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奈良・明日香の旅

2022年1月11日 (火)

天草・長崎旅行 3日目ー1(浦上教会)

12月18日(土)

気持ちよく目覚めてカーテンを開けてみると
お向かいが稲佐山でした。

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前を流れている川は浦上川だと知りました。

右をみて、 
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左をみて。かすかに白い女神大橋が見えています。
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あら、もう8:20です。朝食に行かなければ。
2階におります。 
ここはこの時期、珍しくビュッフェでした。
客数もそう多くなく(皆さんもうお済ませになったのでしょうか)日本らしく、和食もあったせいか、洋食メニューはそれほど多くはなかったような気がします。

これは私のではありません。私はもっと少量です。

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少ししかいただけなくても五つ星ホテルの朝食は気分がよかったです。ついゆっくりしてしまいました。  

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もう誰もいなくなりました。
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フロントとつながっています。

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お部屋に戻ってパッキング。
キャリーはフロントに預けました。

このホテル、モダンですてきなのですが、バスや市電(正確には電気軌道と言います)に乗るには不便で東口まで行かなければなりません。
昨夜の変な迂回路を行きます。長崎駅は2022年新幹線開通をめざして大改造中なのです。(新幹線開通といっても博多とつながるわけではなく武雄温泉と結ばれるだけです。)
バス乗り場で、浦上行乗り場がよくわかりません。ホテルでも、バスはいろいろあって難しいので市電がいいですよ、と言われました。(事前の調べではバスの方が教会のすぐそばまで行くことになっていました)
市電で 松山 と言うところで降りるとすぐ、だとのことでした。私の調べでは 平和公園停留場 でした。 
バス乗り場を探しているときやはりある方に「市電で松山にいったほうがいい」といわれて結局市電に乗りました。ところが、松山、という駅になかなか到着しません。おかしい!教会は遠くなるような気がして、へんだと言いあっているうちに、若い女性が「駅の名前が最近松山から平和公園にかわったのですよ。おりて戻ったほうがいいです」と教えてくださいました。おりて逆方向の電車に乗り換えて平和公園停車場でおりました。
計画では行きがバス、帰りはこの市電と決めていて、ルートはグーグルマップのストリートビューでしっかり予習してあります。

電車をおりると、向こうの人だかりは平和公園に行く人達です。昔行ったことがあるので、今回はパスです。(10:35)

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浦上天主堂通り、平和商店街と進むと、向こうに教会が見えてきました。(10:43)

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すぐに教会堂には上がらず左に回ります。原爆によって落下した旧鐘楼がそのまま保存されています。(10:55)
今、時刻を記入してみてずいぶん時間がかかっているな、と思いました。私は足がとても遅いのです。

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正門側ではなく、すぐ横の階段をあがって、途中、左に曲がり横からもう一度旧鐘楼を見ました。

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すぐ下に少しだけ堀のような川が見えています。浦上川の支流だと思います。まるでお城の周りのお堀のようにこの小高い丘を囲んで流れています。

教会正面への坂をあがる途中、横に入る小道がありました。

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入ってみると

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被爆した聖人像などが置かれていました。獅子がある、というのが神社みたいです。

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教会のまわりには新しい建物が多いです。
 
私がこの浦上に来たかった理由は 遠藤周作の『女の一生』(新潮文庫)を読んだからです。
この小説の 一部キクの場合 の舞台が浦上なのです。(2015年の長崎旅行の最後、参考書籍のところで少しだけ触れました)

この物語は、江戸末期から明治にかけての浦上四番崩れで津和野に送られたキリシタンの清吉とキリシタンではない娘キクとの話です。浦上山里村でキクの住む馬込郷(長崎駅と浦上天主堂の中間あたりに聖徳寺、というお寺があるのですが、そのあたりが馬込のようです)は非キリシタン、ほかの四郷は潜伏キリシタンの住む郷で、馬込の人たちはよくは分からないけれど、それら他の郷に住む人々をクロとよんで接触を避けていました。
キリスト教のことは皆目分からないキクはただただ清吉にひかれ、そのため遊女にまでなり、清吉が生き延びて戻ってきたときにはすでに亡くなっていた、という読んでいてとてもつらくなる物語です。
然し浦上四番崩れの実態を知るためにも必読と思います。 

遠藤周作は 『切支丹の里』(中公文庫)で
 長崎の人に聞くと浦上村というのは、昔一種、蔑みの眼で見られていたらしい。それはこの村が貧しいうえに、禁教切支丹をひそかに信じていることが、ほのかにわかっていたからかもしれぬ。 
これより少し前に、もう浦上は今日、もう村の面影は全くない。と(初版は1974年)書かれていて、それから50年近くたっているので昔の村の姿はみられないことは分かっていたのですが兎も角きてみたかったのです。

来るときの道筋や上の写真にみられるように今では草深い田舎ではありません。昨日来るとき驚いたのですが、浦上駅は特急停車駅でした。

浦上教会 浦上小教区の成りたち (odn.ne.jp)

浦上教会の歴史は上記 浦上天主堂ホームぺージの歴史のところで詳しく述べられています。

日本には三つの大司教座がありますが、この浦上教会は長崎大司教座教会です。すぐ上の写真左端に見えているドームのある建物は大司教館。立派です。 

有馬晴信は自分の領地である浦上をイエズス会に寄進、それ以後ここには多くのキリシタンが住むようになっていました。

これまでに4回、崩れと言われる切支丹大量検挙がありました。その最大の迫害が四回目で、浦上四番崩れ、といわれるものです。
江戸末期 1867年に事件は起こりました。
1865年に献堂式が行われた外国人のための大浦教会に、話を伝えきいたのか、浦上の信徒たちが訪れます。有名な信徒発見です。
ひそかに村の信徒たちと神父の交流が始まります。自分たちの信仰の正当性をしっかり認識するようになったのでしょうか、これまでは聖徳寺の檀家としてお葬式はお寺でしてもらって(そのあと自分たち流にキリシタンとしての弔いをひそかにしていた)いたのをお寺に頼まなかったことから、キリシタンであることが発覚してしまったのです。
幕府の中には穏便に済ませようという声もあったのですが、厳罰に処するべきという声の方が強く、明治になると、特に新政府は神道を重視した為キリスト教は引き続き禁教とされました。
摘発された人々について諸外国から、斬首は不穏当と抗議され、全員流配と決定。浦上の3394人は20の藩にわかれて流されました。そこで拷問や苦役を受けたのです。
1873年、不平等条約改正には信教の自由を認めるほかはないことから禁教の高札が撤去され、彼らは浦上に帰ることができることになりました。
3394人が浦上を出たのですが、殉教者613人を出し、1011人は苦難に堪えられず、信仰を捨てたましたが、帰郷後、その大部分は再び元の信仰に帰り、一度背教したことに対する償いをしたそうです。

かろうじて生き延びて戻ってきた人々にとってよりどころになる神の家は どうしてもほしいものでした。
貧しい中から、
建てたのが浦上天主堂です。場所としては絵踏みが行われた元庄屋屋敷です。
資金難で1895年着工、1915年献堂式。双塔完成は1925年。
ところが1945年8月 原爆により倒壊。(↓絵葉書)

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廃墟を被爆記念に残して、他の土地に新しい教会を建てるか、いや絵踏みが行われたこの地に再建すべきと議論があったのですが、結局この地に再建されました。1959年完成。

 鉄筋コンクリート造りですが、このように化粧煉瓦が貼られたのは1980年、教皇訪日の機運が高まったときだそうです。

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↓絵葉書 タンパンに相当する場所の彫像、マリアとヨハネはもとからあったもので中央のキリストは新につくられたもの。

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信徒発見150周年記念の碑

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信徒総流配から50周年を記念して建てられた記念碑「信仰の礎」

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中は写真禁止。絵葉書ももう少し普通に撮ったのがあればいいのですが。

中は男性と女性1人づつが腰かけてじっとこちらを見ていて、なんだか見張られているようで落ち着かなくそそくさと出てしまいました。

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この日は非常に寒く、小高くなっているので風当りも強くあまり長く外で立ってはいられません。ざっと回りを歩きましたが、拷問石はみつけられませんでした。

信徒会館の一部が原爆遺物展示室になっているのですが、寄りませんでした。

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坂を下りてこちらが正門です。

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立派な建物、この教会はきれいに整えられすぎていて、おもいえがいていたのとどこか違いました。

11:22 元来た道を戻り平和公園停留場近くの 爆心地公園 に向かいます。 

それは次回に

 

2021年6月13日 (日)

奈良・明日香(2006年)3日目-3 赤目四十八滝

室生寺観光のあとは昼食です。
川をはさんでお向かいの橋本屋さんでした。

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土門拳さんが室生寺撮影の際 滞在されたという旅館です。
今ホームページを見ると椅子式のようですが、当時は畳の部屋でした。

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バス移動して 赤目四十八滝へ ここは三重県です。

記憶ではちょっとした建物を抜けて川沿いに歩きだしたのですが、その建物のあったと思われる場所は今地図で確認するとサンショウウオセンターとなっていました。当時もそのようだったという気がします。

雨、それも本格的に降ってきました。

全行程 

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私が歩いた部分

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 不動滝

落差15m。不動明王にちなんで名付けられた滝。「滝参り」はこの滝への参拝を意味する。明治中期以前はここより奥は深山幽谷の原生林で、修験者のみ入ることが許されていた聖地だったということです。

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多分これは不動滝の上の方

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乙女滝

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 千手瀧

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もゥ少し先までいらした方もいらっしゃるのですが、雨で歩きにくく疲れたのでこのあたりで戻ることにしました。 

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不動滝に戻ってきました。

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このあとバスで名張駅(多分)へ行き、列車に乗り換えて名古屋へ。名古屋駅では待ち時間に「ういろう」など買って新幹線に乗車。
なんと「東京到着が午後8時以降になるときはお弁当をだすことにしています」ということで 多分東京駅午後8時着くらいだったと思いますが、お弁当がでました。(もちろんお茶もついていました)

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嬉しく美味しくいただきました。

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おともだちもできて楽しい旅でした。(旅行記 完)

 

2021年6月11日 (金)

奈良・明日香(2006年)3日目ー2 室生寺

室生寺にやって来ました。雨になってきました。

境内案内図

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室生寺 女人高野 室生寺 (murouji.or.jp)

室生山山麓から中腹にかけて建てられている山岳寺院。創建は8世紀末期。

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長谷寺からの道中は覚えていませんが、ずいぶん山の上のようです。

女人高野、と言われている理由
もとは興福寺傘下の天台宗でしたが、江戸時代に真言宗寺院となり、真言宗の拠点である高野山が女人禁制であり、女性の参詣が許されていた室生寺は女人高野とよばれたのだそうです。

表門 ここからは入りませんでした。

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前の道を右に進みます。

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少し高いところにあるせいか紅葉がみごとでした。
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仁王門 江戸時代に焼失、1965年再建
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仁王門を振り返って、この時はブログアップを考えていなかったせいか、人物がかなり入り込んでいます。 
でも、これ ちょっと微笑ましい光景ですよね。(プライヴァシーに配慮してぼかしをかけていますが、「これは私では? のせられたくない」とお思いの方がいらしたら、お知らせください。写真は削除します) 

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門からだと左(写真では向かって右)に折れて階段をあがります。

鎧坂 上がったところに見えるのは 金堂でしょうか。

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なんと金堂は写し忘れ。ここは雨のせいかあまり写真をとっていません。金堂は古びた感じも好ましいので ホームぺージからおかりします。

金堂 9世紀後半の建築とされています。鎌倉時代に大修理を受け、江戸時代に前面部分に奥行一間の礼堂がつけられました。屋根は杮葺き。(国宝)中にはカヤの一木造りの釈迦如来像(国宝)がおかれているそうです。拝観したかどうか記憶していません。

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さらに上がると右に本堂、奥に五重塔

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 本堂(灌頂堂)ここは真言密教の最も大切な法儀である灌頂を修するための堂で、寺院の中心であるところから本堂、或いは灌頂堂と呼ばれています。延慶元年(1308)の建立。五間四方入母屋造。

 手前の囲いは池です。

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ここにも仏像がおかれていて、拝観したような、しなかったような、、、。ここも、長谷寺同様自由観光でしたので皆さん一緒にお堂に入るということがなかったのです。でも今、このお寺のホームぺージを見ると国宝の仏像ガズラリ。私はどうも仏様の柔和な笑み、というのが苦手なのですが、このお寺の仏像は好みです。今ならしっかり見ておきたいのに、この時は仏像に感動した、という記憶がまったくありません。紅葉がすばらしかった、階段が急だったということはおぼえているのですが。全く猫に小判!! 
仏像ファンの方ホームページをどうぞ。 

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さらに階段を上がって 五重塔
屋外の塔としては日本で一番小さく(高さ16.22m)法隆寺に次ぐ古いものです。(800年頃建立)
       
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少し晴れてきました。五重塔からさらに上がって奥の院への道を少しだけ行ってみました。(当時は元気だったのです)途中まででないと時間がありませんよ、と言われていましたので そうそうにひきあげました。

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遠くの山を眺めて

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降りています。

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下につきました。

本坊
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護摩堂

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  護摩堂の門
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どういう順路だったのかわすれましたが、写真からするとこの時は表門から入れたようです。
観光時間は1時間弱でした。

このあとの昼食からは 次回に      

 

2021年6月10日 (木)

奈良・明日香(2006年11月)3日目ー1 長谷寺

2006年11月19日

今日は長谷寺、室生寺、赤目四十八滝をみて東京(私の場合は横浜)に帰ります。

今回の旅の目的は酒船石をみることでしたから、他の観光場所については気にしませんでしたが、長谷寺、室生寺コースに入っているのは嬉しかったです。どちらも一度は見ておくべきお寺ですから。むしろこちらが目的の方が多かったかもしれません。

長谷寺からです。

長谷寺 長谷寺便り|奈良大和路の花の御寺 総本山 長谷寺 (hasedera.or.jp)

初瀬山の中腹(もしかして長谷は初瀬からきたのでしょうか?)にあって春は牡丹のお花で有名なため 花のお寺、として知られています。でも今は秋ですから紅葉です。創建は8世紀前半と言われています。

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バスを降りて少し商店街を歩くと石段

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右の石段をあがります。

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上がると 三門(仁王門)現在の建物は1894年の再建

はっきりしませんが両脇に仁王像が安置されています。

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門の中央奥に少し見えていますが 屋根付き階段(登廊)があり、ここを上がって行きます。
1039年につくられたもので上、中、下 三つに分かれていて、上廊は1650年、下、中廊は1894年の再建によるものです。合計399段あるそうですが、当時はそれほど疲れなかったようなきもするのですが、、、。両脇は春には牡丹が美しいそうです。 

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信仰心のない者はびびってしまいます。物見遊山で来ては申し訳ない、と。 
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途中に紀貫之の歌碑がありました。(ここまでで5分)

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紀貫之 人はいさ心もしらずふるさとは花ぞ昔の香ににほひける
百人一首にある有名な歌です。

さらに上がって
10分足らずで上まで行けたようです。

本堂 相の間

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本堂の舞台から眺めています。

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登廊と仁王門が見えています。中央奥は 本坊

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五重の塔がみえます。 これは 昭和になって建てられた新しい塔です。

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弘法大師御影堂 1984年に建てられた新しい建物です。 
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五重塔の手前は本長谷寺  朱鳥元年(686)、天武天皇の病気平癒を祈願して僧・道明がお堂を建て、銅板法華説相図(どうばんほっけせっそうず)をおさめた所です。
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本長谷寺

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上には一切経蔵があります。
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三重塔跡 1876年の落雷で焼失。

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坂道をおりていきます。

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写経殿

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左の坂を下りると出口ですがまっすぐ行きます。

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↓本坊への中雀門、 門奥に本坊が少しみえています。

寛文七年(1667)徳川将軍の寄進で建立されましたが、明治四十四年(1911)炎上。現在の堂宇は大正十三年(1924)に再建された。

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一輪だけ牡丹が咲いていました。

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振り返ると本堂がみえていました。なんとなく舞台も分かります。舞台の下に柱が見えています。
この時は気にもとめませんでしたが、懸造りです。
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どういうわけか 本坊の写真はなくて、長谷寺の写真はこれでおしまいになっていました。
大まかな説明を受けての自由観光だったような気がします。写真の時刻から察するにバスを降りてからバス集合まで2時間だったようです。

室生寺は次回に
 

奈良・明日香(2日目―4)

昼食後、まず最初は
酒船石 を見に行きました。小高い丘の竹林の中でした。
一つの大きな石に図形がくり抜かれていることは知っていました。思ったより大きかったです。

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いわば足元の方です。
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色々な方向から写真をとりましたが、真上から全体を撮ることはできなかったのでGoogleマップから写真をお借りしました。

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説明版

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年代は書かれていませんが、次に行く亀形石槽と湧水施設は、大掛かりな土木工事をした斉明天皇の時代のものと考えられています。
用途も解明されてはいないのですが、説明版には、酒をしぼる槽、あるいは油や薬を造るための道具、または庭園の施設かイラン
とかかれています。
松本清張は『火の路』で薬酒を造る道具ではなかったか、と書いています。それもイランのハオマ酒だ、としています。飛鳥地方に胡人(イラン人)が住んでいて、彼らが飲むために作っていたという考えでした。
松本清張の『ペルセポリスから飛鳥へ』はそのほかにも飛鳥の建造物をイランと関連付けていて(強引な気もしますが)面白いです。

ここから坂を下って

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亀形石造物と小判型石造物

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亀は 長さ2.4m   幅2m   小判型は長さ.65m 幅1m 深さ20cm

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用途は不明です。

この旅では見ていないのですが、イランでみられる噴水のでる石造物は中国にも朝鮮にもなくて飛鳥にだけあるということからイラン人の作ったものと松本清張は推定しています。

この亀の形も面白い、やはりイラン由来かな? なんて思ってしまいます。

次は 飛鳥寺です。

飛鳥寺
588年に蘇我馬子が発願し、596年に創建されました。造営には百済の工人があたり、当時の朝鮮の仏教文化の影響が色濃く残っているそうです。本堂は 1826年再建。

6月28日今『渡来系移民』(岩波書店)を読んでいますが、この本によると、飛鳥寺を造った契機は百済の僧が工人をひきつれてきたことですが、伽藍配置には高句麗の影響が大きい、とあります。蘇我馬子や厩戸皇子は高句麗僧に師事したそうです。(追記)

ここで有名なのは飛鳥大仏です。(重要文化財)609年に鞍作鳥(止利仏師)によって造られた現存最古の仏像(金銅像)
北魏様式で、力強く端正な顔立ち、といわれます。
後世の補修が多いが、目や額、右手指3本に造立当時のものが残っているそうです。
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私はなかなかいいお顔だと思った記憶があります。

聖徳太子像(室町時代末期)

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発掘品の展示がありましたが、ガラスが光ってよくわかりませんね。

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お庭を眺めて

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外に出ると、お寺の近くの野原ともいえる場所に 鎌倉時代あるいは南北朝時代の造立とみられる五輪塔がありました。
蘇我入鹿の首塚 といわれています。

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このあと橘寺へ二面石を見に行きました。

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 右が善面、左が悪面 われわれの心の持ち方を表したもの、と説明版にあります。

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2年前アイルランドでも人物が背中合わせになっている石像を見たことを』思い出しました。
   旅路はるか~2019年アイルランドロマネスク (xrea.com)
3日目 ヤヌス像です。

松本清張は、この顔も倭人ではなく、新羅人、百済人、中国人とも違って、胡人の風貌に近い と書いています。そうしてもとは馬子の邸宅の池のほとり(石舞台のそば)にあったのだ、と考えています。
歴史家は文書に書かれていたり、考古学的証拠がないと断定はしませんが、作家は想像力でものを言いますから。
橘寺には入ったかどうか記憶がありません。写真もありません。私にとっての目的はここでは二面石でしたから。

弘福寺塔跡(川原寺)
斉明天皇の川原宮跡に子の天智天皇が建てたお寺で 飛鳥の三大寺にあげられる大寺だったということです。 
今は28の瑪瑙の礎石と塔跡がのこっているだけです。 

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最後に甘樫丘に行きました。

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それぞれ何山、というのを聞いたのかもしれませんが、私は たたなずく青垣山籠れるやまとしうるわし などという言葉を思い出しながらぼーっと眺めておりました。

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ホテルに帰って夕食。

2021年6月 7日 (月)

奈良・明日香(2006年)2日目―3 聖林寺、石舞台

談山神社から聖林寺にきました。

聖林寺 下のホームぺージによると、先ほど行った談山妙楽寺の別院として定慧(鎌足の長子)が建てたとされているとありました。十一面観音像で有名だということです。実は十一面観音とはどういうものか、この当時知りませんでした。

聖林寺について - 聖林寺(公式ホームページ) (shorinji-temple.jp)

バスをおりて坂道をあがって(↓これは帰りに撮ったものです)

入口には「大界外相」と書かれています。???調べてみると、これは 結界を示す言葉だそうです。ここより外は俗界、 内側は聖域。ヨーロッパの教会、修道院などにある、サンクチュアリ・クロスとかサンクチュアリ・ノッカーなどと同じもののが日本のお寺にもあるのですね。

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本堂です。

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本堂には子安延命地蔵 安産子授けのお地蔵様です。(お顔が大きい!)

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観音堂に 十一面観音 (国宝)
今年(2021年)6月22日~9月12日 東京の国立博物館で特別展「国宝 聖林寺十一面観音―三輪山信仰のみほとけがあります。この十一面観音が奈良県から出るのは初めてだそうです。 

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ガラスに外や見ている人が映り込んで見にくいです。

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わかりにくいので ホームページのお写真をおかりします。

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頭の上にまた頭部がのっている、面白い形を考えだしたものです。調べてみると顔の表情もいろいろ意味があるようです。説明は聞いたような気がするのですが、おぼえていません。

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お寺を出ると小さなお地蔵様がありした。

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バスで 石舞台古墳に。

石舞台古墳7世紀初めごろの古墳で蘇我馬子の墓とする説が有力です。

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元は土を盛り上げて造った墳丘でおおわれていたそうです。

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少し興奮して中に入ったことを覚えています。 

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中に入って、これだけ?という感じもしたような。

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石舞台見学のあとは お昼です。

お店お名前はおぼえていません。元NHKのアナウンサーだった方がそば打ちを始めて出されたお店でした。
元アナウンサーらしく口上が長かったです。

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ここには写っていませんが、このあとおそばがでました。

午後の部は次回に

 

2021年6月 6日 (日)

奈良・明日香(2006年)2日目ー2談山神社

朝食後 バスで出発 まず談山神社 に向かいます。
個人で酒船石を見にいったとしたら、決してこういうところには行かなかったと思います。談山神社も聖林寺も知らなかったのですから。
連れて行っていただいて本当に良かった!とはいえ、目的が石でしたから当時は神社仏閣に全く関心がなくて予習もしていなければ、お話もいい加減にしか聞いていなかったのです。情けない。

今日行くところ(黄色い星)

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談山(たんざん)神社

【公式】神社紹介|談山神社 (tanzan.or.jp)

大化の改新というのがありました。蘇我一族の権力集中を阻むため、中大兄皇子と中臣鎌足が相談して蘇我入鹿を殺害して政治改革を推し進めようと、改新の詔をだしたことは一応おぼえています。

蘇我入鹿を殺した(父親の蝦夷は自害)事件を乙巳の変(645年)というそうですが、この謀がなされた場所がここの本殿の裏山(多武峰)だったのでここを談(かたら)い山とよぶようになったそうです。

中臣鎌足の長男で僧の定恵(次男が不比等)が唐から帰国して、678年父の墓をここに移してその上に十三重の塔を築き妙楽寺と称しました。
701年には鎌足の木造を安置するする祠堂(本殿)が造られ(聖霊院と号した)926年惣社を創建,談山権現の号を下賜され、これにより、妙楽寺、精霊院、惣社との神仏習合の形がととのいました。明治になって神仏分離のさい、談山神社となったわけです。神社とはなっても十三重の塔などの建物はそのまま使用されています。
 主祭神 藤原鎌足

境内案内図 (グーグルストリートビューで拾いました)

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バスを降りてお土産物屋さんの並ぶ通りを行くと

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ここを右に曲がると
 鳥居がみえます。

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ひたすら石段を上がったようです。(130段あるようです。今なら無理かも)

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やれやれ、右が拝殿です。現存する懸造りのなかで唯一廻廊状の姿を残すものです。

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奥が 楼門 右が本殿

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左が本殿、右が拝殿、中央が透廊

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本殿 1850年の再建
日光の東照宮を造るさい、お手本にしたといわれているようです。

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十三重塔 
現存のものは1532年の再建。現存木造十三重塔としては世界唯一

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神廟拝所

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中臣鎌足は臨終の際、天智天皇から大織冠とともに藤原姓を賜ったので、生きていたころを表すときは 中臣鎌足というそうです。

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紅葉の名所ということでしたが、あと一息、というところでした。

1時間ほど見て回って聖林寺に向かいました。

2021年6月 5日 (土)

奈良・明日香(2006年11月)2日目ー1橿原神宮

2日目(2006年11月18日)
橿原神宮前駅そばのホテルに宿泊しています。
せっかくなので朝、橿原神宮まで行ってみました。
橿原第一代目の天皇である神武天皇が即位、建国したところだそうです。

神社のホームぺージでは 造営の由来を
 明治時代に入り、天皇の御聖徳を永遠に尊び敬いたいという思いから、この地に神宮創建をという請願が民間有志より出されました。明治天皇がこれを深くほめたたえ、元京都御所の賢所かしこどころと神嘉殿を下げ渡され、明治23年4月2日、官幣大社・橿原神宮として御鎮座になりました。
と書いてありました。これは今みつけたもので当時はよく知らないまま、いきました。 

鳥居が見えてきました。歩いて10分くらいだったと思います。

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 南神門

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外拝殿 雲の加減で何だか光を放っているみたいになっています。

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この人は 外拝殿から本殿の方を眺めています。

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本殿(奥の修復中の所)の内拝殿

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さざれ石でしょうか。さざれ石は 鎌倉の東慶寺で観たことがあります。東慶寺ではなんともおもわなかったのですが、、、。
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手水舎
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北神門
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神社を出たところに 深田池

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早朝の神社は人気がなくてとても気持ちがよかったのです。

でも神社創立のことを調べてみて、落ち着かないものを感じています。
例えばこの前の吉田大社のような古い神社にはそれほど抵抗はないのですが、明治となると、いやな感じがするのです。
明治になって、国家神道がいわれ、神道以外の宗教は認められない、というような状態でした。
廃仏毀釈運動がありました。もっとも許せないのはキリシタン弾圧です。江戸時代より、明治に入っての方が弾圧は過酷だったともいわれます。
広大な敷地に建つ立派な神社だけに複雑なおもいです。 
なんだかおかしなおしゃべりになってきました。とりあえず、今日はここまで、本格的観光については次回に  

 

2021年6月 4日 (金)

奈良・明日香 (2006年11月)1日目

1日目 観光開始

奈良駅から専用バス。この時は26名もいて、二人で申し込んだ方は一人一席、私のように独り旅は一人2席でした。
現在はこの旅行会社も多分最大19名くらいですが、当時は多かったのです。

春日大社 写真も少なくどこをを撮ったったのかよくわかりません。
春日大社は全国に 1000社ある春日時神社の総本山、768年創建。

主祭神、武亀槌命は白鹿に乗ってやってきたことから鹿は神の使いとされるそうです。
奈良公園、鹿がいっぱいいますよね。

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石灯篭の並ぶ道を行くと

南門

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朱塗りの柱がつらなるところを歩いた記憶はあるのですが、写真はありません。向こうが三笠山で、などという説明も聞いたのですが、写真もありません。 情けない限りです。

本殿を出て   

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横道は人気がなくていい雰囲気です。

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これは 竃殿 のようです。

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水谷神社

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このころは神社仏閣に全く興味がなくてきちんと撮っていません。

この後1時間、写真はありません。

東大寺  東大寺の歴史などはお寺のホームページに詳しいです。  

 東大寺の歴史(1)|華厳宗大本山 東大寺 公式ホームページ (todaiji.or.jp)  

聖武天皇(在位 724~729年)
728年聖武天皇の皇子が1歳で亡くなったためその菩提を弔うために建てた金鐘寺が東大寺の前身とされています。
大仏開眼会は752年

写真がないのですが、校倉造りの正倉院の横を歩いたことは憶えています。
春日大社を出て一時間後くらいに 二月堂に行っています。

 二月堂 旧暦二月にお水取りがおこなわれるので この名があります。

 火災で焼失し現在のものは1669年再建によるもの(国宝)     

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傾斜地に建っています。懸崖造りというつくりかただそうです。石段のほかに屋根付き階段もありました。

閼伽井屋 お水取りのお水を汲む井戸が中にあります。よく見えませんが 立て札の奥の石には 若狭井 と書かれています。現在の建物は13世紀初期に建てられたものです。

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上からの眺めがよかったです。

すぐ下、宝形造りの屋根の建物は開山堂、奥は多分、大仏殿

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降りて三月堂(残念、写真なし)の横を通り 大仏殿に向かいました。

 鐘楼

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池を回って

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大仏殿 (国宝) です。

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入口の上 唐破風の下の板戸のところは 観想窓

2010年8月15日 にも奈良に行ったのですが、その時は万燈会で、ここが開いていました。

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大仏様のお顔がみえるようになっていたのです。

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これは2010年に行ったときの写真、夜、明かりがついてキラキラでした。 

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(この時は 奈良ホテルに泊まったので昼も夜も観に行きました)

 南大門 
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仁王像、昼間の写真はよく撮れていなくて、2010年の夜の方がライトアップされていてはっきり撮れているので、こちらを載せました。

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バスで 宿泊地へ

橿原神宮前のロイヤルホテルに泊まりました。(現在は ザ・カシハラというようです)

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2021年6月 3日 (木)

昔の旅の記録 奈良・明日香(2006年11月)

春に近江を旅行しました。その時あのあたりには渡来人が多く住んでいたことを知って日本古代史に関心が向きました。
そこでカルチャーセンターのオンライン講座で古代史を受講することにしました。先日は乙巳の変、大化の改新の話を聞きました。

それで週刊日本の歴史、歴史道(いずれも朝日新聞社)や日本史図録(高校の副教材)をみていると、蘇我の入鹿の首塚の写真が出ていました。
どうも見覚えがあります。徐々に思い出してきました。談山神社にも行ったことがあったのを。

2006年春にイランに行きました。その時 昔 朝日の新聞小説に松本清張の『火の回路』というのが連載されていてそれで イランが出てきたことを思い出して読みなおしました。文庫では『火の路』というタイトルになっています。
今手元にないので確認はできていないのですが確か最初に明日香の酒船石を観に行く場面が出てきたと思います。

イランから帰って今度はなんとか酒船石をみてみたいと行き方を調べているうちに丁度新聞にそこへ行くツアーの案内が出ていたのです。 
海外ならともかく、国内もパックで?とも思いましたが昔奈良にいったときはバスを待ち、電車を待ち、延々と田舎道を歩いて大変だったことを思い出して、ツアー参加を決めました。お友達もできて楽しい旅でした。  

確か紅葉の奈良・明日香、というタイトルだったと思います。目的は酒船石で他はまあテキトーにくっついてみて歩いた、という程度で記憶も定かでないし、旅の記録も何もありません。今にして思うと、なんともったいない!そこで記憶を確認するために撮ってきた写真を眺めているうちに、思い出せる範囲で記録をとっておこう、とブログに書いておくことにしました。
今ではもっと整備が進んで当時と様子が違っているところもあるようです。又ネットでも出てこない写真もあるのは当時は カメラ禁止でなくて撮れたものでは?と思う写真もあるので記録としては意味があるかもしれません。といっても記憶がさだかでないので写真を並べるだけになると思いますが。 

2006年11月17日から19日 (朝日旅行) 

1日目 東京→京都→奈良(春日大社、東大寺)→橿原神宮前のホテル
2日目 ホテル→談山神社→聖林寺→石舞台→(昼食)→酒船石→亀形石造物→飛鳥寺→入鹿の首塚→二面石→弘福寺塔跡→甘樫の丘→ホテル(同じホテル) 
3日目 ホテル→長谷寺→室生寺→(昼食)→赤目四十八滝→名古屋→東京

1日目 
 東京発の新幹線、私は新横浜から乗車しました。

 京都で 近鉄に乗り換えて奈良へ
 たしかこの車内だったと思います。お昼のお弁当が出ました。
 
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とてもおいしかったことはよく覚えています。
奈良駅からはバスで回ります。

 今日はプロローグのみです。