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2022年秋 京都の旅

2022年11月23日 (水)

京都 5日目―3 六波羅蜜寺→建仁寺

10月21日(金)続き
六波羅蜜寺(14:00~14:25)

六波羅蜜寺は951年醍醐天皇第二皇子光勝空也上人により開創されました。

六波羅蜜とは、この世に生かされたまま、仏様の境涯に至るための六つの修行(布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧)を言います。
波羅蜜とは彼岸(悟りの世界)のことです。(お寺のホームページより)

六波羅蜜、心しておきましょう。

六波羅探題という言葉が日本史に出てきました。鎌倉幕府が置いた京都の政情を観察し、治安維持のために六波羅に置いた長官です。
又この地は平家の屋敷があったところのようです。

建仁寺に行く道筋にあるので先頃、上野にきて大評判だった「空也上人像」を拝んでいくつもりで寄りました。

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朱塗りでまるで神社のようです。
横に神社もあり、かなりの人(20人くらい)がお参りにいらしてました。

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此附近 六波羅探題 平氏六波羅(その次の文字が読めません)
写真差し替えました(11月27日)
カメラはスマホを含めて二人で4台(全てを4台で撮っているわけでなく補い合って。4台とも撮り逃しも多い)。その中から探していいものを入れるようにしているのですが、より見やすいものを見落としていました。これですとなんとか字が読めます。 
此附近 の下の二行は 六波羅探題府 平氏六波羅
再度訂正 下の方が見えませんが左は 六波羅探題府址 右は 平氏六波羅第 です。(京都いしぶみで検索)
(kukoko様にいしぶみを調べる方法があることを教えていただきました。)

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清盛塚(左)と阿古屋塚
阿古屋塚は平氏の武士を救ったとされる、
阿古屋という遊女の宝塔
阿古屋の菩提を弔うために鎌倉時代に建てられました。宝塔は鎌倉時代の作で、その下の台座は古墳時代の石棺の石蓋。

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この後奥の宝物館(令和館)へ行って空也上人像と伝平清盛象をみましたが、カメラ禁止なので絵葉書から 

運慶の子、康勝作 鎌倉時代
口から出ているのは南無阿弥陀仏という言葉が6体の阿弥陀如来という仏様になって表れた、という伝承を形にしたものだそうです。

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仏像彫刻門外漢の私にも素晴らしい作品だと思いました。

伝平清盛座像 13世紀

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入った時はお一人いらしたのですが、すぐ出られて後は二人だけ。右から左からじっくり拝見できました。上野ではこういうわけにはいかなかったでしょう。建仁寺への行き方を教えていただいて、絵葉書を買って外に出ました。
ものの5分と歩かないうちに建仁寺境内入口に到着。

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6月にツアーで来た時は北門から入りましたが、そこまで行くのは遠そうでGoogleストリートビューで探し回って発見、念のため六波羅蜜寺の若いお坊さんに確認したのです。
この手前左が
勅使門のはず。下の地図 赤丸が通用口。直進すれば方丈です。

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建仁寺(14:30~15:40)
建仁寺は建仁二年(1202年)将軍源頼家が寺域を寄進し栄西禅師を開山として建立された臨済宗のお寺です。
創建時は真言・止観の二院を構え天台・密教・禅の三宗兼学の道場でした。京都最古の禅寺です。
正元元年(1259年)宋の禅僧、建長寺開山蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)が入寺してからは禅の作法、規矩(禅院の規則)が厳格に行われ純粋に禅の道場となりました。
京都五山が制定され、その第三位。
天正年間(1573-1592年)に安国寺恵瓊(あんこくじえけい)が方丈や仏殿を移築しその復興が始まり、徳川幕府の保護のもと堂塔が再建修築され制度や学問が整備されます。
葉室麟著『墨龍賦』では安国寺恵瓊と海北友松の友人関係が書かれていてその縁で方丈に襖絵を描くことになったというくだりがありますが、事実はどうだったのでしょうか。

栄西(1141~1215年)
南宋に留学、1191年に茶の種を持ち帰って日本にお茶を広めた人としても知られています。
延暦寺や興福寺の圧迫により京都から鎌倉に移り寿福寺の住職などを務めます。そうして頼家の外護により建仁寺を建立したのです。

開山堂 見えているのは楼門

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茶碑

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どんどん歩いていくと法堂にぶつかります。ここを右に行くと拝観受付です。
法堂(1765年上棟)五間四間・一重・裳階付き (和服カップルが写ってしまいました)

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天井には小泉淳画伯「双龍図」が描かれています(2002年)。後で見に行ったのですが、)ついでですからここに天井画の写真も載せておきます。
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受付でチケットを購入して(かなり立派な案内パンフレットがいただけました)中へ

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真っ先に見たのが 大書院の「風神雷神図屛風」俵屋宗達筆(複製)です。
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大書院と小書院のあいだの 潮音庭 北山安夫監修
両書院が廊下でつながって中庭のようになっていて四方正面の庭になっています。

中央が 三尊石 左、周りに小石が散っているのが座禅石
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どの方向からも美しく見えるよう、三尊石を中心に円を描くように石が据えられているのですが、小書院を背にした景が一番バランス的にも美しく、お寺のホームページにもこのように観た写真↓が載せられています。

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〇△□之庭(北山安夫による)
〇は木の根本の苔 □は井戸 △は右側の白砂を盛ってある所
地(□)水(〇)火(△)をあらわしているそうです。
風、は庭を吹き抜けるからわざわざ作らなくてもいいのだそうです(鳥賀谷百合著『しかけに感動する京都名庭園』による)
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納骨堂(方丈北側)

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途中の部屋で見かけた「島行列輿」
1866年までの230年南禅寺を除く京都四山の僧が輪番で 以酊庵 という寺に詰めていました。漢籍に明るい僧は外交文書作成にむいていたのです。その際使用した輿。(対馬で京都の寺と関係があった、という話をきいたことを思い出して懐かしくなりました)

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方丈
1599年安国寺恵瓊が安芸の安国寺から移建したものです。

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方丈の庭大雄苑(だいおうえん) 加藤熊吉作庭
建仁寺は中国百丈山の禅刹を模したといわれ、庭園も百丈山の景色を模して作庭されました。
方丈の南と西、かぎ型になっています。
西庭
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奥にあるのが織田信長供養塔
白砂は海で波をえがいているのでしょうか。
南庭 向こうに見える渡り廊下は法堂に行く通路です。

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(西庭)二つの苔島で三尊石を表しています。
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(南庭)
三尊石

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方丈には海北友松の襖絵があります。デジタル複製ですからカメラOKです。 

実は1934年の室戸台風で方丈は崩壊したのだそうです。ところが丁度、法事の予定があることになっていて襖ははずされて別の所に移されていて無事だったそうです。その後襖絵は掛け軸にされて京都国立博物館へ。かわりに高性能デジタル画像を貼った襖が入れられているのです。
室中 本尊十二面観音が祀られています。
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檀那の間 山水図

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中央の横線が水際らしい。その下が水鏡になっています。

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上間一の間 (衣鉢の間)琴棋書画図

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書院の間 花鳥図

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そうしてもっとも見たかった雲竜図(礼の間)です。
私はよくPhotoshopをつかって明るくしたりくっきりさせたりするのですが、この雲竜図3枚はあえて加工無しにしました。スマホで撮った写真です。
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迫力があります。凄い絵です。墨絵のことはわかりませんが濃淡の感じがいいです。目がどちらも少し悲しそう。

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葉室麟は『墨龍賦』でこの龍を明智光秀と斎藤利三(光秀家臣)とみています。二人とも非業の死を遂げました。
それはさておき、この本を読んだおかげでひいき目にみているのか、これまで見た雲龍図で一番いいような気がしました。

この後渡り廊下を通って、法堂に行ってから外に出ました。

いい加減くたびれてきたので丁度通りかかったタクシーに乗ってホテルによってもらって荷物をピックアップして京都駅へ。 それも一気に八条口(新幹線はこちらが便利)まで。もう烏丸口から伊勢丹にキャリーを引いていく元気が残っていなかったのです。

主人が切符を買っている間に恒例の千枚漬けや漬物類を購入。賞味時間5時間という麩饅頭も買ってみました。さすが新幹線の中で柔らかそうなお饅頭はいただけそうにありませんでしたから、家に帰って。
主人はビールや笹の葉寿司も買い込んで17:00過ぎの新幹線に乗りました。
金曜日のせいか、新幹線は混んでいるほどではなかったのですが、二人並びの席はとれなくて三人掛けの通路側前後になりました(二人掛けもひとりづつ、三人掛けもほぼ一人)。13315歩

初日は降られましたが、その後は晴天続き、いい旅ができました。でも旅日記を資料を調べながら書いていると残念な見落としに気づいて悔しい思いもありました。次こそ、です。

庭園、お寺などの説明は各寺のホームページ以外
先達kikuko様のブログ 「あれも観たいこれも聴きたい」「八十路の独り旅」
「庭園ガイド」
書籍では
鳥賀谷百合著 『しかけに感動する京都寧庭園』『一度は行ってみたい京都絶景庭園』
『よくわかる日本庭園の見方』古寺巡礼17 楽学ブックス
小川勝章著『技と美の庭 京都・滋賀』
などを参考にさせていただきました。

22秋京都旅日記完
 

2022年11月21日 (月)

京都 5日目ー2 河井寛次郎記念館

10月21日(金) 続き

午後行くところ辺りの地図 
五条通り、赤は横断歩道橋、青は信号のある所です。記念館を出て六波羅蜜寺に行く時、歩道橋がとても高かったので遠回りして交差点で渡りました。

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次の目的地、河井寛次郎記念館にはISOISM近くのバス停から1本で行けるはずですが、バス停がはっきりしないので、タクシーで行きました。

河井寛治郎記念館(13:10~13:47)

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扁額の書は棟方志功によるものです。

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河井寛治郎(1890~1966年)は陶芸家で柳宗悦や濱田庄司らと民藝運動にかかわった人です。
1937年室戸台風で傷んだ旧居を解体して自ら設計・建築した自宅がこの記念館です。

受付で入館料を払うといただけたのが

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表裏表紙あわせて10枚。絵葉書にもなる解説付き館内写真集です。(入館料900円は安いです)

館内図 (番号はいただいた写真集のページ番号です)
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色々面白い椅子があるのですが、座り放題、写真撮り放題、おいてある本読み放題。「どうか気楽にお過ごしください」といった感じの場所です。民芸好きと思われるお若い方が多かったです。(といっても10人はいらっしゃらなかったと思います)

入口から入った所、奥で靴を脱いで 右 俵が置いてあるところから受付へ
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①の部屋 囲炉裏があります。
椅子は臼の原型を刳りぬき、底に木製ローラーをつけたもの。
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向こうは④の大テーブル
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⑤ 奥は10人くらいは入れる大炬燵。食卓でもありました。
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左の置物は犬だそうですが、物入になっています。
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猫ちゃんがいました。人がいてもスヤスヤ、時折寝返りを打っていました。

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中庭に出ました。

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昔懐かしく心がほどける思いがしました。

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通路に作品が展示されています。

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煙管のデザインもしたそうです。

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初期作品
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中期作品 硝子に外の景色が写り込んでいて見にくい写真になりました。
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後期作品
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気にいったものから
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途中の部屋
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素焼き窯
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休憩室 遠慮なく全ての椅子に座らせていただきました。木そのままですが、どれも座り心地はよかったです。

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隣は 陶房
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登り窯

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最初の部屋に戻り、2階を見ることにします。
怖いことに階段は壁にそってあるのですが、片側は空間のまま、手すりなしです。
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⑥ 書斎

こういうところで本が読みたい。
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無骨な椅子が愛らしい。座ってしばしくつろぎました。
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居間
「非草非人非木」は、茶という漢字を分解したナゾコトバ。形骸化された茶道ではなく自由な精神を尊んだのである、そうです。
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もう一つの居間と上段の間
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中央が吹き抜けになっています。
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もう少しのんびりしていたかったのですが、次の予定がありますので、階段をおそるおそるおりて下へ。絵葉書を何枚か買って外に出ました。

陶器作品の展示もありましたが、私は特に手作りのぬくもりを感じさせる様々な形の椅子に心を奪われました。

好みが分かれるところとは思いますが、心が穏やかになるいい場所でした。 

五条通りにはすぐ出られます。信号を渡って、なんとなく右奥へと進むと六波羅蜜寺横に出られました。15分はかかってないと思います。写真が多くなりましたので今回はここまでにします。

京都 5日目―1 一休寺 ランチ

10月21日(金」
今日はもう横浜に帰る日です。パッキング、といっても海外のような長期ではありませんから楽です。 
今日の予定は 一休寺→昼食→河井寛次郎記念館→六波羅蜜寺→建仁寺→ホテルで荷物をピックアップ です。

5:45 起床 荷物整理
7:00 いつものように朝食
8:20頃お部屋を出てフロントで荷物を預けました。
クロスホテル 左が木屋町通り、奥に少し建物がみえているところが河原町通り、ホテルの前は龍馬通りです。

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今日は少し遠出して一休寺に行きます。先達のブログでよさそうだとおもったからです。お庭が有名らしいです。

京阪三条駅 8:43→8:54丹波橋(京阪から近鉄に乗り換え)近鉄丹波駅8:59→9:12新田辺駅
新田辺駅前 バス4番乗り場 ソフィアモール行き9:31→9:44一休寺

少し時間をあまくみたせいか、滑り込みセーフで予定の電車に乗れました。丹波橋の乗り換えも心配でしたが、駅の案内通りに行けば間違わずに行けて時間ぎりぎりでしたが間に合いました。
新田辺駅バス乗り場は駅前のいくつかある乗り場の内を一番遠い所(駅の真向かい)でした。待ち時間がもったいないので タクシーを利用しようとしましたが、どうしようかと迷っているうち、バスが来ました。途中、停留所があるのかないのか ループ状に寄り道するおかしなルートでしたが、無事一休寺バス停へ。もう田舎です。

白い看板に一休寺とかいてあります。そこを右におれて道なりに数分進みます。(帰りのバス停は信号の先左側です)

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一休寺(酬恩庵

一休寺は元の名は妙勝寺で、鎌倉時代、臨済宗の高僧大應国師が禅の道場を建てたのが始まり。その後荒廃していたのを六代の法孫にあたる一休禅師が1455から1456年に堂宇を再興し、師恩に酬いる意味で「酬恩庵」と名付けました。
一休禅師は81歳で大徳寺住職となってもここに住み続け88歳で亡くなるまでここに過ごしました。
そのことによりここは一休寺とよばれるようになったのです。

総門

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浴室

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突き当たって右に曲がると

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右手に「一休禅師墓所」
一休禅師、というと「頓智の一休さん」でただの小僧さんしか思い浮かないけれど、どうやらやんごとなきお生まれのようです。
後小松天皇の皇子だとか。それでお墓もこのように菊の御紋章の扉の奥にあり、宮内庁管轄となっています。塀に五本線が入っているのもうなづけます。

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菊の花びらの隙間から、

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上の道の奥を左に折れると庫裡 ここから方丈庭園を拝観します。

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方丈は1650年 加賀三代目の大名前田利常公の寄進によるものです。

偶然うつってはいますが、室内は撮影禁止。(撮影禁止の札があったのは祭壇のあるお部屋だけでしたので他はよいのかもしれません)襖絵は狩野探幽筆ですが、ここにあるのは複製で実物は宝物庫。

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↓ホームページからの写真、奥の椅子状のものは一休禅師が大徳寺に行く時乗っていた輿です。

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庭園は石川丈山、松花堂昭乗、佐川田喜六昌俊、三名の合作によるといわれています。

南庭
従来、方丈南庭は白砂だけ敷いた儀式のための空間だったが、次第に儀式は室内で行うようになり庭としての体裁が整えられるようになりました。

白砂に引かれた線の方向はふつう方丈に対して平行だが、ここでは垂直になっているのが珍しいようです。 
奥に見えるのは左、一休禅師墓所、右は虎丘庵(茶室、普段は入れない)

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左に曲がって 東庭 十六羅漢の庭
16個の石を羅漢になぞらえています。(16個を一度には撮れませんでした)

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次のお庭に目が行ってしまいました。
お天気がいいのは嬉しいのですが、日の当っているところと当たらないところの差がくっきり分かれてしまっていい写真が とれません。

北庭 枯山水の蓬莱庭園

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右奥は蓬莱石を中心とした枯滝石組で左手前は鶴亀石組

左の大石が蓬莱山、その右尖った石と平たい石の間をくねって、小さめのゴロゴロした石から下の緑の細い流れへと滝が落ちているのだそうです。また木の下の黒い(光でまだらになっている)石が鯉魚石だそうです(大きすぎる気がしますが)。
手前の少し日が当たっている平たい石が礼拝石。

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鶴亀石組み 右から見ると亀、左から見ると鶴

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蓬莱庭園の一枚目の方が鶴らしく見えるかもしれません。

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さらに左に進むと

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方丈の周りを一回りして(25分くらいでした)庫裡に戻ってきました。ここで絵葉書を買っているとき横に一休寺納豆というのを見つけました。大徳寺納豆と同じだそうです。当然ですよね。一休禅師は大徳寺の住職にもなった方ですから。ここでは納豆を砕いた「ふりかけ」を売っていたので買ってみました。パスタやチーズト―ストにふりかけて楽しんでいます。

外回りを歩きます。ここでバスにうまく乗れないと困るのでタクシーの番号をお聞きしておきました(結局バスに乗りましたが)。

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本堂 
本堂は仏殿ともいい内部には本尊釈迦如来坐像、文殊普賢菩薩像が安置されています。
当本堂は山城・大和地方の唐様建築中で最も古い建造物であります。1429年から1441年の永享年間に
室町幕府六代目将軍足利義教公の帰依により建立されました。(お寺のホームぺージより)

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その後裏山といった感じのところを散策しました。

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お掃除をする一休さん。

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旧墓地

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おりてきました。

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鐘楼 慶安3年の再建時に前田家より

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この写真を撮ったのが10:54 バス時間に丁度よさそうです。バス停へ

時刻通りにやってきたバスで新田辺駅に戻りました。

帰りバス11:04→11:16  新田辺11:24→京都11:57 
帰りは少し時間がかかるな、とおもったら行きが特急ではやかったからでした。 

今日のランチ、予約は12:00。(ランチはなんと4部制、各回1時間15分)
12:15までは待つけれどそれ以上予告なしに遅れると待っている人をいれてしまう、ということになっている人気店です。あらかじめ12:15までには着きますから、とメールはしてあります。ともかく大急ぎ。
駅から5分ほどのところの 
ISOISM という、おつけものやさんです。漬け野菜といっていますが。

ランチ ISOISM (12:10~12:50)
この時は満席ではなく少し空席がありました。

ランチのメニューは1種類だけ
漬け野菜12種に土鍋ご飯とスープです。

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漬け野菜にほんの少し動物性たんぱく質が載せてあります。この取り合わせがよくてお漬物だけ頂いている、ということにはなっていません。オードブル・ヴァリエといったところでしょうか。

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主人はどれもの肴にぴったり、と大喜び。でもまだ午後の観光があるので飲みませんでした。
私は小食なので途中から、どれも半分づつくらいにしました。(手伝ってくれる人がいますから)
炊き込みご飯も美味しいのにもてあましていたのですが「おにぎりにしますよ」と言って残りを握ってくださいました。帰りの新幹線でおいしくいただきました。
又来たくなるお店です。おすすめです!

このあと河井寛次郎記念館に行きましたが、写真が多くなってきたので今回はここまでにします。 

2022年11月19日 (土)

京都 4日目ー5 (青蓮院 夕食)

10月20日(木)続き

永観堂から青蓮院へは5番のバスで行けるのですが、時間があまりないのでタクシーにしました。京都は初乗りが420円。道がわかりにくいところや、バス待ちの時間を考えて近距離でも何度か利用しましたが、運転手さんは嫌がらず行ってくれました。

青蓮院 (15:00~16:00)
青蓮院は門主が皇族または摂関家によって受け継がれてきたので青蓮院門跡とも呼ばれます。
起源は伝教大師最澄の比叡山にあった青蓮坊です。

門跡寺院として山を下ったのは平安時代末期、山をおりて青蓮院となって二代目の門主は鳥羽上皇の第七皇子覚快法親王。これ以降皇族や摂家の子弟が門主となる格式の高い寺院になりました。三代目の門主が今年の大河ドラマに時々出てくる慈円です。
この時、青蓮院はもっとも隆盛を極めました。
1893年に大火災が発生し殆どの建物が消失、その後復興されたものが現在の建物です。

天然記念物の大楠

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門を入り、参道を突き当たって左に行くと受付があります。

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受付でいただいた境内順路図

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先ず華頂殿から
客殿(白書院)
白書院とは檜の柾目で造られ漆など塗っていない素木のまま造られた書院をいうそうです。

三十六歌仙の額絵と木村英輝氏奉納の、蓮の襖絵(60面)があります。

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腰かけてしばし「相阿弥の庭」を眺めます。(伝相阿弥)

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太閤秀吉より賜ったと言われる一文字手水鉢

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小御所

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本堂の北側に建つ入母屋造桟瓦葺きの建物。当院所蔵の『門葉記』門主伝によると、平安時代末は門主の居間であった。後櫻町上皇が当院を仮御所としてお使いの際上皇もご使用になった建物である。但し明治に焼失した為、江戸中期の建物を移築している。(お寺のホームページより」

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本堂には青不動がまつられていたのですが、ここだけはカメラ禁止でした。
あとで 外から撮ったものです。

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戻ってきて宸殿

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入母屋造、桟瓦葺きの、寺内で最も大きな建物。徳川家康の孫である東福門院(後水尾天皇女御)の御所を移転。明治26年(1893年)に焼失後復興。
宸殿は門跡寺院特有のもので、主要な法要はここで行う。有縁の天皇及び歴代門主の御尊牌を祀る。宸殿前に右近の橘、左近の桜を配するのは、御歴代尊儀の在ます所の意味である。(ホームページから)
この建物は修復中で鉄パイプの足場で囲まれ外から見ると、なんとなく橘、桜は分かるがはっきりしないので写真は省略。

受付横まで戻って靴をはいてお庭に出ました。(もうお部屋には戻れません)

小さな門をくぐると「相阿弥の庭」
大石(二千貫に近い重さ)が龍の背にみえることから「龍心池」と呼ばれます。石橋は「跨龍橋」

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桂離宮にもあった「岬灯籠」が見えます。洗心滝というのがどこだかよくわかりません。もしかしたら右奥がそうなのかな?と考えてみましたが、間違っているかもしれません。 

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霧島の庭
小堀遠州作と伝えられる庭ですが、なんとなく通り過ぎてしまった感があります。霧島ツツジがうえられているので 霧島の庭と言います。

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茶室 好文亭
後桜町上皇が青蓮院を仮御所として御使用の際、お使いになったご学問所

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西方浄土の庭

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親鸞聖人像
親鸞は1181年9歳の時、慈円のもとで得度しました。
そのため青蓮院は天台宗ですが、浄土真宗の聖地にもなっています。

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歩いていくと自然と外に出るようになっていてもう中には戻れませんでした。

三条通に向かって歩いていくと途中に京都七口の一つ「粟田口」の標識がありました。

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神宮道のバス停でバスに乗るつもりでしたが丁度乗るべきバスが出るところ、タッチの差で乗れませんでした。次を待つより少し歩きましょう、と歩いて白川橋まできたところで明智光秀塚という標識をみつけたので白川沿いに少し歩いて見に行きました。

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光秀は自害したのですが、その首は粟田口で晒されて蹴上付近に塚がありました。江戸中期に卒塔婆がこの地に移され、光秀を弔う地になったと書かれた立て札がありました。
路地奥でなんだか気の毒になるような場所でした。

三条通に戻り、東山駅から市役所前まで地下鉄に乗ってホテルに帰りました。

夕食は18時半に祇園のスコルピオーネというイタリアンのお店を予約してあります。

徒歩15分くらいのはずなので18:10ごろホテルを出ました。ところがお店に気が付かずに通り過ぎてしまったようで、付近をうろうろ、近くで聞いて、お店にお電話して15分くらい遅刻してやっとたどり着きました。 

でも気持ちよく迎えていただきました。町屋改装のお店です。

ワインはメルローを注文

前菜 パルマ産生ハム ブラータチーズ シャインマスカット

なんと写真撮り忘れ プラータチーズ大好きなのに

スープ 黒トリュフ マッシュルーム  
久しぶりのトリフ。主人はヘンな匂い、というのですが、私は大好き

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パスタ  カラスミ オイルソース バベッティーニ
からすみも好きなのですが、少ししおからかったです。

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魚料理  太刀魚 茄子 ミモレットチーズ

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肉料理  鴨肉 ロースト
実は鴨肉って薄くスライスしたものしかいただいたことがなかったのですが、これは塊なのに柔らかくとてもおいしかったです。

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デザート

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普通にイタリアンですが、京野菜が添えられているところが、京都でしょうか。どれも美味しくて、このお店あたりでした。ホテルまで近いのですが、暗いのでまた迷うと大変、でタクシーをよんでもらってホテルに戻りました。

充実の一日でした。 17242歩

2022年11月17日 (木)

京都 3日目ー4 昼食 永観堂

奇10月20日(木)続き

12時です。お昼です。南禅寺と言えば湯豆腐です。
南禅寺の湯豆腐については情けない思い出があります。
もう30年も前、娘と銀閣寺から哲学の道を歩いたのですが、歩き始めてすぐ雨が降り出したのです。
ここは歩き続けるしかありません。途中土砂降りになって靴の中まで雨が入り込み、ぐしゅぐしゅ状態。南禅寺に着いたら湯豆腐、と考えていたのですが、当時のお店は靴を脱いで入るようになっていて、入口でまで来てこの足では無理、とあきらめたのです。
南禅寺に来るのはそれ以来です。まあ、リベンジではありませんが。

この辺り、ざっとみても湯豆腐屋さん以外お食事処はないようです。ブログからの情報で「順正」がよさそうでしたので予約してあります。南禅寺から至近です。
中門を出て、どこかな?と思う間もなく見えてきました。

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昼食「順正」(12:05~13:10)
「 ゆどうふ優先予約は12時から13時の間にご案内いたします」ということになっています。
行くと、横の売店奥の床几にかけて待つよういわれましたが、座ったと思うとすぐ名前をよばれ、門からお庭を通ってお部屋へと案内されました。

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お庭が素晴らしいのです。

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お庭に近い側のお席はほぼ満席でしたが、間隔は充分にあります。

お料理は一番品数が少ない花コースにお願いしてあります(それでも私には多かったです)。
湯豆腐と湯葉が選べます。二人別にして湯葉と豆腐にしたのですが、
二人がどちらもいただけるようタレ等二人分づつ用意されました。

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豆乳、白和え、煮物、田楽、野菜天婦羅等がメニューでした。白和えが美味しくてこれまで家では作らなかったのですが、この旅行後からはよく作るようになりました。

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湯葉は、豆乳の表面に皺がよってきたら竹串で縁にそってはがしていくのです。これが面白くてたくさん頂いてしまってかなりおなかがいっぱいになりました。(豆乳は内鍋に深さ5ミリ?くらいの分量)

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田楽もおいしかったです。
てんぷら、きたすぐに写真を撮るのを忘れてしまって数が減っています。

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帰りにお庭をもう一枚、水がきれいで気持ちのよい眺めでした。

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13:10 ~13:35  ゆっくり歩いて永観堂に向かいました。
 南禅寺中門をくぐってすぐ左におれて進み、右に曲がりさらに左に進んで道なりに結構な距離を歩きました。 

永観堂(13:35~14:45)
863年、弘法大師の高弟・真紹僧都が、清和天皇から寺院建立の許可をもらい、禅林寺という名を賜りました。
禅林寺を大きく発展させたのは永観律師(1033~1111年)の時代です。そのためいつしか永観堂と呼ばれるようになりました。
南禅寺のところで出てきた亀山天皇の離宮はこの禅林寺が下宮だったということです。

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境内図

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まずは 釈迦堂へ
方丈・釈迦堂は室町時代の建立とされ、本格的な書院造り。6間からなり、それぞれが「松鳥図」「群仙図」等の華やかな襖絵でかざられていますが、室内撮影禁止でした。

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子の釈迦三尊像はそれほど大きくはありませんでした。
すごいのはこれの置かれた部屋両脇の壁に描かれた絵です。
怒涛渦巻く大河、青というかグレーの迫力のある鳴門海峡の大渦のような渦が描かれ、向かい合うのは全てを焼き尽くす炎ですが、黒い岩山に火山から赤い溶岩流がながれでて黄色い炎をあげている、という強烈な絵でした。
聚光院の青い滝の絵も驚きでしたが、あれは事前に知っていましたから「これね」という感じでしたが。こちらは予想していなかったので驚きでした。
ヨーロッパの教会が美術の宝庫だったように日本のお寺もそうなのだな、ということを今回の旅でいよいよ実感しました。
その時その時の芸術を取り込んでいるので、これもありなのでしょう。

でもヨーロッパの教会に廻廊・中庭はあっても日本ように景色を作った庭園はありません。

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小方丈西庭 

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釈迦堂西庭には勅使門と盛り砂
勅使はこの盛り砂を踏んで身を浄め乍ら進んだそうです。また昔は夜の月明りをこの砂に受けて明かりとしても利用したそうです。

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方丈南庭

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右手、この隠れている灯籠、形が面白いのに全体が見られなくて残念。

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方丈北庭

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場所をはっきりおぼえていないのですが、すきま利用?

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悲田梅
永観律師は境内の梅の木に身がなるのを待ちかねて、貧しい病人に施した、と言われいつしか「悲田梅)といわれるようになりました。
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多分 方丈を出て御影堂へ行く途中の渡り廊下

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御影堂は中に入れません。周りの廊下を歩くだけです。
今日も晴天
「もみじの永観堂」といいますが葉が緑の時もすがすがしくていいものです。

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見下ろすと、あれは多分 龍吐水 龍が木の影になっています。

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奥に阿弥陀堂へいくためのエレベータ―が見えています。階段ではなくこちらを利用して上に行きました。

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阿弥陀堂、中にはいれますが、写真不可です。

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みかえり阿弥陀像 (平安後期~鎌倉初期)77㎝ (絵葉書から)

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みかえり阿弥陀のいわれ  永観堂 ホームぺージから

永保2年(1082)、永観50歳のころである。2月15日払暁、永観は底冷えのするお堂で、ある時は正座し、ある時は阿弥陀像のまわりを念仏して行道していた。すると突然、須弥壇に安置してある阿弥陀像が壇を下りて永観を先導し行道をはじめられた。永観は驚き、呆然と立ちつくしたという。この時、阿弥陀は左肩越しに振り返り、「永観、おそし」と声をかけられた。永観はその尊く慈悲深いお姿を後世に伝えたいと阿弥陀に願われ、阿弥陀如来像は今にその尊容を伝えると言われている。

正面から見ると、顔を背けていますが、右の方に回ると、丁度頭が見えるだけ窓があいていてお顔が見えるようになっていました。
演出のせいか、無信心者の私でも いいなと思ってしまいました。

降りるときは少し急ですが階段にしました。

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下り切った所右、崖側に水琴窟があったのです。帰って調べて気がついて、そのあたりが写っている写真を拡大して発見したのですが、これも悔しい見落としの一つ。

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この向こう側の登り階段が臥龍廊です。
私はここで待っていて主人だけ上がって行きました。

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上がって進むと奥にうっすら見えるのが 開山堂

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そこから見えるのが 多宝塔への入口(鳥居の横に階段)

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大体見終わったので、外に出ました。

勅使門、この門を入ると盛り砂があるというわけです。

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多宝塔を遠望

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放生池

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売店によって絵葉書をかったのですが、お線香の説明をきいて買ってしまいました。火が消えると見返り阿弥陀様が現れるのだそうです。まだ火をつけていないので、様子がわかりませんが。

先を急ぐので門の外に出てタクシーを捕まえました。青蓮院については次回に。

2022年11月16日 (水)

京都 4日目ー3 南禅寺(南禅院・三門・天授庵)

10月20日(木)南禅寺続き

南禅院 (11:05~11:20)
離宮禅林寺殿の「上の宮」遺跡で南禅寺発祥の地です。
応仁の乱後荒廃していたが、1703年徳川綱吉の母、桂昌院により再建されました。
庭園は当時のおもかげを残し、鎌倉時代末の代表的池泉回遊式で、作庭は亀山法皇ともいわれています。
夢窓疎石がかかわった、という説もあるようです。

方丈

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西庭

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グレーですが水です。

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上池 曹源池 と呼ばれ竜の形をしていることになっています。全体の形が分かるように一回りした時の少し小高い所から撮った写真をまず載せました。
木の枝の下の二つの島。手前が亀島、その右が鶴島

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中央右、緑の小島が亀島

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鶴島 三角の石で蓬莱山も表しています。

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池を反時計回りに回ります。

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亀山天皇分骨所

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緑の美しい庭園でした。先を急ぐのでざっとみただけです。

三門
主人が折角だから三門に上がりたい、といいます。石川五右衛門の「絶景かな」ですね。

私は下で待つことにしました。階段がとても急でロープ手すりだったそうです。
結構、人気があるようで切符売り場には行列ができていました。

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上からの眺め

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昼食前にもう一つ行きたいところがあります。三門横の天授庵です。

天授庵 (11:35~12:00)

1337年 南禅寺開山の大明国師の開山塔建立、これが天授庵の開創。火災、応仁の乱の兵火により、荒廃。
1602年 細川幽斎の寄進により復興

本堂襖絵32面は長谷川等伯によるものですが、残念ながら非公開です。

お庭は拝見できます。

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方丈前庭 東庭

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飛び石伝いに進み見ます。

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小さな入口をくぐると書院前に出ました。

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書院南庭には 池泉回遊式庭園

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鎌倉末期から南北朝時代の特色をそなえています。

そのまま進むと池におりるようになっていました。池には八つ橋22111535

あれは水鳥の小屋?細い滝がありました。

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江戸初期辺りに改修されたと言われる滝石組み
細いけれど勢いよく水が流れています。滝は南禅院にもありました。この辺り水が豊富のようです。

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池には 蓬莱島

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飛び石伝いに池を渡るのはスリルがありました。

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苔むした手水鉢

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すぐ建物は見えているのですが、そちらにいくことができず元来た道を引き返しました。 

そろそろお昼です。午後の部は次回に

2022年11月15日 (火)

京都 4日目ー2 南禅寺  

南禅寺
1291年亀山天皇がこの地にあった離宮を禅寺としたものです。開山は大明国師。創建当時の伽藍は三度の火災により一宇も存在しません。現在のものは江戸時代初期以降のものです。
京都五山、鎌倉五山よりも上に置かれる別格の陣です。

境内図

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中門
1601年伏見城松井邸より勅使門として拝領。
「日の御門」拝領の後は幕末まで脇門と呼ばれていました。
皇室にゆかりのあるお寺なので塀に5本線が入っています。

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勅使門
1641年、御所の「日の御門」を築地とともに明正天皇より拝領したもの

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三門
火災で焼失していたので1628年、藤堂高虎が大阪夏の陣に斃れた家来の菩提を弔うために再建。

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法堂
1909年再建

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ここは無料で自由に入れました。幡龍。写真はいいのかどうかわからなかったのですが、皆さん撮っていらしたので撮りました。

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やっと受付のある本坊に到着しました。

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方丈、小方丈庭園を拝見します。(10:30~11:00)

座ってじっくり拝見ということはできず廊下を歩いていきながら拝見するので以外に短時間で見終えました。

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大方丈は天正年間の御所の清涼殿を移したものといわれていますが、女院御所の対面殿を移築したものです。
内部は桃山前期の狩野派の絵師たちの障壁画で飾られていますが、劣化がはげしいのでデジタル復元画に置きかえられています。

そのせいか、金地背景まばゆいばかりの花や鳥の華麗な絵が見られました。
大方丈の背後の小方丈は寛永年間の建築で伏見城の遺構とされています。
内部には探幽筆の群虎図
虎の絵も結構おもしろかったです。 

頂いたパンフレットの写真から

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ゴージャスな障壁画に目を奪われながらお庭もしっかり見ました。

小堀遠州作とも伝えられる方丈庭園 巨石の姿から「虎の子渡し」とよばれています。

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このお庭はいいな、と思いました。

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如心庭 心字形に石を配した枯山水庭園(昭和41年作庭)

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蓬莱神仙庭 奥の立石が蓬莱山らしい。

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蓬莱は霊山、海の中にありながら仙人が住むといい、その不老不死の御利益を求めて古来より憧れられてきたそうです。

六道庭 (昭和42年作庭)六道輪廻の教えを考える庭。

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角度を変えてみると

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花厳庭 この垣根を南禅寺垣というそうです。
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茶室 窮心亭へ

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窮心亭
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前にあるのは織部灯籠です。

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花厳庭の反対側には 鳴滝庭 繁りすぎて石組みが分かりません。
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角度を変えてみると
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還源庭
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龍吟庭と涵龍池
見えにくいですが灯籠とその横の一並びの石の向こうの暗がりが池です。
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龍吟庭は華厳庭(けごんてい)とともに1984年植彌加藤造園設計施工によるものです。
左の巨石(鞍馬石)は三門の西にあったものを運んだそうです。

これで庭園は拝見しおわりました。廊下を巡りながら進むと趣の異なったお庭が次々現れて楽しかったです。

***

本坊を背に少し歩いて左を見る水路橋、水路閣です。

明治18年起工、23年竣工。全長約93m、幅約4m
西欧技術が導入されて間もないころ、日本人のみの手で設計・施工されたものとして土木史上、貴重なのだそうです。

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この間を抜けて階段を上がって行くと南禅院です。

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南禅院については次回に

2022年11月14日 (月)

京都 4日目ー1 南禅寺・金地院

10月20日(木)
今日は南禅寺を中心に永観堂と青蓮院に行く予定です。昼食は順正、夕食はスコルピオーネ祇園を予約してあります。

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朝食 ヘルシーサラダにしてみました。サラダの量を半分にしてもらいましたが、やはり残してしまいました。

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南禅寺へは地下鉄で行きました。
8:30頃ホテルを出て市役所前の駅から乗りました。駅への下り口は河原町通り本能寺を過ぎたところにあるのが便利。ここが一番改札口に近いようでした。乗れば蹴上駅まで3駅5分です。金地院に行くにはバスよりも地下鉄で蹴上駅から行くのが近いです。

8:50には蹴上で地上に出ていました。すがすがしい郊外の朝です。

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少し進むと「ねじりまんぽ」というおかしな名前のトンネルがありました。
案内板の説明
まんぽ、というのはトンネルを意味する古い言葉で「ねじりのあるトンネル」という意味になります。上部にあるインクライン(傾斜鉄道)と斜めに交わる道路に合わせ、トンネルも斜めに掘られるとともに強度を確保する観点から、内壁の煉瓦を螺旋状に積む工法がとられています。 
南禅寺近道ですが、最初に行く金地院は特にこちらからが近いです。

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出て振り返ります。石垣がものすごい巨岩。横を水が流れています。南禅寺は水が豊かなところのようで、どこでも水音が聞こえました。

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トンネルを抜けてまっすぐ進み、突き当たって左に折れます。

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東照宮門

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金地院には徳川家康の命による三つの東照宮の内の一つがあります。

東照宮門を過ぎると金地院入口です。

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金地院の内部の案内は9:30からですから、それまで先に庭を拝見する予定で9:00着をめざしました。3分前の到着です。

金地院 (9:00~10:10)(8:30には開いているようですが、御確認を)

頂いたパンフレットから
応永年間に大業和尚が足利義持の帰依を得て北山に開創した禅寺です。
慶長の初め以心崇伝和尚が南禅寺塔頭に移建し今日に至っています。
以心崇伝(1569~1633年)は徳川家康・秀忠・家光の三代にわたって親任され、天下僧録師司として社寺のことを掌握した人物です。
黒衣の宰相とも呼ばれたほど畏怖尊敬を一身に集め、
十万石の格式、また御三家につぐ席次と江戸城内に屋敷地を与えられるという破格の待遇を受けました。

***
奥が庫裡、右手に拝観受付

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案内板の順路に従って進みました。途中少し上り坂ですが、ゆっくり写真を撮りながらでも20分足らずで回れました。

明智門 天正十年明智光秀が母の菩提のため、黄金千枚を寄進して大徳寺に建立したものを明治初年、金地院に移しました。

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弁天池
右奥に後で見る鶴島が見えています。大きさがよくわかります。

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池を右に見ながら進みます。誰もいません。

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東照宮
家康の遺髪と念持仏を奉戴して寛永五年造営。葉室麟『孤蓬のひと』によると、小堀遠州が設計図を書いているようです。

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天井の鳴龍は狩野探幽筆、三十六歌仙の額は土佐光起の筆、歌は青蓮院宮尊純親王の御筆跡だそうです。
鳴龍、頑張ってもここまでしか撮れませんでした。

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拝殿・石ノ間・本殿という造りは京都に遺る唯一の権現造り。

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横から見ると屋根がM字型に見える八幡造り(道後や宇佐で見ました)と似ていますが、八幡造りは前、後ろとも本殿。権現造りは拝殿と本殿になっています。

階段を下りると

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開山堂
崇伝和尚の塔所 後水尾天皇の勅額 と 十六羅漢像 が置かれています。

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戻ってきました。

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方丈前にきました。
全景を撮り忘れた、というか撮れなかったので絵葉書から

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頂いたパンフレットから

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方丈はパンフレットによると慶長十六年(1611年)、崇伝長老が伏見桃山城の一部を徳川家光より賜り移建したものとありますが、ウイキによると移転の痕も見られず時代的にも合わないことから、実際は崇伝によって寛永四年(1627年)に建立されたものとみられる、とありました。

この縁側に腰掛けてお庭を拝見。
寛永7年(1630年)小堀遠州の作(遠州作は多いが、確実に遠州が手がけたと言えるのはここだけだそうです)。
庭師は賢庭。去年行った圓徳院のお庭も作った人です。山水河原者といって、河原に住むいわば賎民がいるのですが、彼らは井戸掘りを行い地中の石を掘り出すことにたけています。石を扱うのが上手で賢庭のような優れた庭師もでました。
こういう人たちを大事にしたのは世俗を超越した存在である天皇だったそうです。当時「紫衣事件」(僧侶の任命権を幕府のものにしたことに対して後水尾天皇が叛旗を翻した)という朝廷と幕府の対立する事件があり、天皇に大事にされた賢庭が崇伝の庭を作るはずはなかったのですが、それを遠州がうまくさばいたことが『孤蓬の人』に出ていました。

鶴亀の庭

横長で一枚におさめられないので 絵葉書から

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左から 亀島 蓬莱石組み(手前に遥拝石) 鶴島
全面の白砂は宝船を表すととも海洋を表すそうです。また群仙島を象る石を点在させています。

 
亀島 背中に白骨のような木(柏槇)が生えています。作った時からこのような状態だったそうです。

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蓬莱石組みと遥拝石
奥が遠山石 手前の三石が三尊石
灯籠は織部灯籠です。灯籠左手前の三角石は近江富士
畳五畳分くらいの広さのある遥拝石。実際にここで跪くのではなく祭壇のように使われた、とあとで案内の方に説明されました。奥は白砂ではなく栗石が使われています。

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鶴島
向かって左、横に伸びる石が鶴首石
 
先が割れているのが短いけれど嘴をあらわしています。鶴首石の横の立石が羽石とお寺の説明版にありました。みかたによってはその右、手前と奥の二つの石が羽のようにも見えます。

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非常に迫力のある鶴島・亀島です。亀ははいずりだしそうです。気に入りました。

待っている間に額縁写真を

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右手の通行止めを外して入れていただきました。ぼんやり鶴の間がみえています。狩野探幽と言われますが実際は探幽指揮のもと、狩野信正が描いたとされています。パネルは等伯の猿猴捉月図

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9:30 係の女性がいらしたので方丈に上がります。特別拝観をお願いしたのはあと一人。物静かな男性で、三人で案内していただきました。荷物はロッカーに。やはりカメラノーです。(写真は全て絵葉書から)

お部屋の中まで入って間近に見ることができました。

私が気にいったのは等伯筆 「猿猴捉月図」

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猿が樹上より水中に映る月影をつかまえようとしている絵です。水に映る月を捕ろうとしますが、枝が折れて溺れてしまうらしいです。身のほどをわきまえよ、ということらしいです。

かわいいです。

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輪郭線を書かずに細い筆で毛を描き込んでいます。モフモフ感がありました。

海北友松のカラスの絵(真筆)もあり、これも印象的だったのですが、絵葉書には入っていません。ネットで調べると

(2ページ目)富岡佳子さんが訪ねる「ときめく、京都」に触れるベストスポット五選 | Web eclat | 50代女性のためのファッション、ビューティ、ライフスタイル最新情報 (hpplus.jp)に写真が出ていました。

上段の間 老松図は狩野探幽画

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茶室 八窓席
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寛永四年 小堀遠州作。三畳台目の席で京都名三席の一つ。
ここで全部は見えませんが窓は六つあります。八窓の内あとの二つは亭主と客の心の窓だそうです。

ほぼ30分で見終わりました。室内まで入れましたし、人数も3人。ゆっくり心ゆくまで見ることができました。きのうの聚光院とは大違いです。あらかじめ電話 075-771-3511 で申し込んでおいて是非とも!

10:10頃出て南禅寺方丈に向かいました。写真が多くなりましたので続きは次回  

2022年11月12日 (土)

京都 3日目ー3 相国寺・承天閣美術館→本法寺

14:10前には閑臥庵を出て歩き始めています。5,6分下るというのでしょうか、南の方へ少し曲がりながら進むと行き止まり、美術館はすぐこの塀の奥らしいのですが、(グーグルマップだと工事中)しかたがないので右の方へ少し進むと

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この道を数分行くと入口らしきところ(実はこの道ももう境内らしいです)

相国寺
このお寺は今回訪ねる予定はありませんでした。
目的は本法寺とすぐそばの妙蓮寺。どちらも長谷川等伯の絵を所蔵していて、お庭もいいらしいのです。ところが妙蓮寺が水曜定休。それで閑臥庵近くの相国寺を追加したのです。
ところが相国寺は秋の特別公開中にもかかわらず、この数日は法要があるとかで内覧中止だったのです。美術館だけは入れるので美術館だけ行くことにした、というわけです。
相国寺、なかなか格式のあるお寺のようです。京都五山第二位。金閣寺、銀閣寺も相国寺の塔頭寺院なのだそうです。 
足利三大将軍義満の建立によるものです。(1382年~1392年)
「相国」とは国をたすける、治めるという意味で、中国からきた名称ですが日本でも左大臣の位を相国と呼んでいました。
相国寺を創建した義満は左大臣であり、相国であることから、義満の建てたこのお寺は相国寺と名付けられたということです。

入った所 予習不足で何気なく撮ったのですが、これはどうやら光信の鳴き龍で有名な法堂のようです。

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これは庫裡 この右手に承天閣美術館への通路がありました。

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きれいに整えられた道をたどっていきました。

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承天閣美術館 (14:23~15:01)

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丁度「武家政権の軌跡ー権力者と寺」という特別展をやっていました。

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下に見える鶴の絵はⅠ期だけの展示のため見られなかったのが残念でした。
館内撮影禁止です。

足利歴代将軍を描いたお軸がたくさん、それと文書(スルーしました)お籠など

お庭はO.K.
なんだか龍源院の東滴壺を思わせます。

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石塔は韓国高麗時代(918~1392年)のもの すてきです。

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硝子越しなのでどうしようもない写真になってしまいましたが、こういうお庭もありました、ということで

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常設展で目をとめたのは若冲 見る目はなくてなんとも言いようがないのですが、いいのではないか、と思いました。(写真はホームページから拝借)

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見たかった、竹林猿猴図屏風 長谷川等伯 が見られなかったことが残念至極。(ホームぺージの館内写真には写っているのですが、記憶にないのです)

この辺りで出ることにしてタクシーを呼ぶために番号を教えていただいて庫裡を出たところで待ちました。タクシーだと5,6分の距離です。

本法寺 (15:14~16:04)

本法寺は日蓮宗僧侶、久遠成院日親上人(1407-88)によって築かれた日蓮宗の本山です。仏教の宗派のことはよく知らないのですが、最近『襲来』(帚木蓬生著)を読んだので少しだけ日蓮宗になじみができました。
本法寺に関心をもったのは長谷川等伯が生家の菩提寺の伝手で本法寺塔頭の教行院に住んでいたことがあるからです。等伯の絵を所蔵しているはずです。
また本阿弥光悦も関係があります。本阿弥家は本法寺を菩提寺として支え、豊臣秀吉の命によって現在地へ移転を強いられた際に、光悦は父親の光二と私財を投じ、伽藍の整備に力を尽くしたのです。このとき光悦によって作られたとされる「巴の庭」というのがあるので、これも是非拝見したいと、訪問を決めました。

仁王門をくぐって

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等伯像 筆を持つ手が左手です。

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開山堂

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拝観申し込みをするとまず、宝物館の涅槃図から見るよう言われます。

途中に新しく作られた「十の庭」があります、十と書いて つなし、と読ませています。ひとつ、ふたつと数えると十になって つ がつかないからです。
九つの石からできているお庭で十番目はそれぞれの心の中の意思(石)だそうです。

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奥に 唐門

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宝物館

佛涅槃図 長谷川等伯(1539~1610)
見られたのはレプリカ。春の特別公開の時しか真筆は展示しないそうです。
国指定重要文化財で、京都三大涅槃図の一つ。縦約10m、横約6mの非常に大きなものです。
等伯61歳の時に描いて本法寺に奉献したものです。自身の家族や日蓮宗僧侶たちの供養のために描いたそうです。 
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大きいので、上の方がよく見えるよう展示室は2階だてになっています。歩きにくいスリッパで2階にも行きました。

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左の緑色の衣の人が等伯自身だそうです。

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動物の嘆く様子が印象的でした。

このあと渡り廊下から書院へ移動して光悦作と言われるお庭を拝見。
巴の庭(頂いた案内から)

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先ず 光悦のつくばい

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帰って写真を拡大、あの灯籠は?竿の上部に膨らみが見えます。

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織部灯籠(キリシタン灯籠)ではありませんか。ネットで検索すると手水鉢と反対側にはキリスト像が彫られた写真が出てきました!主人と合わせて何枚か行きと帰りに写真を撮っているのですが、どれも同じ側。
もしかしたら通行止めの所から撮ったものかもしれません。歯噛みする思いです。

そうして回っていくと、なんとお庭修復中!

巴の庭

光悦寺垣は新規作り直し、もう10年経ってボロボロだったそうです。

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駄目になった苔を剥がして新しいものを植え込んでいます。
左手の真ん中に筋の入った円が日蓮の日、横の池(切石によって十角形がかたどられている)が蓮池で蓮になります。

巴の庭 には巴が三つ造られているのですが、長い年月を経て巴の字は分かりにくくなっています。
奥中央から左が巴の築山③になります。

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フォトショップというソフトを使って邪魔なものを取り除きました。

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そのほかの見どころは奥の方です。石を配置換えしたりなどはしていませんから、職人さんを見ないことにして(写真では人物を削除)鑑賞しました。

素晴らしいのは巴の築山② 枯れ滝がみごとでした(上写真だと右端の灯籠から右手になります)。

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西日を反射して見にくいのでフォトショップで加工して少し暗くしてみました。 

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筋の入った立石で滝を表し、栗石で流れを表しています。

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右に目をやると巴の築山③

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少々がっかりしながらお寺を後にすることにしました。
そうそう等伯の住んでいた教行院は?

???見ない方がよかった。

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多宝塔

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買って来た絵葉書から

等伯筆 日堯上人像

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等伯が京に来て間もない34歳の時の絵です。日堯上人の亡くなった後描かれたらしいのですが『等伯』(安藤龍太郎著)では 亡くなる直前、本法寺に呼ばれて教行院で病の床にあった日堯上人のお世話をしながら描いた、ということになっています。
春の特別公開の時には見られるそうです。

***
本法寺の前は裏千家今日庵です。

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静かで品のいい通りです。

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少し進むと 表千家不審庵 千利休居士遺跡 と標識にありました。

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(一枚上の写真)突き当たって右に行くとすぐ堀川通りに出ます。
堀川寺の内のバス停は左です。ほどなく12番の京阪三条行きバスが来ました。(15分間隔であります)

今日はお昼をぜいたくしたので夜はテイクアウトで済ませます。ホテル近くのパン屋さんでサンドイッチを、と考えて終点の三条京阪まで乗っていくつもりでいたが、気が変わって四条河原町でおりました。

16:20頃→16:50頃 四条河原町 
高島屋の地下にいくつもりが、バスを降りた横が運悪く手拭いの永楽屋。すい込まれるように入ってしまってしばらくあれこれ眺めて一枚お買い上げ。
高島屋の地下で私はフルーツサンド、主人はおすし風なお弁当を買いました。出たところでお漬物を買うことをと思いついてホテルに戻るには大回りですが錦市場に行きました。
昨日、松尾大社にあった「もり」のお漬物が気になっていたのです。でもどうやら、お店は5時には閉めるようで結局買えずにホテルに戻りました。

ドリンクコーナーには 紅茶のティーバッグはありません。日本茶でがまん。主人が先にシャワーをあびたりしましたので 18:30から質素な夕食 

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クリームが多すぎでした。 

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二切れ程わけてもらいましたが、おいしかったです。

(13428歩)

2022年11月10日 (木)

京都 3日目ー2 大徳寺・聚光院→閑臥庵→

瑞峯院を出て聚光院に行ってみるとかなりの人数の方が並んでいます。お聞きすると10:40の回だそうです。
まだ時間があるので私はお手洗い(総門を出たところにあります)に行くことにして、主人は孤蓬庵を見に行きました。最近『孤蓬の人』(葉室麟著)を読んだので。
かなり遠かったようです。
孤蓬庵は小堀遠州ゆかりの塔頭ですが、何年かに一回、特別公開がある程度でふだんは拝観謝絶です。 

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石畳、これも延段というのでしょうか。美しいです。

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石には史蹟及び名勝孤蓬庵庭と書いてありますが、外からはうかがい知ることはできなかったようです。 

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聚光院 (拝観は11:00~11:40)

1566年、戦国武将三好義継が養父・長慶の菩提を弔うために創建。開祖は大徳寺第百七世住職の笑嶺宗訴。
宗訴が利休参禅の師だったことから、利休は聚光院を自らの墓所としました(今回は利休のお墓は見られないことがあらかじめ知らされていました)。利休の流れを汲む茶道三家(表・裏・武者小路)の墓所ともなっています。
本堂には狩野松栄・永徳親子による障壁画46面がおさめられていていつもはレプリカなのですが、この秋の特別公開では京博におかれているホンモノ
が5年半ぶりに里帰り、ということもあって今回の特別公開は価値があるのです。
(拝見するには、当日申し込みも空きがあれば可能らしいのですが、
大徳寺 聚光院 | 京都春秋 (kyotoshunju.com) で申し込みました。)

10:51には二人とも戻ってきて丁度入れる時間でした。

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入ると荷物を全て(貴重品も入っているバッグまで)預けさせられます。私はコートを着ていたのですが、着たままでいいといわれました。
人数は20人くらいだったと思います。すぐ見学が始まりました。解説付きはありがたいのですが、これでは人数が多すぎで お部屋の襖絵等も、観る順番がなかなかまわってこなかったりしました。
それにこのご時世、密です!昨日の桂離宮は屋外でも10人だったのに。
ここはカメラ禁止です。頂いたパンフレットと買ってきた絵葉書から画像をお借りすることにします。

方丈 は創建時の姿が残っており、狩野松栄・永徳親子の障壁画46面がおさめられています。
永徳はこの時24歳という若さでした。永徳は絵の才が認められたため、安土城、聚楽第、大阪城などの障壁画を描くという大きな仕事をまかされました。が、逆に城など落ちたため永徳の絵は残っているものが少ないのです。

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礼の間 松栄「瀟湘八景図」8面

↓室中 永徳「花鳥図」16面 奥の内陣の小襖には松栄の「蓮池藻魚図」

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行ったときは奥の襖は開け放たれて、その奥の部屋の笑嶺禅師の木像とその下の小襖に描かれた松栄の「蓮池藻魚図」を見せるようになっていました。父松栄は子の永徳の才能を認め、表舞台は子にゆずった、という解説でした。

右手の壁、入口に近かったせいか横からでしたが、よく見えました。

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この梅の木がとても気に入りました。

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檀那の間 永徳「琴棋書画図」8面
これは一部です。金地背景だったそうです。
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琴棋書画とは中国の士大夫(科挙 官僚・地主・文人の三者を兼ね備えた者) が身に着けるべき四つの芸のこと。 

方丈の前に広がる庭 「百積の庭
下絵は永徳、作庭は利休という説があり、室中の「花鳥図」と呼応して造られた、というわれています。
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松の木の根元向こうの石橋がフォーカル・ポイントだそうです。
奥に見える木は沙羅双樹。利休お手植えと伝わり現在は四代目。

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方丈正面からしか見られないのですが、↓この角度からだと雰囲気が違います。

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まわって北側「衣鉢の間」には「竹虎遊猿図」松栄画
このお部屋は狭いのでよく見えました。

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↓なんだかほのぼのする絵でこれもよかったです。

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この後お茶室を見ました。
閑隠席
千利休百五十回忌の際に、表千家七代目如心斎の寄進によって建てられたもので、利休の精神を汲み、明かりが極度に制限されたものです。

絵葉書からなのですが、随分明るい写真になってしまいましたが、実際はずっとうす暗いお部屋でした。

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3畳のお茶室。床の奥行が少し浅くなっています。この後ろ側に、この70年後に作られた枡床席というお茶室があるのですが、そこに浅くした分、ほんの10㎝くらいの狭い床がありました。

この後新しい書院に行って千住博筆の「滝」の絵をみて見学おしまい。丁度40分でした。

バッグなどを受け取って今度は総門から出ました。
お昼も楽しみなのです!出たところでタクシーをひろいましたが、大徳寺納豆のお店の前でしたので、乗り込む前に一袋買いました。 

大徳寺納豆は糸を引くふつうの納豆ではなく大豆を麹菌を使って発酵させた塩味が強いものです。塩代わりに使うとか酒のつまみにするいいそうです。(私は好みでしたが、主人はノーです)

付近の地図
(午後は閑臥庵→相国寺→本法寺→堀川寺ノ内からバスでホテルへ) 

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お昼は黄檗宗のお寺で普茶料理を頂くことにしています。タクシーがすぐつかまらないと困るので12:30に予約を入れてあったのですが、12:00には着いてしまいました。

閑臥庵 黄檗宗の禅寺

もとは梶井常修院の宮の院邸であったが、江戸時代、後水尾法皇が夢枕に立った父・後陽成天皇の言葉に従って王城鎮護のために貴船の奥の院より鎮宅霊符神をこの地に勧請し、初代隠元禅師から六代目の黄檗山萬福寺管長千呆禅師が1671年に開山となって寺としたのが起こり。御所の祈願所として法皇自ら「閑臥庵」と命名、後宸筆の額をよせて勅号としたほか
明けぬとて 野辺より山に 入る鹿の あとふきおこる 萩のした風
という和歌を詠んで庭を愛したそうです。(パンフレットより)

黄檗宗は臨済宗や曹洞宗と並ぶ禅宗ですが、中国式の考えが強く残っているとされています。ここで京風懐石普茶料理がいただけるのですが、中国風で油も使うのが特徴だそうです。
二人以上で3日前には申し込まなければいけません。

昨日南禅寺の塔頭でもみかけましたが、予習でこの写真を見たときは驚きました。

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これも一般のお寺とはなんだか違う雰囲気です。

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12:05ですが、とりあえず「ごめんください」 

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気持ちよく応対していただけて「すぐにお料理をおだしできるかどうかわかりませんが、どうぞお部屋へ」と案内されました。あの赤いじゅうたんの見える内側。全てグループごとに個室です。

本来は1卓を4人で囲んでいただくそうですが、2人でも大丈夫です。畳のお部屋ですが、どっしりした椅子・テーブルが置かれています。

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暫く待っているうちに12:15 お干菓子とお薄

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お薄は 写真省略

紫膳を予約しています。一番品数が少ないもので、之より上だと品数が増えていきます。私のおなかではこれでも多すぎでした。

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大皿にのせて供され皆で分け合うという方式です。

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筝羹 (野菜の煮物)
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うめぼしの日の出揚げ

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揚油(やんうー) 揚げ物
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お花もサクサク・ハラリでした。

麻麩(ゴマ豆腐)

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雲片(うんぺん)葛ひき

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浸菜(しんつぁい)

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くりもどき サツマイモ団子に茶そばをイガとしてさしています。少々痛かったです。

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湯葉

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酢菜(さんつぁい)

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珍しさもあって選んだお店(?)ですが、とても美味しかったです。京都在住の方のブログからみつけました。その方あまり間を置かず、2度いらしてるので、美味しいのだろうとは思っていましたが。メニューはいつも同じで違いは最後のフルーツだけのようです。

飯子・澄子・掩菜(えんつぁい)

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ご飯もおいしかったです。

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お運びの女性も楽しい方でおしゃべりもしました。ここは女性住職さんらしくて、うつわも庵主さんが選ばれた、とか。普茶料理は宇治の萬福寺でも出すけれど、あちらは男性住職で男っぽい料理だそうです。

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ゆっくり2時間近くかけていただいて14:00に出ました。「お寺もどうぞ」ということで本堂に案内されました(拝観料500円、お食事した人は無料)先を急ぐのでざっと見回して出ました。

このあと歩いて相国寺・承天閣美術館にむかったのですが、それは次回に