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鯖街道の旅

2022年7月 4日 (月)

鯖街道の旅 3日目―5 京都 建仁寺・両足院

6月11日(土)
建仁寺は祇園花見小路の突き当りに北門があります。大型バスは入れないので川端通りにバスを停めて5分くらい歩きました。

建仁寺 
1202年、二代将軍源頼家によって創建、開山は栄西。あ14世紀~15世紀にかけて何度か火災に遭って創建以来の建物は焼失。
天正年間(1573~1592)~江戸初期に再建。禅寺として知られています。
京都五山の第3位で「建仁寺の学問面」と呼ばれています。 

15:28門前に到着です。
雨はしとしと降ってきましたが、大粒というわけではなく又風もなかったので傘は必要でもさほど苦にはなりませんでした。

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京都の真ん中というのに敷地は広いです。

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15:34 両足院に到着

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両足院 両足院とは|京都建仁寺塔頭両足院|座禅体験・庭園の特別拝観(特別公開)・樹木葬 (ryosokuin.com)
上記ホームページに詳しく縁起は述べられています。
1536年の火災までは知足院という名でしたが、火災後別院の両足院と合わせて両足院と改称しました。
建仁寺の学問面(がくもんづら)を担った中核塔頭寺院。

ここの大書院前庭の池泉庭園は京都府の名勝庭園に指定されています。半夏生が植えられていていつもは非公開ですが、葉が白くなるこの時期は特別公開されるのです。

入ってすぐ左に

  毘沙門天堂

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両⾜院の毘沙⾨天は、鞍⾺寺毘沙⾨天の胎内仏でした。関が原の会戦に⿊⽥⻑政が関東⽅として出陣する際、この尊像を内兜に収めて奮戦し、勝利を収めたといわれています。代々⿊⽥家で信仰されましたが、維新の変⾰で明治10年ごろ寄進されたのです。

入口で靴を脱ぐのですが、ポリ袋を持っていくように言われました。途中からお庭におりるからです。
今日は土曜日、宇治から伏見に行く時、渋滞にはまったことからドライバーさんや添乗員さんは新幹線に乗り遅れることを心配して「申し訳ありませんが16:10集合でお願いします」と言われました。ム・ム・ムですがしかたがありません。

入ってすぐに、もうこんな素敵な小さなお庭 

閼伽井庭です。

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仏前に供
えるお水を汲む井戸、三尊石の奥に細長く見えているのが水鉢なのですが、、、。

ここもすっきり気持ちのよいお庭、と言っていいのでしょうか、通路?
唐門前庭

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方丈前庭

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ここも方丈前庭です。奥を左に折れると大書院前庭になります。

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奥の石組を拡大。

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あの立石を正面にした写真を撮っておけばもっと姿がよかったのではないかと悔やまれます。

方丈の所から靴を履いてお庭に下ります。

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あの階段をあがります。

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ほんの少し山道を行くと左下に池が見えてきました。池のふちに半夏生も見えます。

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この池は鶴を表しているそうです。右手が鶴の首、そうして羽を広げている形になっています。向こうが大書院。

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半夏生とは夏至から11日目にあたる半夏の頃葉が白くなり花が咲くことから、この名がつけられたそうです。葉が半分白くなることから半化粧とも書きます。水辺の植物のようで、我が家の近くのこども植物園でも小さな池のところに生えています。 

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奥が大書院、左が方丈

池を反時計回りに巻くように降りていきます。

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お茶室をバックに眺めています。池の奥に一部、滝石組みが見えています。

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 滝石組みを拡大
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小さな橋を渡って

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茶室 水月亭(左)と臨池亭(右)

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あら、私もお茶室のぞいてみればよかった!
門からこの飛び石伝いにお茶室に行くのですね。雨でしっとり濡れて、だからといって滑ることもなくいい感じでした。

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この角度から見ると高低差がよくわかり立体的にうまく造っているなあと思いました。

ところで遠くに「これが亀石組みです」という声がきこえていたのですが、どこだか分かりません。教えていただきました。上にあがって (15:53) 

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池の中、木陰に亀頭がのぞいています。そうして右手の小山が亀の甲羅です。石が回りをかこんでいて、上に松の木が立っています。尾の方は最初に方丈から眺めて、石組みだけを大写しにしたあの石組みを横から見ていることになるのです。見る方向が違うと同じ石組みとは見えない姿です。

大書院の中から

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ずっと眺めていたいところですが、集合時間が迫っています。
回遊式は色々な方向から見ることができて楽しいお庭です。できればまた来たいです。
秋にも特別公開があるようです。

16:10集合 また川端通りまで歩いてバス。心配した渋滞はなくスイスイと京都駅八条口に着いてしまいました。
帰りの乗車券を渡されて、乗車10分前に13号車のところに再集合です。
30分はあります。少しここからは遠いけれどJR京都伊勢丹に行けそうです。
延々カートを引いて急ぎ伊勢丹へ 
地下2階に下りて老舗名店弁当のコーナーに直行。
17:00前で(それに土曜日のせいか)かなりまだ品ぞろえはありました。
迷いました。でももう一度だけ試してみよう、とまた和久傳の「鯛ちらし」を買ってしまいました。(まだ4箱ありました)主人はお昼をしっかりたべてしまってまだお腹がもたれている、と言います。そういえばお昼が遅めでした。それでこれを一つと明日でも大丈夫な柿の葉寿司を買いました。
改札口ではなくホームで待ち合わせですので、西口というのでしょうか、伊勢丹に近い方の改札口から入ってホーム―を延々歩きました。丁度皆さん集まり始めているところでした。

17:13発 のぞみに乗車  

新幹線は空いていました。私たちは3人掛けのところに二人ですが、結局お隣は空いたままでした。一人参加の方たちは2人掛けのところをお一人で、やはりずっとお隣は空いたままのようでした。金曜日は混むけれど、土曜日は空いているのですね。お弁当も買えます。一つ勉強しました。ただ肝心のお寺がコロナ明けには混むでしょうね。

乗って、まだ早いかな?そっと見まわすと、どうやらみなさん買い込まれたものを広げはじめていらっしゃるようです。
私もがまんできずに広げました。主人はおなかがすいていないと、ビールとおつまみを買っています。

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暑い時期だからでしょうか? 煮物がなくてゴマよごし以外はお漬物の類でした。

鯛ちらしのほうは? 今回はごはんはしっとり、美味しかったです。みなさんのご推奨、納得しました。
でもやっぱり菱岩がいいな。 
小食の私 半分しかいただけません。主人と分け合うつもりでお箸も二膳つけてもらったのですが、ビールとつまみでもうお腹がいっぱいとのこと、そのまま持ってかえって家で食べてもらいました。

東京着 19:24ですが、私たちは今度は品川で降りてみました。ところが京急乗り場まで延々と歩き、最後は一度外に出ることになりました。やはり新横浜乗り換えがいいと思いました。(16347歩)

「鯖街道の旅」日記 完

延々、日数がかかってしまいましたが、これで今回の旅行記は終わりです。対馬・壱岐の旅のブログの仕上がりが遅れて予習不足のまま行ってしまって、日記を書く段になって調べてみて、ここも見ておけばよかった、この角度からの写真が欲しかったというところはいくつもあります。いつも今度こそ、もっと勉強して、とは思うのですが。

::::

対馬・壱岐の旅でご一緒になった方に私があまりにも食が細く歩けないのをご覧になって「あなた骨粗鬆症かもしれませんよ」と言われました。それで帰って整形外科に行きました。
腰椎正面はまあまあだけれれど、大腿骨の骨密度はなんと若い人の44%。これは薬による治療の段階はすぎていて注射でなければだめなのだそうです。その後MRI などの検査もうけて,今回の旅行後から週2回筋肉をつけるためのGーTESという電気による治療に通い、やはり週2回、家で骨粗鬆症治療薬を自己注射をしています。 
当面は体のメインテナンス期間と心得て涼しくなってからの旅行に備えたいと思っています。 
 

2022年7月 2日 (土)

鯖街道 3日目―4 京都 十石船乗船

6月11日(土) 14:00発の船に乗る予定で急ぎます。

十石船乗船

道路から階段を下りて川岸の乗り場へ。20人乗りでもう先客は乗り始めています。私たちは予約ですからそのまま滑り込み。最後に乗りました。往復50分、といっても中間地点の三栖閘門のところで降りて20分後に来る次の便で戻る、というものです。
左右2列のベンチがあり、全員外の景色が眺められるようになっています。
昔は下りは櫓で、上りは引き船道を人力で引いて遡りましたが、今はモーターです。

乗るとすぐに出発。
13:55には動き出していました。小雨模様ですが、屋根付きですから大丈夫です。窓越しに眺めるのですが、窓の桟が邪魔でした。

月桂冠の酒蔵でしょうか。

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寺田屋の向かい辺りになります。寺田屋は見えません。

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坂本龍馬とお龍の銅像

最初はゆっくり、ということでしたが、結構早いです。

特に、という眺めの所が多かったです。

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向こうからきているのも濠川、どうやら濠川はここで分かれて今来た流れから宇治川に流れ込むのと、これからいく流れに分かれるようです。

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伏見であい橋をくぐっています。

橋をくぐった右手に角倉了以の記念碑がたっているのですが、残念、写真がぼけていて判然としません。
角倉了以は戦国時代から江戸初期にかけての人で京都の豪商。大堰川、高瀬川を現在のお金で150億円かけて開鑿、通行税ですぐ元を取ったという話などをこのあいだ、ブラタモリでやっていました。「水運の父」といわれているひとです。 

この先はみるべきものもないのでスピードを上げて 

14:04 

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三栖閘門に着きました。ここで 宇治川に合流するのですが、ここでは宇治川は見えません。

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舟は前の便で来た人達を載せて行ってしまいました。
白い建物が資料館です。 

三栖閘門資料館

閘門の模型と昔の伏見の地図が展示されていました。

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他に観るものもありません。ここでは時間を持て余してしまいました。私は資料館の中の椅子にすわっていましたが、あの閘門の横の少し高くなったところにいらした方も多かったです。主人もそこに上がって写真を撮ってきました。

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濠川が宇治川と合流しています。

やっと次の船がやって来ました。乗客がお降りて少し待たされました。(14:26)

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14:30過ぎに出発したと思います。

帰りも同じコースなのでスピードをあげました。

舟を下りて少し歩いてバスがくるのをしばらく待ちました。(実はこの隣の駐車場にバスは停まっていました!)

この建物は月桂冠大倉記念館です。

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バスで最後の目的地建仁寺にむかったのですが、そのことは次回に

鯖街道の旅  3日目ー3 京都 寺田屋

6月11日(土)

御香宮神社から寺田屋までは歩いても十数分ですがバスで行きました。

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ところがバスを寺田屋前に停めようとしたけれど狭い道なので停められなくて離れた駐車場まで行くことになって5分くらい歩くことになりました。この辺り月桂冠の会社の土地らしく、歩くのは楽しかったです。

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先の方(人がたっている所)に月桂冠大倉記念館。手前は酒蔵

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大倉家本宅

 

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あとでいくことになっている濠川

着きました。12:35 寺田屋 (12:35~13:00)

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暫くお庭で入場待ち。狭いところに色々ありました。

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寺田屋って坂本龍馬ゆかりの場所程度で私はよく知りませんでした。

これによると船宿だったようですね。

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維新当時からの井戸

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寺田屋は鳥羽伏見の戦いで罹災したので、現在の建物はその後の再建です。

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この2階の部屋が龍馬の襲われた部屋

パンフレットから

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寺田屋は薩摩藩の定宿と指定されていたことから西国雄藩志士等の京に赴く足溜まりとなっていてとても繁盛していたのですが、そのため「寺田屋事件」の舞台ともなりました。
坂本龍馬は薩摩藩の紹介で寺田屋を京の宿として利用していました。

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事件のあった1866年1月23日幕吏の襲撃を受けたときもこの部屋に泊っていました。

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事件の時、お龍はこのお風呂に入っていました。

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いそぎこの階段を駆け上がって急を知らせました。

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どのお部屋も龍馬の絵や写真、それにお軸などが壁じゅうにはられていました。好きな人には興味があるのでしょうけれど。

外に出ると、小雨。天気予報は今日は朝から雨でしたが、この時間までは降られなくて済みました。

5,6分歩いて昼食会場へ

月の蔵人 という蔵を改装したお店です。 (13:10~13:40)

かなり広いお店です。室内の写真を撮り忘れたのでお店のホームぺージから

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京月御膳 というのを頂きました。

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お豆腐が特においしかったです。

十石船の予約が14:00ということで急いで乗り場へ行きました。

十石船については次回にします。

2022年6月30日 (木)

鯖街道の旅 3日目ー2 伏見(後香宮神社) 

6月11日(土)

11:10~11:50 バス 渋滞にはまってずいぶん時間がかかりました。

神社近くの道路に道路をとめて

御香宮神社 (11:55~12:13)
平安時代の初め(862年)境内から病気に効く香水が湧き出たので 清和天皇からこの名を賜ったと言われています。
(もとは御諸神社という名前でした。創建年代不明)

私は全く予備知識なしに来ましたので、先ず御門の立派なのに驚かされました。

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それも当然、伏見城の大手門を移築したものだからです。

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横木の所にある蟇股(かえるまた)の人物彫刻(中国二十四孝の物語だそうです)も素晴らしいことになっているそうです。

御香宮神社は一時、秀吉が伏見城に移したのですが、家康が元の場所に戻し、1605年に本殿が造られました。
徳川頼信、頼房、義直はここで産湯を使いました。
大手門は1622年徳川頼房(初代水戸藩主)が寄進したのです。 

途中に 桃山天満宮 菅原道長をお祀りしてあるそうです。

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先の方に拝殿がみえてきました。

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拝殿は1625年 徳川頼信(紀州徳川家初代)の寄進によるものです。 

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 桁行七間(けたゆき七げん)、 梁行三間(りょうゆき三げん)、入母屋造(いりもやづくり)、本瓦葺の割拝殿。
割拝殿は間が通り抜けぬけできるようになっている拝殿のことであとでここを通って本殿に進みました。

 

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正面軒唐破風(のきからはふ)は、 手の込んだ彫刻によって埋められている。特に五三桐の蟇股や大瓶束(たいへいづか)によって左右区切られている彫刻は、向かって右は『鯉の瀧のぼり』、 すなわち龍神伝説の光景を彫刻し、左はこれに応ずる如く、琴高仙人(きんこうせんにん)が鯉に跨って瀧の中ほどまで昇っている光景を写している。 この拝殿は伏見城御車寄(くるまよせ)の拝領と一部誤り伝えられる程の豪壮華麗な建物である (神社の解説より) 平成九年六月に半解体修理が竣工し極彩色が復元されました。

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華麗な彫刻にうっとりでした。

拝殿~本殿へ 間の道、馬道(めどう)というらしいのですが、を進みます。

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本殿

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本殿を横から見ています。落ち着きのある華やかさで 素敵だとおもいました。平成二年より始められた修理により約390年ぶりに極彩色が復元されたそうです。

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主祭神は神功皇后です。安産の神様でもあるからでしょうか、奥に安産祈願の像が建てられています。

 

これがこの神社の名前の由来の 御香水です。名水百選の一つになっています。
昔、この辺りは海でした。もとは湿地なので水が出るのです。伏せている水→伏見

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絵馬堂 

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1868年に起こった「鳥羽伏見の戦い」というのがありますが、その時この御香宮神社は新政府軍の陣所でした。然しここは被害を受けませんでした。

「伏見の戦跡」碑

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あらら、何やら懐かしいお名前!

 

後から知ったのですが、ここには小堀遠州が造り、中根金作が残っていた石や手水鉢を使って再構築した庭園があるそうです。見られなかったのが残念です。 

12:13頃ここを出てバスで寺田屋にむかったのですが、そのことは次回に。

2022年6月28日 (火)

鯖街道の旅 3日目―1 三室戸寺

6月11日(土)三室戸寺→御香宮神社→寺田屋→十石舟→建仁寺両足院→京都駅

今日は「京の銘酒や食産を支えてきた伏見」が中心ですが、特別拝観できる時期だということだからでしょうか、アジサイとお庭の見学が入っています。両足院のお庭が楽しみです。

朝食は7:00からです。

朝食は5種類のセットメニューから選ぶようになっています。これなら連泊しても日替わりで楽しむことができそうです。

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私はバナナとゴルゴンゾーラのシナモントーストを選びました。

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ゴルゴンゾーラはそれほどきつくなくバナナが甘くて美味しいトーストでした。ベーコン、ウインナは残しました。

今日の出発はゆっくり遅めの出発で9:20集合です。
時間があるので次、ここに泊るとしたら何処行きバスに乗れるのかバス停を確かめに行くことにしました。(8:30~8:55)この辺りは去年歩いたところなので懐かしかったから、ということもあります。

河原町通りに出ると近くにいくつもバス停があるのです。バス停をチェックしながら歩いているうちに御池通り近くまで来てしまいました。本能寺入口があります。能が
能-Traditional Script.svgとなっているのは五度も火災に遭遇したのでヒを避けてこの字にしたそうです。

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ちょっとのぞいてみることにしました。

それにしても???本能寺は燃えてしまったはず、20年以上前に来た時本能寺址という石碑が建っていたのを見たことがあるのですが、その場所とは違うような。それにこのお寺、新しそうとはいえとても築二十数年というほどではなさそうです。

全く予備知識なしに、これは?とおもうところを撮っています。

これはどうやら信長公霊廟の裏側らしいです。

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調べてみると本堂は1928年に再建されたものだそうです。
本能寺は何度も火災に遭い場所を次々変えているので、ここは焼き打ち当時とは別の場所だったのです。 

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本能寺焼き打ちの時に亡くなった人たちが合祀されているようです。

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はっきりしませんが一番上の段右から5番目に森蘭丸の名前も見られます。あたら若い命を、、、。

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信長公のお墓

 出発の時刻もあるので、あたふたとお寺を後にしました。機会があれば今度は正門からもみてみたいです。

9:20 ホテルロビーに集合してまた市役所前までゴロゴロとカートを引いていきます。
9:35頃~10:15バス 

駐車場から少し歩いて

三室戸寺(10:20~11:10)

三室戸寺は770年、光仁天皇の勅願により、三室戸寺の奥、岩淵より出現された千手観音菩薩をご本尊として創建されました。(チケットにかかれている由緒)
創建以来、光仁、花山、白河三帝の離宮(御室)になったため、御の字を、三、に替え、三室戸寺と称するようになったそうです。宇治市にあります。

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人がかたまっているところがチケット売り場。私たちの分は添乗員さんがまとめて買ってくださるので待っています。
今日、寺田屋までは13人が2グループに分けられ、それぞれにガイドさんがついて案内されました。

チケットの裏が境内案内図

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本堂下の階段の麓まではガイドさんと一緒に行き、あとは自由観覧です。

緩い長い坂をのぼります。

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朱塗りの門をくぐってフト右手をみると、びっくり。かなり高くまであがってきたようで谷間がアジサイ園になっているのです(さつきも植わっています)。かなり下方に見えます。

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階段にはあじさいで 昇鯉(勝利)が描かれていたそうですが、お花が枯れたので昨日で撤去されたらしいです。その名残が見られました。

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私は坂道だめで階段は大丈夫ですが、ここに来るまでにもう息が上がってしまって、階段の下で待っていることにしました。
主人が撮ってきた写真です。

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「浮舟之古磧」 源氏物語に詳しくないのですが、浮舟は宇治十帖にでてくるのでしたね。

 

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私は待っている間にあたりをぶらぶらしていて素敵なお庭を見つけました。
案内図に「モミジ園」と出ているところです。
横にひろがっているので左半分と右半分に分けて撮っています。立ち入り禁止でした。

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広々してさわやかな印象ですてきでした。

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アジサイ園へと下りていくとまた素敵な庭園に出会えました。「与楽園」です。「モミジ園」も「与楽園」も中根金作によって作庭されています(平成元年)
与楽園は枯山水部分と池泉庭園にわかれています。
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このように二つ、(松の生えた)石組みが浮かんでいると普通 鶴島、亀島だろういうことになるらしいです。 

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鶴。亀とくれば奥に見えるのが蓬莱石組みということになるようです。
 
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少し降りると池泉庭園

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このままあじさいを見ながら下がっていきました。

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あじさいは見ごろにはもう一息、というところでしょうか。どうもお花がこぶりな気がしました。
お花より中根金作造園の庭園の方が印象に残っています。

11:10 バスで伏見にむかいましたが、そのことは次回に。  

2022年6月27日 (月)

鯖街道の旅 2日目ー4 八瀬かま風呂~出町柳~ホテル

6月10日(金)

15:14 興聖寺下駐車場出発
安曇川沿いを走ります。
ここまで来ると百井川と名前を変えるようです。

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 ここを過ぎるとかなり高いところを走り、いろは坂を下り、トンネルを抜けて走ります。
確か途中(面白い名前ですが、地名なのです)というところから琵琶湖方向に下りる道があるはずでそこを行くと還来(もどろき)神社というのがあるのです。
やはり黒川創の作品で『もどろき』というのがあります。亡くなった父親の遺品を整理していて父親の著書に「父が環来さんにお礼参りに行ってきた」という箇所があるのを見つけ、それが神社の名前だと知って兄妹で行く、という場面があるのです。(ご祭神は桓武天皇の妃だった藤原旅子。彼女はこの辺りの生まれで、死んだら出生の地に祀ってほしいと頼んだというのがこの神社の始まりです。生まれた地に戻ってくる、環来神社というわけです。)
「環来さん」には前大戦中、応召者が生還を祈願してお参りしたそうです。建前は戦勝祈願ですが、戦争末期には一夜に数百人の人の流れが途中峠にひきも切らなかったという、と書かれています。
単に父の著書に書かれてれていたからだけでなく、事情から言ってその環来という言葉に引き付けられたのだと思います。

別に私たちのバスルートからは離れているのですが琵琶湖へ降りる道は確認したいと考えていました。それなのに、ついうとうとしてしまったようで気が付いたときはもう三千院の近くにきてしまっていました。

三千院を過ぎると次の目的地、かま風呂跡はすぐです。ガイドさんも説明再開です。
八瀬は矢背なのだそうです。というのは昔大海人皇子がこの地で流れ中に受け、傷をいやすために村人がかま風呂を献じたということが由来だからということです。

15:55頃 かま風呂近くの道路に停車

高野川を見ながら少し歩いて 

あの橋を渡って、中央の藁ぶき屋根がかま風呂です。 

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入口の穴は高さが50㎝くらいです

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様子を示す絵。火にお水をかけて湯気を出しています。

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高野川の清流。カジカのきれいな声を聴きました。

16:10バス出発。坂道を急いでもどったので、かなりの間息が苦しかったです。

16:30頃 出町柳でバスを停めて 

鯖街道口の石標

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川は賀茂川です。高野川と賀茂川はここで合流します。橋は出町橋。

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はっきりしませんが 
小浜からの、いくつもの峠越えの道のうち若狭街道がいつしか「鯖街道」と呼ばれるようになりました。若狭湾でとれた鯖に塩をふり、担ぎ手によって険しい山越えをして、京の出町に至るこの食材の道は、今に息づく長き交流の歴史を語り続けます。と書いてあります。こう書かれていますが、ほかの道も鯖街道とよばれているようです。若狭から京には色々なものが運ばれましたが、ある時代鯖がたくさん獲れて鯖を運ぶことが多かったので鯖街道と名付けられました。

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あの樹々の生い茂っているところは下賀茂神社だそうです。多くの方が「ああー」。いらしたことがある方が多そうです。先日旅友さんでいらした方によると下鴨茶寮で頂いたお昼がお高いけれど、とても美味しかったそうです。そのうち行きましょう。
 
16:40バスに乗ってホテルへ

ところがホテル近くには大型バスが停められません。ホテルは河原町通りと木屋町通りを結ぶ道の一つ龍馬通りにあります。乗って10分もたたなかったでしょうか。市役所前でおりて、各自荷物をもってホテルまで歩きます。観光、ショッピングには便利な場所ですが、バスが入れないのは困りものです。すぐ近くには去年の秋に泊った西鉄ソラリアがあります。このあたり土地勘があるので、勇んで歩きだしました。夕食前に買い物がしたいからです。

クロスホテル京都 到着。ロビーが広々として明るく主人は「おっ、次はここにしよう」ともう言っています。 

お部屋はとてもシンプルです。
お部屋 17:10

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上層階ではなく窓の外の景色は期待できそうにないのでブラインドはあげませんでした。

夕食は外なので17:55ロビー集合です。

いそいで買い物に行きました。河原町通を四条に向かって歩きます。四条通りにぶつかる直前にある永楽屋がお目当て。(永楽屋は手拭いのお店もありますが今回はそちらではなくお菓子のほうです)子供たちや妹たちへと結構たくさん買い込んでいそいでホテルに戻りました。やはり京都の繁華街、かなりの人出がありました。
17:45に戻れました。

17:55
集合して歩き始めます。

木屋町通りを横切ってさらに進み

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あの先斗町歌舞練場を右に曲がります。先斗町って、気になる場所ですが、男の人が遊ぶところでは?という感じがしていました。でも普通に観光客らしいカップルがお店をのぞいて思案しながら歩いている通りでした。行きは人が多くていい写真がなかったので帰りに撮ったお店の写真です。

すいしん 京野菜とおばんざいのお店 とありました。(18:00到着)

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上り口奥の木製ロッカーのようなものは靴箱であのささっている赤い札がキーです。

私たちは3階です。昨日は一人一人はなれてポツン、ポツンと座っていましたが、今日は間にアクリル板はありましたが二列に向かい合って和気あいあいおしゃべりしながらいただきました。ビールと日本酒は黒龍、私も少しだけ頂きました。

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青ネギと赤貝からし酢味噌

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 刺身 あとで添乗員さんが下さったメニューに油目葛タタキ、とあったのでそれが白いものでしょうか? 私は鱧かとおもっていただいたのですが。

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丸茄子と黒毛和牛ステーキ

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アスパラガスの胡麻和え

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若鮎塩焼き


鱧の天ぷらもでてきたのですが、写真撮り忘れです。

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中は甘鯛 ソラマメ餡

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浅利と小柱釜めし 香の物と赤だしも

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抹茶アイスは辻利といっていたような、、、。

どれも美味しくそれぞれの量が多くないので私でも完食に近かったです。

おしゃべりしたい人はそのまま、終わってすぐ帰りたい人は かえってよし、ということで私たちは早くお店を出たほうです。(20:47)

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ホテルまで5分くらいです。

ホテルはバスルーム(バスタブはゆったり大きく、洗い場付き)とトイレが別。また私はパジャマ持参ですが、主人はいつも宿のものを使用します。それがここでは丁度いいサイズのワッフル織というのでしょうか。気持ちのよさそうなパジャマが置いてありました。難点は荷物置き場がないことと、椅子セットがないことです。調べると椅子セットのある上階のお部屋もあるようです。またタクシーならホテル前横着けOK.次に京都に来た時の候補リスト入りです。  
                15426歩

 

2022年6月25日 (土)

鯖街道の旅 2日目ー3 朽木

6月10日(金)
13:00 熊川宿道の駅出発

熊川宿から朽木への道は木立の間を行く気持ちの良いルートでした。対向車もありません。ここだったかそのあとだったか途中少し工事中のところはありましたが、対向車待ちなどなくスイスイ行けました。

13:19 朽木道の駅着 

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道の駅に着く前に旧郵便局近くを通ったのですが、バスが停められないので道の駅まできて、ここから歩きです。
国道をガソリンスタンドのところまで歩いて中に入ります。

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どのような街並みでしょうか? ところが、、、。普通の、、、。

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13:29着 旧丸八百貨店

横にあるの煉瓦造りの塔は立樋といって、分水塔です。町の西方山腹の湧水を樋で導水し、サイホンを利用して各家庭に送水しています。水源ごとに立樋が建てられ、数軒の水仲間で管理しています。
この辺り古い町並みがみられます。ガイドさんが何やら説明なさっていらしたのですが、足の遅い私が着いたころにはすぐ中に入りました。

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丸八百貨店
店主の大鉢捨松氏は西洋風建築に憧れて設計を依頼、5年の歳月をかけて昭和の初めに完成しました。当初こそは珍しさも手伝って人は来たが、その後買い物客は少なくなり廃業、結局村の登録文化財として保護することにして、現在は鯖街道の拠点施設として休憩所と「おばさんの店」になっています。 

中を拝見、もちろん、靴は脱ぎます。
3階 呉服売り場だったらしい。

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2階はバーだったこともあるそうです。

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1階は現在おばさんの店と休憩所。お茶がふるまわれました。しばらく壁の写真や説明を眺めて13:45頃に出ました。
 
歩きながら何か雰囲気のある建物はないか、と見まわしましたが、小浜西組や熊川宿のように整備はされていなくて、普通の現代住宅が建っている中に、これは?とおもう家が数件ある程度でロマンは感じられない街並みでした。 

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矢張りこの町もきれいな流れがあります。司馬遼太郎『街道を行く』湖西のみち に朽木が出てくるのですが、そこでこの 溝川の名前を町の人に聞くと「川です」という答えがかえってきた、という笑っちゃいけないエピソードがあります。

旧郵便局

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近江八幡でお目にかかったヴォーリーズの作品だそうです。現在は使われていません。

テクテク歩いて道の駅に戻りました。1時間近くの間、丸八百貨店のおばさんたち以外誰にも会いませんでした。ロマンの町らしくは整備されていない寂しい町でしたが、変に整備しすぎるよりいいのかもしれません。時代の波に流されるまま、といった感じがしました。

14:13 ほんの数分バスに乗って興聖寺へ  (14:19~15:06)

 曹洞宗 高巌山 興聖寺 | 関西花の寺「第十四番」老椿 朽木の名刹 興聖寺 (koushoji.jp)

朽木荘の守護職佐々木信綱が佐々木家の菩提寺として建立1240年に七堂伽藍が完成。佐々木氏はそののち朽木氏に改め、廃藩置県まで続きました。たいてい藩主は転封があるのですが、朽木氏はずっとこの地にいました。600年変わらない、というのは稀らしいです。(ほかには薩摩藩の島津氏くらい)
あとでご住職からおききしたのですが、永平寺に属するけれど永平寺は1448年にできているのでそれより古いことになるそうです。

駐車場から少し坂を上がって行きます。 
冠木門 山の中の古刹らしくていい雰囲気です。

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本堂に上がってご住職のお話を(30分くらい?)お聞きしました。明るく気さくなお坊様でした。でもなんとなく雰囲気に圧倒されてしまって「写真を撮ってよろしいでしょうか?」とは言い出せなくて写真はありません。
お寺の由緒などは上記ホームページにお任せすることにします。

今回の旅の一番の目的はこの興聖寺を訪ねることでした。理由の一つは黒川創著『暗い林を抜けて』を読んだことと、もう一つは大河ドラマ「麒麟がくる」に出てきたことが理由です。

『暗い林を抜けて』は通信社の記者有馬のモノローグで進められる形をとっています。
下敷きとして大学時代、新聞学科のゼミ「岩倉地区の精神病者の解放治療」のことが書かれています。(京都)岩倉地区には昔から宮家、公家などの精神病者を預かってきた歴史があります。その時ある学生が「皆、姫君になっている、王子で精神を病んだ人はどうなったのだろう」と疑問を呈します。精神を病んだ王子だと利用される恐れがあるので、岩倉のような都に近い所には預けられなかったのではないか、でその話はおしまいになります。
十数年後におもいついて有馬は朽木へ行きます。そこで、この本に書かれているとおりの話を私たちもお聞きしました。

もっと山奥の雲洞谷に興聖寺の末寺ということになっている洞照寺があり、この寺に寄木造の阿弥陀如来像が伝わっています。この像は藤原頼道が自ら建立した寺に寄進したものとされています。
 
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その理由というのが
後一条天皇の中宮威子(道長の娘)には二人の姫宮がいたとしか伝わっていないが実はもう一人史書にはない白子で生れた皇子がいたそうです。藤原一門としてはこの皇子を禁裏にとどめるわけにはいかず一門の人々と共に(お坊様は母親と一緒に、とおっしゃっていましたが本ではこうなっています)隠棲地を求めてここに連れてこられたのだそうです。後一条天皇は威子の姉彰子の子ですから、甥と結婚したことになり、近親婚のさわりが出たものと考えられます。
「威子の兄頼道はこれを哀れんで、その白子の隠棲地に寺を建てた」とあるので、雲洞谷に隠棲された、ということになりますが、お坊様は「朽木の池の沢に母子でひっそり暮らしていた」と話されました。
ここで、有馬は白子というのはむしろ古代から吉兆とみられることがあったので、白子ということで近親婚の何らかのさわりがでたことを代表させたのではないか?と見ています。

この本堂の仏壇の横の壁に礼宮(秋篠宮)様のお写真が飾られています。朽木には200巻におよぶ朽木文書があるのでそれの調査が目的かもかもしれないのですが(とお坊様はおっしゃいました)、礼宮様は高校時代(昭和57年)ご学友たちとこのお寺にいらして(これは今のご住職ではなく先代時代の話)その時、この話を先代がなさると、みなさんがお庭にいらした後お一人戻っていらして「私は大丈夫でしょうか?」とお尋ねになられたそうです。「もちろんそのためにも美智子さまとご結婚されたからだいじょうぶですよ」とお答えになったそうですが、皇族方はそういう不安も抱えていらっしゃるわけですね。

この後の有馬が感じたことについてのところもいいのですが、有馬は後年末期癌で亡くなる前にこの話を思い出して書いているので、死者に対して残った者のおもいということに格別の感慨をもっています。そこのところがとても深く感じさせられるものがありました。
それはおいておくとして、このエピソードを読んだことが私の朽木に行ってみたいと思ったきっかけなのです。横道にそれましたね。(このepisodeは小説の最後の方に数ページ語られるだけです。)

このお寺の見どころはお庭です。旧秀隣寺庭園(足利庭園)です。秀隣寺が移った後、興聖寺が280年前、川向こうから引っ越してきたので、こう呼ばれています。

1530年、足利12代将軍義晴は三好松永の乱を避けて朽木稙綱を頼ってこの地に逃れてきて三年ほど滞在。その時、将軍を慰めるために細川高国がこの庭を造り8本の藪椿を植えたと伝えられています。

その後、子の13代将軍義輝は細川藤孝を従え6年半ほど滞在します。その間、藤孝は熊川城主沼田氏の姫君麝香と結婚して、子の忠興が誕生しています。麝香夫人は素晴らしい方だったようで、その後藤孝は側室をもちませんでした。 
また夫人は嫁のガラシャ夫人の影響から受洗し細川マリアとなりました。

朽木氏16代の元網は信長を京に逃がすときに活躍しています。
その後朽木氏は豊臣から徳川へ寝返って幕末まで続きます。 辺鄙な場所なので攻められたことがないそうです。
他にメモには家紋はすみたて四ツ目とあります。どこかとおなじかどうかは聞きそびれました。

お話を伺った後「危ないですから気を付けて」と言われながら急な数段のはしごを上がって国宝の本尊釈迦如来座像を間近に拝ませていただきました。平安後期、後一条天皇の皇子が幼少で亡くなられ、天皇の伯父頼道がその供養に三仏を彫らせたうちの一体。桧木の寄木造りで作者は不明だが定朝様式と言われ国の重要文化財に指定されています。
お寺は800年前、仏様は1150年前だそうです。

頂いたパンフレットから

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現地では手を合わせてあまり見ないまま階段をおりてしまいましたが、こうしてみると、なかなかいいです。

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これは横にあった「しばり不動明王坐像」です。
朽木時経が北条高時の命により千早城焼き打ちの際、楠正成の念持仏である不動明王が兵火にあわんとするを捧持し帰館、以後当山の鎮守として祀られている。(お寺のパンフレットより)

この後外に出て庭園を見せていただきました。

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庭園は5年前から修復中で、後1年かかるそうです。費用は7000万円。国が半分はもってくださるが大変で、というお話でした。ここには8本の藪椿があります。この藪椿があることで関西花の寺の一つになっています。その藪椿の根が石をまもっているそうです。ただ壊れた石もあり、パテみたいなもので埋めてある所もありました。ネットを検索していると、修理についてのビデオも出てきました。石の根元が歯槽膿漏状態になっていたそうです。 

全景が撮れなかったのでお寺のホームぺージのお写真を借りました。(義輝の館はこの手前の方にあったらしいです。)

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↓鶴島です。右側の石は鶴の羽のように見えます。この羽石がみごとでした。池際の大きなとがった石は蓬莱山を兼ねた護岸石組みです。
この石橋に将軍はよく腰かけていたそうです、とおっしゃっていましたが、足が水につかるのでは?たしか山の間に上る月を眺めて、とおっしゃっていたような、、、。

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鶴島を向こう側から見ています。右側が藪椿。この根が石を固定しているのだそうです。

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素人目にはこの景まとまりがあっていいような気がするのですが。

 

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池の中央が亀島です。右側の立石が頭。鶴島と向かい合うように造られています。
奥は滝石組み。
流れが蛇行するような感じです。曲池式の地割ということになるそうです。

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亀島の奥の滝石組み、中央に大きな滝石、脇に滝添え石。間から水が流れ込む仕組みです。水はお寺に入る時渡った小川から導かれています。手前には鯉魚石。(ビデオでは水路が狭まって水が別なところから流れ込んでいたのを修理する様子も紹介されていました。なるほどお金がかかるわけです)
右奥の木の根元の石組も滝石組み。中央の立石は中尊石になっているそうです。

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このお寺の目下の心配はあの巨木が倒れることです。あの高さですから倒れたら本堂が壊されるでしょう。切るのも植木屋さんではダメで、クライマーに木を切る練習をしてもらって、登って切ってもらう以外にないそうです。

ここでお寺に別れを告げて京都に向かいます。お坊様は門のところまで見送ってくださいました。

この日のことを一気にまとめようとしたのですが、写真が多くなりすぎたのでここで切ります。 

2022年6月23日 (木)

鯖街道の旅 2日目ー2 熊川宿

6月10日(金)

10:55 熊川宿西口駐車場着

熊川宿
若狭領主浅野長政
が1589年、交通と軍事に重要な場所とみて諸役免除して宿場町にしました。
(よく似たお名前でお市の方の最初の夫、浅井長政がいますが、こちらは小谷城主でした。浅野長政は秀吉の妻ねねの養家先の養子であったため秀吉の姻戚として重用された人です)

若狭町熊川宿伝統的建造物群保存地区という名称で重伝建地区に指定されている、昔ながらの街並みが残る地域です。

文化庁の重伝建紹介から(文化庁の紹介に今日6月22日、気がついたので小浜西組についても紹介を追加しました)

 r1392257_030.pdf (bunka.go.jp)   整備の様子も紹介されています。

福井県若狭地方のほぼ中央部,山峡にある熊川宿は,江戸時代に京都と小浜を結ぶ若狭街道の物資流通の中継拠点として繁栄しました。
街道に沿って用水路が流れ,江戸時代から明治,大正の伝統的な建物が軒を連ね,歴史的な町並み景観を良好に伝えています

駐車場から短い坂をあがったところで待っていてくださったボランティアガイドさんの案内で街道を歩きます。街道そのものは平坦でアップダウンはありません。

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図左端が出発点です。上地図の黒い道を終点の道の駅まで歩きます。全長1㎞あまり、さっさと歩けば15分くらいのところをゆっくり1時間かけて歩きました。

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すぐ右手の山側に小さな流れがりそのそばの木に白い泡のようなものが付いていました。カエル(何カエルか忘れました)の卵だそうです。

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そのすぐ横の碑は孝子与七の碑
今から270年ほど前、与七夫婦は貧しい暮らしの中自分たちは殆ど食べず両親には美味しいものを食べさせていて、それを聞いた当時の藩主は米数表を与えてその志をほめたそうです。

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出発点から向こうの突き当りまでが下ノ町(しもんちょ)です。下ノ町は宿の町です。

重伝建地区として整備されたので電信柱はみあたりません。電線は地中に埋められています。

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この鬼瓦について説明されています。若狭瓦です。よく見ると面白いものがいくつもあるそうです。

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村田館は京都の料亭「菊乃井」の初代当主・村田寅吉氏の生家で「御食国若狭鯖街道」(みつけくに)の歴史や文化を紹介しています。

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閉まっていたので隙間から写真を撮りました。曜日の関係かコロナの影響か閉まっているところが多かったです。

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来た方向を振り返っています。二階は低いものと高いものがあります。低い方は「厨子二階」高い方は「本二階」といいます。二階を本二階として一階と同じように使用するのは新しい傾向です。

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家の前にはきれいな流れ(前川)。生活用水だそうです。

まがり 

最初の地図でも分かるように道が突き当たって左に折れてから右に曲がって先に進むようになっています。防衛目的で造られる場合が多いようです。

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曲がりからは 中ノ町(なかんちょ)です。

前川の水を掬うひしゃく

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最近おなじみになった、ガッタリ(バッタリ床几)

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商家が多い地域です。

倉見屋荻野家住宅 蔵、付属屋、主屋の順に並んでいます。

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熊川宿で最も古い町家で、国の重要文化財に指定されています。

代々人馬継立の運送業を行う問屋を営んでいました。主屋に隣接し街道に面して建つ荷蔵など、物流で栄えた熊川宿の中核であった問屋の姿をよく現しているとされています。

古い建物なので二階が低いです。窓は虫籠窓(むしこまど)。二階の両端に白くつきでた延焼を防ぐための「袖壁うだつ」もみられます。屋根はムクリ(少し凸になっている)を持っています。

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入口手前溝があり、上にも溝?があります。「土で出来た戸がはいる」と聞いたのですが、土で?と疑問に思いながら質問しませんでした。ともかく防火・防犯用の戸が入れられたのだと思います。

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はっきりしませんが、駒つなぎの環 がついています。

荻野屋のむかいには松木神社があります。

熊川宿に入るすぐ前に新道村というところがあります。税が重いので下げるようにと農民を大表して松木庄左衛門が領主に頼みました。領主は言葉はうけいれるが、みせしめのため殺されました(領主に物申すとは不届きな!ということなのでしょうか?)。庄左衛門は若狭農民の父とよばれています。

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この神社の建っている場所にはかつて蔵屋敷がありました。

御蔵道

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小浜から北川を通って運ばれてきた藩米を、かつて松木神社内にあった小浜藩の蔵屋敷に運ぶために使われた道です。

 
松木神社のすぐ先には 得法寺

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この階段を見て、ため息がでましたが、お寺には入りませんでした。助かったような残念なような、、、。 22062201

 

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徳川家康が朝倉攻めの時立ち寄った時、腰かけた松と、熊川城主沼田氏の供養塔が見どころのようです。ちなみに旅の先達kikuko様はちゃんと 石段を上がられて庭をご覧になられています。(「八十路の旅路」 20年11月)

すぐ先には 白石神社

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奥に灯籠、しかし神社本体はまだずっと上の方だそうです。

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この奥は熊川城主沼田氏の居城があったところです。何代目かしりませんが城主光兼の娘麝香(1544~1568年)は細川藤孝の正室となった方です。藤孝は「麒麟がくる」にでてきたので覚えています。二人の間の息子忠興の正室が明智光秀の娘たまこ(後のガラシャ夫人)です。

先に進みます。

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この日はお天気がいいだけにかなり暑くて豊かな水の流れに心潤いました。

 

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菱屋(勢馬清兵衛家)旧問屋
十数軒の問屋、脇問屋とともに、街道の繁栄を支えた旧家。最盛期には年間二十万駄の荷揚げ、荷解き場としてその問屋場に馬借、請負人が群がったという。また宿場町役人として藩の御用や町の自治にも貢献した。(立て看板より)

 

宿場館(若狭鯖街道資料館)昭和15年、伊藤竹之助が熊川村役場として建てたもの。伊藤竹之助は伊藤忠商事二代目社長です。

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はっきり見えませんが向こうへ続く道は石柱に「長屋道」と書いてあります。この路地の奥に、町奉行配下の足軽長屋があったことが名前の由来です。

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旧逸見勘兵衛家住宅 伊藤竹之助の生家で、主屋、土蔵、庭が平成7年に町指定の文化財になりました。表側は昔乍らの町家で中は現代風にして民宿や飲食店になっています。中を覗くと雑貨屋さんのようでしたが閉まっていて入れなかったのが残念です。

左端に川が見えています。河内川です。ここで 中ノ町はおしまいです。

↓ 上ノ町(かみんちょ)です。

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もう45分歩いています。私はいい加減草臥れて右手に見える家の前のベンチでしばらく休憩してしまいました。

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皆さんはあそこで大岩の説明を聞いていらっしゃいます。前川はこの辺りから進行方向右側に変わっています。

説明しながらゆっくりいくので追いつけました。

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大岩(子守り岩)この岩の上で子供たちは遊びますが、怪我をした子はいないそうです。権現さんと関係があるという話もあります。

こんなお店もありました。

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権現神社の写真撮り忘れ!

ヤレヤレ終点です。くたびれましたが、歴史的街並みとして整備ができていて見ごたえのある光景でした。

熊川番所 かつて「入り鉄砲に出女」の統制と物資への課税が行われていました。全国でも宿場内に残る番所として貴重な歴史遺産だそうです。いつもならイケメンの二人を見ることができるそうですが、今日は閉まっています。

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道の駅がこの近くにあります。そこの四季彩館でお昼(12:00~13:00)

しめ鯖に越前蕎麦がついていました。

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暑かったせいか、楽しみにしていたしめ鯖より、お蕎麦の方がさっぱりしておいしかったです。

13:00バスで朽木にむかいましたが、それは次回に
 

2022年6月20日 (月)

鯖街道の旅 2日目ー1 小浜市内 山川登美子記念館 とば屋酢醸造所

朝早く目が覚めました。すぐ外の景色を眺めました。

朝4:30

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もうひと眠りして
5:50 幻想的な光景が広がっていました。

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6時半ごろ

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今日はまず奥の、船が泊っているいる辺り(小浜お魚センター、おばま食文化館)に行くことになっています。

朝食は7:00から好きな時間に、ということで7:00に行きました。

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ピンクの小皿は雲丹椎茸、ご飯に少し載せていただくと、とてもおいしかったので 帰りに売店によって買いました。

7:30頃 1階におりて売店へ
そこへ息子からラインで「オバマ饅頭ってまだ売ってる?」見ると、ありました。でもこれだけのお饅頭、もらっても仕方がないだろうと、写真だけ送って買うのは横のオバマ煎餅にしました。

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うっすら顔がみえているのがおわかりでしょうか?

そうそう、福井と言えば羽二重餅。やはり記念に若狭塗りのお箸も、と結構な買い物になってしまいました。

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それほど高級品ではありません。実は今使っているのも頂き物の若狭塗で、それは上半分ぎっしり螺鈿細工で埋まっています。 

キャリーはそれぞれが引いてきていてガラガラですから入れるスペースはあります。
書き忘れていましたが小浜は朝ドラ「ちりとてちん」の舞台だそうで、あちこちに撮影場所を示す張り紙がありました。私は見ていなかったので、例えばここが通学路、と書かれていても、別に何の感慨も覚えませんでした。
 
バスガイドさんが鯖の糠漬けである「へしこ」の話をなさって、薄く切ってパスタに載せるのもいいということでしたのでで買いたいと思いましたが、お店の方は「今日中ならなんとか、それ以上だと常温では発酵が進んでだめです」とおっしゃるのでやめにしました。 

8:25集合 ツアーの行程としてはお魚センターにいくのですが、私はキャリーや手提げをバスにのせてもらって、一人残りました。

8:45 ショルダーバッグ一つで出発

バラク・オバマ氏が大統領に当選して小浜市は大フィーバー 「勝手にオバマを応援する会」もできたとか。

ホテル内に等身大の立て看板があり、ホテルの外には胸像が。 

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でも時代は変わるもの、菅さんが首相だった頃、これは菅さんだ、と思われたこともあったそうです。

食祭街道をエネオスの所で曲がると

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あの緑濃い一画が山川家の敷地です。左に行きさらに右に曲がると

9:00  山川登美子記念館に着きました。

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ご門を入ると案内板

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そのまま進むと

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 父君に召されていなむとこしえの春あたたかき蓬莱のしま

登美子辞世の歌と言われている歌の刻まれた歌碑が置かれています。

入ってまずすぐ奥の展示室へ

(いただいたパンフレットから)

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先ず受付の奥の展示室へ
手紙類、 ただ一冊の合同歌集「恋衣」 それにこの着物、針箱などがありました。換気が悪いので15分くらいにしてください、といわれましたが数もそう多くはないので10分ほどで見終わり、お部屋を見させて頂きました。お庭だけは写真OKでした。「手入れができてなくて」と少し恥ずかしそうに係の方。

確かに。でもよく考えてしつらえられたお庭であることはたしかです。 

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鹿の像というのがユニーク。深い山を表しかったのでしょうか?

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回遊式庭園というのでしょうか。

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右のお部屋が登美子終焉の間です。確か6畳に3畳の控えの間がついていました。
枕元用の低い屏風や箪笥が置かれていました。
さすが、ここでは少し胸にこみ上げるものがありました。

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登美子はこのお庭を眺めながら亡くなったのでしょうね。

それほど登美子の歌を多く知っているわけではありません。知っているのは恋の歌、それも哀しい歌です。

それとなく紅き花みなともにゆづりそむきて泣きて忘れ草つむ
髪長き少女とうまれしろ百合に額は伏せつつ君をこそおもへ

何だかいじらしくなります。

晶子に鉄幹を譲って親元に帰って結婚、お相手は従兄に当たる方だったとか。それが結核でほどなくして亡くなり本人もまた呼吸器の病気で29歳の生涯を閉じる、かわいそうすぎます。御家族もさぞ悲しかったことでしょう。

9:20です。一行は食の文化館に9:45までいる予定です。
タクシーを呼ぶので失礼してここで電話を掛けさせていただきます、とスマホを見せると「タクシー、呼びますよ。電話代はいりませんから」とかけてくださいました。駅からくるので、5分ほどかかります
と言われました。5分しないうちにきて2,3分で食の文化館に到着。入っていくと、ちょうどガイドツアー終る所でした。

食文化館の前に行ったのはお魚センター、そこで主人は目的の小鯛の笹漬けとついでにノドグロの笹漬けを買っていました。

おばま食文化館は (添乗員さんのレポートによると)若狭や小浜の食文化を伝える情報館。朝廷に食料を献上していたことや、寿司についてや各地のお雑煮について、また鯖街道を撮って海産物をはこんでいた「街道稼ぎ」と呼ばれていた運搬人の人形(魁十八?)のことなどを知ることができたようです。 

主人が食文化館で撮った写真を載せておきます。

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鯖を運ぶ男(魁十八)

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9:45 バスで出発。小浜はお天気がよかったせいもあるかもしれませんが明るく気持ちの良い町でした。

10:05 とば屋酢醸造所 

300年続いたお酢の醸造所。室が狭いので2グループに分かれて13代目の説明を受けました。

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壺(高さ70㎝くらい)を保温のためもみ殻の中に埋めて発酵させています。福井県産のお米が原料。一度 アルコール発酵したお酒から酢酸発酵してお酢になります。

お酢にするためには一か月ねかせます。自然発酵(静置発酵)

普通醸造酢として売っているものは機械でかき混ぜて酸素をおくりこんで一日で出来上がらせます。それでとがった酸っぱさになるのです。この室ではお酢のツンとした匂いはなく、どう表現すればいいのか分からないのですが、もっと複雑なけっして不快ではない匂いがしました。
表面のちりめんじわのような白いものは酢酸菌です。アルコール分をエネルギーとして微生物がとりこんで酢をはきだすのだそうです。
三分の一はとっておいて次の種菌にするそうです。

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説明が終わってお店で皆さんお買い物。ビンものですから重いのでたくさんお買いになって配達を頼まれる方が多く結構時間がかかりました。私は 壺の酢、和風ドレッシング、お酢蜜 どれも中瓶を買いました。それと大根の酢漬け。これは味がまろやかでとてもおいしかったです。

ここのお酢は笹漬けとかまたお料理屋さんでもよく使われているそうです。まだ使っていないのですが、使うのが楽しみ!(Amazonでも買えるようです)

10:40 とば屋酢 出発

10:54 熊川宿駐車場 熊川宿観光は次回にします。 

鯖街道の旅 1日目ー3 小浜市内、若狭歴史博物館

6月9日(木)続き

バスに数分乗って旭座前に着きました。

江戸時代以降、多くの芝居小屋が営業しましたが、旧旭座はその流れをくむ文化財で現在の建物は明治43年に建築されたました。老朽化が激しかったため、平成27年に重伝建小浜西組に隣接する地区からこちらに移転復元され、現在も使われています。全国には当時の芝居小屋は30件あまりしか残っていないので貴重な文化財だということです。

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屋根の上には朝日のマーク。
瓦が特徴的です。小浜は昔は瓦造りでも有名だったそうです。北前船のバラスト替わりに船底に積まれて、各地に運ばれました。丈夫で北海道で百年もったものがかえってきたそうです。

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丁度落語か何かの催しものが終わったところで片付けなどをしていて中に入ることはできず、外からのぞくだけでした。後で来た時は入れたのですが、靴を脱ぐのが面倒なので私は入りませんでした。

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すぐ少し歩いて 鯖街道ミュージアムへ(14:40~15:00)

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ミュージアムへ入ると道の前に「鯖街道起点」を示すプレートが埋め込まれていました。

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奥の建物はミュージアムですが、両脇に熊川宿経由と根来坂経由と二つのルートのミニチュア版がありました。

中に入って、
パネルで色々説明されていました。

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一番下の写真はお水送りの行事(神事というべき?)の様子。3月2日、若狭神宮寺(小浜市内から遠敷川沿いに行く)の閼伽井でくみ上げ神聖な水は 松明行列で鵜の瀬に運ばれ、そこで遠敷川(おにゅうがわ)に注がれます。地下をくぐって10日後に東大寺の二月堂の下にある若狭井から出てくるのだそうです。
お水送り - 「おばまナビ」 (wakasa-obama.jp)

若狭街道 明日この道をたどります。

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鯖街道だけでなく北前船の歴史もパネルで紹介されていました。

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船仏 小浜を代表する北前船の船主である古河屋の持船に航海安全を願って祀られていたもの。

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北海道から戻ってきた瓦の展示もありました。
ここは一部屋だけでそれほど色々なものがあるというわけではありません。
15分くらいで出て旭座の前まで戻りトイレ休憩の後バスで少し離れた博物館へ

若狭歴史博物館(15:30~16:30)

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展示室は2階です。

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最初にしばらく係の方から説明を受けました。
杉田玄白の解体新書がこの博物館にある、ということでしたので見逃しては、と自由時間になった時すぐ場所をお聞きしました。時代順の展示の最後のほうでしたので、時代を遡りながら見ていくことになってしまいました。

杉田玄白の肖像画(掛け軸になっている)はカメラ禁止でした(この博物館はカメラ禁止のマークが付いているもの以外は写真OK)杉田玄白は小浜藩藩医。

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1774年、杉田玄白とともに「ターヘル・アナトミア」を訳した中川淳庵、こちらは写真OKでした。

横に鎧冑がありました。なんと山川登美子の父親のものでした。

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登美子の父、山川武直は酒井家の側用人でした。この具足は武直が第十一代藩主酒井忠直が京都所司代就任のお供として京都に向かったとき仕立てたものです。登美子はきちんとしたおうちの人だったのですね。妻子ある男(鉄幹は晶子と結婚する前に二回結婚して子供もいました!!)に想いを寄せるなんて、とんでもない、家に帰ってちゃんと許嫁と結婚しなければいけなかったのです。

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この地図を見ていてなるほど、と思いました。
日本海側の物産を京の都(その前は奈良)に運ぶとしたら、一番近いのは小浜なのですね。小浜は京都から見て「海の玄関口」である、ということも納得がいきます。

 日引石

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高浜町日引で算出する日引石を用いて14世紀~15世紀にかけて制作された石塔は北は青森から南は鹿児島まで発見されており、対馬、五島列島などの島々では260基以上見つかっています。瓦同様、船のバラストを兼ねた商品として各地にもちかえったもの、という見方もあるそうです。

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迦樓
羅王立像 中国・南宋時代(13世紀)平成2年 小浜・矢代浜に赤い布に包まれた状態で打ち上げられていました。
この像は当館保管と記されていました。写真でははっきりしませんかが、あでやかというかゴージャスな像でした。
若狭には、小浜の正法寺本尊の銅像如意輪観音半跏像、高浜の佐伎治神社の和鐘や佐渡・長安寺の朝鮮半島製の銅鐘のように 若狭湾の海中から拾い上げられたり、打ち寄せられたという伝承がある文化財があります。これらから若狭湾から文化が流入してきたとみているようです。

時代がさかのぼりますが、縄文遺跡、弥生遺跡、古墳もあります。

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京都から遠くないため、寺社、貴族、宮家、武家の荘園も多く、お寺もたくさんたてられたそうです。

その一つの例として1240年に東寺の荘園となった太良荘の様子が示されていました。

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小浜には140ものお寺があるそうで、今度はそのそのうち有名な八ケ寺を巡るといいですよ、とバスガイドさんも言っていました。

そのうちの一つ 国宝の 明通寺・三重塔(1270年)の模型が展示されていました。

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明通寺は征夷大将軍坂上田村麻呂の発願によって大同年中(806~810)に建てられました。 

次に若狭の祭りと芸能の部屋

王の舞 神社の祭りに舞われるもので、荘園鎮守社の祭礼として都から伝えられたものです。

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町のお祭り 祇園祭の影響を受けているのではないかと言われています。

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ここは横目にざっとみて若狭のみほとけ の部屋へ

若狭には仏像が多いことで知られているそうです。若狭が都に近いこと、海に面し、農林漁業だけでなく、製塩や廻船などで栄えた豊かな地域で、中央仏所へ仏像を発注する財力があったことが理由です。また若狭の人々の信仰の篤さが今日まで多くの仏像が伝わった大きな原因です。(歴博図録より)もっとも古いものでは飛鳥時代のものもあるそうです。

写真が撮れないものが多いのでお部屋の様子を買ってきた図録から拝借して
いいものはそれぞれのお寺にあるようで、写真だけの紹介でした。(写真右側)

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カメラOkだったもの

馬頭観音座像 複製(高浜町 馬居寺 11世紀)

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馬居寺は聖徳太子創建と伝えられています。三つの顔と八本の手を持ち、頭上に結いあげた髪の上に白馬を載せています。

二本の手を前であわせていますが、両手の人差し指と薬指を曲げて他の指を立てる「馬口印」という馬頭観音特融の印を結んでいます。高浜町青葉山周辺にはいく体かの馬頭観音が集中しています。(図録解説より)

馬頭観音という名前はきいたことがありますが、見るのは初めてです 顔そのものが馬の顔かと思ったらそうではなくて頭の上に馬を載せているのですね。

阿弥陀如来立像 複製(12世紀後半 高浜町 西福寺)

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残念ながら手振れしています。

楽しい博物館でした。ちょっとお寺巡り、仏像巡りもしてみたくなりました。

バスでホテルへ

16:45 ホテルせくみ屋 

お部屋は9階で 海が一望のもと!

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明日私は少しだけ別行動をとるつもりです。(ちゃんと離団届は出します)小浜に来たからにはどうしても山川登美子記念館に行きたいのです。グーグルマップのストリートビューでしっかり行き方は確認していますが、夕食まで少し時間があるので念のため一度行っておくことにしました。

徒歩15分くらいで着きました。

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明日は大丈夫です。帰りに主人が別の道を通る、といって海の方に向かって歩きだして結構遠回りをしてしまいました。

18:00~ホテル内で夕食

先ずテーブルにこれだけセットされていました。

蘇洞門懐石

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前菜 若狭珍味 三種盛り
酢物 ズワイガニ(切り身)
名物 フグ刺身
刺身 海老、鮭、はまち、?
鍋物 海鮮魚すき鍋
揚げ物 天ぷら盛り合わせ
蓋もの 茶碗蒸し
麺もの 若州そば
食事 季節の釜めし
デザート マンゴープリン

ビールとお酒は黒龍を注文しました。

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実はふぐ刺しって初めてでした。特に良いお味というより噛み応えがあるなあ、というのが正直な感想。

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お刺身も勿論新鮮でおいしいし、天婦羅も揚げたてサクサク、おいしかったです。

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福井はお蕎麦も名物です。

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釜めしの下に少しだけ 茶碗蒸しが写っています。

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どれもおいしかったのですが、量、品数が多すぎ!どれも少しずついただいてお行儀の悪い食べ方になってしまいました。

19:20頃お部屋に戻りました。

 
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横浜より西なので日の入りは遅いです。

全て平地でしたから、それほど疲れませんでした。

ホテルには温泉もあるそうですが、面倒なのでお部屋のお風呂を使いました。

(11259歩)