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京都2021年秋

2021年11月21日 (日)

2021年秋京都 5-4 (清水寺~帰宅)

10月22日 続き

清水寺へ行く道すがら「昔、清水寺へ行く時、坂道を上がって行ったという記憶がある?」「ないなあ」。
まわりは若い人が多いです。坂道など気にしない人たちばかり、さっさと歩いています。修学旅行なのか制服姿も混じっています。清水寺は京都一年生がいくところ。いまさらの感があります。
でも憶えているのは途中のお土産物屋さんと、舞台から眺めたことだけ。

お寺の敷地内にいろいろな建物があったことは全く覚えていません。
が今回は二つのカルチャーセンターの講座、建築と日本古代史の影響から行く気になったのです。
歴史は丁度この時間桓武天皇をやっているときでした。
桓武天皇の時代に征夷大将軍だった坂上田村麻呂と清水寺の関係を始めて知って、俄然興味がわいていたのです。

清水寺 音羽山 清水寺 (kiyomizudera.or.jp)

創建は778年、奈良で修行を積んだ僧、賢心がこの地に滝(音羽の滝)を見つけ庵をむすびました。 
2年後、鹿狩りにこの地を訪れた坂の上の田村麻呂は賢心の教えに感銘を受け、十一面千手観世音菩薩を御本尊として寺院を建立し、音羽の瀧の清らかさにちなんで清水寺と名付けたのです。

伽藍建立当時の本堂は支援者であった田村麻呂夫人の住宅一棟が寄進されたと伝えられています。

 

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14:14 仁王門の前に着きました。
仁王門は応仁の乱(1467~1477年)に焼失。16世紀初めに再建されました。(重文)
京都という町は応仁の乱によって壊滅的打撃を受けそれ以前の建物は残っていません。京都で現在見られる多くの古い建築物は江戸初期のものだそうです。

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左に見えるのは馬駐(馬留め) 室町時代の形式がよく残っているそうです。(重文)
6頭分つなげるようになっています。ここで馬をおりて参詣したのです。

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上がると西門(重文)(1631年再建)奥が三重塔(1632年、家光により再建)(重文)

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反対側から

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この西門からの景色、特に夕景はすばらしいそうです。

鐘楼(1607年)装飾は桃山のパターン

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奥から 三重塔、経堂、田村堂(開山堂) 写真に移っていない手前には 朝倉堂、 
尾根伝いに建っていて風が強いので一直線に並ベて建てています。

ここからは有料
轟門 

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廻廊を通って本堂へ

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今回の目的の一つは懸造りをしっかり見ることで下。貫を左右に通している。

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 下に音羽の滝が見えました。

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池(?)の石の所に修行僧が立って滝行をしているのがみられることもあるそうです。
昔、上の「奥の院」辺りに修行僧が庵をむすんでいたらしいです。

本堂、大きいです。

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↓清水寺のホームページから

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内々陣の中央台形の形に盛り上がっているのは(厨子を載せる須弥壇の下に旧本尊を祀った)土壇。磐座信仰の磐座に当たります。舞台から見下ろすと音羽の滝。
この霊地を壊さずに建物を作るために懸造りになったそうです。

屋根、照りむくり 檜皮葺き お寺の屋根は瓦葺だが、ここは元住宅だったということもあるだろう、と言うお話でした。

この後、後ろの地主神社

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地主とは仏教が入る前の土着の神のこと。清水寺の本堂は自主権現の拝殿のような位置に建てられています(地主神社のホームぺージによると)。

拝殿の手前に一本の桜の木があり、1300年代、その下で連歌をやっていたそうです。(下写真、えんむすびの幟の横)。
奥の方は人がいっぱいでよく見ていないのが今思うと残念。

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左が拝殿、右が本殿 間に手前と奥に石。目を瞑って向こうの石まで行ければ恋はかなう、という恋占いの石があり、やっている人を見かけました。一人はうまくいき、一人は売店の方に行っていました。

次に釈迦堂、阿弥陀堂、奥の院へ

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本堂の舞台を眺めるには、この写真右奥の舞台が最適な場所です。上の方の本堂の写真はここから撮ったものです。

階段を下りると音羽の滝です。 
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滝の前にある売店、もとは瀧拝殿。私はアテルイの碑がみたかったので、ここで場所をききました。順路に従っていくとすぐある、とのことでした。ほんの数分行ったところにありました。

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田村麻呂、きっと意気に感じた相手だったでしょうに、二人が殺されたのはとてもつらかったと思います。

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三重塔を見上げ池の横を通って

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いつの間にか仁王門の下の広場に来ていました。
丁度1時間立っていました。

今度は清水坂も下りだかららくです。でももう疲れました。 

産寧坂と清水坂、五条坂が交わる所、行きにタクシーが次々お客を運んできていました。あそこでタクシー拾いたい、と思いながら行くと丁度、一台きたところでした。ホテルに戻ることにしました。本当は五条坂を行くと河井寛次郎記念館に行けるのですが、その時は気力がありませんでした。

ホテルに戻って荷物をピックアップしてまたタクシーを拾って駅へ。 (16:05)

新幹線のチケットは18:30発。早すぎです。やはり河井寛次郎美術館にいけばよかった、、、。

とりあえずコインロッカーにキャリーを入れて伊勢丹へ。地下にいって帰りのお弁当を買っておきましょう。しにせ弁当の売り場に行くと、まだ和久傳の「鯛チラシ」が4折りありました。主人は「もう鯛チラシはいい、おなかもそれほどすいていない」 お昼、私のぶんも天婦羅をたべたのでまだもたれているらしいです)
そうして小さい柿の葉寿司を見つけてきました。

何か他に買うものは?でも密は避けたいのでデパ地下を出ることにしました。 

もうすることはありません。チケットをはやいのにとりかえられないかしら?
30分早めてもらえて17:54発にはできました。
キャリーをだして、そうそうお漬物くらいは買いたいと、それに主人はビールを買ってから改札を抜けました。 

新幹線は空いていました。二人席はかなり乗っていましたが、三人席は殆どあいていました。

お弁当も安心して拡げられます。この鯛ちらし、ブログでは評判がよさそうです。

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でもお店で一切れたべさせてもらったのとは違います。ごはんがパラパラ、パサパサなのです。お店のほうがずっとおいしかったです。

それにこの鯛、しっかりたくさん敷きつめられているのはいいのですが重なっているのでとりだしにくかったです。
横の煮物はおいしかったのに、ちょっとがっかりなお弁当でした。
柿の葉寿司は残りを翌朝、いただきましたが、柿の葉に包まれているせいか、しっとりして翌朝でもおいしかったです。

新幹線は名古屋でどっと人がのってきて満席近くなりました。名古屋までに食事をおえてまたマスクをつけることができていたので助かりました。

順調に帰宅。18349歩

やはり5日間は無理だったのではないか、と言われるほど疲れて翌日は何もできず、其の後数日間、足は痛かったです。
こうして旅日記を書いていると見逃しを発見することが多く、残念な気持ちにもなりましたが、お天気に恵まれ、いい旅ができたとはおもっています。(旅日記完)
 

 

2021年11月19日 (金)

2021年秋 京都 5-3(圓徳院~清水坂)

10月22日 続き
台所坂をおりて高台寺の斜め前「羽柴」というお店にランチの予約を入れてあります。
ネット情報では予約したほうが良い、とありましたがすいていました。お客は他に二組だけです。

向こうに「八坂の塔」が小さく見えます。

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エビと野菜の天婦羅御膳、と言うのにしました。どのコースも分量が多そうで、これも私には天婦羅が余分でした。主人に てつだってもらいました。

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お食事が終わって掌(しょう)美術館を覗きました。本当にてのひらほど、一部屋だけの美術館です。高台寺蒔絵のお棗が少し、お軸、あと鎧もあったような、、。写真もないので思い出せません。

ここからいったん「ねねの道」に出て右となりが圓徳院の入口です。

圓徳院 (12:55~13:25、もう少し時間をかけたほうがよかったです)
北政所ねね終焉の地です。 

1605年、この地にねねは、伏見城の化粧御殿とその前庭を移築して移り住みました。
それ以来、大名、禅僧、茶人、歌人、画家、陶芸家等多くの文化人が、北政所を慕って訪れたと伝えられています。ねね58歳の時のことです(生年はわからないから、はっきりしないはずですが、このお寺では生年を1548年として77歳で亡くなったとしています)。
ねねを支えていたのが兄の木下家定とその次男の利房。
圓徳院は利房がねねの没後、高台寺の三江和尚を開基に木下家の菩提寺として開き、高台寺の塔頭としました。

正門 木下家の屋敷だったので、長屋門の形式になっているのに、全体を撮っていません。

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唐門

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入っていくと 秀吉好みの手水鉢 がありました。

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秀吉が世話になった西尾家に贈った手水鉢。
「西尾家は今川義元の親戚にあたる。後に西尾家が圓徳院に寄贈」と立て札に書かれています。

「建物の中に入るとき、入口と出口は違いますから、靴をもっていってください」とあり、ちゃんとポリ袋が用意されていました。とても薄いものですが、新しいものが束になってかけられていました。プラスティック廃棄物の問題がありますが、 詩仙堂のように、ぶ厚くても使い古しより、衛生上はこちらの方が好ましいです。
以前、旅の先達kikuko様がいらしたときは写真不可だったようですが、今回は内も外も写真OKでした。

上がるとすぐ襖絵が見えました。
方丈

白龍図(1995年)

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現代の画家 赤松燎(1922~1996) 私には好みの絵でした。

この横に

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等伯の襖絵「冬の絵」の部分です。
等伯は大徳寺三玄院住職、春屋宋園に襖絵制作を願っていたのですが、許されず、あるとき住職の留守を狙って上がり込み一気に描き上げてしまったものだと伝えられています。
襖絵の料紙が作画に不向きな雲母刷り胡粉桐文様の唐紙であることから、この逸話はおおよそ事実に近かったと考えられています。等伯は、桐紋を降りしきる雪に見立て、雪景色の山水として描いたのです。

36面あったもののうち32面を圓徳院が所蔵しているそうですが、これはレプリカでオリジナルは京博と七尾に寄託されているそうです。複製だから写真OKなのですね。

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なお、赤松燎の作品は等伯の絵を美術館に入れるにあたってその場所を飾るために依頼したものだそうです。

方丈の前のお庭(南庭)

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故森蘊博士指導のもと、現在は庭師・北山安夫氏に監修された庭園だそうです。

すぐ横の部屋には秀吉好みの金箔襖「雪月花」が描かれています。
赤松燎の亡くなった後をひきついで志村正によって描かれました。 

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細い廊下を進みお蔵を覗きさらに進んで

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小さなお庭を見てさらに細い廊下を進み

北庭 へ

伏見城北政所化粧御殿の前庭を写したもので、当時の原型をほぼそのままに留める桃山時代の代表的庭園のひとつです。
賢庭作で後に小堀遠州が手を加えた池泉回遊式でしたが、今は水がなく枯山水になっています。

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石橋がある所を見ると右は流れなのでしょうか。

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どれが、鶴島とか亀島などわからないのですが、いいお庭だと思いました。

さあ、清水寺へ向かいます。

ねねの道を進むと維新の道にぶつかります。お向かいは昨夜訪れたザ・ソウドウ東山です。

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その横の道が一年坂

進むと二年坂(二寧坂)にぶつかります。ここからさらに進むと産寧坂になります。
このあたりも重要伝統的建造物保存地区です。
産寧坂伝統的建造物保存地区に関する京都市情報館のサイトから

 当地区は,八坂ノ塔(法観寺),高台寺などの由緒ある社寺建築物,産寧坂,二年坂の石段と折れ曲がった石畳の坂道,そしてこの道に沿って建ち並ぶ江戸時代末期から大正時代にかけての町家などが一体となってすぐれた歴史的風致を形成している。当地区内の建造物のうち伝統的建造物は,約65パーセントであり,江戸時代から明治時代にかけての建築であるむしこ造り町家,明治時代の本2階建町家,主として大正時代の変形町家,茶室建築の手法を取り入れた数寄屋風建築,道に面して門と塀のある和風邸宅,石塀小路において主として大正時代に建てられた石塀小路町家の6種類に大別される。そして,これらの建築物の1階部分を伝統工芸品を売る店舗にしているところも多く,それぞれに風趣のある伝統的な店構えをみせている。これらの特色ある建築物等は,主として同種類ごとに,又は他の種類とまじりあって群を構成し,それぞれに京町家の伝統を生かしながら趣の異なった特性を示している。

ゆっくり楽しみながら歩きました、と言いたいところですが、途中から石段、坂道などで苦しくなりました。

一年坂
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二年坂

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なんだか人が増えてきました。

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二年(寧)坂の階段

階段の途中で振り返える

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階段をあがったところで主人は「八坂の塔」の写真を撮りに行きたい、いうので私は行かずに一休み。

 
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八坂の塔は法観寺の五重の塔です。聖徳太子開基拙もあるのですが、これは疑わしいそうです。が、平安遷都以前からの古い寺院で創建は7世紀、渡来系の八坂氏の氏寺であったという説は有力です。
現在の塔は1440年の再建によるものです。
上がりきると産寧坂です。三年坂といわずに産寧坂という理由はこの道が安産祈願に子安の塔へ行く道だからだそうです。
 

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この左側のおみせ、上に格子窓があります。これを虫籠(むしこ)窓というのです。
江戸時代、 武士を見下ろすことが禁じられており、本格的な2階は建築されず、高さを抑えた中二階が作られ、物置き部屋などとして利用されたのですが、 通りに面したところには、採光と風通しのために虫籠窓が設けられたのだそうです。

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産寧坂の階段を上がると清水坂にぶつかります。(13:55)

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後は清水坂をあがるだけ。ここではソフトクリームを食べている人が大勢いました。坂、階段で汗をかきますからね。 
私はほしくはなかったのですが、主人はここで抹茶ソフトを食べました。

清水寺は次回です。

 

2021年11月18日 (木)

2021年秋 京都 5-2 (高台寺)

10月22日 続き

石塀小路を出て、ねねの道を少し八坂神社方向に戻ると右手に台所坂があります。そこを上がって行きます。

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高台寺 (10:44~ 12:00)

1606年豊臣秀吉の菩提を弔うために北政所ねねが祈願し、徳川家康が酒井忠正や土井利勝に命じて、創建されました。
ねねは秀吉の死後に出家して後陽成天皇から「高台院」という号を賜ったので、それにちなんで高台寺となづけられました。

たびたびの火災で消失した建物も多く、創建当時のものは、表門、開山堂、霊屋、時雨亭、傘亭、観月台だけです。

高台寺、こうだいじ ですが、たかだいじと呼びたいほどで、どんどん上へ上へと上がって行く造りになっていました。

台所坂(階段途中、人物を消したので、階段が少しおかしくなっています。

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上がりきって左手が庫裡 その横に受付があります。講座で、先生に庫裡も見るようにいわれたのですが、忘れてスルーしてしまいました。桟の間からのぞくと(夢)という字の書がみえるそうです。

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圓徳院と掌美術館の共通券と言うのを買いました。

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庫裡とお手洗いの間の道を行きます。ルートは図の灰色の線です。

遺芳庵
非公開です。商人で趣味人であった灰屋紹益が夫人の吉野太夫を偲んで建てたものといわれているものを1908年に移築。

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庭園があらわれました。小堀遠州作と伝わる蓬莱式庭園です。

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  偃月池   池に浮かぶのは亀島。

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屋根付き廊の途中にあるのは観月台、桃山時代のもので、三方唐破風造り、檜皮葺き
屋根付き廊は後代のものかもしれません。奥は開山堂です。

 
方丈に入ります。

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お庭 波心庭

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色々検索すると、その時その時、砂で模様を描いているようですが、この時は砂には何も手を加えられていませんでした。

正面は勅使門。1912年、方丈とともに再建されたものです。

逆光で左奥の石組も見にくかったです。

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次は 開山堂です。

1605年の建築、もともとは、ねねの持仏堂でした。その後高台寺開山である三江禅師の塔所となったことから「開山堂」となりました。

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横には臥竜池

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右の橋が臥竜廊

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臥竜廊は霊屋(おたまや)に続くのですが、観光客は渡ることはできません。

いったん門を出て、上がって行きます。

霊屋 秀吉と北政所を祀る廟所。1605年に建てられています。宝形造り、唐破風付き、檜皮葺き

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柱、扉の金物が素晴らしい、のだそうです。

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内部は上半分に白いのれんのようなものがさがっていてよく見えませんでした。

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絢爛豪華です。

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これが高台寺蒔絵 (いただいたチラシのコピー)

向かって右が秀吉(すすきに水玉、近寄ってみると非常に上手だということが分かるそうです)  
左にはねねの像が中にあるそうです。

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祭壇の下の蒔絵は 花筏(亡くなった人のために使うモチーフだそうです)

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受付でチケットを買ったとき絵葉書4枚入りもくださいました。その中の一枚です。

勿論見られないのですが、厨子内におかれているお二人の像、背景は「浜松図」狩野永徳筆

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北政所はこの像の2m下に葬られているそうです。

さらにあがって(最近のフォトショップは、オブジェクトの削除、という機能があって、邪魔な人物など消すことができ、勝手に修正してくれます。でも少しずれます。これも階段がおかしいのはそのせいです。) 

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上り苦手な私にとってはつらかったのですが、上にあるお茶室は大事な見どころですから頑張りました。

傘亭(からかさてい、安閑窟)桃山時代(1573~1605)と時雨亭(江戸前期(1615~1660)
どちらも伏見城から移築されたもので利休好みと言われています。

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奥が傘亭、手前が時雨亭

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傘亭内部、天井が傘のようになっていることから 傘亭と呼ばれています。

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右上の額、きっと 安閑窟と書かれているのではないでしょうか。

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土間廊下の飛び石、歩きにくそうです。見た目の美しさを重視しています。遠州好み?

時雨亭は茶室には珍しく二階建てです。二階に竃があるそうです。竈(くど)がまえ
それが見たくて主人にできるだけ手をのばして撮ってもらいましたが、だめでした。

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二階の階段をあがったすぐのあの仕切りの奥に竃があるはずなのですが。

どちらのお茶室も風通しがよさそう、夏向きなのでしょうか。それにしてもここまであがってくるのいは高齢になってからでは大変だったことでしょう。高台院は生年がはっきりしないので享年もさだかではないのですが、80歳くらいだったようですから。

今日もお天気がよくてしばらく眺望を楽しんでいると、もう11:50 お昼は12:00の予約ですから、下りていくことにしました。 

 
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下りるときは途中までは上りとは違う道で、美しい竹林の間を抜ける道でした。
続きは次回に 
 

2021年11月16日 (火)

2021年秋 京都 5-1(祇園→八坂神社)

10月22日(金)
今日は最終日です。ホテルから清水寺まであちこち見ながら歩いていきます。
朝食のスタイルはおなじですが、小鉢は毎日ちがっていてこの日もおいしかったです。(写真省略)

これは↓昨日午後、撮った写真です。下は三条河原と言うことになります。昔は打ち首、さらし首の場所でした。

三条大橋の向こうの水色の建物は左横の水色の建物とともに京阪三条駅です。今日は右手の方の駅ビルの奥を右に入って祇園に向かう予定です。 

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遠くの山の中腹に清水寺の赤い三重塔が見えています。

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拡大してみると、左の屋根は本堂、三重塔の前には仁王門も見えます。結構高いところにあるのですね。
予定としては午前中に高台寺を見終えることにしてありますから、少しゆっくり、9時過ぎにホテル出発の予定です。
荷物をまとめて、チェックアウト。キャリーを預けて出発です。

9:20 歩き始めました。

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今日の行程の一部を茶色の線で示しました。

今日のコースはカルチャーセンターの「日本建築を歩く」という講座で紹介されたものです。M先生お薦めのコース、清水寺本堂、三十三間堂の修復が終わったところなので今回、紹介することにしたそうですが、私にとっては時機を得た企画でした。最後の方は割愛しましたが、殆ど講座のコースです。(講座のコースは祇園、新橋通りからでした)

縮小したので消えてしまいましたが、川沿いから横に折れる少し手前に三条大橋があります。

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欄干は木製でした。駅伝発祥地だそうです。

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京阪三条駅の横を折れて大和大路通りに入ります。突き当たる少し手前左手に新橋通り(その手前を左に入る新門通りを行くと菱岩さんのお店があるのです。またあのお弁当、いただきたいです)

新橋通りと白川に挟まれた一帯は 重要伝統的建物保存地域(略して 重伝建)です。
八坂神社周辺の茶屋町として栄えた地域で、建物は1865年の大火直後のもです。

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一階は千本格子、二階に縁を出し、すだれをかけていて、庇の高さがそろっています。

そのまま大和大路を進むと白川に突き当たります。

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9:46 白川にかかる大和橋 

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この道を白川筋と言います。後から知ったのですが、ここに吉井勇の歌碑があったのです。気
がつきませんでした。 

 かにかくに 祇園はこひし 寐(ぬ)るときも 枕のしたを 水のながるる

祇園は多くの文人たちにも愛されたそうです。白川沿いには料理旅館が建ち並んでいて、橋を渡って入るようになっているところもありました。

白川筋の先の方、人だかりがしています。撮影をしていました。来年公開とかでタイトルとかは教えてもらえませんでした。セーラー服、学生服の若い子が指示待ちをしていました。
そこをかきわけて 

巽橋

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辰巳大明神

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右手の道は、先ほどの新橋通りで写真の手前が新橋になるわけです。

祇園新橋

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この方もドラマ出演者でしょうか。
端を渡って少し進み、右に行きます。花見小路です。つきあたりが料亭一力。

レンガ色の一力の建物が見えたところで信号を渡って左へ 

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来たのは左からです。花見小路はそのまま右にのびていてお茶屋街です。

まっすぐ行くと八坂神社です。前を行くのは、なんと修学旅行生!それも違う制服、つまり二校です。

八坂神社西楼門

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ただ、彼らは通り抜けだけのようで、西から入って南楼門から出ていきました。ヤレヤレ。
今回、ここに寄ったのは、春に来た時、本殿の写真を撮り忘れたからです。今度はしっかり見ておきたいのです。 
ホームぺージを開いてみたら、びっくり、とても丁寧に建築について書かれていました。

八坂神社 (yasaka-jinja.or.jp)

このホームぺージの創祀の一説に「高麗より来朝した伊利之(いりし)が新羅国の牛頭山(ごずさん)に座した素戔嗚尊(すさのをのみこと)を当地(山城国愛宕郡八坂郷(やましろのくにおたぎぐんやさかごう))に奉斎したことにはじまる」とありますが、八坂と言う場所は渡来系の八坂氏の住む地域だったそうです。

八坂神社の建造物|八坂神社について|八坂神社 (yasaka-jinja.or.jp)

講座では八坂神社は、神社本殿としては奥行が大きい、平面が普通とは違う、神社には珍しい入母屋造りだが、これは平安時代、双堂(本堂と 礼堂を別棟で並べて建てる)を一体化した時入母屋になったと考えられる、と言ったことが述べられました。 

このことを実際に見て確認したかったのです。しかし外観だけでは分かりにくかったのが、このホ-ムページで納得できました。四月の旅行前にもホームページはみたのですが、これほど詳しいことは書かれていなかったように思います。其の後リニューアルされたのでしょうか。拍手です。 

平面図だけお借りします。神社建築一般についても説明されていますので興味のある方はホームページもどうぞ。 

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正面。 西面↓に伸びている屋根が又庇です。又庇は、北、東面の三方にのびていてその下に部屋があります。八坂神社独特だそうです。

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床下はまったく見えませんが、本殿の内陣の下には池があり、現在は漆喰でぬりかためられて見られないそうです。
湧水信仰は洋の東西を問わないようです。

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これで一回りです。
寄棟造りに又廂が付いた形、と言うことは分かりました。中に入ってみたいものです。

一応写真をとったところで 南楼門から出て下河原通りを行きます。

左側を注意しながら行くと 

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石塀小路、曲がりくねりながら ねねの道 に通じる道です。
ここは講座ではなく、お友達に教えていただきました。この道の途中にある旅館に泊まられたことがあるそうです。

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ゆっくりあるいて 7,8分でねねの道にぶつかります。(10:45)
高台寺はすぐそこです。

高台寺は次回にします。

 

2021年11月15日 (月)

2021年秋 京都 4-3(大徳寺続き、夕食)

10月21日 (木) 続き

大仙院はかなり以前に来たことはありますが、もう殆ど忘れています。

横に非公開の真珠庵があります。

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大仙院

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大仙院

1509年 大聖国師 古岳宗亘により創建
 室町時代の 枯山水庭園、世阿弥、元信、之の襖絵などが有名。
 三世古溪和尚は千利休の首を加茂川から持ち帰ったことで、七世沢庵和尚は宮本武蔵の関係で有名。

表門

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ところでこのお寺もカメラ禁止でバッグにしまわさせられました。

帰りにパンフレットを買いましたのでそれから写真を拝借。枯山水の説明も書かれていました。禅宗の思想が作庭に影響すると、形体が抽象的になるのだそうです。白砂をしいて水流を表す、石を立てて滝の音を表すなど。
具体的にお庭の石組について説明されているので、帰りではなく入った時にパンフレットを買って読みながら眺めると意味がわかってよかったのに、と思いました。カメラ禁止で落ち着かなくそそくさと出てしまった感があり、今パンフレットを読んでとても残念に思っています。 

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船形の石、黄梅院にもありました。ここでは宝船と名付けられています。

上の窓の向こうが下写真になります。

蓬莱山
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右奥が滝 流れの先に石橋がかかっています。その左へ、不動石、観音石

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左奥には 小亀島

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方丈南庭

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25分くらい拝観して大仙院を出て、次は高桐院です。
近づいていくとどこからかお坊さんたちの歌うような誦経のこえが響いてきます。お寺は修行の場でもあるのですね。
ヨーロッパのロマネスクの教会は現役でないものが多いですが、日本のお寺はどこも現役。でも一般の人にとってはやっかいになるのはお葬式だけ。ヨーロッパでは日曜日に教会に行く人はまだまだいるようです。

高桐院のあたりは樹々が鬱蒼と生い茂っています。

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高桐院は1601年に細川忠興が父藤孝(幽斎)のために創建したお寺。細川家の菩提寺でガラシャ夫人のお墓もある、ということで是非とも入ってみたかったのです。ここは常時拝観可能です。
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進むと気持ちのよい竹林、

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がぁーん、「悪疫蔓延のため当分の間 拝観休止します」の張り紙です。がっかりしました。 

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覗いてもこれ以上は見えません。

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この後、閑散とした大徳寺境内をあちこち歩いているうちにもう14:00。お昼抜きですから、龍源院はやめてホテルのあたりまで戻ることにしました。

ここで失敗。バスは205番か37番に乗ればいいと知っていたのに、慌ててきたバスに乗ったら北大路バスターミナル止まりだったのです。広いバス乗り場でしたが、市役所方面に行く37番に無事乗れました。
加茂川べりをしばらく走ってから河原町通に入ります。

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河原町三条でおりました。このあたりは食べ物屋さんが多いのです。
「パスタでもたべようか」でも今晩はイタリアンのお店を予約してあります。迷いつつ歩いているうちに、小さなお店で次々人がカステラを買っている光景を目にしました。美味しそうないい匂い。「これを買ってホテルで食べましょうよ」というわけでカステラと途中でコメダコーヒー店があったのでテイクアウトのコーヒーも仕入れてホテルに戻りました。

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台湾カステラというのは初めてです。お砂糖がザラザラしてキメが粗い普通のカステラとは全然違います。きめの細かい甘いスポンジのようでした。卵の匂いがかなりします。700円でしたがこれ、結構おおきくて私は1.2 cm幅に切ったのを一切れで十分でした。二人で 全体の三分の一しか食べられませんでした。
自宅に持って帰って翌々日に残りをいただきましたが、ぱさぱさにもならず美味しくいただけました。

夕食は18:30予約です。上の写真を撮ったのが15:20。
もう出かける気にもなれないので、のんびりお部屋で過ごし、主人はひと眠り。
18:00少し前にホテルを出ました。

タクシーを拾って
ザソウドウ東山 へ
もとは竹内栖鳳の屋敷だった、という家がお店になっています。
早めに(18:20頃)着いたのですが、門のところにスタッフが待っていて玄関まで案内されました。入ってすぐのところにお土産を売っている場所があって、ネットで目をつけていた一口羊羹があったので、帰りに、というと売れてしまうかもしれません、というので即 4箱買ってしまいました。
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お部屋はかなり明かりを落としていました。

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ワイン:主人は3種セット(シャンパン・白ワイン・赤ワイン) 私はシャンパンだけにしました。

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アミューズ:フォアグラのフラン キャラメリゼ

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アペターザー:名残鱧のあぶり ドライトマト 九条葱

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ホットアペタイザー:秋野菜のカルトッチョ 大黒本しめじ 川上蓮根

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開くと

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パスタ:甘鯛と空心菜 リングイネ

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メイン:京都産七谷鴨のソテー 黒にんにく 花韮

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リゾット: 生雲丹とトマトのリゾット

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デザーと:丹波栗のモンブラン

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写真は撮らなかったのですが、コーヒー、紅茶には一口羊羹が1個ついていました。

どれもとてもおいしかったです。途中から私は分量を減らして、とお願したのですが、品数が多いせいかどれも少量ずつで 女性ならちょうどいいくらいだと思います。私には無理ですが。

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タクシーは頼んだのですが、既に門前に待機していたようでした。
お迎えからお見送りまで、もちろん食事中もスタッフの方々親切丁寧で気持ちがよかったです。 

20:30大満足でお店をあとにしました。

 15245歩 

2021年11月14日 (日)

2021年秋 京都 4-2(大徳寺)

10月21日 続き

10:41 木嶋神社を出ました 

木嶋神社から大徳寺までの公共交通機関は乗り換えが多くて大変そうなのでタクシー利用と決めていました。

タクシーを拾うべく「蚕の社」駅方向に向かいます。駅前の通りは広いのですが、タクシーはみつかりません。一駅天神川まで乗ろうとしたら、話をきいていたらしい男性が「天神川なら乗らなくてもすぐそこですよ」すぐそこ数百メートル先に見えています。タクシー乗り場もあるそうです。
駅のタクシー乗り場ですぐ乗れました。大徳寺へ行く道はみていると、竜安寺や金閣寺のそばを通りました。
ちなみに料金は2300円でした。

⒒:15過ぎ 大徳寺交差点に付きました。
この角に「五(いつつ)」という和久傳の経営するお蕎麦屋さんがあります。調べると11:30開店です。しばらく待つことにしました。

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足元の横長の石は人がはいってはいけない、という合図なのでしょうか。
それにしてもおかしいのです。開店前でもそれなりに人の気配があってもよさそうなのに、しんと静まり返っています。5分くらい様子をみて、やはりここもコロナでお客がまだ少ないので閉店中なのでしょう。大通りを少し先まで主人が見に行きましたがこれといって簡単な食事ができそうなところはないとのことでした。開いているのかどうか、料亭っぽいところはありますが、そういうところに入るつもりはありません。

「ともかく先に大徳寺を観よう」と言うのでお寺に入ることにしました。ずいぶん時間を無駄にしました。

北大路通りに面した南門から入りました。秋の特別公開は11月に入ってからですが、黄梅院と興臨院はもう公開されています。黄梅院は南門からすぐのところにあるのです。

大徳寺 (11:35~ 14:00)

臨済宗大徳寺派の総本山 1325年大燈国師により創建
応仁の乱では炎上したが、乱終わって一休和尚が再興。 戦国武将らは競って塔頭を建立しました。    

大仙院で買ったパンフレットから 
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大仙院をにのぞいて現在23の塔頭と本坊があります。そのうち常時拝観できるのは、高桐院、瑞峰院、龍源院の三寺院だけです。

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南門を入るとすぐ左手にあるのが黄梅院

黄梅院 (11:40~12:23)
1586年それまであった黄梅庵の本堂と唐門を改築、1589年小早川隆景普請奉行のもと改築落慶、名前も黄梅院に改めています。

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奥が庫裡へと通じる唐門(重文)です。  

ここは前庭です。前庭を抜けていくと受付があります。この時は黄梅院と興臨院の二つだけが特別公開中で共通券というのを売っていてそれを買って入りました。ここからはカメラ禁止です。少し後からお若いカップルがこられましたが、他に人はいません。

お茶室のような華奢な作りの建物はいくつかあり、そこを渡り廊下でつないでいます。廊下の屋根を支えているのが10㎝もないような細い木。四角く削っていない丸くて節もみえている、よく床の間の横に使う柱のような木で素木のままのものが使われていました。
以下、絵ハガキなど借り物写真です。絵葉書も種類が少なかったです。

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上写真の紅葉バージョンです。唐門の扉が開いています。

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直中庭(じきちゅうてい)利休が66歳(受付で渡されたチラシによる。ウイキペディアでは62歳)のときに作ったお庭。
長方形のお庭でしたが、これでは一部分しかわかりません。ウイキからも画像をおかりしました。

池泉式枯山水庭園というのだそうです。左が加藤清正伝承の 朝鮮灯籠。

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破頭庭へ行きます。

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破頭庭 本堂前庭 天正年間に作庭
手前に白川砂、奥に苔、観音、勢至の二石でまとめています。すっきりいい感じでした。
   

破頭庭につづいているのが作仏庭です。その境にある花頭窓からのぞいた破頭庭

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作仏庭(さぶつてい)
奥の石は舟のかたちをしていて花頭窓からのぞくと船に乗ったように見えるそうです。

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枯山水の滝を表す石を配し、南への流れの中に船を浮かべ、本堂前の破頭庭にへと連なる作りです。生々流転をあらわしているのではないか、ともいわれています。

昨夢軒 千利休の師、武野紹鷗ごのみの茶室。書院、自休軒の中に組み込まれていることから、囲い込み式といわれています。

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お寺というより、武将の別宅といった役割だったのでしょうか。

庫裡には竃がありました。これはチラシからの写真で100%でもこのおおきさです。

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黄梅院のお隣は龍源院でここは常時拝観可能です。入るのかと思ったら主人は気づかず、先を行きます。
でも私がもたもたしているうちにしっかり入口の写真は撮っていました。

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次は興臨院と考えているようです。まあ、ここは後でも、と思ってい付いていきました。少し進んで右に折れたところにあります。

興臨院 (12:25~12:40)
1520年、能登の守護畠山左衛門佐義総によって建立された畠山家の菩提寺。創建直後焼失して1533年頃再建されたのが現本堂。畠山家没落後1581年前田利家が本堂屋根の改修を行い、以後前田家の菩提寺となりました。

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表門 平唐門、檜皮葺き、一間一戸

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奥が唐門(重文)
ここはお庭の撮影は可でした。
 

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方丈裏庭
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つくばいの高さが高いのが珍しいと思いました。池があって、流れがあって好きですね。ここは。

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左はお茶室 涵虚亭(かんきょてい)

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だあれもいません。興臨院は狭いのですぐ観終わりました。

出たところにあった

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千体地蔵

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ここから中央の道を奥に進みます。ここで振り返って唐門を見るべきだったのに、残念、見逃し。 

三門です。
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15891年、利休によって二階部分が完成、金毛閣と名付けました。大徳寺の住持であった古渓宗陳(こけいそうちん)が、利休に対する感謝の意を表するために利休の木造を造り、それを三門の上に祀りました。 それが秀吉の怒りを買いその他もろもろの理由とともに利休は切腹となった、いわくつきの門です。
仏殿(重文) 

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 左手には三玄院

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石田三成のお墓があるそうですが、拝観謝絶となっています。

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法堂 1636年再建
狩野探幽が天井に龍の絵を描いていますが、通常非公開です。

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さらに奥へと進み芳

芳春院までいきましたが、もちろん入れません。引き返して大仙院に向かいます。

写真が多くなってきましたので、今回はここまでにします。

2021年11月12日 (金)

2021年秋 京都 4-1 (太秦広隆寺、木嶋坐天照御魂(このしまにますあまてるみたま)神社

10月21日(木)
今日の予定は午前中太秦広隆寺とその近くの木嶋坐天照御魂神社をみたあと大徳寺へ行く予定です。

なぜ太秦に行くことにしたかというと今年春、坂本に行き、最澄が渡来人の子孫だと知って渡来人に興味がわいかたからです。
秦さんとおっしゃる方は昔クラスメートにもいましたし、秦野と言う町も神奈川県にあります。
でも特別渡来人とかと結びつけては考えませんでした。
しかし少し勉強して古代、私がなんとなく思っていたよりもずいぶん多くの人たちが朝鮮半島から渡ってきていた、ということを知り、今回太秦にも行ってみようと思ったのです。

秦氏族が日本に大勢やってきたのは3世紀終わりごろ、養蚕が主ですが、醸酒、農業などで地方産業の発展に寄与していました。太秦という地名は絹を「うず高く積んだ」ことから「禹豆満佐=うずまさ」の号を与えられ、これに「太秦」の漢字表記を当てたことによるそうです。

広隆寺は秦氏の氏寺です。
松尾大社は秦氏の氏社ですが、少し離れているので今回はあきらめました。
木嶋坐天照御魂(このしまにますあまてるみたま)神社(簡略化して木嶋神社)は別名「蚕の社」と言い、秦氏ゆかりの神社と言われています。

桓武天皇は最初都を奈良から長岡に移します。その時指揮を執ったのが早良親王(皇太弟、次期天皇)。然し天皇お気に入りの藤原種次が暗殺され、早良親王もその一味と目されてしまいます。絶食して無実を訴えたのですが死んでしまいました。桓武天皇は怨霊に悩まされるようになり、早良親王を崇道天皇と追号。祀ってある崇道神社が叡山鉄道の終点近くにあるのです。昨日そこにも行きたかったのですが、怨霊?とんでもない、と却下されてしまいました。(関係のない話でしたね)    

長岡は水運の便はあるけれど、洪水もあり、794年桓武天皇当時は山背(後に山城)の国と言われていた京都に都を移します。
京都は秦氏の居住地でした。桓武天皇の母親は高野新笠といって渡来系です。遷都には秦氏の力も借りたようです。

前置きが長くなりました。

6:00過ぎ起床

7:20~8:00 朝食 京はふたりともごはん、全体に分量が多すぎるので私は卵料理は断りました。小鉢は昨日と内容が違っていました。サラダは同じですがドレッシングが違っています。

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小鉢、魚のグラタン、味の梅和え、小松菜の胡麻和え、おいしかったです。

もう一つのお膳。これは主人のもの。私は卵ぬき。
川勝のお漬物、歯ごたえがあり、色あざやかで買って帰りたいと思いました。

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8:40頃お部屋を出ました。時間は少しかかりそうですが、乗り換えがないのでバスでいくつもりでした。ところが63系統大文字行のバス停が分かりません。うろうろしていても時間がたつばかりなので 地下鉄+嵐電でいくことにして、地下へ。

地下鉄東西線8:57→9:07太秦天神川 嵐電に乗り換え 9:14→9;17太秦広隆寺
天神川での乗り換えが心配でしたが、表示に従って進めば簡単でした。地上に出ると、都電のような一両の電車が走っていました。広隆寺は二駅目で最初の駅は「蚕の社」でした。

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駅の斜め向かいが広隆寺です。

広隆寺  (9:20~10:15)

603年に建立された山城最古の寺院で聖徳太子の七大寺院の一つです。日本書紀によると、秦河勝が聖徳太子から仏像を賜り、これを本尊として建立、この仏像が弥勒菩薩であることはあきらかだそうです。たびたび災禍にあって、そのたびに再興されてきています。

南大門(仁王門)現在あるのは1702年に再建された三間一戸の楼門。仁王像は 門よりもう少し古いと思われています。

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 境内には数人いましたが、ほとんど気にならず、今日もさわやかな空気の中散策できました。

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講堂 1165年再建された京洛最古の建物 
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 立ち入りはできません。

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向かって右奥は地蔵堂

上宮王院太子殿 1730年に再建。本尊に聖徳太子をまつっています。

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ここまでは無料ですが、奥の霊宝殿に行くには受付で拝観料を払う必要があります。


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 弁天社

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霊宝殿です。
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内部は カメラ禁止です。かなり明かりを落としています。お一人他にいらっしゃいましたが、すぐ出られました。中には 中央に椅子があり手前に畳もあって静かに仏像に向き合うことが出来ます。
買ってきたパンフレットから二枚だけ写真をお借りしました。

弥勒菩薩像 国宝第一号です。用材は赤松、制作は飛鳥時代。
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やはり優しく品がよくて美しい。感動しました。胴の細さにくらべて膝頭辺りが太いな、なんておもいましたけれど。

隣に秦河勝夫妻の像がありました。藤原時代の作。
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他にも多くの仏像がおかれていました。どれも小ぶりで高さが1mくらいのものでした。全体に優しい感じがしました。

出入り口からお庭を見ています。仏像にあまり関心のない私でもなかなか出たくなかったです。

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人がいなくて静かに拝観することが出来て本当によかったです。
次の予定があるので前の蓮池のあるお庭を眺めてから広隆寺を後にしました。 

木嶋神社までは一本道です。ゆっくり15分近くかけて歩いていきました。

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木嶋坐天照御魂神社

創建年代はわからないのですが、一説には604年広隆寺創建に伴い勧請されたものといわれています。 

 

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拝殿

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拝所 提灯についている紋が花つき二葉葵、秦氏ゆかりの神社は葵なのだそうです。
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奥が本殿 その右にすこし見えているのが多分 東殿(蚕養神社)

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蚕養神社があるので蚕の社といわれるので、しっかり見るべきでしたが、ここは三本のは柱のある鳥居が有名でそれを探すことに気持ちが向いていてうっかりしていました。

あの奥のようです。深い森。

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上から見ると。

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三柱鳥居は京都三鳥居の一つで柱3本を三角形に組み、3方から中心の神座を拝することを可能とする珍しいもので中央の神座は、円錐形に小石を積み、中心に御幣を立てて依代としたものです。この鳥居の起源等は詳らかでなく、現在の鳥居は1831年の再興です。これは今は涸れていますが、池の中に建っています。その前も池で元糺すの池、森は元糺すの森、です。

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このおくは稲荷神社でしょうか。お年寄りがここからでてきて狐の頭をなでてから帰っていきました。自転車でやってきた女性が本殿の方に参拝されていました。近所の氏神様なのでしょうか。地元の人の心のよりどころになっているようです。なんとなくいい感じです。

10:45そろそろ 大徳寺に向かいます。続きは次回に。 

2021年秋 京都 3-5 (夕食など)

バスに35分ほど乗って四条河原町にやって来ました。降りた辺りでレストランを探したのですが、どこがいいか分からないので、とりあえず高島屋に入りました。案内板で適当にめぼしをつけて行ってみるとそこはカフェテリア方式でランチもいただけるけれどどちらかというとお茶をするような場所でした。もう3時近くでしたので、ここで済ませることにしました。コーヒーとケーキ、私は夕食に差し支えると困るのでプチケーキにしました。

そうそう、ここは錦市場に近いはず。行きましょう。道を渡って少し進んで新京極に入ります。 

主人は錦市場には行ったことがないそうで面白そうに見まわしていました。私は前に娘ときてランチしたことがあります。 

進むと錦天満宮。

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このそばの漬物やがネットではおすすめでした。でもその前を通ると結構匂いがきついので買うのはやめにしました。

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垂れ幕には若冲の絵。伊藤若冲は錦小路の青物問屋の生まれです。

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お店はシャッターがおりたままのところもありましたが、人出はそこそこありました。以前来たときほどではありませんが。

特に買いたいものもないので、適当にぶらぶらしてからホテルに戻ることにしました。道ははっきりしなくても方向はわかっています。
途中 池田屋事件の池田屋がありました。

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ここを過ぎると木屋町通りです。横を高瀬川が流れています。

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高瀬舟が停まる場所だったのでしょうか。

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御池通りまで進むとこのあたりは昔加賀藩の屋敷があったところです。御池通りの向こう側は長州藩です。

木屋町をもう少し進むと桂小五郎・幾松寓居址もあるようです。倒幕・尊王攘夷などでこのあたりも騒々しかったのでしょうね。京都って面白い町だと思います。今回は行きませんでしたが、ここは本能寺もすぐそこです。 

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橋から宿泊ホテル(左)をながめています。通りが木屋町通りで川が高瀬川

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鴨川からホテルをながめています。4階のどこかが私たちが泊まっているお部屋です。

16:45 お部屋に戻りました。

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ドアの前にタオルセットがおかれていました。各種タオルとサービスのお水、歯ブラシセットが入っていました。ハウスクリーニングがなくてもタオル交換だけしてくださればいいので、本当は明日はお掃除に入るはずですが、お断りして、タオル交換だけ頼むことにしました。

暫くくつろいで6時10分前に食事に出かけました。

今晩はホテルの一本となりの小路を入ったところにある豆腐料理のおみせ「豆水楼」を予約しています。

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ここは川床もありますが、外は寒いのでおへやです。掘りごたつ式のテーブルです。

お酒は口コミで俳優の佐々木蔵之介さんの御実家が造り酒屋で、このお店ではそこのお酒をあつかっている、とあったのでそれを飲んでみることにしました。「古都」という名前だそうで300ml入りになるがいいか、ときかれましたが、OKです。

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一杯だけいただきましたが、少し甘め?おいしかったです。

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ミニサイズのお風呂桶のような入れ物に入ったおぼろ豆腐、湯葉も一切れずつはいっています。これはお替り自由。 

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豆腐と生麩の田楽

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私はおちょこ一杯だけですが、お酒がなくなったので田酒を一合注文。
入れ物が面白い。

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天ぷらはお塩でいただきます。
   

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肉類、お刺身などもなしのコースにしましたので、あっさり、おなかに優しくて小食の私でもほぼ完食できました。お料理はどれもおいしかったです。
お箸が先が2ミリ角くらいの細い竹箸で主人が気にいったと言うと「一組千円でお分けしています」。それで二組買ってしまいました。

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19:30頃ホテルに戻りました。
戻ってフロントの人に「豆水楼にいってきました」というと「ああ、もう開いていてよかったですね」と言われました。コロナ禍で休業していたのでしょうか。

この日は疲れました。坂道があったからでしょうか。14278歩 
主人は修学院離宮があったせいか2万歩超えでした。

2021年11月11日 (木)

2021年秋 京都 3-4 (詩仙堂)

5分足らずで詩仙堂に着きました。ここの前に茶店があるはずです。でもここも戸を閉ざしたままでした。

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小有洞(入口左側に人がたっていたのを消しましたので竹垣が少しおかしくなっています)

詩仙堂 (12:50~13:40)

 歴史 | 詩仙堂丈山寺 (kyoto-shisendo.net)

訪ねたお寺はどこもホームページをもっていて容易にネット検索で出てきます。
ここのホームページがよくできているのはヴァーチャルツアーができることです。見残しが多いことが判明して残念に思っています。歴史なども詳しく書かれています。

詩仙堂は石川丈山(元は家康公の近侍)。徳川家を離れ、京都で朱子学を学だが、老母に孝養を尽くす為に広島の浅野家に仕え、母の死後京に帰り、59歳で詩仙堂を建て、没するまでの三十余年をここで過ごしました。隷書、漢詩の大家で作庭家でもあったそうです。

詩仙堂は凹凸窠(でこぼこした土地に建てた住まい、という意味)の一室。漢晋唐宋の詩家三十六人の絵を狩野探幽に描かせ、各詩人の死を丈山自ら書いて四方の壁に掲げた「詩仙の間」を中心としているところから呼ばれるようになったのです。
(なんと、予習不足で壁の上をみあげなかったのです!)
現在は曹洞宗のお寺で定山寺といいます。

詩仙堂は三回目です。主人は初めてなのでまあ付き合うか、といった気持ちでしたが、とんでもなかったです。前の二回はお部屋からお庭を眺めただけで、こんなものか、という感じでした。お庭にはおりませんでした。ところが今回はお庭に出られたのです。

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入口でとりあえずお手洗いの場所をお聞きしました。「サンダルがありますから、それを履いて庭に下りてください。階段を下りていくと藤棚がありますが、さらに下りて一番下まで行ってください。そこにあります。まず一番下まで降りてお庭を見ながら上がってきて最後にお部屋を観るといいですよ」と言われました。
言われた場所でサンダルを履くと私には大きすぎです。階段で転ぶと危ないので靴を履きたいと入口に戻ると「それではそこの袋を持って行ってそれにいれてください」と言われました。積み上げられているポリ袋、何人もの人が使ったらしく、地厚なのですがヨレヨレ。気持ちが悪かったのですが、仕方がありません。利用することにしました。お寺は靴を脱ぐことが多いので袋必携です!(もしかして、お手洗いの場所をおききしなければお庭におりなかったかもしれません) 

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靴を履いてお庭に下りました。下りながら観るのと、上がりながら観るのは感じが違います。写真を撮りながら下りていきました。

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 望楼のようなのが嘯月楼 

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ここが一番下でこの横にお手洗いがありました。

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これも横にあったと思います。

ゆっくり4分くらいかけておりてきたことになります。

ここから上がって行きます。道はひととおりではないので見逃しがあるはずです。

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写真を撮りながらゆっくり上がってきたのでつらくはなく楽しいお散歩でした。

25分余りで戻ってきました。
お部屋からお庭を眺めます。

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詩仙堂、と言うとおぼえているのはこの眺めです。 以前は繁みの一つ一つがもう少しこんもり大きかったような気がするのですが。

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5人くらい、静かに座ってお庭を眺めていらっしゃいました。

13:40 詩仙堂を後にしました。

一乗寺駅方向に歩き始めました。「このあたりに一乗下り松があるはずだ。それを見て行こう」見に行くまでもなく通り道にありました。
平安時代から、近江から京にいたる交通の要衝の地で、旅人の目印として松が植えつがれてきたそうです。宮本武蔵が吉岡一門数十人と決闘を行った場所としても有名だそうです(主人はそれで見たかったらしいです)

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碑が真っ黒でよめないので 明るくしたのでハレーションを起こしたような写真になってしまいました。

宮本吉岡決闘之地と彫られています。

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拡大しても薄くて読めませんね。(この時13:50)

そのまま進むと白川通りにぶつかります。あたりに食事ができる場所はありません。バス停(一乗寺下り松町)がそばにあります。その近くに一軒小さなおうどんやさんがありました。テイクアウト専門らしいですが覗くとカウンタ―はありました。チェーンで家の近くにもあると言いましたが、気が進みません(安すぎて心配!)

しかたがないのでバスでホテル近くまで戻ることにしました。このバスは朝私が真如堂まで乗ったバスと同じ市営⑤バスです。すいていて座れたのでやれやれです。途中、神宮通バス停を、お昼をたべていればここで青蓮院に行けたのに、と残念に思いながら通り過ぎました。

ホテルに戻ってもたべるものはないわけですから、四条河原町まで行きました。

この後のことは次回にします。

2021年11月10日 (水)

2021年秋 京都 3-3(圓光寺)

曼殊院を後にしたのは 12:36

坂道を下りていきます。行きに歩いたらさぞかし大変だったでしょう。

圓光寺にたどり着いたのは12:06。グーグルマップで調べると13分。ゆっくり道を確かめ、途中間違った道に入りこんだせいでしょうか。(私は方向音痴で、間違った道を主張してしまったのです)思いのほか時間がかかりました。

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やっと到着、と思ったら門から登りでした。 

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門を振り返って

階段を折れながら上がって行きます。緩い石段坂です。

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これは最も緩い坂、もう少し段差があるところもありますが、全体的に緩い階段坂です。でも不整脈のある私はつらかったです。2分くらい登りました(私の足で、普通は1分程度)。

上がりきると奔龍庭です。パっと明るい。砂の白さがまぶしかったです。

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圓光寺 瑞巖山圓光寺 臨済宗南禅寺派のお寺 (12:06~12:50)

1601年、徳川家康が国内教学の発展を図るため、下野足利学校第九代学頭・三要元佶禅師を招き、伏見に圓光寺を建立し学校としました。この学校は僧俗を問わず入学が許されました。元佶は佐賀の出身です。
この地に移ったのは1667年です。
孔子家語・貞観政要など多くの書籍を刊行、出版に使用された木活字が保存されています。
明治になって尼僧寺院になりましたが、現在は男性が住職で尼僧道場も廃止されています。

私はこのお寺を葉室麟作の『花や散る乱』を第一冊目とする、雨宮蔵人シリーズで知り、ぜひとも足を運んでみたかったのです。三人の主要登場人物の内、右京は武士であることをやめてここで僧になる勉強をしています。(初代学頭の元佶は同郷)蔵人もしばらくここに住んでいました。その後彼は公家の中院通茂の家の用心棒になります。
曼殊院の所で触れた「古今伝授」ですが、この中院家は後水尾天皇から「古今伝授」を授けられた八人の廷臣の一人です(小説によると)。後水尾天皇は禁裏の尊厳を守る者の証として伝えたので、容易には教えてもらえないものだったそうで、徳川家光も拒まれたそうです。

この小説にはお庭のすばらしさについても書かれていました。  

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奔龍庭 2013年 ご住職がボストン美術館で蕭白の「雲龍図」をみてこの庭の着想をえたそうです。
なおこの大坪住職は元ビジネスマンで62歳になって僧堂に入られた方だそうです。

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(渦を巻き、様々な流れを見せる白砂を雲海に見立て、天空を自在に奔る龍を石組みであらわした平成の枯山水。龍の頭部と背中付近にそびえたつ石柱はかつてこの寺の井戸の部材として使われていたもの。

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葉室麟の小説でも触れられていた「十牛の庭」に行きます。ここも紅葉の名所だそうですが、青もみじでもすてきでした。

十牛の庭、とは牛を追う牧童の様子が描かれた「十牛図」を題材にしたものです。牛は人間が生まれながらに持っている仏心をあらわしていて牧童が禅の悟りにいたるまでの道程で、悟りは自らの中にあった、という物語だそうです。

池泉回遊式庭園です。回遊式ですから、お庭の中を歩けるのです。緑の中を歩くのはとても気持ちがよかったです。今回訪ねた京都の庭園で東福寺は別としてとてもに印象に残った庭園でした。

先ずはすぐ入ったところ、左手の縁側で一休みしてから 散策しました。

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 苔も美しい
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奥には竹林があります。円山応挙がよく訪れたので「応挙竹林」とよばれています。展示室に「雨竹風竹図屏風」が飾られているはずですが、ハテ見逃したか?

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栖龍池 洛北で一番歴史が古いそうです。

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 中央は臥牛 後ろからみています。

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水琴窟 
水琴窟とは手水鉢の近くに設けられた地中の空洞の中に手水鉢の排水を落とし、その音が地上に聞こえるように設計されたもにだそうです。このお寺のように縁が幅広い盃型の手水鉢を用いた水琴窟の例はあまりなく古くから「圓光寺型」として趣味人に愛されてきたそうです。でも残念ながら音はきけませんでした。(ネットで検索すると真如堂にもあるそうですが、私がみた手水鉢とは違うようです。再訪の理由が増えました)

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最初のせたときには気がつかなかったのですが、これは円山応挙の「雨竹風竹図」という屏風絵の縮小版でした。


↓お寺のどの部分かわかりません。

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とてもいいお庭でした。大満足ですがそろそろ出ることにしました。

次はすぐ近くの詩仙堂ですが、それは次回に。