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北関東(埼玉・群馬)の旅

2022年4月20日 (水)

北関東(埼玉・群馬)の旅 2日目ー3(高麗神社)

12:00に高崎駅について お昼をどうしましょう。駅ビルに色々ありますが、電車の時間もあることですし、特に何か食べたいものがあるわけでもありません。とにかく少しおなかに入れればいいだけなので、一階のパン屋さん、ビ・ド・フランスにはいって菓子パンと言うことにしました。お粗末ですが、私にはこれでじゅうぶん。

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少しここでゆっくりして 12:35過ぎに出て 2階へ

コインロッカーでバッグを出して、さてホームは?
八高線は3番線なのですが、表示に従って階段を下りると2番線と4番線しかありません。どんどん走っていく人たちがいます。ついていってみると二つの線の先ホームの行き止まりのところにもう一つあってそれが3番ホームでした。2両ですが、結構人が乗っています。といっても一つおきくらいに座ってほぼ満席。取り合えず座れました。

電車は1時間に1本しかありません。

高崎12:56発 高麗川駅14:26着。鈍行で気動車です。この区間は電化はされていないのです。でも座席は一部ベンチシートですが向い合せのボックスタイプもあります。
1時間半の乗車時間ですが、探偵小説を持ってきています。だんだん佳境にはいってきて高麗川駅に到着して本を閉じるのが残念なほど夢中になって読みふけりました。 

高麗川駅を出ると駅前広場左手にタクシーが一台停まっています。(神社の案内で駅にタクシーは常駐しているとはありました)

神社まで、途中少し山の中(大袈裟ですが)のようなところを行きました。5,6分くらいで神社門前へ。(800円)

高麗神社(こまじんじゃ)

 TOP - 高麗神社 (komajinja.or.jp)

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保渡田古墳群などでは4世紀末から5世紀にかけての半島の混乱の中からやってきた渡来人が活躍しました。ヤマト王権を介してきた人もいれば首長自らが連れてきたと考えられている人たちもいました。
その後も半島
での戦乱は続いていました。
660年 百済滅ぶ 663年白村江の戦い
668年 高句麗滅ぶ機

これらを機に渡来人は一気に増加します。王権は彼らの多くを難波に留め置き新たな受け入れ先の準備をしたうえで東国などに移したそうです(天智から桓武期)。
その後『続日本紀』によると716年5月 駿河、甲斐、相模、上総、下総、常陸、下野の7国の高麗人1799を移して武蔵国高麗郡が建郡されました。このリーダーと言うことになっているのが高麗王若光(こまのこにしきじゃっこう)です。
(高麗王といいますが、後の朝鮮半島の高麗ではなく高句麗のほうです。最近までNHKBSでやっていた「王女ピョンガン」のコグリョです)
若光は666年高句麗の使節として来倭した「玄武若光」と同一人と解され、668年本国滅亡により国に帰れなくなり、帰化してウジ名高麗、カバネ王を与えられました。

神社の社伝によると、716年高麗王若光を中心とする高麗人1799人が高麗郡に来住し開拓を行い、高麗王は748年に没した、とあります。

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70歳前後で高麗人を率いてやってきて100歳前後で亡くなった、というのは年齢的に無理がありそうで信憑性はどうか、というところはあるのですが、高麗人たちは徳を讃え、若光を守護神とする社を建てたということです。以後、代々高麗家当主が宮司を務めています。その高麗家住宅が敷地内にあります。予約すれば中も見せていただけるそうなので、あらかじめお電話してあります。

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将軍表 寺院の入口に立つ、魔よけ、道標のようなものです。

手水舎 コロナ下なので 使わないように、とありました。 

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奥右が参集殿、立て札の奥が社殿です。

↓水天宮への入口。10分ほどの登りだそうですので、行きませんでした。 

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外拝殿はわりに最近のものです。

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外殿からご社殿を覗く。

安土・桃山時代の建立と言われるご本殿は見られませんでした。

お隣の参集殿に行きました(お手洗い拝借、ここで老婆心ながら書いておきますが、埼玉、群馬というところは駅、公園などの外のお手洗いは和式です。建物の中だと一つは洋式がありました。)

ここの受付で高麗家見学を申し込んであるむね伝えました。3時から4時の間と言ってあったので3時まで待つようにいわれて待ちました。イスはあります。ここではお祓いの受付をしていました。私は孫がいないので知りませんでしたが「ランドセルのお祓い」というのがあるのですね。待っている間もランドセルをしょった子供を連れた親子が二組やって来ました。
この神社は天皇皇后両陛下はじめや皇族方が参拝されたことをしるしてあったりするのですが、基本、地域の氏神様のようです。

現れたのは背が高く目元涼しい好青年、高麗家住宅に向かいながら、先に書いたような由来などを話してくださいました。

高麗家住宅

ただ残念なことに1259年の失火で、宝物、系図が消失してしまっていて、渡来人のものと分かるようなものは何一つ残っていません。焼失後、高麗一門が再編集した系譜をもとに歴史を見ることになります。
現在、高麗家は現在60代目です。59代当主までここに住んだそうです。
  

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建物は入母屋造り平入りの茅葺屋根。桁行7間半、梁間5間。大黒柱はなく細い柱で梁を支えているのが特徴です。
建築年代は慶長年間と伝えられています。17世紀のものであることは確実だそうです。昭和51~52年の修復の際、建設当初の姿を復元したそうです。

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最近の行事で使われたので仕切りの戸はすべて取り払われていました。先代は「ここは寒かった」とおっしゃっていらしたとか、戸があっても冬は寒そうです。

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左手前「四帖」
奥に通される来客はここから出入りしました。
左奥が「奥」と呼ばれる客間です。右手は 21畳の表座敷

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土間から見ています。

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天井裏で蚕を飼っていたそうです。このあたり養蚕業が盛んだったらしいです。

土間

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土間には 昭和30年代ごろ近隣の農家で実際に使われていたものが置かれていました。

 勝手

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20分くらいお話しを伺いながら見せていただきました。別に見学料などはおとりになりませんでした。

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正面、端正ないい形だと思いました。

高句麗の片鱗もみられない、と言うのは残念でもありましたが、これはこれで見る価値はあったと思っています。
裏にお庭がありました。

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高句麗伝来の品はなくても、霊亀2年(716年)1799人の高麗人がこの地に再配置されたことは史実で、彼らが心のよりどころとして連綿と1300年守り続けてきた神社の存在意義は大きいと思いました。

参集殿の受付の横にタクシーの電話番号が書かれていましたので電話をしてあれこれ思いながらしばらく待ちました。

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タクシー(呼び出し込みで 1200円)で高麗川駅に着くと15時40分頃。高麗川~八王子の八高線は電化されていて、電車も30分間隔であります。

16:00発 座れましたがかなり乗っていました。16:48八王子着
16:59八王子発 18:03横浜着 これも混んでいましたが座れました。長旅ですがクライマックスを迎えた探偵小説に夢中であっという間でした。(日本の5,6世紀から20世のアイルランドへ、苦も無くとんでいける頭なのです)

私鉄にのりかえて、わが家へ (11011歩)
実に充実した旅であったと大満足しております。

ところで 翌日、買ってきた群馬県立博物館の図録を見ていたら、なんとこの写真が!

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金銅製出字形立飾冠です。これは朝鮮半島では新羅独特のもので、これが出れば新羅の権力下にあったということになるものです。韓ドラ「善徳女王」で女王がかぶっていました。(2016年8月に書きました)

「見逃したか!」と大ショック。でもくまなくみたつもりなのに、いったいどこに? 博物館にお電話してみました。私が購入した図録が「国宝決定記念 第101会企画展」のものであることをいいますと、この金銅冠は常時展示ではなくその時は 展示したのだ、ということを告げられました。みたかった!!

この出字形金冠は王のみに許されるもので、首長クラスのものは金銅製など材質が少し劣るものになっているそうです。
日本では完全なものはこれ一つ、他に断片などはあるのですが、畿内には出ていないそうです。

矢張り上野(こうずけ)にはヤマト政権を介さない半島との独自ルートがあったということになるのでしょうか。

これが出土したのは前橋市の金冠塚古墳(6世紀後半)です。ちょっとググっても被葬者が誰かの記述はみあたりません。古墳もさほど大きくはない(全長52m)のです。ここでは金銅製大帯も見つかっています。やはりある程度力のあった人であることは察せられます。
図録によると、被葬者は畿内中枢の勢力とはかかわりなく直接入手、あるいは模倣した可能性を想定する意見もあるそうです。

カルチャーの先生は けぬ(毛野)はヤマトと対等関係にあるほど勢いがあったのではないか、とおっしゃっていました。当時ヤマト王権は百済と交流していましたが、新羅といつもたたかっていたわけではなく、中央ではなく、けぬ と新羅は繋がっていた、ともおっしゃっていました。(筑紫の君磐井が繋がっていたと同じように)

当時の人のことを考えるってとてもロマンがあります。
もっと知りたくて同じ先生の「東アジアの古墳文化と対外交流」という講座を受講することにしています。
この記事も訂正しなければならないことや書き加えるべきことがたくさん出てくるかもしれません。

旅行記は以上で終わりです。

余計な世話かもしれませんが、博物館には定休日だけでなく、展示品入れ替えなどで一週間くらい休館、と言うことがあります(群馬県立歴史博物館も私が行った翌週はお休みでした)。コロナのこともあります。お出かけ前はホームページで確認されることをお勧めします。 

2022年4月18日 (月)

北関東(埼玉・群馬)の旅 2日目ー2 かみつけの里博物館

かみつけの里博物館は保渡田古墳群を含む上毛野はにわの里公園内にあります。
古墳は大きな前方後円墳が三基あり、そのうち二つの上には上がれるようになっています。

 

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まず博物館を見てから古墳にのぼることにしました。

かみつけの里博物館 (火曜日定休 9:30~17:00入館は16:30まで 入館料大人200円、ただし 65歳以上は無料)
つかいませんでしたが、ここにはロッカーがありました。
カルチャーセンターの先生は、丁度ポンペイ展をやっていたせいか群馬県のことを「この辺りは日本のポンペイだ」とおっしゃっていました。火山灰の下から5世紀のムラが現れたからです。

榛名山は6世紀初頭と6世紀中ごろ大噴火しました。雲仙普賢岳の噴火と同じで、火砕流プラス土石流が高速で山を下り麓の村を蒸し焼きにしたのです。当時の状態が瞬時にパックされたのです。土石流はこの博物館のある一帯も襲いその厚さは4メートルにも達したそうです。
火砕流は北群馬郡、前橋市、渋川市、高崎市北東部を襲っています。
普通、人が住まなくなって何世紀もたって地面の下に埋もれてしまった町は痕跡がはっきりしないのですが、火山灰でおおわれた土地は(
当時の人々にとっては大惨事で気の毒なのですが)災害直前まで人が行っていた行動や構造物の跡が現在鮮明に残されているのです。
この地域では王の館と呼ばれる首長館の跡や水田の跡などが発見されています。

そのためか、この博物館は古墳からでた埴輪も多く展示されていますが、古墳時代の暮らしについての説明や復元模型、遺跡からの発掘品の展示
が多いことが特徴のように思われました。

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拡大 古墳時代から力士がいたのですね。武士の影になっていますが、祭礼の場面を表した埴輪もあります。

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興味深かったのは古墳時代の村の様子や王の館、水田などを表した復元模型でした。火山灰の下から現れた遺跡をもとに作られたものです。

5世紀の「榛名山東南麓古墳社会推定模型」 500分の1の縮尺で造られていて、紙面の関係上どれも同じ大きさの写真になっていますが、かなり大きなものでした。

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右上に王(豪族)の館、左上に古墳がみえています。 王の館のまわりには村人の家

この博物館では豪族のことを王とよんでいます。

王の館(三ツ寺Ⅰ遺跡縮尺は100分の1 発掘されているのは全体の3分の1なので、残りは想像で造られています。

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館は猿府川の流れを利用して造られ、その本体は80m四方で、張り出しを設け三重の柵を巡らせています。内部は2ゾーンに分かれ北側は従者や工人がいる家政ゾーンです。南北を分ける柵の手前は水道橋。南側は儀礼ゾーンで主殿や井戸、外部から聖水を流す「石敷きの祭場」があり、祭場では流水を介した農耕儀礼が行われました。館の外周斜面には石を貼り、幅30m、深さ3mの大規模な濠を巡らせています。この濠は貯水池の役目もしていました。 

遺跡からの発掘品 

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左が井戸枠 その横の細長い木材は水道橋 手前の土器は従者の家から出た生活用具、その横、灰色などの土器(須恵器)などの高坏は 祭祀用

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下手前は とりの形をした木製品(楽器?) 上から ササラ子(楽器か?) 丸木弓 黒漆の塗られた弓 木刀(祭祀使われた?)

水田模型 (高崎市浜川町の芦田貝戸Ⅲ遺跡の発掘結果をもとに作られた模型)

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働いている人を見ると分かるように水田の一区画は小さいです。小区画の方が地勢に合わせて水をひくときの微調整が可能。左の茶色いところは去年の畔を壊し田起こしをしている部分。下に少し見えているのはどのようにして田に水を引いたのかの説明。

古墳時代モデル ムラの模型 黒井峯遺跡などをモデルにして作られています。

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この一つの柵に囲まれたところと手前の家で一世帯と考えられます。柵の中には祭祀の場と畑、複数の平地住宅(住居、作業小屋、倉庫、家畜小屋など)があります。左には馬をひいている人がいます。

手前のわらぶき屋根の家、突き出ているのは竃の煙突。 

中央の白い色が見えている部分、よく見ると土器類、そうして人がひれ伏しています。祭祀の場です。

この博物館でも最も見たかったのは飾履(しょくり)です。百済または伽耶系のものです。

想像していたのより大きいので驚きました。男性のかなり大足の人でもブカブカくらいの大きさでした。

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これは少し離れた谷ツ古墳から出ました。大半が盗掘されていたのですが、遺体の足元だけが破壊をまぬかれ、鉄さびの塊が残されていました。それが華麗な靴の片方だった、というわけです。
ところでこの谷ツ古墳は一辺約20mの方形積石古墳です。積石古墳は高麗をルーツとする朝鮮半島独特の古墳なのです。他に半島製の耳飾りや馬具も出ていて、近くの村からは半島製の土器も出ていることから、この墓は渡来系の人々のリーダー格の人のものではなかったかと想像されるそうです。王のもとで先進技術をもって金属加工や馬の生産、土木技術などを進めたと考えられます。

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飾履は細かい加工技術が必要で6世紀には日本でも作られるようになったらしいのですが、5世紀はどうなのでしょうか。舶来の貴重品だったのだと思われるのですが。誰が手にいれてどうしてこの被葬者のものとなったのか気になります。
飾履は日本では20くらいしか発見されていなくてそれも完全なものはとても少ないそうです。飾履の出た藤の木古墳(6世紀)は天皇または皇族クラスの墓とされていますし、鴨稲荷山古墳(6世紀)は継体天皇を擁立した三尾氏の族長の墓です。それらに比べると谷ツ古墳の被葬者は少しクラスが低いような気がするので不思議です。王(この地の首長)の信が厚く王から贈られたのでしょうか。

渡来人に関する考古資料は近畿に多いのですが、東日本では榛名山の東南麓に目だって多いそうです。

馬はもともと日本にはいなかったのですが、5世紀、倭が百済に援軍を送った時騎馬戦力の必要性を実感したことから軍事力強化のために朝鮮半島から馬を連れてきました。飼育や馬具製造も渡来人の力が必要でした。
その飼育地、最初は河内地域だったのですが、其の後 東日本にも牧がつくられるようになり、上毛野にも牧が出来ました。馬の飼育に適していたことと、政権の東北への権力拡大の意図とがあったようです。また牧ができるとともに、馬具工房も設置されたとみられます。
群馬県渋川市の金井東浦遺跡では被災した「鎧を着た古墳人」がみつかっているのですが、馬の足跡とともに、火砕流に巻き込まれた馬二頭がみつかっています。この「鎧を付けた古墳人」は顔面の骨が残っていて復元すると渡来人の容貌だったそうです。 

首長は治水技術により水利を掌握して農業経営を行い、窯業を起こし馬生産もおこなったと考えられています。

このようなことを成し遂げてきた首長(王)とは? 

『日本書紀』には群馬県地域出身の豪族・上毛野君の祖である荒田別・鹿我別が、将軍として新羅に出兵したする伝承記事があります。この記事はそのまま信用はできないのですが、この地の誰か半島に渡った人がいて彼が谷ツ古墳に葬られた渡来人のリーダーを連れてきた可能性が推測されるそうです。(この辺り資料によって少しずつ違っていますが大体こんなところです)
居館や古墳の主は上毛野氏関係の車持氏ではないかと言う説があります。群馬は奈良時代以前、クルマとよばれていたこともわかっているそうです。ただこの人物は榛名山噴火以後どうなったのかはわかっていません。

三ツ寺遺跡の主が葬られたのは保渡田八幡塚古墳です。

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説明によると、この八幡塚古墳の工事費は10億円と推定、大半は人件費だそうです。当時はお金というものがないので、食事支給や褒美があったかもしれない、とすると富の再配分ととれるかもしれないそうですそれにしても王はものすごいお金持ち、権力者だったのですね。

外に出て古墳に行ってみることにします。(10:42~ 11:23)出てまっすぐ、道路を渡ると数段の階段があり上り口はすぐわかりましたが、あがる前に少し右の方へいって全体を眺めました。古墳の右奥は榛名山、左手奥にうっすら白く見えているのが浅間山です。

全長96m、三段の斜面は葺石でおおわれています。(5世紀後半の築造)

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左に見えている階段から古墳に上がって行きます。
それにしてもこれまで見てきた古墳とイメージが違います。石でがっちりおおわれていて、何だか宇宙人の基地みたいだと思ってしまいました。

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左手に埴輪をたくさん置いてあるスペースがあります。

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内堀の中に中島が4個あります。祭祀の場所と思われています。

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くびれ部から後円部に行く坂道、短いけれどかなり急でした。

後円部には下に下りる階段があり、降りてみると石棺が置かれていました。 

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舟型石棺。舟形石棺とは両端が丸みを持ち突起(縄掛け突起)があるもの。ヤマトの大豪族が使った長持ち型石棺に次ぐ格式のあるものです。外寸長さ3.2m 幅1.5m  高さ 1.4m

違う角度から

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奥に竪穴式石郭があります。この古墳には二人以上が葬られていたことになります。(なお実際は墓を入れると河原石で被い土を盛るのでこのドームのような空間は存在しません) 

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こういう説明がありましたが、博物館では見なかったような、、、。

外に出て周囲を眺めました。

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上の案内板からすると正面が二ツ岳 ということになります。右の白い建物は土屋文明記念館です。ここに寄って見学、ランチのつもりでしたが、レストランは休業のことでしたので、寄りませんでした。

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ここは関東平野の北西の端、遠くの山々を眺めながら遠い昔のロマンにおもいをはせてしばし風に吹かれていました。

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    浅間山


二子山古墳にも上がれます。そばにいた小学生の男の子は「僕、全部上るよ」とはりきっていましたが、私はこの一つで十分。春休みもそろそろおしまいの頃だからでしょうか、母子連れと言う方が結構いらっしゃいました。

博物館にもどってタクシー会社に電話。電話をかけたイスの前には埴輪の展示

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15分くらい待ちそうです。その間にショップで本を買いました。  

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この項についてはこの本と『渡来系移民』岩波書店、週刊日本の歴史(朝日新聞社)カルチャーのレジュメ、パネル説明などを参考にしてかきました。大きさや由来に違いがみられるところもあって書き方が混乱しているところもあるのですが、大体こんなところ、ということで書いてしまいました。大幅なミスなどありましたらご指摘くださいませ。

やってきたタクシーで20分くらい? 12:00に高崎駅に着きました。呼出し(初乗り運賃を最大にして請求ということになっていて最初から600円ついていました)込で行きとおなじ3200円でした。

このあとのことは次回に

 

 

2022年4月16日 (土)

北関東(埼玉・群馬)の旅 2日目―1 (八幡観音塚古墳)

5時過ぎに起床。昨日は非常に疲れて、場合によっては今日の午後の予定は省略して高崎から湘南新宿ラインでまっすぐ帰ろうかとも考えていましたが、杞憂でした。疲れはとれています。

6時30分 2階におりて朝食

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ごはん、パン、お味噌汁、サラダなどは各自ビュッフェからとりテーブルに座ると朝食セットがはこばれてきます。

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お味噌汁はとりませんでした。

7:00にはお部屋に戻り、7:42頃 お部屋を出て、駅へ。
ホテルフロントは2階ですからそのまま出て2階を進み駅中央通路を東口から西口へ。西口近く左手にコインロッカーがあることは昨日確認済みです。(大きく縦長の看板が出ています)400円。ホテルに預けられるはずですが、歩きと時間の節約のため、ここに入れることに決めていました。

差し込み鍵式ではないので少し迷って、駅を出ると左手にバス乗り場の案内板。ネットでも調べていましたが、もう一度確認、観音塚古墳にいくには1番の少林山線です。
8:02発 丁度8:00につきました。このあたりのバスはどこも小型で席数は15くらい?です。200円。スイカは使えません。7,8人乗っていました。

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↑駅をでてすぐのあたり

乗っていた人たちは4停留所くらいで次々下りていき、途中、一人また乗ってきて、おりてまた一人、最終的にはあと一人くらいでした。
少林山線 というのは少林山達磨寺を通る路線ということのようです。市街を出ると田園風景、川沿いを走ったかと思うと山の中へ。お寺にはいかず少林山入口というところは通りました。40分ほど乗って観音塚考古資料館前へ。

8:42着が少し早く9:40より前には着いていました。
バスは裏手に着きます。回っていくと9:00開館を前にしてお掃除中。
「先に古墳をみてきたら、どうですか?」「安全ですか?」「住宅地の中ですから大丈夫ですよ。丁度人が行きますから一緒にどうぞ」というわけで年配の男性の後をついていきました。

位置的には資料館の裏手の山、といったかんじです、5分とかかりません。
住宅地の奥、突き当りの石垣の上が古墳です。 

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突き当たって右に石段、左に坂道があり 「係の方は坂道のほうがいいでしょう」と左の方へ 坂道は石壁に沿う形であり柵はありません。幅1メートルくらいですが半分は土におおわれています。あの高さですからたいしたことはありません。上は草ぼうぼうです。
八幡観音塚古墳

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ぽっかり口をあけているのが石室入口です。扉もなくいつでも自由にはいることができます。それでいたずらなどされていないか、毎朝あの方が点検されているのです。強力な懐中電灯で照らしながらですから、おかげでしっかりみることができました。

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石ころで少々歩きにくかったです。

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奥が玄室

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石は55~60トンもある巨石です。この地域でこれまでの最大は観音山の22トンです。これまでの技術力では到底つくれません。巨石使用石室があるのは飛鳥周辺地域であることとから、この地域との強いつながりがあると考えられています。

たてられていた案内板から 

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あの土嚢をおいてあるところから上に上がれますよ、といわれたのであがってみました。

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石の小さな祠みたいなものがありました。

資料館に戻ってくると9時はすぎていましたから、入館できました。 
観音塚考古資料館 入館料は100円ですが、65歳以上は無料でした。(月曜定休 午前9時から午後4時まで)

発掘品が展示されていましたが、銅碗、承台付き銅碗は複製品となっていました。昨日行った県立博物館にあるのがホンモノのようです。

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金ぴかの複製品

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銀装鶏頭冠頭太刀

 

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そのほか耳輪、馬具類などもありました。

竃の模型 竃というのは朝鮮からもたらされたものだったのです。 

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古墳時代の食事

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頂いたパンフレットから
観音塚古墳が築かれた6世紀末前後は前方後円墳築造の最終段階にあたる時期で、各地の豪族が、ヤマト政権の直接支配下に組み込まれた時代といえます。こうした背景のなかで、観音塚古墳にかかわる豪族が巨大な前方後円墳と横穴式石室を築造し、豪華で豊富な副葬品を石室内に納めていた事実は大きな意味を持ちます。ヤマト政権が東国支配を強化していこうとする過程で、観音塚古墳にかかわる豪族が重要な役割を担う存在とみなされ、厚遇されていたことがうかがわれるのです。


一部屋だけで展示品はあまり多くないので15分もすれば見終わりました。そこでタクシーをよぶことにしました。ところが 市内からくるので20分かかるというのです。しかたがないのでもう一度眺めて待ちました。

 

多分9:50頃タクシーに乗ったと思います。かみつけの里博物館に向かいます。(呼び出し料金がかかったので3200円)

この近くに長瀞西遺跡と古墳があります。車で通れば見えるはず、と思ったのですが、それらしいものは見えませんでした。

長瀞西遺跡について 高崎市のサイトの説明
剣崎長瀞西遺跡の古墳や竪穴住居跡からは、東日本で初めて見つかった金製の垂飾付耳飾や日本最古級の轡(くつわ:馬具のこと)を装着したまま埋葬された馬の骨、そして当時の倭国(日本)で使われていなかった韓国風の土器など、古墳時代の渡来人の存在を思わせる数々の遺物が発見されました。これらの遺物から、剣崎長瀞西遺跡は古墳時代の渡来人が住んだ村であると考えられています。

馬飼育に携わった渡来人の存在が推測されているのです。

かみつけの里博物館は次回に

2022年4月14日 (木)

北関東(埼玉・群馬)の旅 1日目―4 (群馬県立歴史博物館続き)

宝室を出ると時代順の展示室につながっています。

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原始

縄文時代、 翡翠、土製耳飾り土器類など

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時代をおって人の交流がさかんになっていった様子が示されていました。

矢張り興味があるのが古墳時代です。

ここでは鏡がいくつか展示されていました。

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↑川井稲荷山古墳出土三角縁神獣鏡

 

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前橋天神山古墳出土 神仙鏡 と  四獣鏡

三角縁神獣鏡についての説明

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お富士山古墳(伊勢崎市) 長持ち型石棺(レプリカ)

 

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鶴山古墳(5世紀) 短甲

なんと明日行く予定の 八幡観音塚古墳(6世紀後半)の副葬品が 展示されていました。

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7番の金銅製透彫り杏葉
杏葉は馬の飾りですが、この形は上下を逆さまにすると仏像の光背と同じです。
鞍作の止利仏師はもともと馬具を作る職人でした。馬具職人が仏像を作る職人に変わっていったのが飛鳥時代。

3番の 承台付き銅碗 の系譜は南北朝~隋にもとめられます。
4番の 銅碗 は朝鮮半島で多くの出土例があります。
1番の 画文帯環状乳神獣鏡 は中国南朝で製作された踏み返し模倣鏡で、5世紀代の倭五王の遣遺使を通じてもたらされたものが配布されたのであろうとおもわれるそうです。同型のものが5面知られています。(稲荷山古墳にもありました)
5番の 銀鶏冠頭太刀,柄頭  パルメットの意匠

 

椅坐する主人と 跪坐する従者(塚巡り古墳 6世紀前半)

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上野三碑(こうずけさんぴ)

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左から 金井沢碑(726年)供養碑、 多胡碑(711年)建郡碑  山上碑(681年)追善供養碑 

三碑の記録形態は、上野国に住み着いた朝鮮半島からの渡来人がもたらしたもので、かれらとの密接な交流の中で、当時の都(飛鳥、奈良)から遠く離れた地元の人々によって文字で刻まれたものです。山上碑は、日本語の語順で漢字を並べた最古級の歴史資料です。多胡碑は、その文字が遠く中国にまで知られていました。金井沢碑は、この地での仏教の広がりを刻んでいます。これらの三碑は、東アジアにおける文化交流の実像を示す極めて重要な歴史資料です。(高崎市の資料より)

古代(7~11世紀)には18例しか存在しない石碑の内 最古の部類に属するものです。この後行った高崎駅構内にこのレプリカが飾られていました。

この後中世、近世とつづきますが、中世の鎧冑などはもういい、とさっさと通り過ぎてしまいました。

デジタル埴輪室では係の方が説明をしてくださいました。手で触れるとその部分について説明がはじまるしかけです。でも時間もなくなってきましたので、適当にきりあげてともかく図録を買いたいとショップへ。

後ろの解説と言うか論文がよさそうな、これを買いました。(1200円)
総合カタログも買えばよかったのですが、ともかく重いので一冊だけにしました。(大きさは A4 )

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それにしてもこの博物館の充実したコレクション、大満足でした。

ここでもう16:30。バスは16:44発の次は17:54ですから16:44発に乗りたいのです。いそいでお手洗いに行ってバス停についたのが41分、なんとかまにあいました。
なお埼玉もそうでしたが、バスはスイカがつかえません。(200円)

倉賀野経由で高崎駅まで行きます。17:17着の予定で大体時間通り着いたと思います。

道中は普通に田舎の風景。ともかくこの辺り、空がひろーい!
高崎駅のメインは西口ですが、このバスは東口に着きます。すぐに上に上がる階段がありますが、人の流れにそって建物沿いに進むとエスカレーターがありました。ともかくそれで上がってみると駅の東西をつなぐ広い通路。高崎駅はどうやら二階がメインフロアのようです。
ところで今日のホテル、駅に近いホテルが二つ、そのうち東口にあるホテルは高層階確約レディ―スルームというのがあったので、そこを予約してあります。ところがそこには夕食レストランがありません。
夕食は外で、とも考えましたが、どこがいいか分からないし、日が落ちてから外にいるというのもいやなので、お弁当を買うことに決めてあります。

通路中程に駅弁屋。かにいくら帆立弁当というのがおいしそうでしたのでそれを一つ買って(17:24)ホテルにむかいました。

ホテルは東口を出てそのまま二階通路を3、4分ほど歩くと入口。

ホテルココグラン高崎

お部屋は9階。特に良い眺め、というほどではないので外の写真は撮りませんでした。

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お腹が空いています。さあ、ところがこのお部屋、湯沸かし器がないのです。当然あるとおもってお茶はかってきていません。サービスのミネラルウオーターはおいてあります。仕方がないのでお水を飲みながらいいただくことにしました。わびしい。

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普通においしかったです。そうそう、エレベータ―のそばにドリンクコーナーがあったのを思い出しました。おりていってみるとお茶はありませんが、ストレートティーというのがあったのでそれをもらってお部屋に戻りました。

ミニゴーフルのようなお菓子がおいてあったので、それをデザートにしました。あの椅子(マッサージチェア、でもマッサージは怖いのでしませんでした)にこしかけてテレビをみて8時になったのでお風呂にはいってベッドへ。
本を読もうとしたのですが、すぐ眠ってしまいました。

1日目はこれでおしまい。(11899歩)

 

2022年4月13日 (水)

北関東(埼玉・群馬)の旅 1日目ー3 (綿貫観音山古墳と群馬県立歴史博物館)

行田13:31→14:12倉賀野 
駅のキオスクはシャッターが下りています。結局お昼抜きでした。カロリーメイトくらい持ってくるべきでした。

進行方向左側に下ります。嬉しいことにタクシーは3台ほどとまっていました。バスは14:46発がありますが、古墳も見たいし、時間も節約したいのでタクシーに乗りました。(古墳は博物館からはなれていて徒歩20分はかかります)

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綿貫観音山古墳  (14:29)
前方後円墳、長さ97m、後円部の高さ9.4 m。後円部に横穴式石室の入口が見えています。6世紀後半に造られたもの。
横穴式はこのあたりでは6世紀になって造られるようになったもので、元は高句麗、それが伽耶や百済をとおして日本に伝わってきたもので、竪穴式だと一人しか葬れないが、横穴式だと後からもいれることができるそうです。
未盗掘でした。発掘品はこれから行く博物館におさめられていて一括して国宝に指定されています。 

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個人の場合は現地で申し込めば石室内も見ることができるようです。
【ぐんま電子申請受付システム】手続き申込:手続き説明 (s-kantan.jp)

私は車から降りて外側から写真をとっただけで、先を急ぎました。

群馬県立歴史博物館。県立公園群馬の森内にあります。公園入口でタクシーをおりました。(1950円)14:30

門の横にあった自動販売機でミルクティーを買ってホッと一息。公園内を6分くらい歩いて近代美術館(6月まで休館)の先の博物館へ。あの人達も中には入らず結局広い館内一人だけでした!

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群馬歴史博物館(14:47~16:30)

博物館概要 | 群馬県立歴史博物館 (pref.gunma.jp)

月曜定休(9:30~17:00)入場料 300円

ここは無料のロッカーがありました。
綿貫観音山古墳から発掘された品々を展示してある国宝展示室と群馬県の原始時代から現代までの色々をが展示されています。

まず入ったのが国宝展示室です。綿貫観音山古墳からの」出土品が展示されています。
この出土品についてはカルチャーのオンライン講座で10日ほど前に習ったところです。その実物が見られるのですから非常に興奮しました。カメラOKです。

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先ず目に入るのが形象埴輪の大集合。壁際の展示台には他の副葬品のかずかず。
埴輪の展示に工夫をこらしているようでした。小学生などに、古墳時代に興味をもってもらうという目的もあるのではないか、と推察しています。

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後ろ側 背中についているまるいものは鏡だそうです。 

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振り分けが見の男性は鈴付き大帯から(帯だけではなく裾にも鈴がついている)また武装する男子は冑の形から、被葬者である豪族をあらわしていると考えられます。配置場所から葬礼への参列をあらわしているともとれるそうです。

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関心があるのは副葬品です。

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銅水瓶 高さ31.3 cm 蓋に落下止めのピンセット状のものが付いています。(発見時は蓋をした状態)日本にはないものでこれとよく似たものは
北斉の庫狄廻洛(562年没)の墓から出ています。
美しい形だと思いました。

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突起付き冑 国内では4例しかみつかっていません。高句麗の影響を受けて成立した冠帽付冑が大伽耶地域を中心に流行したとみられ、それの退化したものと考えられ舶載品とみられています。別に頰当もありました。

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左)獣帯鏡23.4cm     (右)神獣鏡 12.3cm(二神六獣鏡)
獣帯鏡は韓国 武寧王陵(百済)の鏡と同型鏡(すでにあるものを粘土で写し取って造られた踏み返し鏡)、遺体の頭部におかれていました。 小さい方は遺体の足元。
なお朝鮮半島南部では銅鏡使用が根づいていなくて日本列島からの搬入品であることが指摘されているそうです。
 上に見えている金色のちいさいものは半球型飾り金具、衣に縫いつけられるスパンコールのような飾り

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大刀

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三塁環頭大刀(柄の先に丸い環がつく太刀を環頭大刀と言う)国内には40例ある。三塁環頭大刀は新羅の王権を象徴するものです。
これは技術の高さから舶載品と考えられています。(ただし、金跳咏氏は 三塁と言うモチーフの起源は新羅だが造られたのは日本とみています)

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上三枚の写真) 上)銀錯龍文捩り環頭大刀 倭の伝統的な大刀
      銀象嵌龍文の施された大刀は全国で5例あるのみ
         下)金銀装頭椎(かぶつち)大刀
  柄頭が握りこぶしのような形の大刀、倭系の刀造りに朝鮮半島の意匠、金属加工技術を受容することによって生まれた装飾大刀で最上位層の者だけがもつことを許されたものです。

 

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金銅鈴付大帯
金銅大帯は 全国に3例。このうち鈴が付くものはこの綿貫観音山のものだけです。朝鮮半島では全くみられないものだそうです。

馬具類

鉄地金銅張鞍金具 倭で製作された可能性が高い

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金銅心葉形杏葉 心葉形とはハート型のこと

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忍冬唐草文の透かし彫りで 高句麗、新羅起源

 

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金銅環状鏡板付轡 通常は鉄製なので金銅性は希少。

 

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金銅花弁型雲珠 花弁型装飾と鈴を持つ雲珠・辻金具
 国内で製作された可能性が高い

 

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金銅歩揺付雲珠・辻金具(馬の尻繋などへとりつけたらしい)高句麗・新羅地域で多く作られ、6世紀前半の伽耶地域でもでています。

 

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奥)木芯鉄板張壺鐙  手前)鉄壺鐙 舶載品と考えられています

 

もう疲れてきましたのでちょっとずるをして買ってきた図録からまとめて

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↓須恵器など 左は轡です。

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少しだけふれましたが、この綿貫観音山古墳からの出土品から中国大陸や朝鮮半島とのつながりが明白です。
例がほかにないものもあることから、被葬者がヤマト王権を介さない独自の外交ルートをもっていた可能性が考えられるそうです。
なお図録の解説には 被葬者自身と被葬者を輩出した地域集団が、長く朝鮮半島や大陸との交渉に関与し、近畿地域の政治権力からその功績をみとめられてきたことを示している(銅鏡の授与などから?)と書かれています。

綿貫観音山の副葬品はこれでおしまい、素晴らしくて立ち去りがたかったのですが、次の部屋に移りました。それは次回

2022年4月10日 (日)

北関東(埼玉・群馬)の旅 1日目―2 (さきたま古墳群続き)

11:15 博物館を出て古墳公園に向かいます。

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信号を渡ると小さな古墳、愛宕山古墳です。

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全く予期していなかったのですが、桜の季節、少し散り初めていましたが、見事でした。

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左、桜の木が三本たっているところが丸墓山古墳 右、少しなだらかなスロープが見えているところが稲荷山古墳

古墳の上に上がれるのはこの二つです。

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丸墓山古墳は高さ17.2m、日本最大級の円墳だそうです。階段がきびしそうなのでのぼりませんでした。高いだけに眺めはよさそうです。 

ここは石田三成が忍城攻めの時、陣を張った場所です。古墳左斜面に見える階段の下に続く道が石田堤で利根川の水を引いて水攻めにしたのですが、城はおちなかったそうです。
ツツジの植え込みは小円墳の場所を表しています。

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桜の木の奥に見えるのが 稲荷山古墳です。中央、扇を開いたような木の向こうに階段が見えます。この前方部の階段を上ります。左の上に茶色いのが見えるところが後円部です。
階段は土、石で丸太が土留におかれているものです。前日が雨でしたがぬかるんではいません。ただし つかまりながら上がった方が安全です。手すりは太いロープで軍手をはめてつかまりました。高さ、10.4 m

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前方部から後円部を見ています。

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後円部から前方部を、右は丸墓山古墳 

後円部頂上には お墓の位置がマークされていました。

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河原石で作った埋葬施設 右手にうっすら金色の帯が見えています。

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この人物が ヲワケ と言うことになります。電磁波探査によると、礫槨とは別に中心的埋葬施設が先に造営され、後にその縁者である礫槨の主が埋葬されたと考えられるそうです。ヲワケは有力豪族の一員ではあっても首長ではなかったようです。

↓四枚上の写真で輪郭だけがしるされたところ

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丸墓山と反対側には将軍山古墳が見えています。円筒埴輪が周りにおかれています。

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おりて将軍山に向かいます。

こちらは菜の花がまぶしいばかりです。

将軍山古墳

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回り込むと前方部に作られた古墳展示館が見えました。

史跡博物館の入場券で入れます。

内部は説明パネル、発掘品は史跡博物館に展示されているので写真のみ、二階に石室模型がありました。

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ここは石室模型以外みるものはないので10分もかかりません。

戻ります。

一番大きな二子山古墳です。全長132.2 m むさしの国最大の古墳。6世紀前半。

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534年、武蔵国造職を巡って争いがありました。笠原使主と同族の小杵が争ったのですが、二子山古墳を使主、丸は加山を小杵の墓とする説があるそうです。

この古墳群のある場所は荒川と利根川に挟まれたところです。昔は川筋が違っていてもっと古墳に近かったそうです。
万葉集に
埼玉の津に居る船の風を疾み綱は絶ゆとも言な絶えそね
と言う歌があります。
この歌にある埼玉の津も古墳に近い場所だったかもしれなくて、その交易にたずさわった人がこれらの古墳の主かもしれないそうです。

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左から 丸墓山古墳、稲荷山古墳、裾だけ見えているのが 将軍山古墳です。

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春休み最後を楽しむ家族連れも多かったです。左手に見えている階段が稲荷山への登り口。
桜と菜の花満開で幸せな気分になれた公園でした。

愛宕山古墳を過ぎたところの信号まで戻ってきたところで12:40
バスは 12:55ですから食事の時間はありません。逃すと次は1時間後です。途中飴はなめましたが。
バス停は信号のすぐそば、循環バスで停留所は一か所です。
バス停で途中会釈を交わした女性ともう一人女性と一緒になって少しおしゃべり。古墳と言うよりお花見目的だそうです。 

バスは行田駅行、次の停留所は忍城、お一人はそこで降りられました。
行田駅前も閑散としていて食事はできそうにないのでそのまま 13:31発の電車で倉賀野へ
倉賀野で群馬県立歴史博物館に行きましたが、それは次回に。

 

2022年4月 9日 (土)

北関東(埼玉・群馬)の旅 1日目―1(さきたま古墳群)

4月5日
ショルダーバッグとトートを手に出発。予定通り横浜8:34発東京・上野ライナー乗車。予定通りでなかったのは混み具合。座れなくてドアの方を向いてたっていましたが、川崎で座れました。東京駅を過ぎるとぐんと乗客は減ります。

10:10吹上着、まごまごしながら改札口へ

北口に下りました。ここでタクシーに乗れるはずです。ところが人っ子一人居ない駅前広場にタクシーはとまっていません。
グーグルマップではタクシー乗り場があることになっていてストリートビューではタクシーも映っているのですが、標識なし、タクシーもみえません。向こうに続く一本道が見えるだけ。そこまで行くとバス停、その前に何台もタクシーはとまっていますが、運転手はいません。どうしよう、うろうろウロウロ。広場に戻ったり、、、。スマホでタクシー会社を検索しようとしたところへ、やっと一台現れました。

そういうわけで 10:25乗車、10:33博物館到着 1700円

埼玉県立さきたま史跡の博物館(大人200円)9:00~16:30(入場は16:00)夏期は17:00まで 月曜休み
    埼玉県立さきたま史跡の博物館 (spec.ed.jp)

埼玉(さきたま)古墳群と呼ばれる古墳群があり、そこで発掘されたものが展示されている場所です。

埼玉古墳群は5世紀後半から7世紀中ごろにかけて大型古墳が造られました。前方後円墳8基、大型円墳1基、それに小円墳がいくつかです。それらからの発掘品がこの博物館に展示されているのです。

先ずトートバッグを預けようとしたのですが、なんとコインロッカーはないのです。まあ、軽いから持って歩けますけれど。

発掘品は一括して国宝に指定されています。
国宝展示室に入ります。写真はOKです。ただし、ガラスにカメラレンズを密着させないこと、平置きされているものについてはカメラを落としてガラスを割るといけないから横から写せ、と結構うるさいです。少し離れてなら上からでも大丈夫でした。

ここの一番の宝物は国宝に指定されている「金錯銘鉄剣」です。
稲荷山古墳から発掘された鉄剣の保存処理中に、細い溝が刻まれ金の針金を埋め込んだ金象嵌の存在が確認されたのです。

表     

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    表         裏         表上部拡大

(表)
辛亥年七月中記乎獲居臣上祖名意富比垝其児多加利足尼其児名弖已加利獲居其児名多加披次獲居其児名多沙鬼獲居其児名半弖比

(裏)
其児名加差披余其児名乎獲居臣世々為杖刀人首奉事来至今獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時吾左治天下令作此百練利刀記吾奉事根原也

解釈が一致しているわけではないそうですが、
辛亥の年7年に記す。ヲワケの臣。上祖(かみつおや)、名はオホヒコ。其の児(名は)タカリのスクネ。其の児、名はテヨカリワケ。其の児、名はタカヒ(ハ)シワケ。其の児、名はタサキワケ。其の児、名はハテヒ。

其の児、名はカサヒ(ハ)ヨ。其の児、名はヲワケの臣。世々、杖刀人の首と為り、奉持し来たり今に至る。ワカタケ(キ)ル(ロ)の大王の寺、シキの宮に在る時、吾、天下を左治し、此の百錬の利刀を作らしめ、吾が奉事の根源を記すなり。

ここでポイントになるのは辛亥年と獲加多支鹵大王、他の発掘品から60年に一度巡ってくる辛亥年は479年。この大王が倭の五王の一人、倭王武である雄略天皇である可能性が高いそうです。(雄略天皇はオオハツセノワカタケと呼ばれていた)
雄略天皇実在の有力な考古学的実証となっています。
杖刀人とは刀を杖着く人、ということで身分の高い人の護衛につく人のこと。ヲワケは護衛隊長だったと解釈でき、このころ官人制度のもとになる「人制」がすでにできあがっていた、ということになります。


稲荷山古墳後円部墳頂の竪穴式埋葬施設が二つあり、一つは盗掘されていましたが、もう一つは未盗掘で上に揚げた鉄剣も出てきました。
 

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そのほかに鏡、武具、馬具、装身具などがでてきました
帯金具
日本では帯金具が出土することは珍しく舶載品と思われています。

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翡翠のまがたま 糸魚川で翡翠がとれました。

写真がピンボケです。

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同型鏡、同じ鋳型からつくられたもの。ヤマト王権が入手したものを各地の豪族に従属の見返りとして配ったものと考えられています。

馬は財力と権威の象徴でしたから、きらびやかに飾られました。

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これではわかりにくいので 翌日行った観音塚資料館のパネルから

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左は f字型鏡板付轡

土器と須恵器

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埴輪 
 :円筒埴輪 墳丘に楯なら部られて、飾りや、邪悪なものから古墳を守る結界のはたらき
 :形象埴輪 墳頂や、造り出し、中堤などに並べられて儀礼の場面をあらわします。

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右は琴を弾く男子

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将軍山古墳からの出土品
将軍山古墳は6世紀中葉に造られた片袖式横穴式石室を持っています。横穴式は竪穴式とちがって後から人をまた葬ることが出来ます。朝鮮半島由来のものです。埋葬品は新羅のものもありますが、伽耶からきたものが多いです。

 

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銅碗、馬冑、蛇行状鉄器などは伽耶からもたらされたもの。

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馬冑 国内では3例しか発見されていません。新羅からも出るが加耶地域からもでます。
舶載品と考えられます。

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蛇行状鉄器 下図のように馬に旗竿をとりつけるもの。

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奥の山古墳から出土した 須恵器(子持ち壺)

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博物館をみてガイドブックを買ってから古墳公園に向かいました。

(このページの説明はガイドブックとカルチャーセンターの講座のレジュメを参考にしました)

古墳公園は次回に

 

 

2022年4月 7日 (木)

北関東(埼玉・群馬)の旅 プロローグ

旅の先達kikuko様に刺激され古墳を見る旅を試みました。

浅学にして関東に古墳があることを知りませんでした。それが群馬県に森で覆われていなくて前方後円墳の外観がしっかり見て取れる古墳があるとのことなのです??!
今年に入って、海外旅行でお世話になっている旅行会社の国内旅行のパンフレットが届きました。それに千葉、茨木、埼玉、群馬の古墳を巡る旅があったのです。あら、埼玉にもあるのね!然しその時期、別にマークしている旅もあります。
ウーン、よくよく自分に聞いてみました。古墳そのものも見たいけれど、より関心があるのは発掘品だと思い至りました。ツアーで全部要領よく説明付きで見られるのは魅力ですが、ピックアップして見に行くことにしましょう。
また先達のブログを読ませていただいたときに高崎なら横浜から乗り換えなしで行けることにも気が付いていました。

これまでにも書いたことがありますが、去年、滋賀県の坂本に行って以来突如、渡来人という存在に目が向くようになりました。そこでカルチャーセンターのオンライン講座で「古墳時代の日韓交流」という講座を受講していたのですが、その講座で朝鮮半島の古墳を取り上げた後日本の古墳がとりあげられ、東日本のところで千葉、信濃とともに群馬・埼玉の古墳が取り上げられました。また別の講座で「雄略天皇と埼玉稲荷山古墳鉄剣銘文」の講座も一回だけ受講。それらも考えながら目的地を絞って計画を立てました。帰りは八高線・横浜線経由にし、渡来人関係ということで高麗神社にも寄ることにしました。
一泊ならこの季節、下着のかえだけもてば大丈夫そうです。計画だけたてて天気予報を確認したうえでホテルを予約しました。古墳や博物館はどこも最寄り駅から離れていてバスの本数も少ないので、いきおいタクシー利用になるのがつらいところです(参考のためにタクシー料金も書いておきます)。 

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予定
4月5日(火)
横浜(8:34)→(10:10)吹上→(タクシー)→さきたま史跡の博物館(博物館と古墳散策)バス12:55→(13:14)行田(13:31)→(15:12)倉賀野(タクシー)→(綿貫観音山古墳経由)→群馬県立歴史博物館 →16:44バス→(17:17)高崎駅 泊り

4月6日(水)
高崎駅(8:02)バス→(8:42)観音塚考古資料館・古墳→(タクシー)→かみつけの里博物館→(タクシー)高崎駅(12:56)→(14:25)高麗川→(タクシー)高麗神社→(タクシー)高麗川(16:00)→八王子経由→(18:03)横浜

独り旅です。道中はaiai様が教えてくださったエイドリアン・マキンティの警察小説を読んで過ごしました。

お天気に恵まれ、満開を少し過ぎたけれどもまだまだ見事な桜の下、大満足の旅ができました。 

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詳細は次回から