天草・長崎旅行 3日目ー1(浦上教会)
12月18日(土)
気持ちよく目覚めてカーテンを開けてみると
お向かいが稲佐山でした。
前を流れている川は浦上川だと知りました。
右をみて、
左をみて。かすかに白い女神大橋が見えています。
あら、もう8:20です。朝食に行かなければ。
2階におります。
ここはこの時期、珍しくビュッフェでした。
客数もそう多くなく(皆さんもうお済ませになったのでしょうか)日本らしく、和食もあったせいか、洋食メニューはそれほど多くはなかったような気がします。
これは私のではありません。私はもっと少量です。
少ししかいただけなくても五つ星ホテルの朝食は気分がよかったです。ついゆっくりしてしまいました。
もう誰もいなくなりました。
フロントとつながっています。
お部屋に戻ってパッキング。
キャリーはフロントに預けました。
このホテル、モダンですてきなのですが、バスや市電(正確には電気軌道と言います)に乗るには不便で東口まで行かなければなりません。
昨夜の変な迂回路を行きます。長崎駅は2022年新幹線開通をめざして大改造中なのです。(新幹線開通といっても博多とつながるわけではなく武雄温泉と結ばれるだけです。)
バス乗り場で、浦上行乗り場がよくわかりません。ホテルでも、バスはいろいろあって難しいので市電がいいですよ、と言われました。(事前の調べではバスの方が教会のすぐそばまで行くことになっていました)
市電で 松山 と言うところで降りるとすぐ、だとのことでした。私の調べでは 平和公園停留場 でした。
バス乗り場を探しているときやはりある方に「市電で松山にいったほうがいい」といわれて結局市電に乗りました。ところが、松山、という駅になかなか到着しません。おかしい!教会は遠くなるような気がして、へんだと言いあっているうちに、若い女性が「駅の名前が最近松山から平和公園にかわったのですよ。おりて戻ったほうがいいです」と教えてくださいました。おりて逆方向の電車に乗り換えて平和公園停車場でおりました。
計画では行きがバス、帰りはこの市電と決めていて、ルートはグーグルマップのストリートビューでしっかり予習してあります。
電車をおりると、向こうの人だかりは平和公園に行く人達です。昔行ったことがあるので、今回はパスです。(10:35)
浦上天主堂通り、平和商店街と進むと、向こうに教会が見えてきました。(10:43)
すぐに教会堂には上がらず左に回ります。原爆によって落下した旧鐘楼がそのまま保存されています。(10:55)
今、時刻を記入してみてずいぶん時間がかかっているな、と思いました。私は足がとても遅いのです。
正門側ではなく、すぐ横の階段をあがって、途中、左に曲がり横からもう一度旧鐘楼を見ました。
すぐ下に少しだけ堀のような川が見えています。浦上川の支流だと思います。まるでお城の周りのお堀のようにこの小高い丘を囲んで流れています。
教会正面への坂をあがる途中、横に入る小道がありました。
入ってみると
被爆した聖人像などが置かれていました。獅子がある、というのが神社みたいです。
教会のまわりには新しい建物が多いです。
私がこの浦上に来たかった理由は 遠藤周作の『女の一生』(新潮文庫)を読んだからです。
この小説の 一部キクの場合 の舞台が浦上なのです。(2015年の長崎旅行の最後、参考書籍のところで少しだけ触れました)
この物語は、江戸末期から明治にかけての浦上四番崩れで津和野に送られたキリシタンの清吉とキリシタンではない娘キクとの話です。浦上山里村でキクの住む馬込郷(長崎駅と浦上天主堂の中間あたりに聖徳寺、というお寺があるのですが、そのあたりが馬込のようです)は非キリシタン、ほかの四郷は潜伏キリシタンの住む郷で、馬込の人たちはよくは分からないけれど、それら他の郷に住む人々をクロとよんで接触を避けていました。
キリスト教のことは皆目分からないキクはただただ清吉にひかれ、そのため遊女にまでなり、清吉が生き延びて戻ってきたときにはすでに亡くなっていた、という読んでいてとてもつらくなる物語です。
然し浦上四番崩れの実態を知るためにも必読と思います。
遠藤周作は 『切支丹の里』(中公文庫)で
長崎の人に聞くと浦上村というのは、昔一種、蔑みの眼で見られていたらしい。それはこの村が貧しいうえに、禁教切支丹をひそかに信じていることが、ほのかにわかっていたからかもしれぬ。
これより少し前に、もう浦上は今日、もう村の面影は全くない。と(初版は1974年)書かれていて、それから50年近くたっているので昔の村の姿はみられないことは分かっていたのですが兎も角きてみたかったのです。
来るときの道筋や上の写真にみられるように今では草深い田舎ではありません。昨日来るとき驚いたのですが、浦上駅は特急停車駅でした。
浦上教会の歴史は上記 浦上天主堂ホームぺージの歴史のところで詳しく述べられています。
日本には三つの大司教座がありますが、この浦上教会は長崎大司教座教会です。すぐ上の写真左端に見えているドームのある建物は大司教館。立派です。
有馬晴信は自分の領地である浦上をイエズス会に寄進、それ以後ここには多くのキリシタンが住むようになっていました。
これまでに4回、崩れと言われる切支丹大量検挙がありました。その最大の迫害が四回目で、浦上四番崩れ、といわれるものです。
江戸末期 1867年に事件は起こりました。
1865年に献堂式が行われた外国人のための大浦教会に、話を伝えきいたのか、浦上の信徒たちが訪れます。有名な信徒発見です。
ひそかに村の信徒たちと神父の交流が始まります。自分たちの信仰の正当性をしっかり認識するようになったのでしょうか、これまでは聖徳寺の檀家としてお葬式はお寺でしてもらって(そのあと自分たち流にキリシタンとしての弔いをひそかにしていた)いたのをお寺に頼まなかったことから、キリシタンであることが発覚してしまったのです。
幕府の中には穏便に済ませようという声もあったのですが、厳罰に処するべきという声の方が強く、明治になると、特に新政府は神道を重視した為キリスト教は引き続き禁教とされました。
摘発された人々について諸外国から、斬首は不穏当と抗議され、全員流配と決定。浦上の3394人は20の藩にわかれて流されました。そこで拷問や苦役を受けたのです。
1873年、不平等条約改正には信教の自由を認めるほかはないことから禁教の高札が撤去され、彼らは浦上に帰ることができることになりました。
3394人が浦上を出たのですが、殉教者613人を出し、1011人は苦難に堪えられず、信仰を捨てたましたが、帰郷後、その大部分は再び元の信仰に帰り、一度背教したことに対する償いをしたそうです。
かろうじて生き延びて戻ってきた人々にとってよりどころになる神の家は どうしてもほしいものでした。
貧しい中から、建てたのが浦上天主堂です。場所としては絵踏みが行われた元庄屋屋敷です。
資金難で1895年着工、1915年献堂式。双塔完成は1925年。
ところが1945年8月 原爆により倒壊。(↓絵葉書)
廃墟を被爆記念に残して、他の土地に新しい教会を建てるか、いや絵踏みが行われたこの地に再建すべきと議論があったのですが、結局この地に再建されました。1959年完成。
鉄筋コンクリート造りですが、このように化粧煉瓦が貼られたのは1980年、教皇訪日の機運が高まったときだそうです。
↓絵葉書 タンパンに相当する場所の彫像、マリアとヨハネはもとからあったもので中央のキリストは新につくられたもの。
信徒発見150周年記念の碑
信徒総流配から50周年を記念して建てられた記念碑「信仰の礎」
中は写真禁止。絵葉書ももう少し普通に撮ったのがあればいいのですが。
中は男性と女性1人づつが腰かけてじっとこちらを見ていて、なんだか見張られているようで落ち着かなくそそくさと出てしまいました。
この日は非常に寒く、小高くなっているので風当りも強くあまり長く外で立ってはいられません。ざっと回りを歩きましたが、拷問石はみつけられませんでした。
信徒会館の一部が原爆遺物展示室になっているのですが、寄りませんでした。
坂を下りてこちらが正門です。
立派な建物、この教会はきれいに整えられすぎていて、おもいえがいていたのとどこか違いました。
11:22 元来た道を戻り平和公園停留場近くの 爆心地公園 に向かいます。
それは次回に
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