天草・長崎旅行 3日目―3 (大浦天主堂~空港・帰宅)
10月18日の続き その3です。
グラバー園からグラバー坂をおりて大浦教会に向かいます。
(左の木の横辺りがおかしいですが、そこにいた私を消した跡です。それにしても今のPhotoshopはスグレモノです)
おりて左を見ると茶色い煉瓦造りのカトリック大浦教会、がありました。白いはずでは?あとで分かったのですが、本来の大浦教会(天主堂)は観光客が多くて祈りの場に適さなくなったので教区民のために1975年に建てられたものだそうです。上から見たとき、白い教会の奥に茶色の教会が見えたのがこれでした。
右に目的の大浦天主堂が見えました。(階段に人物がいたのを消したので少しおかしくなっています)
美しい教会です。
階段を少し上がった所の左側の建物がチケット売り場です。
博物館の入場料込みとのことですが、お高いです。京都のお寺でもちょっとないです。
教会はお祈りの場ですから無料、できれば献金を。博物館はお金を取りますよ。と言うのが本来の在り方のような気がします。(私はこれまでの教会では千円ずつ献金してきましたが、徴収されるとなると?です)
まあ、ここはグラバー邸も近くて長崎でも特に人気の観光スポットでしょうから、人数制限の役割を果たすかもしれません。
ただ、20ページの「大浦天主堂物語」という日本のキリスト教の歴史や浦上、大浦天主堂についての説明が要領よく書かれた冊子がいただけたのはよかったです。
階段を上がり中程左に少し開けたところがあります。
信者発見記念碑
記念碑の左横を見ます。 白い立ち姿はプティジャン神父、その左はヨハネ・パウロ二世です。
池、灯籠、庭園風にしつらえられています。ヨーロッパの教会でこのようにお庭を造るということはないように思います。お寺のお庭が頭にあるのでしょうか。
大浦天主堂 国宝 大浦天主堂 (nagasaki-oura-church.jp)
このホームページはとてもよくできています。これをお読みいただければ私が書くことは何もありませんので簡単に。
1858年、米・英・仏・露・蘭と修好通商条約を結び、1859年には横浜、長崎、函館に港を開きました。
1863年に長崎に天主堂を建てるために、ローマ教皇庁はフューレ神父、次いでプティジャン神父を派遣。フューレ神父は帰国したため、プティジャン神父が日本人大工たちと建てたのがこの大浦天主堂です。以前、外海の黒崎教会をみたことがありますが、それを建てた川原忠蔵の父川原粂吉もその大工のひとりでした。日本の初期教会建築では鉄川与助が有名ですが、川原忠蔵も忘れてはならない人物です。
外海でド・ロ神父の下、出津教会を建てた日本人大工や、この大浦で大工だった人たちや彼らに学んだ人たちがが其の後、日本の初期教会建築を担ったと言えるのでしょう。
1597年、スペイン人司祭などとともに日本人信徒20名とあわせて26名が西坂(長崎駅近く)で処刑されました。
これは西欧では広く知られていて(1862年には26人は列聖されています)フューレ神父も西坂の地に教会を建てたかったそうですが、居留地の外には建てることが許されなかったので、教会は西坂に向けて建てられることになったそうです。
1864年末完成、1865年2月献堂式。日本二十六聖殉教者聖堂と命名。当時は禁教時代なので、これは外国人用でした。
その一か月後、男女子供あわせて12~15人達が門のところにいるのを案内すると、自分たちが切支丹であることを明かしました。「信徒発見」です。これは教会側からすれば、で切支丹たちにとっては「神父発見」だったのです。
以前、外海でバスチャン屋敷跡に行ったことがありますが、そのバスチャンの預言に「コンヘソロー(告白を聞く司祭)が大きな黒船に乗ってやってきて、毎週でも告白ができるようになる」というのがあり、それで彼らはやってきたのです。潜伏切支丹たちにとっては大きな喜びだったでしょうが、これが遠因となって(と私は考えている)役人に存在が知られてしまい、恐ろしい浦上4番崩れも起きてしまうのです。
1839年に教会は増築され現在の形になりました。
中央のマリア像は信徒発見の記念にプティジャンがフランスに注文した「日本之聖母」
中は写真禁止でした。外からならいいかと撮ったのですが、よく見ると「室内の撮影はご遠慮ください」となっていて外からでも室内を撮ったものは駄目そうなのでここには載せません。望遠がきいてとても綺麗に撮れたのですけれど。
入口あたりなら許されるでしょうか。
でも53年前に来た時は写真はとってよかったのです。その時のぼんやりした写真。(現在は祭壇の横に、室内の撮影禁止の立て札があります)
これでは仕方がないのでホームぺージからお借りして
お天気のせいもあってか、中は薄暗かったです。それだけに余計ステンドグラスが映えて美しかったです。
この教会は他の日本人が見様見真似で建てた教会(悪く言っているつもりはありません。素晴らしい教会がたくさんありましたから)とは違って、ヨーロッパの教会そのものだと思いました。
ヨーロッパのカテドラルではない、小さな町の教会にいるようでとても落ち着いた感じがしました。
いい教会です。
左奥にはクリスマスが近いからか、かなり大がかりなプレセピオがしつらえられていました。
右奥 (これもホームページからお借りした写真です)
1865年、潜伏キリシタンたちが駆け寄ったというマリア像です。
ところで、このブログでは時刻を時々記していますが、実際には道中、時計は殆ど見ませんでした。そうしてなんとなく、 長崎に泊ったのだから、時間に余裕はあるはず、美味しいお昼をいただいて、出島にも行ってみたいと考えていました(他の観光名所は一応、昔観ていますから)。ところがもう13:45。空港バスは20分間隔で、14:35発に乗る予定です。あらあら、博物館に寄る時間もありません。
この教会、気にいったのでもう少しゆっくりしたかったのに。
教会からの階段をおりたところで「祈念坂」に行くべきことを思い出しました。
教会の横の細い道↓へ入りました。
↓途中、右に坂道
違うのかしら?階段を上がって進み、車の所を右に折れればよさそうに思えます。坂、階段が苦手なので間違っていると困ると迷っていると、主人が「ここで待ってて、様子を見てくる」しばらくして「どこまでも階段だから、違うのじゃないかな」それで時間もないことだし、ホテルに戻ることにしました。ところが家にかえって写真を見ると、これは教会ではありませんか!頑張って私も行けばよかった!ここが遠藤周作氏お薦めの祈念坂でした。もう少し上がれば、教会を左に見下ろせる地点(『遠藤周作と歩く長崎巡礼』100ページの写真)だったのです。(13:49)
(この道は車の泊まっている道を右に進み もう一度左に折れた道)
教会前に戻り、グラバー通りを下りていきます。折よくコンビニの前に泊っていたタクシーに乗ると、ホテルまで5分くらいでした。荷物を受け取って(預かり札が見つからなくて慌てましたが)バス乗り場へ向かいます。
へんな迂回路を通って東口へ行きます。長崎駅前には広場がありその向こうに大通り。この大通りを渡ったところに長距離バスターミナルがあるのです。ところがここには横断歩道(信号)がないのです。広場の上に屋上広場がありそこを経由して向こう側に行くようになっています。道路まで行ってそれに気づき、戻って広場に上がる階段へ。ともかくバリアフリーではないのです。
(グーグルマップから)左下が駅東口です。
主人は坂道も階段も平気な人ですから、キャリーと私の手提げも持って駆け上がっていきます。私はあとからヨタヨタ。一人だったら途方にくれていたと思います。
それでもぎりぎり14:25(調べたときにこの時刻はなかったのですが)のバスに乗れました。
空港までバスで1時間くらいかかります。バスは空港までノンストップではなくしょっちゅう停まります。
バスだと渋滞を心配しなければならないので、早めに乗ったのですが、順調に行けました。
17:00発の」飛行機ですから、時間は充分にあります。
この空港は三回目です。少し変わっているところもありますが、前回五島からの帰りと同じお店で遅めのお昼にしました。
長崎ちゃんぽん、美味しかったです。
これまで殆ど買い物ができなかったのであれこれ物色、ぎりぎりで、出発が15分遅れた飛行機に乗り込みました。
全て順調で無事帰宅。
原城址に行けなかったのは残念でしたが、天草が満足できるものでしたから、今回の旅はよし、とすることにしました。(16787歩)
家に帰って空港で買った大村寿司(角寿司)で夕食としました。
食べ終わってから写真の撮り忘れに気が付きました。角寿司は一種の押しずしで、上部は錦糸卵におおわれていて、下のごはんの間に具がはさまれているものです。四角く(この場合は2×3に)切れ目がはいっていて、一切れずつとりだしていただくようになっています。
ちゃんぽんも角寿司も長崎名物で、前にもいただきましたが、どちらもまあ、美味しいです。
買った食品はいくつかありますが、ひとつだけ。「からすみスライス」
飛行機から下りるときお土産物の袋にウールのスカーフをいれておいたら、なんだか濡れているよう、それに何とも言えない匂いが、、、。 少し焦げたような、いやな匂いではないのですが、気になる匂いでそのもとが、このからすみオイル漬けでした。(スカーフは手洗いで無事でした)
からすみってこんな匂いだったのかしら?以前トルコで買ってきて、おろしてパスタにかけていただいたことがあります。 その美味しさが忘れられずに買ったのです。
スライスが4切れ程オイルの中に浮かんでいます。おろすのも薄い上に油まみれでおろしにくいので、とりあえず2切れだけ細かくきざんでパスタに混ぜてみました。オイルはたっぷりお皿の上でパスタに混ぜました。このオイルがいいのです。非常に美味でした。まさにご褒美食卓ものでした。(好みはあろうかと思いますので、うのみになさらないでください)
2015年の長崎(平戸、生月島、外海)旅行、2017年の五島列島旅行に続いての潜伏キリシタン関連地への旅行は、原城址へ行けなかったのは残念ですが、これで一応終わりです。
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ヨーロッパを旅行してキリスト教の歴史を勉強しなければ、と思い、朝日カルチャーセンターで「ヨーロッパのキリスト教の歴史」と言う講座を長く受講しました。それが終わる頃、ちょうどドレフュス事件のところで今野國雄先生は癌で倒れられ、一年後に復帰。
いそぎ20世紀まで終わったところで、今度は日本におけるキリスト教の歴史をやります、と始められたのですが1ヶ月後に再発、とうとうお亡くなりになられました。日本の歴史に入る前に今野先生は長崎にいらしたことをお話くださいました。それで、いつか長崎を中心とするキリスト教関連の地を巡りたいと願うようになったのです。
ヨーロッパキリスト教史でもカタリ派とか、異端審問とか恐ろしい話がありますが、日本の切支丹は非常に苦難の歴史を歩んできました。特に長崎では原爆までおとされて、禁教がとけたあともなお試練にあわなければなりませんでした。
こういう土地を訪ねるのは心が重く、年のせいか、それに耐える気力もなくなってきました。
学生時代、津和野に行ったときに乙女峠で、ここで多くのキリシタンが亡くなったということが立て札に書かれていて、何故?と思ったものですが、浦上四番崩れについて知った今、再訪してみたいと思っています。
又数年前、函館から松前に行くバスの中で大千軒岳での切支丹処刑の話を聞きました。私は追われて、流れながれてここまできたのかと思いましたが、今回調べてみると、1618年にイエズス会の神父二人が大千軒岳まで布教に行っていたことを知りました。
浦上四番崩れでは金沢に送られた人達もいたそうです。
気になる場所は色々あります。でも気力をふるいたたせることができるかどうか。
今また恐ろしい勢いでコロナが広まっています。旅行体力が落ちる一方の高齢者にとって、感染症の流行で旅を阻まれるのはとても残念なことです。束の間 感染者が激減した時に旅行ができてありがたかったとおもっております。
旅行記完
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