけもいいのです。

そうこうしているうちに日吉大社赤鳥居前の駐車場に着きました(11:50)今回の旅は移動距離が短いです。ツアーバスだからこそで公共の交通機関だと乗り換えがあって大変なはずです。

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この日吉の馬場(参道)の桜がみごとでした。

お食事をする芙蓉園に入ります。(11:50~12:50)

二階の広い座敷で(靴は脱ぐがいす式)すでにお食事がセットされていました
比叡湯葉重ねです。
  三段のお重です。

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お庭を見下ろします。

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築山の下に穴太衆の作った洞窟があります。 

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もう忘れているのですが、美味しかったと思います。

終わってお庭におりました。

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洞窟に入ってみました。道幅は広め、まがったところは暗かったのですが、無事出てこられました。

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記憶違いかもしれないのですが、貧しい人たちをここにすまわせた、とおっしゃっていたような?(???記憶は怪しいです)

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12:50集合で 日吉大社見学がはじまったのですが、写真が多いので後のフリータイムに主人だけが行った、最澄の生まれた場所に建てられたといわれている生源寺(創建782~806)の写真を先にのせます。

湖よりの大鳥居の横にあります。  

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参道に沿った歩道

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これは 芙蓉園の横のみちです。

この辺りどこも穴太積の石垣が並ぶ落ち着いた街並みです。普通参道と言えばお土産物屋さんが建ち並んで雑然とした感じですが、ここはしっとり落ち着いた雰囲気で、とても気に入りました。私はこの時滋賀院門跡を訪ねるつもりでしたが道がわからなくてあきらめました。そのうち西教寺と滋賀院門跡をたずねて坂本を再訪したいです。

日吉大社は次回に

  

 

2021年4月11日 (日)

滋賀・京都花の旅 2日目ー2(近江八幡続き)

新町通りを歩いています。

森邸の次は 西川庄六邸です。非公開ですがとても凝った造りです。
庄六は2代目西川利右衛門の子が初代で、本家に次ぐ豪商となり現在も会社を経営しています。蚊帳、綿,扇子などを扱って
いて扇子は今も有名らしいです。

間口13m、奥行き14.9mの非常に大きな屋敷です。みこしの松もみえています。

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焼いた板を張った壁。上の竹は育てるときに曲げたもの。その上の瓦は八幡瓦と言うもので水平にするのは難しいそうです。 手前の柵は 駒よせ、馬にけられて傷むのを防ぐためのものです。

10:30 ここを過ぎると八幡堀に出ます。

ここは時代劇の撮影によく使われます。私は最近テレビで「立花登青春手控え」や「雲霧仁左衛門」をみて、堀のある風景が素敵だったので調べたらこの八幡堀だったので、来るのを楽しみにしていました(ミーハーでお恥ずかしいですが)。

掘は秀次によって城の防御と、琵琶湖とつないで物流をはかるという目的で開鑿されたものです。
戦後も150石船がいきかっていて、住民も生活排水に心配りはしていたのですが、物流が変わり、また昭和40年頃から汚水をながすようになり、堀はヘドロで埋まってしまいました。埋め立ての話があったのですが「埋めたところから後悔が始まる」を合言葉に市民運動が起こり自主清掃などを経て全面浚渫工事がおこなわれてきれいな掘りになったのです。
 

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堀沿いより一本横の道を行きます。 

ここは手前が空き地になっているのですが、家と家との間には背割排水と呼ばれる排水路が造られています。   

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この溝は整備されているのは町の西半部の低い地域です。下水道の役割をはたすとともに城下町形成以前は沼沢地だったこの地域の排水路でもあり、秀次の町造りの計画性をかんじさせるものです。 

また堀のところに出て明治橋を渡ります。 

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橋を渡って少し行って右へ回るとクラブハリエのお店、道をわたると たねや さんです。
なんとここで10分ほどショッピングタイム、横浜高島屋には両方あるのに!でも皆さんお近くにはないのか かなりお買い物をなさっていらっしゃいました。折角なので和菓子屋さんでお団子を買いました。日持ちがしないので少しだけ。今 お店のホームページを見るとバウムクーヘンだけでなくマドレーヌやリーフパイなどもあるようで之なら日持ちがするのでお土産によかったかもしれないと思いました。

 和菓子のお店

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ここは日牟禮八幡宮の参道になっています。

10:50 再出発 

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今度は 白雲橋を渡ります。

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掘りの両側には商家や蔵が建ち並んでいました。
橋の反対側

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桜の季節に来られて本当によかったです。

しつこくもう一枚

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白雲館 1877年に建てられた学校ですが今は観光案内所。 

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少し行くと 西川甚五郎邸 西川ふとんの西川家です。(行きのバスの中から撮った写真)

   

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この先に少女がヴォ―リーズに花束を差し出す銅像があります。(行きのバスの中から)

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横は西川甚五郎邸

道の反対側は 

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ウイリアム・メレル・ヴォ―リーズ(1880~1964年)はアメリカ人で英語教師として105年来日。建築家で伝道者。日本人と結婚して、日本で亡くなりました。
米国から来て留まるという意味でメレルを米来留と書いていたそうです。
ヴォーリーズ合名会社(近江兄弟社)を設立してメンソレータムを世に広めました。兄弟社、というのは人間みな兄弟、という意味だそうです。

ひとまわりして最初の駐車場まで戻ってきました。残念ながらここではフリ―タイムがありません。15分でもあれば横の伴家住宅だけでもみられたのに、ととても残念でした。でも近江八幡の町、とてもすてきでした。

11:00 日吉大社のある坂本に向けて出発です。

写真が多くなりましたので続きは次回に 

 

滋賀・京都花の旅 2日目ー1(近江八幡)

4月2日 
2日目の予定は →近江八幡→日吉大社→三井寺→京都 です。

夕べはよく寝られました。 6:00起床
7:30から朝食

ツアー専用のお部屋ではなくレストランですが、テーブル間隔は充分です。ビュッフェではなくセットメニューが運ばれてきます。和洋折衷です。

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お味は普通、右奥のサラダにはローストビーフが3切れほど入っていてこれはおいしかったです。

食後そのまま外に出て少し散歩。目の前が竹生島行きの船乗り場です。

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葦の茂る寂びさびとした光景をみたかったのですが、護岸工事がされていて少しつまりません。昔、岸辺は蘆原だったのでしょう。(彦根方向です)

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釣りをしている人もいました。 

8時20分頃ホテルに戻りました。ロビーにはヴェローナの古井戸が置かれていました。

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9:00出発 琵琶湖を右にみながら走ります。

9:30 彦根をすぎたあたりです。犬上川をわたっています。

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9:40 

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10:00頃近江八幡 伴家住宅よこ駐車場着

バス中でガイドさんから聞いたお話

近江八幡 1585年秀吉の甥、秀次が八幡山城を築いた43万石の城下町です。秀次は碁盤目のような町を整備し、安土から人をいれ、上下水道を整備し善政をしいたそうです。秀次はここに5年間住みました。
関白になったのですが、秀吉に子(鶴丸のちの秀頼)が生まれたため疎まれて高野山で切腹させられました。28歳の若さでした。その時妻妾子供たち38人も三条河原で殺されました。酷い話です。
そうして八幡山城も破却されてしまいました。今は 山の上に石垣が一部残るだけです。
↓左の山の上に石垣が見えています。
     

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ボランティアガイドさんと町を歩きます。自由に歩きたい人は勝手に歩いてもいいのですが、皆さん一緒にまわられました。       

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駐車場から見た伴家住宅(こちらからだと 3階建てに見えます)
伴家の1827年~1840年にかけて造られた建物、現在は資料館になっています。

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朝鮮人街道(京街道) 鎖国中とは言え朝鮮からの使いはきました。 

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朝鮮人街道は野洲宿で中山道と分岐し鳥居本で中山道と合流する道。中山道より琵琶湖寄りで、中山道が安土城を通らないため、信長が整備した道。家康が関ヶ原の戦いの後、上洛の際使った縁起の良い道とされ、参勤交代にも使わせなかったが、日朝友好と将軍就任慶賀使ということで朝鮮通信使には通行が許されました。

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伴家住宅、正面から(2階建て) 
伴家は屋号を扇屋といい、畳表、蚊帳、麻布を扱う商人で日本橋や大阪にも店をかまえましたが、明治20年、時代の波に逆らえず店は閉じられました。建物は七代目が建てたものです。
其の後小学校などにもなりましたが現在は公開されて中に入ることができるそうです。時間があれば入りたかったです。

郷土資料館 元あった建物にヴォ―リーズが手を加えたそうです。

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京街道と交差する新町通り ここは商人屋敷が並んでいます。(ちなみに観光客はこの程度 時折チラホラです)
向こうには八幡山。ロープウエイで上がることが出来ます。

森家控え宅

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隠し二階 、でっちなどが武士が通るときなどそっと覗き見る。 建物の下を竹で覆っているのは犬やらい、みこしの松 も見えます。

森五郎兵衛宅 伴家に勤めていたが別家を許され、現在も日本橋で近三商事を経営しています。   
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西川家住宅 西川利右衛門は 300年間にわたって商売(大文字屋、 蚊帳 畳表)を続けてきたが1930年子孫が絶えて建物は市に寄贈されたので 現在は中を見ることができるそうです。色々工夫があります。

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手前窓ガラスが入っている戸は すり上げ戸  上にあげて止める
奥の入口 はり上げ戸 大八車を 通すため

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↑丁寧に板を重ねた 小屋根

↓白い壁は うだつ といって本来は隣家からの類焼を防ぐ防火壁、だんだん装飾的要素をもつようになり、お金がないとつけられないので、うだつが上がるとか、あがらないという言い方はここからきているそうです。

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まだ商人屋敷はつづきますが、写真が多くなりすぎたので続きは次回にします。