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天草・長崎の旅

2022年1月15日 (土)

天草・長崎旅行 3日目―3 (大浦天主堂~空港・帰宅)

10月18日の続き その3です。

グラバー園からグラバー坂をおりて大浦教会に向かいます。

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(左の木の横辺りがおかしいですが、そこにいた私を消した跡です。それにしても今のPhotoshopはスグレモノです)

おりて左を見ると茶色い煉瓦造りのカトリック大浦教会、がありました。白いはずでは?あとで分かったのですが、本来の大浦教会(天主堂)は観光客が多くて祈りの場に適さなくなったので教区民のために1975年に建てられたものだそうです。上から見たとき、白い教会の奥に茶色の教会が見えたのがこれでした。

右に目的の大浦天主堂が見えました。(階段に人物がいたのを消したので少しおかしくなっています)

美しい教会です。

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階段を少し上がった所の左側の建物がチケット売り場です。

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博物館の入場料込みとのことですが、お高いです。京都のお寺でもちょっとないです。
教会はお祈りの場ですから無料、できれば献金を。博物館はお金を取りますよ。と言うのが本来の在り方のような気がします。(私はこれまでの教会では千円ずつ献金してきましたが、徴収されるとなると?です)
まあ、ここはグラバー邸も近くて長崎でも特に人気の観光スポットでしょうから、人数制限の役割を果たすかもしれません。

ただ、20ページの「大浦天主堂物語」という日本のキリスト教の歴史や浦上、大浦天主堂についての説明が要領よく書かれた冊子がいただけたのはよかったです。

階段を上がり中程左に少し開けたところがあります。

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信者発見記念碑

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記念碑の左横を見ます。 白い立ち姿はプティジャン神父、
その左はヨハネ・パウロ二世です。

池、灯籠、庭園風にしつらえられています。ヨーロッパの教会でこのようにお庭を造るということはないように思います。お寺のお庭が頭にあるのでしょうか。

大浦天主堂  国宝 大浦天主堂 (nagasaki-oura-church.jp)
このホームページはとてもよくできています。これをお読みいただければ私が書くことは何もありませんので
簡単に。

1858年、米・英・仏・露・蘭と修好通商条約を結び、1859年には横浜、長崎、函館に港を開きました。
1863年に長崎に天主堂を建てるために、ローマ教皇庁はフューレ神父、次いでプティジャン神父を派遣。フューレ神父は帰国したため、プティジャン神父が日本人大工たちと建てたのがこの大浦天主堂です。以前、外海の黒崎教会をみたことがありますが、それを建てた川原忠蔵の父川原粂吉もその大工のひとりでした。日本の初期教会建築では鉄川与助が有名ですが、川原忠蔵も忘れてはならない人物です。
外海でド・ロ神父の下、出津教会を建てた日本人大工や、この大浦で大工だった人たちや彼らに学んだ人たちがが其の後、日本の初期教会建築を担ったと言えるのでしょう。
  
1597年、スペイン人司祭などとともに日本人信徒20名とあわせて26名が西坂(長崎駅近く)で処刑されました。
これは西欧では広く知られていて(1862年には26人は列聖されています)フューレ神父も西坂の地に教会を建てたかったそうですが、居留地の外には建てることが許されなかったので、教会は西坂に向けて建てられることになったそうです。
  
1864年末完成、1865年2月献堂式。日本二十六聖殉教者聖堂と命名。当時は禁教時代なので、これは外国人用でした。
その一か月後、男女子供あわせて12~15人達が門のところにいるのを案内すると、自分たちが切支丹であることを明かしました。「信徒発見」です。これは教会側からすれば、で切支丹たちにとっては「神父発見」だったのです。
以前、外海でバスチャン屋敷跡に行ったことがありますが、そのバスチャンの預言に「コンヘソロー(告白を聞く司祭)が大きな黒船に乗ってやってきて、毎週でも告白ができるようになる」というのがあり、それで彼らはやってきたのです。潜伏切支丹たちにとっては大きな喜びだったでしょうが、これが遠因となって(と私は考えている)役人に存在が知られてしまい、恐ろしい浦上4番崩れも起きてしまうのです。
 

1839年に教会は増築され現在の形になりました。 

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中央のマリア像は信徒発見の記念にプティジャンがフランスに注文した「日本之聖母」

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中は写真禁止でした。外からならいいかと撮ったのですが、よく見ると「室内の撮影はご遠慮ください」となっていて外からでも室内を撮ったものは駄目そうなのでここには載せません。望遠がきいてとても綺麗に撮れたのですけれど。

入口あたりなら許されるでしょうか。

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でも53年前に来た時は写真はとってよかったのです。その時のぼんやりした写真。(現在は祭壇の横に、室内の撮影禁止の立て札があります)

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これでは仕方がないのでホームぺージからお借りして

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お天気のせいもあってか、中は薄暗かったです。それだけに余計ステンドグラスが映えて美しかったです。
この教会は他の日本人が見様見真似で建てた教会(悪く言っているつもりはありません。素晴らしい教会がたくさんありましたから)とは違って、ヨーロッパの教会そのものだと思いました。 

ヨーロッパのカテドラルではない、小さな町の教会にいるようでとても落ち着いた感じがしました。
いい教会です。

左奥にはクリスマスが近いからか、かなり大がかりなプレセピオがしつらえられていました。 

右奥 (これもホームページからお借りした写真です)

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1865年、潜伏キリシタンたちが駆け寄ったというマリア像です。

ところで、このブログでは時刻を時々記していますが、実際には道中、時計は殆ど見ませんでした。そうしてなんとなく、 長崎に泊ったのだから、時間に余裕はあるはず、美味しいお昼をいただいて、出島にも行ってみたいと考えていました(他の観光名所は一応、昔観ていますから)。ところがもう13:45。空港バスは20分間隔で、14:35発に乗る予定です。あらあら、博物館に寄る時間もありません。

この教会、気にいったのでもう少しゆっくりしたかったのに。

教会からの階段をおりたところで「祈念坂」に行くべきことを思い出しました。
教会の横の細い道↓へ入りました。

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↓途中、右に坂道

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違うのかしら?階段を上がって進み、車の所を右に折れればよさそうに思えます。坂、階段が苦手なので間違っていると困ると迷っていると、主人が「ここで待ってて、様子を見てくる」しばらくして「どこまでも階段だから、違うのじゃないかな」それで時間もないことだし、ホテルに戻ることにしました。ところが家にかえって写真を見ると、これは教会ではありませんか!頑張って私も行けばよかった!ここが遠藤周作氏お薦めの祈念坂でした。もう少し上がれば、教会を左に見下ろせる地点(『遠藤周作と歩く長崎巡礼』100ページの写真)だったのです。(13:49)

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(この道は車の泊まっている道を右に進み もう一度左に折れた道)
教会前に戻り、グラバー通りを下りていきます。折よくコンビニの前に泊っていたタクシーに乗ると、ホテルまで5分くらいでした。荷物を受け取って(預かり札が見つからなくて慌てましたが)バス乗り場へ向かいます。

へんな迂回路を通って東口へ行きます。長崎駅前には広場がありその向こうに大通り。この大通りを渡ったところに長距離バスターミナルがあるのです。ところがここには横断歩道(信号)がないのです。広場の上に屋上広場がありそこを経由して向こう側に行くようになっています。道路まで行ってそれに気づき、戻って広場に上がる階段へ。ともかくバリアフリーではないのです。
(グーグルマップから)左下が駅東口です。

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主人は坂道も階段も平気な人ですから、キャリーと私の手提げも持って駆け上がっていきます。私はあとからヨタヨタ。一人だったら途方にくれていたと思います。 

それでもぎりぎり14:25(調べたときにこの時刻はなかったのですが)のバスに乗れました。
空港までバスで1時間くらいかかります。バスは空港までノンストップではなくしょっちゅう停まります。

バスだと渋滞を心配しなければならないので、早めに乗ったのですが、順調に行けました。
17:00発の」飛行機ですから、時間は充分にあります。
この空港は三回目です。少し変わっているところもありますが、前回五島からの帰りと同じお店で遅めのお昼にしました。

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長崎ちゃんぽん、美味しかったです。

これまで殆ど買い物ができなかったのであれこれ物色、ぎりぎりで、出発が15分遅れた飛行機に乗り込みました。

全て順調で無事帰宅。 
原城址に行けなかったのは残念でしたが、天草が満足できるものでしたから、今回の旅はよし、とすることにしました。(16787歩)


家に帰って空港で買った大村寿司(角寿司)で夕食としました。

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食べ終わってから写真の撮り忘れに気が付きました。角寿司は一種の押しずしで、上部は錦糸卵におおわれていて、下のごはんの間に具がはさまれているものです。四角く(この場合は2×3に)切れ目がはいっていて、一切れずつとりだしていただくようになっています。
ちゃんぽんも角寿司も長崎名物で、前にもいただきましたが、どちらもまあ、美味しいです。

買った食品はいくつかありますが、ひとつだけ。「からすみスライス」

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飛行機から下りるときお土産物の袋にウールのスカーフをいれておいたら、なんだか濡れているよう、それに何とも言えない匂いが、、、。 少し焦げたような、いやな匂いではないのですが、気になる匂いでそのもとが、このからすみオイル漬けでした。(スカーフは手洗いで無事でした)
からすみってこんな匂いだったのかしら?以前トルコで買ってきて、おろしてパスタにかけていただいたことがあります。 その美味しさが忘れられずに買ったのです。

スライスが4切れ程オイルの中に浮かんでいます。おろすのも薄い上に油まみれでおろしにくいので、とりあえず2切れだけ細かくきざんでパスタに混ぜてみました。オイルはたっぷりお皿の上でパスタに混ぜました。このオイルがいいのです。非常に美味でした。まさにご褒美食卓ものでした。(好みはあろうかと思いますので、うのみになさらないでください)

2015年の長崎(平戸、生月島、外海)旅行、2017年の五島列島旅行に続いての潜伏キリシタン関連地への旅行は、原城址へ行けなかったのは残念ですが、これで一応終わりです。

*******

ヨーロッパを旅行してキリスト教の歴史を勉強しなければ、と思い、朝日カルチャーセンターで「ヨーロッパのキリスト教の歴史」と言う講座を長く受講しました。それが終わる頃、ちょうどドレフュス事件のところで今野國雄先生は癌で倒れられ、一年後に復帰。
いそぎ20世紀まで終わったところで、今度は日本におけるキリスト教の歴史をやります、と始められたのですが1ヶ月後に再発、とうとうお亡くなりになられました。日本の歴史に入る前に今野先生は長崎にいらしたことをお話くださいました。それで、いつか長崎を中心とするキリスト教関連の地を巡りたいと願うようになったのです。

ヨーロッパキリスト教史でもカタリ派とか、異端審問とか恐ろしい話がありますが、日本の切支丹は非常に苦難の歴史を歩んできました。特に長崎では原爆までおとされて、禁教がとけたあともなお試練にあわなければなりませんでした。

こういう土地を訪ねるのは心が重く、年のせいか、それに耐える気力もなくなってきました。

学生時代、津和野に行ったときに乙女峠で、ここで多くのキリシタンが亡くなったということが立て札に書かれていて、何故?と思ったものですが、浦上四番崩れについて知った今、再訪してみたいと思っています。

又数年前、函館から松前に行くバスの中で大千軒岳での切支丹処刑の話を聞きました。私は追われて、流れながれてここまできたのかと思いましたが、今回調べてみると、1618年にイエズス会の神父二人が大千軒岳まで布教に行っていたことを知りました。
浦上四番崩れで
は金沢に送られた人達もいたそうです。

気になる場所は色々あります。でも気力をふるいたたせることができるかどうか。 

今また恐ろしい勢いでコロナが広まっています。旅行体力が落ちる一方の高齢者にとって、感染症の流行で旅を阻まれるのはとても残念なことです。束の間 感染者が激減した時に旅行ができてありがたかったとおもっております。

 旅行記完  

 

2022年1月 8日 (土)

天草・長崎旅行 2日目―3(大江教会~)

2日目 つづきです。西海岸を行きます。ルート↓  

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岬のマリア像を遠望して美しい海岸線を走ったあと

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トンネルに入りしばらく行くと

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天草ロザリオ館駐車場、丘の上に大江教会が見えます。
来る前にこの真っ白な教会を写真で見たときは何だか安っぽい感じがしたのですが、実際に現地で見上げると周囲に溶け込んでなかなかいい感じでした。

予定ではこのロザリオ館に入ることになっていたのですが、もう時間がないとのことで「カットさせてください」と言われました。そうして車で教会のすぐ真下まで上がって行きました。(大型バスは下に停めなければいけないようです)

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このすぐ下に車を停めて歩いていきました。

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上がりながら横を見ると遠くに入り江が見えました。

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教会横の墓地。長方形の墓碑の上に十字架、まわりに灯籠が立てられ、仏教風とキリスト教風が混ざっているような感じがしました。
↓拡大してみると、左の灯籠の上は 百合?型のようにも見えますが、ほかの灯籠は擬宝珠のようなものが付いています。御線香をあげる台のようなものまであります。

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大江教会
1873年、キリスト教禁止令の高札が撤廃。
長崎神の島の漁師、西政吉が大江村にやってきて、話をしてそれを聞いた道田嘉吉が入信、その後数人が長崎に渡り洗礼を受け、彼らを中心に信仰共同体ができ、旧切支丹を探すことから始めて、教会はしだいに成長していったのです。
1877年には初代司祭としてマルマン神父が着任し、1879年に簡素な教会が建てられました。
1892年 ルドビコ・ガルニエ神父が着任。
ガルニエ神父は約49年間大江教会の主任司祭を務めました(最初の35年間は崎津教会の司祭も兼任)。
神父はここに新しい教会を建てるため、質素な食事ををし、里帰り(フランスへの)のために支給されるお金も帰国せずにためて今ある教会を建てました。 
設計・施工は崎津教会と同じ鉄川与助です。教会は1932年起工、翌年完成しました。
コンクリート造り、天井は折り上げ天上です。(船底天井ともいう)
柔らかいオレンジ色の天井、明るく気持ちが晴れやかになる色合いです。
 
デジャビュ、五島列島の「中ノ浦教会」に雰囲気がとてもよく似ています。こちらの方は誰が作ったのかわかっていないそうです。もう一つ鉄川与助作の作で五島列島にある折り上げ天井を持つ教会は「半泊教会」。とても質素な教会でしたが祈りの場にふさわしい清らかな感じのする教会でした。(2017年、五島列島旅行のおりに訪ねました)

教会に入ると、パーッと明るくはれやかな空間が広がります。あとから入っていらした女性の二人連れは「わあ、きれい」と歓声をあげていらっしゃいました。思わずそう声を上げたくなるような美しさです。

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何だか少女趣味な感じに見えますが、横幅のある教会でゆったり落ち着いた美しさでした。
ガルニエ神父様は教会堂に美しく清らかな天上の世界を再現なさりたかったのでしょうか。

『街道をゆく』で、崎津教会について書かれているところに「教会のなかに入ると、大江教会もそうであったが、畳が敷かれている」とあるので、もとは畳敷きだったということになります。 

ここも後ろから拝見するだけで前方には進めません。
いらしたシスターが「ご説明しましょうか」お二人の女性はお話をおききになっていらっしゃいましたが、私たちは船の時間もあるのでお話は伺わないで、おかれていた絵葉書を買って献金をして出ました。

運転手さんに「横にまわってルルドの聖母の所からおりてきてください。そこで待っていますから」といわれていました。

そこで「ルルドの聖母」の矢印を探して石段を下りました。帰ってから知ったのですが「吉井勇」の歌碑があったのだそうで、見なかったことがちょっと残念に思っています。

吉井勇、北原白秋、木下杢太郎、平野万里らは与謝野鉄幹に連れられて五人で1907年、北九州を旅行したのですが、その一つの目的はここでガルニエ神父に会うことだったそうです。この旅のことを五人が書いた紀行文が「五足の靴」。また白秋は『邪宗門』を書きました。(『邪宗門』は青空文庫で読めますが、ちょっと苦手で読むのをやめました)

教会横には ガルニエ神父像

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ガルニエ神父様はフランスのル・ピュイのお生まれ、とあります。ル・ピュイは93年の初ロマネスクの旅で訪れた町です。大聖堂の他にサン・ミシェル・デ・ギーユと言う岩山の上にも教会がありました。あの頃はあの石段を苦もなく上れたことを懐かしく思い出しました。
大聖堂には黒マリア。又「熱病の石」という病気治癒の黒い石もあります。
生まれ故郷のあの奇岩の町、ル・ピュイに一度も帰ることなく、異国で伝道と奉仕の生活をなさったことに改めて感銘を覚えました。 

階段を下りると

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上の方を拡大すると

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享年82歳。生前、お墓には石一つ置くだけでよい、それよりお金は信者のために使うよう、と言われたそうですが、信者たちとしては建てずにすませるわけにはいかなかったのでしょう。

その横に下りていくと「ルルドの聖母」
1858年、ルルドの14歳の少女ベルナデットが薪を拾いに行ったとき聖母マリアが現れてお告げに従って(マッサビルの洞窟の)地面を掘ると水がわき、その水によって病気が治る奇跡が起きました。そのため、現在もルルドの町には病人が引きも切らずやってきています。
私は2014年に行きました。車いすの行列、きっと病院巡りのはてにここまでやってきたのでしょう。でも本当に治るのかどうか、見ていてつらくなる光景でした。車いすでぐったりした人や担架にのせられた人の群れを思い出すせいかルルドの洞窟はあまり好きではありません。
お寺が素晴らしいお庭を造るように、キリスト教会の庭造りのモチーフがルルドの洞窟ととらえればいいのでしょうか。

やはりルルドの奇跡にあやかろうというのでしょうか、マリアの立つ洞窟があちこちに作られるようになりました。日本では五島列島の 井持浦教会が有名です。崎津教会のように簡単なものは他でもみたことがあります。

この大江教会の洞窟は石組みが立派でした。

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滝石組み、といいたくなります。とても大きな石が使われています。

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11:05 教会を後にしました。

教会を遠望 (車の中からなので ぼんやりしています。
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サンセットラインという海岸沿いの道を走りました。この海は天草灘です。
波が少し出ているような、、、。「さきほど鬼池に電話をしてみましたが、フェリーは出ているそうですよ」と運転手さん。

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11:39 富岡城の真下にきました。タクシー観光のコースには入っていなかったのですが、最終地を鬼池に変更したついでにとおり道だからと、富岡城が見えるところにもよってほしいと頼んでいたのです(追加で3000円増しでした)

富岡城はは砂嘴でつながった陸繋島にあります。

ここはその砂嘴を渡って城の真下、袋池の前です。

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本渡での戦いの後、天草四郎達はこの富岡城を攻めました。
関ヶ原の戦いで東軍に付き、功績のあった唐津城主寺沢宏高は天草郡を与えられ、ここに城を築いて城代を置いていたのです。1637年11月19日と22日に一揆勢は猛攻撃をかけたのですが、城は落ちず、江戸から討伐軍が来るとの報を知り島原に渡ることにしてここをひきました。
元の城はなく、現在見えている建物はビジターセンターだそうです。

戻って鬼池港に向かいます。しばらく走ると「天草四郎乗船之地」という石碑が見えました。

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富岡城を攻めおおせることが出来ず、ここから島原半島に渡ったのです。

ところで船は12:30出発 13:00についてすぐ向こうでタクシーに乗ります。昼食は船ですませる以外にないので、途中のコンビニでとめてもらって急いでお茶とおにぎりを買い込みました。(普段食べるチャンスがないせいかコンビニのおにぎりって買いたくなるのです)
この時かなり風が強く車のドアをあけるのに苦労しました。

12:00少し過ぎに鬼池フェリーターミナルに着きました。先に私が下りると、おりたとたん目についたのが 欠航中 の看板。

ガーン。「大変、欠航よ!」私が叫ぶと、主人はすぐタクシーの運転手さんに待つように言いました。

運転手さんもおりてきて一緒にフェリーの待合室に入ります。係の人がでてきて「11:30が最後で今日はもう船は出ないのですよ」と気の毒そうにおっしゃいます。運転手さんが電話をかけてくださったすぐ後に欠航が決まったようなのです。

離れ島の悪夢再び、です。以前五島列島では台風にあって、予定の教会に行けず一泊余分に泊まることになったことがあるのです。雨の心配ばかりしていて風のことは気にかけていなかったので、しばし茫然自失。

島旅はこういうリスクがつきものだと改めて思いました。

「もう富岡から長崎行も、熊本から島原行も欠航が決定しています」「熊本から少し離れたところから出る島原行で4時過ぎに出る分はまだ欠航のしらせがきていませんが」といろいろなフェリーの時刻表が出ている冊子を持ってきてくださいました。「電話番号も出ていますからきいてみるといいかもしれません」

昨日天草へ来たあのバスは動いているそうです。橋は二本あるので大丈夫だそうです。しかたがないのでタクシーで本渡バスセンター(町の中心)まで行ってもらうことにしました。
車の中から予約しているタクシーの会社とホテルにキャンセルのお電話をしました。欠航のせいか、ハイ分かりました、でおわりでした。
このまま天草に泊ったとしても、一応見るべきところは見たし、寒い中歩き回る気にもなれないし、明日朝フェリーが出る保証もないわけです。
まずは島を出ることとしました。

バスセンターに着いたのは12:40頃。気の毒がってくださっている運転手さんとわかれて、待合室へ。

次の熊本行は14:00発です。
とりあえずおにぎりを食べました。こんなことなら買わなくてもお店はそばにあったのに、と言いながら。
個人旅行ではいつもお昼がプアです。

主人は「今日の内に長崎に行こう、その方が明日すぐ見物できていい」と言います。まあ、それが妥当でしょう。同意しました。非常に残念ですが、原城址に行くことは断念せざるをえません。

何時に長崎に着けるのか調べることとホテルの予約がまずすべきことです。
スマホの出番です。
ホテルは三本目の電話でとれました。長崎駅西口1分のヒルトンです。
バスは熊本駅到着が16:24ですから17:02の新幹線に乗れます。それで新鳥栖と言う所へ行き鳥栖駅で長崎本線の特急に乗り換えれば19:30頃
長崎に着けることが分かりました。5時間半の移動です。

定刻にバスが来ました。今回は化粧室付きの新車です。

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相変わらずのどんよりした空を茫然と眺めながら過ごしました。

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バスが新しくて気持ちのよいのが救いでした。座席の間隔も広いようで、窓ガラスも大きいです。

16時24分 定刻通り、熊本駅前に着きました。Googleマップでは工事中の様子がうつっていてよくわからなかったのですが、綺麗に整備されていて、駅はすぐ向こうに見えました。
券売機では乗り継ぎ切符の買い方がわかりません。すぐ奥に緑の窓口を見つけました。長崎に行きたいことを告げると、
年よりとみてか「座席指定にしましょうね」「混んでいますか?」「それほどではありませんが、並んでは座れないかもしれませんよ」まあまあ、出費のかさむこと。

まだ少し時間があるので、向かい側のショッピングセンターのようなところでお弁当を物色。ピンとくるものがなかったので、長崎に着いてでいいかと買わずにホームへ。

新幹線はすいていましたが、自由席は満席なのか、連結部分に立っている方がいました。
座席は2-2でゆったりしています。熊本~新鳥栖は新幹線さくらで25分です。

新幹線、新鳥栖駅から在来線、鳥栖駅への移動が心配でしたが、窓口の人に新幹線の出口をでるとそこが在来線の入口です、と言われていましたが、まさにその通りで駅構内を長々移動とか、ましてや一度外に出る必要もありませんでした。
ただ長崎方面への乗り場ホームは跨線橋を渡ることにはなりましたが。

新幹線駅に着いてから在来線発車までは15分、ホームで10分以上待っている間が寒かったです。

特急かもめは乗った車両の後方が自由席、前方が指定席でした。後方はほぼ満席、前方はガラガラでした。これには1時間43分乗ります(時間がかかりすぎ!)。
新幹線と違って車内は暗く、座席間隔も狭いです。外はもう真っ暗で、旅の寂しさがひしひし(オーバーですが)。
長崎にはまだ新幹線は通ってないようです。
そうそう、もう遠い昔のようですが、崎津で「杉ようかん」を買ったことを思い出しました。甘いものは慰めになります。 おなかもすいてきましたし。早速バッグの中をゴソゴソ。ようかん、といっても実際はおもちでした。中に漉し餡がはいっていました。あとはひたすら時計とにらめっこ。
19:25長崎駅到着です。
西口を出ると道路を隔てて斜め前が長崎ヒルトン

ホテル一階はベルボーイのデスクがあるだけです。すぐ係の人が近づいてきて、キャリーをもって、エレベーターに案内され一緒に二階のフロントに行きました。宿泊手続きをして一緒に9階のお部屋に。

このホテルは先月開業したばかりだそうです。お部屋のドアはシールで封印されていました。
ロビーもモダンでステキでしたが、お部屋もステキです。(後から気がついたのですが、奥に本来ならあるはずの椅子テーブルセットがありませんでした)

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不思議なつくりでお部屋の中に洗面台?バスルームの扉はガラスで中が見えます。後で疑問解決。この洗面台と寝室部分を仕切るように板戸をひきだせて廊下とバスルームも引き戸で仕切ることが出来るようになっていました。
何ともお洒落。二人とも、やはり高級ホテルはいいわね、と大満足。

ところで、ぎりぎり滑り込みだったせいか、ホテル内レストランはどこも満席だそうで、外に出る以外にありません。おまけにこの辺りは夜8時には閉めるお店が多いそうです。そうしてこの西口と言うのは何もないところでお店は東口です。駅上にもレストランはあるそうですが、東口に回らなければなりません。

工事中でう回路を行くようになっていました。階段をあがるようなことはないものの、寒い中、かなり歩きました。アミュプラザと言うのが駅上商店街のようです。

エレベータ―でレストランのある5階に行きました。もう20時です。
折角の長崎、おいしいものをいただきたい。本来ならば島原でまた海鮮三昧だったはずですから。
でもここは?家族が買い物帰りに寄っていく、という雰囲気のお店ばかりです。

見ているうちに、どんどんラストオーダーの声が聞こえてきます。大体:15がラストオーダーの所が多く、もう入れてはいただけません。
主人は 刺身、と言います。一つのお店は宴会なのか、賑やかな声がきこえてきます。これはだめです。
お寿司屋さん? 回転ずしですが、仕方がありません
20:20 すし活、に入りました。

さほど込み合ってはいません。

回転はしていますが、殆どまわっていなくてオーダーをするとそれを運んでくる方式です。

主人はまずビールと刺身盛り合わせ、其の後日本酒。
私はおもいつくままに、大トロ、雲丹、いくら、穴子、
20:30 ラストオーダーです、といわれてヒラメを注文しました。主人は握り3種盛りを。   

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大トロ、おいしかったです。うっかりシャリを半分に、と頼むのを忘れたので、ほかはどれも一つずつしかいただけませんでした。穴子は固かったです。

21:00近くにお店を出ました。アミュプラザのほかのフロアはもう閉店で、エレベーターでおりたところが入った所と違っていました。大きく迂回して又変な通路を歩いてホテルに戻りました。

こうして大変な一日は終わりました。(10104歩)

2022年1月 3日 (月)

天草・長崎旅行2日目ー2(崎津)

12月17日(金)続き

網元の家の後、崎津諏訪神社に行きました。(前回載せたマップ⑪)

豊漁・海上安全祈願のため、1647年に創建したと伝わっていて、境内には創建にかかわる1685年銘の鳥居が現存しており、天草市内で最古の鳥居です。

ネットで検索した時は階段が急で上がれるかと心配でしたが、段差もさほどではなく、楽に上れました。

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階段の途中、左側にある建物は崎津教会のシスターたちの修道会でここは旧崎津教会があった場所。マップ⑩

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崎津諏訪神社は1805年の「天草崩れ」では、潜伏キリシタンたちが持っていた信心具を差し出すように指定された場所でした。

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禁教時代 崎津の潜伏キリシタンたちはこの神社の氏子になっていました。この階段を「アンメンリウス、アンメンリウス」(アーメン、デウス)と唱えながら上がったそうです。

鳥居越しに見る教会

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鳥居,としふりて満身創痍です。↓ここに年がきざまれているとおもうがはっきりしません。肥前州になっています?

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 途中にハルプ記念堂

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階段降りてを海にむかって進み左に入ると

崎津教会 マップ4⃣

1569年、アルメイダ神父によって崎津に教会が建てられました。
当時この地の領主だった天草鎮尚は南蛮貿易の目的でアルメイダを河内浦に招いたのです。
貿易港はできなかったのですが、 鎮尚の妻子に続き鎮尚自身も入信、住民の多くも信者となりました。。

禁教時代、信者たちは真夜中に集まって礼拝していました。神父様がいないので村人から先生として7人を選び「水方」としました。(水方とは洗礼を授けるひと。)

来ることが念願だったアルメイダゆかりの地に立つ教会、クリスマスのためでしょう、ライトの連なりが邪魔で少し興覚めでした。

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現在の教会は、フランス人ハルブ神父の時代1934年に鉄川与助によって建てられました。コンクリートで建てる予定が資金不足で途中から木造になっています。↓ 白っぽいところが木の部分です。

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ハルブ神父は新しい教会を絵踏みが行われた吉田庄屋宅に建てたいと長い時間かけて買いとったそうです。(踏み絵とは踏まれる絵のことで絵踏み、とは踏む行為のこと)
 


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ハルブ神父の碑、奥にルルドの泉を模したものが奥に見えます。写真ではマリア様ははっきり分かりますが、ベルナデットは丁度手前の白い柵のところに頭が重なってしまって分かりにくいです。、
「守教」でアルメイダ神父のことを知って、神父ゆかりの地に立つことを楽しみにしていたのでハルブ神父だけで、アルメイダ神父顕彰碑がないことを寂しく思いました。

内部は撮影禁止です。ネットからお借りしました。

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中央を挟んで両側に畳が置かれています。昔は直接座ったのでしょうけれど、行ったときはこのように椅子が置かれていました。三廊式ですが、それほど広くはありません。後方に立って見るだけで前方には行けないようになっていました。
中央の祭壇が置かれている場所が絵踏みが行われた場所です。
明るくすっきりした感じの教会で忌まわしい思い出が残る場所とはおもえません。ほかにお一人いらしてその方もすぐ出ていかれました。しんと静まりかえった教会に佇むと心が落ち着き祈りを捧げたい気持ちになります。

教会を出て次に案内されたのは(運転手さんはガイド役をしてくださいました)崎津資料館みなと屋です。マップ3⃣
点数は少ないのですが、他では見られない貴重なものがいくつかありました。

一見普通の家のようですが、もとは「みなと屋」という昭和11年に建てられた旅館だったそうです。そういえば受付が帳場のようでした。昭和初期、崎津は海産物や木材や木炭の交易によって栄えていて町中には木賃宿や旅館が建ち並んでいたそうです。(写真はパンフレットtから)

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二階に上がって休憩室で何分かの天草の歴史のビデオをみたあと、展示品を見ました。

 宗門心得違之者糺方日記 (上田家文書)上田家は今富村の庄屋

一「御天地にましますおんあるじでいうすさまあんめんりうす」と朝夕唱え祈ります。豊漁の神様とよんでおります。
一 11月の中旬を祝日として牛肉をお供えします。牛肉がないときは魚をお供えします。次の春から55日目は精進の日で、さらに49日目を「上がり」といい魚を用いて、お祝いします。祝日はおにぎりを、精進のときは豆腐を用います。
一 墓参りの時は、手をあわせて「さんとめ、さんとめ、みちのさんとめ、あんめんりうす」と唱えます、、、

など信仰の様子が記されていて非常に興味深いものでした。

これは 天草崩れ と呼ばれる潜伏キリシタンが発覚した時のことだと思われます。
1805年 大江村、崎津村、今富村、高浜村の5205人がキリシタンとして摘発されました。が信心具をすてさせ、心得違いということで絵踏みをさせたうえで無罪放免としました。
幕府側としては一揆のおそれがなければ、変質して土着の異宗となっている信者を、処罰して亡き者とするより、改宗させて村人を確保したほうが得策とふんだようです。(これだけの大人数を処刑したら年貢もはいらなくなる)
その後、潜伏キリシタンとして残った人々は明治になってカソリックに帰依しましたが、今富村のキリシタンたちは今なおこれまでの信仰を守り隠れキリシタンとして生きる道を選びました(現在では神道や仏教に帰依している)。

ここでは写真はとってよいがSNSなどにはのせないように、ということですので、撮った写真は残念ながらのせられません。壁に貼られた解説やチラシの写真をのせることにします。

興味深かったのは
今富の「ウマンテラ様」 怪物?を踏むお地蔵様風の高さ50センチ足らずの石造物です。
今富は崎津の奥にある集落です。

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頂いたチラシの解説から
ウマンテラ様は今富集落で 潜伏キリシタンたちの信仰対象として祀られてきた石造物です。地蔵尊のような外見ですが、不自然に長い錫杖(剣)や背に生えた翼を備え、また総髪で、鼻筋の通った目鼻立ちをしています。これらの特徴は西洋画の「天使ミカエル」に類似しており、これをモチーフに成立した可能性が考えられます。ミカエルはキリシタン時代のメダイや禁制期の平戸地方の「お掛け絵」でもモチーフとして採用されていました。素材は砂岩で、おそらく天草上島に産する下浦石でしょう。下浦石の石造物は近世以降に一般化するため、ウマンテラさまも近世以降に制作されたものと考えられます。単体の直方体石材を掘りこんでつくられています。
この像はかつては、今富集落志茂の丘陵上の同名墓地に、傘、台座付きで祀られていました。

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この今富集落では水方が修験者というのも、おもしろいです。隠れに隠れて、巡礼とか?伝道の旅とか?あるいは修験者がキリスト教信仰に目覚めたのか。

関連サイト 天草の今富集落 | 「おらしょ-こころ旅」(長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産) (oratio.jp)

調べてみるとなんと朝日新聞に記事がでていたのです。私の見落としです。

 坊主頭に天使の羽?潜伏キリシタンが信仰したレアな石像:朝日新聞デジタル (asahi.com)

又 この像と修験道とのつながりに触れている記事として 

天使か天狗か…天草「ウマンテラさま論争」|【西日本新聞me】 (nishinippon.co.jp)

天草テレビ・amakusa.tv 「ウマンテラさま」大天使ミカエルの羽それとも天狗の翼?

などもみつけました。不明をはじるばかりです。

「おらしょーこころ旅」に出てくる 幸木

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柱をくりぬいて隠したというのは、平戸でも見た記憶があります。ここではそのスライドさせる柱そのものが展示されていましたが、これだけは写真不可でした。鮑の貝殻はもっと真っ白でしたが、模様が浮き出る、と言うのは見方によればそうなのかな? という感じでした。
子の今富集落は以前平戸・生月の旅で訪れた外海地区、枯松神社やバスチャン屋敷のある場所に相等するのでしょうか。非常に興味深い場所です。

1階には崎津集落の模型 左奥には旧教会敷地に建つシスターの家が見えています。はっきりしませんが、白い十字架が木壁に付けられています。

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みなと屋、と言う名前から、ちょっとした個人コレクションで、なぜこのようなところにいくのかしら?と思っていましたが、認識不足も甚だしい。貴重な資料や石造物などを持っていて絶対外せない資料館でした。つれていってくださった運転手さんに大感謝です。
崎津では教会と信者が隠れ蓑に使った諏訪神社を訪ねることしか念頭になく今富と言う集落も知りませんでしたが、潜伏キリシタンの歴史を知るうえで外せない場所でした。
知っていたら今富を入れて全体プランを練ったのに、と思いました(タクシーのモデルプランには入っていないが交渉して島原で時間調節すればよいのです)。

10:28 非常に満足して資料館をあとにしました。
車に乗る前に名物として売っていた「杉ようかん」を買いました。日持ちがしないということなので二つだけ。

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10:33 岬に立つマリア像を遠望する写真スポットへ

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向こうは東シナ海、上海まで何もなくひたすら海、だそうです。

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岬に立つマリア様、アイルランドのディングル半島の先にもおかれていたことを思い出しました。

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この後、大江教会にいきましたが、それは次回に

2021年12月28日 (火)

天草・長崎旅行 2日目―1(天草コレジョ館、崎津)

12月17日(金) 8:00 出発

教会巡り観光タクシー4時間コースで最後は鬼池港につけてもらうよう頼んであります。

ホテルを出てまず祇園橋
昨日行ったことは告げてありますので車から見ただけです。
石造桁橋では日本最大で、長さ28.6m幅3.3mあり45脚の石柱によって支えられています。

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「町山口川の 流れせきとめし 殉教者の むくろ数百千にして 名をばとどめず 徳壽」と刻まれています。

市街地を抜けると山の中を南下、時計回りに回ります。

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運転手さんから懐かしい名前を聞きました。園田直元外務大臣(1913~1984年)(厚生大臣なども務めた、夫人が天光光)は天草の出身で天草五橋や今走っているサザンカロードを造ったのだそうです。

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ずっとサザンカの並木道がつづいていましたが、車の中からはおかしな写真しか撮れませんでした。
私は崎津をしっかり見たいのでコレジョ館は割愛してもいいかとおもっていましたが、運転手さんは「素晴らしいので是非見て行ってください」と車を停めました。結果的には入ってとてもよかったので運転手さんに感謝です。

天草コレジョ館(8:50頃~9:30)

天草にはキリシタン資料館は3館、それと崎津資料館があります。一つは昨日行ったキリシタン館で祈りがテーマ。17世紀の弾圧・禁教時代を扱っています。

このコレジョ館は交流がテーマ 16世紀の伝来・展開を扱かっています。

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かかりの方(あとで知ったのですが、館長さんでした。)が丁寧に説明してくださいました。
他に見学者はいなくて館員の方が多い、という状態です。
まず最初に「ザビエルはよくご存じでしょうけれど、キリスト教伝道に力を尽くした人として大事なのはアルメイダなのです」とルイス・デ・アルメイダの足跡(九州から近畿まで)を記した地図の前で話し始められました。葉室麟の『守教』でおなじみでヴィヴァ・ローダ(生ける車輪)と言われたほどあちこち布教に回った修道士です。
ルイス・デ・アルメイダ(1525年頃~1583年)
リスボンのコンベルソ(ユダヤ教からキリスト教に改宗した人)の家に生まれ、医学を学んだ後貿易商となった人物。
1552年に来日、ザビエルと共に来日して日本布教の礎を築いたと言われるコスメ・デ・トルレス神父と出会い、感ずるところがあって宣教師として生きることを決意。然し布教にお金がいることを知ってしばらく貿易に専念。巨万(?)の富を得てイエズス会入会。私財を投じて大分に乳児院、病院などを建て、お金は全て会に寄付、宣教師として活動をはじめたのです。(今も大分市にはアルメイダの名を冠した病院があるそうです)
1566年には天草最初の宣教師としての志岐(島原半島に近い地域)にやってきました。河内浦には1569年にやってきて天草氏父子など多くの住民がキリスト教徒になりました。アルメイダは1583年この地で亡くなりましたが終焉の地は確定されていませんし、お墓もみつかっていないそうです。禁教時代、秘密にされそのまま分からなくなってしまったのでしょうか。信者たちは嘆き感心だでしょうし、主が嘉みし給えばそれでよしなのかもしれませんが、のちの人々にも賞賛されてしかるべきなのに、そのよすががないのはと残念な気がしました。 

 
館長さんは「天草と言うと天草の乱で知られた哀しい町と思われるでしょうけれど、実は南蛮文化の華開いた所でもあるのです」と 印刷機などを指し示しながらおっしゃいます。

天草のコレジョは1591~1597年まであり、その後長崎に移転。場所ははっきりと特定はされていないのですが、本渡の東向寺のある場所ではないかと言われていました。この東向寺も初代代官、鈴木重成が建てた天草四か本寺の一つです。
然し、最近イエズス会の施設一覧の中に「肥後国 河内浦にコレジオ」とあることがわかったそうです。河内浦(この博物館の所在地)のどこかはわかっていません。
セミナリオを出たあとさらに勉強する場所がコレジョ。履修科目はラテン語、ラテン文学、倫理学、歴史学、宗教学、日本文学、哲学、天文学など。正式な神父になるにはマカオにいって叙階される必要があったそうです。

横には大きなグーテンベルク印刷機(複製)が置かれています。天正の少年使節(1582~1590年)が持ち帰ったものです。四人の少年たちも帰国後このコレジョで勉強しました。

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この印刷機で印刷された本のコピーをいただきました。ポルトガル式ローマ字で書かれていて にふぉんのことばとひすとりあを習いしらんとほっする人のために世話にやわらげたる平家の物語 と読めます。(はひふへほを H ではなく F で表しています)
当時、ヨーロッパの出版部数は300~500部でしたが、ここでは平均1500部、多くは3000部を印刷したと言われています。これは日本人の識字率の高さをしめすものであり、また、世界で最も大きい出版事業であったろう、とのことでした。
7年間に29種類のキリシタン本が出版され、現存するのは12種類(コレジョ館所蔵)。日本語、ローマ字、ラテン語など 様々な本が展示されていました。
宣教師の国外追放とともに印刷機もマカオに送り返されたそうです。

又少年たちが乗った南蛮船の模型も展示されていました。航海に使ったであろう天文儀のレプリカなども。
パイプが竹でできているパイプオルガンもありました。弾いてみてください、といわれてドレミファソラシドと弾いてみました。ちゃんとオルガンの音がしました。 

この後 特別展も見ていってください、と別の部屋に案内されました。

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チラシ裏

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南蛮貿易を物語るものとして発掘、あるいは海底から引き揚げられた陶器の展示がかなりありました。 

私が見られて最もうれしかったのは墓碑です。写真が撮りたい、と思わず口走ってしまったのですが、あっさり「いいですよ」そういえばここはカメラ禁止の表示はなかったのです。慌ててカメラを取り出しました。

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慶弔11年IHS銘半円柱形墓碑 1606年に作られた墓碑で、天草上島の正覚寺で発見されたものです。
正覚寺は南蛮寺(教会)跡地に一揆後1646年に鈴木重成によって建立された曹洞宗寺院。寺のある上津浦地域は一揆軍の根拠地となっていました。切支丹墓碑は1985年の本堂解体時にみつかりました。寺の礎石として使われていて、これは意図的なものであったとみられています。(逆にこのことからここが南蛮寺跡地と特定されたのです)。このカマボコ形の墓碑は全国に4基しかなくそのうち2基がこの正覚寺にあります。
それを目にすることができたので大感激でした。

横を見ると、あら秋月で見たものと同じ、いえ、そのものでした。
「罪表十字紋瓦」特別展のために運ばれてきたようです。
カメラOK なので遠慮なく撮らせていただきました。

 
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花十字紋の瓦も美しいです。

その他 メダイ、これまでもいくつか目にしたことがありますが、白蝶貝に彫られたものは初めて見ました。

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白蝶貝のメダイ(16世紀後半から7世紀初頭、崎津製)聖ロヨラ 裏面はIHS と受難具が描かれています。
これは世界に3点あり一つはローマ、もう一つは長崎26聖人記念館。いずれも崎津製です。 

小さい方
同時代の崎津製で金属製メダイを模倣したもの。磔刑と、裏面は、無原罪の聖母

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二つとも 聖遺物入れで16世紀後半~17世紀初頭のヨーロッパ産

その他 

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中段のクルスは鉄砲玉からつくったもの。これらを手に最後まで戦ったのかと思うと胸にせまるものがありました。

大満足の見学でした。
企画展の図録を売っていましたので、もちろん購入。出品物すべての写真に説明がつけられていました。


館長さんの丁寧なお見送りをうけて恐縮しながら館を後にしました。

9:40 ああ、遠くに崎津教会が見えてきました。

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崎津教会はこのように海辺にたっているので後陣側は湾を隔ててでなければ写真は撮れません。このまま集落の中に入っていくのかと思ったらそのまま少し山の方に入っていきます。どうしたのかと思ったら、対岸の写真スポットにいってくださったのです。

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墓地を拡大すると

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十字架がつけられているお墓も見られます。ここは多分右下がお寺でそのお寺の墓地ではないかとおもうのですが。

その後 集落に入っていきました。

「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」は1637~1638年の島原・天草一揆の後、江戸幕府によりキリスト教が禁じられている中で、日本の伝統的宗教や一般社会と共生しながら信仰を続けた、潜伏キリシタンの信仰継続にかかわる伝統の証となる遺産群です。一揆終焉の地や信仰が続けられた集落など12の資産で構成されていて「崎津集落」はそのうちの一つです。

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まず行ったのが上の地図の1番 よらんかな旧網元岩下家です。勝手に入っていいそうなのではいってみました。

 
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お玄関を入ると土間が突き抜けていてそのまま海側に通じています。

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神棚もあります。

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海側に出ると

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奥の海につきでているベランダは「カケ」と呼ばれています。
カケは縄棚ともよばれ、延縄やその他の漁具を干したり、網の修繕をしたりする作業場でした。漁師たちは棕櫚や竹を使って 自分たちでカケを造っていました。棕櫚は脂分が多いので柱につかっても くさることがないそうです。 棕櫚の柱に 檜の垂木、その上から竹を使って床を造っていました。 

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お隣さんのカケはもう耐久年限をすぎているようです。海に突き出して家をたてているところも見えます。

海側から見た 岩下家

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ここを出て諏訪神社下に移動。

長くなりそうですのでひとまず今回はここまでにします。

2021年12月24日 (金)

天草・長崎旅行 1日目―3(夕食、翌日朝食)

10月16日 続きです。

19:00夕食

テーブルに着くとすでに青竹にのった伊勢海老の半身、しばらくすると横に鮑が置かれました。

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先ず 先付 漬け鮪とズワイガニのカクテル 蕪のブランマンジェ

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蕪のブランマンジェ、なめらかでさっぱりしていて美味しい、最初から満足です。 
ここのお料理はおいしかったのです。
  

御造り 天草海の幸あれこれ
    伊勢エビ、車海老、鯛、間八、河豚タタキ 蛸

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新鮮です。伊勢海老もコリコリしています。

ひょいと横を見ると

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「きゃーっ」鮑がにょろにょろ動いているのです。

台の物 活き鮑と伊勢海老 松茸の セイロ蒸し
この青竹がセイロになっていて蓋をして蒸しあがるのを待ちます。

待っている間に 

炊き合わせ 金目鯛、六方芋、蓮根、茄子オランダ煮

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ここになるともうほんの一口しかいただけません。

合肴 鯖の黒酢餡かけ

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多すぎてこれにそのままのこしてしまいますた。主人も残していました。

鮑、伊勢海老が蒸しあがったようです。

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鮑って、味付けして煮たものしかいただいたことがないのです。少し硬いのですが、これは柔らかい。レモン(ちょっと小さい)オリーブオイル、塩 のお好みで、ということで塩にしました。ほおー。もうすでにおなかがいっぱいですから、伊勢海老も鮑も半分以上、主人に回りました。大喜び、感激しながらいただいておりました。ビールの後、お酒二合、そのあとはストップをかけましたが。

強肴 阿蘇赤牛ロース肉のグリエ 焦がし醤油バターソース

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私はパスましたが、この分量なら主人のためにもらっておいた方がよかったようです。

もうご飯にしていただきました。

鱧山椒煮 香の物、ご飯(熊本県産コシヒカリ)

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ご飯も三分の一に、とお願いしました。(上の方、残したものが写っていてみっともないです)

主人は 
留め鍋 ほうとうと天草大王の鍋 味噌仕立て

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デザートは別腹

ショコラ・グラサージュ・トルテに季節のフルーツを添えて

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ケーキもこってりしすぎず美味しかったです。
別にいいのですけれど、不思議なことにコーヒー、紅茶のサービスはありませんでした。最後になったからでしょうか?ま、いいですけれど。

大満足でまだ席を立ちたくなかったのですが、スタートがもう少し早い方が殆どで後二組くらいしか残っていらっしゃいません。長く居座るとスタッフの方にご迷惑と思い20:30ごろ部屋に戻りました。

お風呂にはもう入っているので歯だけみがいてすぐやすみました。

                   (9551歩)

 

翌朝 10月17日

8:00にタクシーを予約していますので、朝食は7:00の予約です。その時、修学旅行の生徒がいるのですが、といわれましたが、それでもかまわないと言ってあります。

レストランに行ってみると、高校生の男女が20人くらい。修学旅行にしては少ないです。結構楽しそうにおしゃべりしながらビュッフェの列に並んでいます。

その間をぬって。
パンなど洋食系のところには高校生がむらがっていましたから、すいている和食の所へ行きました。

お向かいの人

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私 

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食事中、聞こえてくるのは近くの大人の話声だけ、高校生はしっかり黙食を守っていて、しんと静まり返っているのには感心しました。

7:15  ちょうど夜明けです。

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雨もあがったようです。

8:00 お迎えの車に乗って出発、このあとのことは次回に

  

天草・長崎旅行1日目ー2(天草キリシタン館、明徳寺など)

12月16日(木)
16:50過ぎタクシーで天草キリシタン館に向かいました。15分はかからなかったでしょうか。
かなりの雨です。着いたところにエスカレーターがあり人が近づくと動くようになっていました。慌てて乗りましたので写真は撮っていません。

天草キリシタン館  パンフレットの写真 (15:05~15:52)

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館内はカメラ禁止です。
頂いたパンフレットから

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天草と言えば天草四郎です。

二階に上がるとまず映像コーナーでビデオで流される説明を聞きます。それが終わると暗く灯りを落とした展示室に入りました。 

入ってすぐの硝子ケースに天草四郎陣中旗が収められています。でもこれはレプリカ。実物はしまわれていて特別なときにしか展示しないそうです。この博物館の一番の宝物でしょう。
大きさは約1メートル四方。戦いで破れたところを繕ってあるあとや血痕もうっすら見られます。

パンフレットを拡大しました。

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戦の場には似合わないような美しいものでした。

正式には「綸子地著色聖体秘跡図指物」と言うそうですが、綸子の布に聖体聖餅を拝む二人の天使が描かれています。
日本の初期洋画家である山田右衛門作(やまだえもさく)が原城内で描いたもの、あるいは禁教令以前のセミナリオで聖旗として描いたものとも言われ、日本におけるキリシタン史上、また洋画史上最も貴重な資料として重視されています。
また十字軍旗、ジャンヌ・ダルクの旗とともに世界三大聖旗の一つとされてもいるそうです。
この旗を押し立てて悲壮な覚悟で戦いに挑んだのかと胸があつくなりしばらく見続けました。

翌日のタクシー観光の際運転手さんが話してくださったことも交えて簡単に 

有馬晴信の子直純は晴信と共にキリシタンだったが、家康の小姓をしていて家康の娘(養女)国姫を妻に迎えた。直純はこの妻に頭があがらずキリシタンを捨てて反キリスト派になった(この人が一番悪い、と運転手さん)。
1609年からのマカオにおける晴信の朱印船騒擾事件に単を発する騒動(この時の処分として晴信は死罪)を契機に1613年全国的なキリスト教禁教令がしかれることになった。連座を免れた直純は日野江藩主となり、領内のキリシタンを弾圧。自分の義弟たちも殺害している。島原の乱の前に転封を願い出て延岡に居城を得ていたが、地理に明るいことから征伐軍に加わり、元家臣らと対決している。
代わって1616年島原藩主となったのは松倉重政。これがとんでもない人物で(司馬遼太郎は 日本史の中で彼ほど忌むべきひとは少ない、と書いている)城を建てるのが趣味。石高の二倍以上相当の城(島原城)を建てるために領民から搾れるものは何でも搾り取った。キリスト教徒に対する弾圧も残忍であった。(雲仙地獄で熱湯による拷問、処刑、1627年など)
天草では小西亡き後、唐津藩主寺沢宏隆高が領主になり富岡城を築城。島原の米の取れ高を実質の二倍以上の四万二千石としたため、百姓は重税にあえでいた。
1614年頃からキリスト教弾圧が厳しくなっていた。
そういう状況において武士から百姓になっていた島原の旧家臣らと天草の小西行長の元家臣(行長は1600年、関ヶ原の戦いで負けて亡くなっている)らが中心となり、一揆は企てられた。
その時、軍を統べる象徴的人間が必要とかつぎだされたのが、小西行長の元祐筆・益田甚兵衛好次の子、四郎時貞。優秀で幼いときからカリスマ性があったとか。
軍勢3万7千人の内1万人は元武士。それで武器の使い方はこころえていた。天草・島原両代表者が談合したのがバスの中からかすかに見えた湯島。

天草・島原の乱(1637~1638年)はキリシタンが弾圧に対して戦ったのだというイメージをもっていたのですが、百姓一揆の要素も強いようです。

決戦の場、原城包囲陣営図やメダイ、マリア観音像などをみて外に出ました。雨は来た時より小降りになっていました。
キリシタン館を背に左の方へ進みます。

墓地の続く緩やかな坂道を5,6分下っていくと、明徳寺が見えてきました。

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乱の後、天草は天領となり、初代代官として赴任したのが鈴木重成。
彼はその死後、土地の人が神と崇拝したほどの善政をし
きました。
石高に関して、石高4千2千石はおかしいと再検地。実高は2万1千石として幕府に何度も掛け合ったが取り合ってもらえず、晩年、出府して歎願、自刃してやっと半減してもらえた、と言うことになっています。実際は自刃はしなかったらしいです。この自刃説により、重成は神とあがめられるようになり、鈴木神社が建てられています。
祀られているのは重成と重成の兄、正三、正三の子で重成の養子、重辰の三人。重辰は二代目の代官でこの時、石高半減が実現しました。
半減されてもなお暮らしは貧しく、其の後も天草ではしばしば、百姓一揆はありました。 

鈴木重成はキリスト教からの改宗を目的として四寺院をひらきましたが、その一つが1645年に開いたこの明徳寺です。
曹洞宗の禅寺で開山は中華珪法
重成の兄で禅宗の僧であった正三に来てもらい説法を頼みました。正三の著した『破切支丹』は優れた仏教思想書として評価が高いそうです。 

この場所は本渡城の一画です。
山門は1717年に建てられました。再建は1808年。天草の山門のなかではもっとも古いものです。

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門の中の双聯には
「祖門晋師行清規流通仏海正法 将家直正革弊政芟除耶蘇邪宗」と掲げられています。これは、仏陀の正しい説法をひろめ、耶蘇の邪宗を芟除(刈り除く)するという意味合いの言葉だそうです。

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本堂

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子安観音 マリア観音のようにも見えます。しかしこれは古いものではなく大正時代のものです。

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長い階段を下ります。

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(左側もやもやしておかしなところはPhotoshopで人物を消した痕です)

右手に建てられているお地蔵様、お顔が少し日本人離れしています。
そのため「異人地蔵」とよばれているそうです。

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ところであの長い階段には十字が刻まれているそうです。隠れキリシタンに対する踏み絵のような役割ではなかったか、と言われています。しばし十字探し。

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光の具合でみえたり、見えなかったりするのですが、中央奥はその一つでしょうか。よく見るとあちこち、大小様々な十字が見えました。
異人地蔵、マリア観音、石段の十字、なかなか面白いお寺でした。

このまままっすぐ行くと
延慶寺 ここには兜梅と言う梅があるそうです。

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「兜梅」の案内に従って、寺庭を回っていきます。引き戸を開けて入ると

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さらに奥に進みます。ひと様のお庭に勝手に入っていくようでためらうところはありましたが、案内版がありましたので指示通り進んで行くと

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横に広がった梅の木がありました。樹齢約500年、その姿から臥竜梅ともいわれるそうです。お花が咲いたらどんなに見事でしょう。市の観光サイトからお写真を拝借しました。

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兜の緒が絡まるのも頷ける、あちこち伸び放題の枝です。

ここで16:40 道路に出たところでタクシーをよぼうとしたら「後10分歩けば祇園橋だから、それをみて帰ろう」と言います。まだ日没に少し間があります。雨も止んでいるので祇園橋まで歩くことにしました。

結局20分近くかかって16:59 橋の見えるところに来ました。

祇園橋

国の重要文化財に指定されている国内最大級の石造桁橋です。天保3年(1832年)長崎のオランダ坂を手がけた天草の石工が作った石橋で、長さ28.6m、幅33mの多脚式アーチ橋です。現在は危険なので渡れません。

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なんとも無骨な橋です。
橋脚の多さに驚きました。川は町山口川という名です。

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この付近は1637年の天草の乱の激戦地で、多くの犠牲者がでました。反対側の岸に立つ慰霊碑を翌日見ました。

17:03 少しずつ日が暮れてきています。タクシー会社に電話をかけました。3,4分で着く、とのことでしたが、10分近く待ったと思います。風もなく暖かい日だったので助かりました。

17:25分ごろ ホテルのお部屋に戻ることが出来ました。
夕食は19:00にお願いしてあります。その間にお風呂に入ることにしました。
このホテルにはペルラの湯という温泉センターともいうべきものが丘の上にあります。歩いてもいけますが車もだしていただけるそうです。一つだけですが
中程度の広さの温泉も館内にある、と言うことですので、そちらに行くことにしました。

温泉にはお二人はいっていらっしゃいましたが、すぐ出られて後は貸し切り状態でした。柔らかいお湯で、肌がとてもつるつるになりました。

お食事の様子をのせるつもりでしたが、もう写真がはいらなくなりましたので次回にします。

2021年12月21日 (火)

2021年12月 天草・長崎旅行1日目―1(羽田→熊本桜町バスターミナル)

12月16日(木)から19日(土)念願の天草に行ってきました。潜伏キリシタンの地巡り、も一応これが最終です。
今回も夫婦二人旅です。

12月も半ば過ぎ、旅行に適切な時期ではないのですが、理由があります。ためたエール・フランスのマイルの有効期限が今年いっぱいで切れるのです。この時期、海外には行けません。でもJALには乗れるので国内で使えます。交換率はとても悪くJALのマイルだと二人で3万マイルですが、エール・フランスのマイルだと二人で5万8千マイル必要でおまけに手数料が1万円近く(ウェブで手続きをすればもっと安くはなります)かかります。しかし使わなければ消滅するので、行くことにしたわけです。残りは捨てです。

前回の旅行が終わってからの間隔と、博物館の開館日(天草は月曜ではなく水曜、木曜が休館)の関係から16日木曜日出発としました。出発は羽田8:05ですから前回同様、天空橋の京急EXイン羽田イノベーションシティに前泊しました。
15日(水)からですから3泊3日の旅、ということになるでしょうか。

天草では公共機関を利用しての旅は時間がかかりすぎて考えられません。
観光バスも何コースかあり、教会巡りのコースもあります。お値段1000円!です。ただ、お昼ごろの出発で、間に合いそうもないのです。前泊を羽田ではなく熊本にすれば間に合ったことに後から気が付きました。
でもタクシーの運転手さんがよい方で、考えていなかったところも案内してくださって結果的にはタクシーにしてよかったと思っています。
島原もバスは1時間に1本、見学時間の見当がつかないこと、寒さも予想されることですからタクシーと決めました。
口之津~島原は1万円で2か所の待ち時間であと3000円くらいだそうです。      

予定
16日 羽田(8:05)→(10:00)熊本空港→10:25(バス)熊本桜町バスターミナル(11:15)(11:30)バスあまくさ号→(14:04)天草本渡バスセンター→ホテル(時間の許す限り市内観光、九州の日没は17:00過ぎ)

17日 ホテル発8:00~12:00すぎまでタクシー観光(コレッジョ館、崎津教会、大江教会など)そのまま鬼池港へ  

 鬼池フェリー12:30→13:00口之津港→タクシーで原城址、有馬キリシタン遺産記念館→15:00島原のホテル
   着後島原(武家屋敷、四明荘など)小観光

18日 ホテル→(諫早経由)長崎 浦上天主堂→爆心地公園→大浦天主堂など→長崎空港17:00→羽田(18:30)

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12月15日夜から16日

予定通りホテルに泊まり、翌朝は空港の空弁で今度は、まい泉のカツサンドにして、ラウンジに行くと、食事禁止になっていました。去年は大丈夫だったのに!飲み物だけいただいて、搭乗待ち。機内でサンドイッチをいただきました。機内は空いていました。2-3-2でしたが、3のところは一人のみ。後部席は全て空席でした。

熊本空港は正式には「阿蘇くまもと空港」と言うようです。阿蘇山に近いのです。予想はしていましたが、小雨でした。

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↑空港のバス乗り場から

順調に進み、予定通り熊本駅行バスに乗ります。

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農村地帯をひた走ります。

熊本市内、白川を渡りました(大甲橋)。
突然、歌人安永蕗子が熊本の人だったことを思い出しました。

安永蕗子は白川のそばに住んでいたはずです。家に帰って調べると、蕗子が生まれたのは橋を渡った側で、戦後住んだのは九品寺。橋を渡る前のバス停が九品寺交差点でした。(↓写真では右方向にはしっていて左側が九品寺)

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「水ひびく冬河の橋わたり来て星のありどを空に失ふ」 
河はこの白川でしょうか。昔の面影はみられないようですが。ただこの辺り平行して細い堀もあるようです。

蕗子の歌で好きなのは
「何ものの声至るとも思はぬに星に向き北に向き耳冴ゆる」
「突き抜けて虚しき空と思ふとき燃え殻のごとき雪が落ちくる」

雪が落ちてきそうな空の下、歌を思い出しているうちにバスターミナルに着きました。

事前の下調べとちがって空港バスの降車場とあまくさ号の乗り場はレーンが違っていました。どちらも赤だと思っていたのが着いたのは青でした。あせりましたがでも横にエスカレータ―があり、上がると広い通路、向かいはお店がずらり、左に少しいったところに赤レーンに下りるエスカレーターもありました。新しくできたバスターミナルのようです。乗り場の横に清潔なお手洗いもありました。
車道と待つ場所は扉でしきられていて、定刻になると運転手さんがやってきてバスに乗れる仕組みです。
11:30 2時間40分のバスの旅の始まりです。私たち以外に二人、途中で乗り降りがあり最終的には二人だけ、貸し切り状態でした。

熊本駅から宇土駅までまっすぐ南下します。宇土城はキリシタン大名小西行長の城だったことがあります。宇土駅で右に曲がり間もなく海岸通りに出ます。残念乍ら時折小雨の降るお天気で寂しい景色を眺めながらいくことになりました。

出発して約1時間後     

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手前は干拓をしているのでしょうか。

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海苔の養殖?

宇土半島の先、中神島向こうが大矢野島です。遠くの台形の島が湯島(談合島)です。
湯島は 島原の乱で天草・島原の代表者たちが相談したことから談合島と呼ばれています。

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いよいよ天草5橋を渡ります。

1号橋が見えてきました。お天気が良ければ青空に白い橋がくっきりと映えるはずなのですが、、、。

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2号橋

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 3号橋

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4号橋 
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5号橋
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渡り終えて松島というところで(13:15)3分間トイレストップ。
これからも海岸沿いを走りますが、メインをすぎたので、お昼にしました。といってももうひと箱買っておいたカツサンドとお茶ですが。

この道を ありあけタコ街道 というようです。

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サンタマリア館 閉鎖中のようです。

天草瀬戸大橋

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この橋を渡ると天草下島 向こうの赤い橋は歩道橋です。
ようやく到着です。

本渡バスセンター前、ホテルにお迎えをお願いしてあります。先の車庫までバスでいくつもりでしたが、運転手さんに「どこへ行くのですか? ホテルアレグリアのお迎えが来てますよ」そこで慌てておりました。

ホテルは車で10分くらいでした。雨が降っています。

フロントで手続きをしてお部屋へ

和洋室でゆったり広々としています。

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4階です。ベランダから見下ろすと

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すぐ下におりてタクシーを頼みました。ロビーからの景色

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雨ですが、2時間ほど観光するつもりです。それは次回に