京都 5日目―3 六波羅蜜寺→建仁寺
10月21日(金)続き
六波羅蜜寺(14:00~14:25)
六波羅蜜寺は951年醍醐天皇第二皇子光勝空也上人により開創されました。
六波羅蜜とは、この世に生かされたまま、仏様の境涯に至るための六つの修行(布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧)を言います。
波羅蜜とは彼岸(悟りの世界)のことです。(お寺のホームページより)
六波羅蜜、心しておきましょう。
六波羅探題という言葉が日本史に出てきました。鎌倉幕府が置いた京都の政情を観察し、治安維持のために六波羅に置いた長官です。
又この地は平家の屋敷があったところのようです。
建仁寺に行く道筋にあるので先頃、上野にきて大評判だった「空也上人像」を拝んでいくつもりで寄りました。
朱塗りでまるで神社のようです。
横に神社もあり、かなりの人(20人くらい)がお参りにいらしてました。
此附近 六波羅探題 平氏六波羅(その次の文字が読めません)
写真差し替えました(11月27日)
カメラはスマホを含めて二人で4台(全てを4台で撮っているわけでなく補い合って。4台とも撮り逃しも多い)。その中から探していいものを入れるようにしているのですが、より見やすいものを見落としていました。これですとなんとか字が読めます。
此附近 の下の二行は 六波羅探題府 平氏六波羅筋
再度訂正 下の方が見えませんが左は 六波羅探題府址 右は 平氏六波羅第 です。(京都いしぶみで検索)
(kukoko様にいしぶみを調べる方法があることを教えていただきました。)
清盛塚(左)と阿古屋塚
阿古屋塚は平氏の武士を救ったとされる、阿古屋という遊女の宝塔
阿古屋の菩提を弔うために鎌倉時代に建てられました。宝塔は鎌倉時代の作で、その下の台座は古墳時代の石棺の石蓋。
この後奥の宝物館(令和館)へ行って空也上人像と伝平清盛象をみましたが、カメラ禁止なので絵葉書から
運慶の子、康勝作 鎌倉時代
口から出ているのは南無阿弥陀仏という言葉が6体の阿弥陀如来という仏様になって表れた、という伝承を形にしたものだそうです。
仏像彫刻門外漢の私にも素晴らしい作品だと思いました。
伝平清盛座像 13世紀
入った時はお一人いらしたのですが、すぐ出られて後は二人だけ。右から左からじっくり拝見できました。上野ではこういうわけにはいかなかったでしょう。建仁寺への行き方を教えていただいて、絵葉書を買って外に出ました。
ものの5分と歩かないうちに建仁寺境内入口に到着。
6月にツアーで来た時は北門から入りましたが、そこまで行くのは遠そうでGoogleストリートビューで探し回って発見、念のため六波羅蜜寺の若いお坊さんに確認したのです。
この手前左が勅使門のはず。下の地図 赤丸が通用口。直進すれば方丈です。
建仁寺(14:30~15:40)
建仁寺は建仁二年(1202年)将軍源頼家が寺域を寄進し栄西禅師を開山として建立された臨済宗のお寺です。
創建時は真言・止観の二院を構え天台・密教・禅の三宗兼学の道場でした。京都最古の禅寺です。
正元元年(1259年)宋の禅僧、建長寺開山蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)が入寺してからは禅の作法、規矩(禅院の規則)が厳格に行われ純粋に禅の道場となりました。
京都五山が制定され、その第三位。
天正年間(1573-1592年)に安国寺恵瓊(あんこくじえけい)が方丈や仏殿を移築しその復興が始まり、徳川幕府の保護のもと堂塔が再建修築され制度や学問が整備されます。
葉室麟著『墨龍賦』では安国寺恵瓊と海北友松の友人関係が書かれていてその縁で方丈に襖絵を描くことになったというくだりがありますが、事実はどうだったのでしょうか。
栄西(1141~1215年)
南宋に留学、1191年に茶の種を持ち帰って日本にお茶を広めた人としても知られています。
延暦寺や興福寺の圧迫により京都から鎌倉に移り寿福寺の住職などを務めます。そうして頼家の外護により建仁寺を建立したのです。
開山堂 見えているのは楼門
茶碑
どんどん歩いていくと法堂にぶつかります。ここを右に行くと拝観受付です。
法堂(1765年上棟)五間四間・一重・裳階付き (和服カップルが写ってしまいました)
天井には小泉淳画伯「双龍図」が描かれています(2002年)。後で見に行ったのですが、)ついでですからここに天井画の写真も載せておきます。
受付でチケットを購入して(かなり立派な案内パンフレットがいただけました)中へ
真っ先に見たのが 大書院の「風神雷神図屛風」俵屋宗達筆(複製)です。
大書院と小書院のあいだの 潮音庭 北山安夫監修
両書院が廊下でつながって中庭のようになっていて四方正面の庭になっています。
中央が 三尊石 左、周りに小石が散っているのが座禅石
どの方向からも美しく見えるよう、三尊石を中心に円を描くように石が据えられているのですが、小書院を背にした景が一番バランス的にも美しく、お寺のホームページにもこのように観た写真↓が載せられています。
〇△□之庭(北山安夫による)
〇は木の根本の苔 □は井戸 △は右側の白砂を盛ってある所
地(□)水(〇)火(△)をあらわしているそうです。
風、は庭を吹き抜けるからわざわざ作らなくてもいいのだそうです(鳥賀谷百合著『しかけに感動する京都名庭園』による)
納骨堂(方丈北側)
途中の部屋で見かけた「島行列輿」
1866年までの230年南禅寺を除く京都四山の僧が輪番で 以酊庵 という寺に詰めていました。漢籍に明るい僧は外交文書作成にむいていたのです。その際使用した輿。(対馬で京都の寺と関係があった、という話をきいたことを思い出して懐かしくなりました)
方丈
1599年安国寺恵瓊が安芸の安国寺から移建したものです。
方丈の庭大雄苑(だいおうえん) 加藤熊吉作庭
建仁寺は中国百丈山の禅刹を模したといわれ、庭園も百丈山の景色を模して作庭されました。
方丈の南と西、かぎ型になっています。
西庭
奥にあるのが織田信長供養塔
白砂は海で波をえがいているのでしょうか。
南庭 向こうに見える渡り廊下は法堂に行く通路です。
(西庭)二つの苔島で三尊石を表しています。
(南庭)
三尊石
方丈には海北友松の襖絵があります。デジタル複製ですからカメラOKです。
実は1934年の室戸台風で方丈は崩壊したのだそうです。ところが丁度、法事の予定があることになっていて襖ははずされて別の所に移されていて無事だったそうです。その後襖絵は掛け軸にされて京都国立博物館へ。かわりに高性能デジタル画像を貼った襖が入れられているのです。
室中 本尊十二面観音が祀られています。
檀那の間 山水図
中央の横線が水際らしい。その下が水鏡になっています。
上間一の間 (衣鉢の間)琴棋書画図
書院の間 花鳥図
そうしてもっとも見たかった雲竜図(礼の間)です。
私はよくPhotoshopをつかって明るくしたりくっきりさせたりするのですが、この雲竜図3枚はあえて加工無しにしました。スマホで撮った写真です。
迫力があります。凄い絵です。墨絵のことはわかりませんが濃淡の感じがいいです。目がどちらも少し悲しそう。
葉室麟は『墨龍賦』でこの龍を明智光秀と斎藤利三(光秀家臣)とみています。二人とも非業の死を遂げました。
それはさておき、この本を読んだおかげでひいき目にみているのか、これまで見た雲龍図で一番いいような気がしました。
この後渡り廊下を通って、法堂に行ってから外に出ました。
いい加減くたびれてきたので丁度通りかかったタクシーに乗ってホテルによってもらって荷物をピックアップして京都駅へ。 それも一気に八条口(新幹線はこちらが便利)まで。もう烏丸口から伊勢丹にキャリーを引いていく元気が残っていなかったのです。
主人が切符を買っている間に恒例の千枚漬けや漬物類を購入。賞味時間5時間という麩饅頭も買ってみました。さすが新幹線の中で柔らかそうなお饅頭はいただけそうにありませんでしたから、家に帰って。
主人はビールや笹の葉寿司も買い込んで17:00過ぎの新幹線に乗りました。
金曜日のせいか、新幹線は混んでいるほどではなかったのですが、二人並びの席はとれなくて三人掛けの通路側前後になりました(二人掛けもひとりづつ、三人掛けもほぼ一人)。13315歩
初日は降られましたが、その後は晴天続き、いい旅ができました。でも旅日記を資料を調べながら書いていると残念な見落としに気づいて悔しい思いもありました。次こそ、です。
庭園、お寺などの説明は各寺のホームページ以外
先達kikuko様のブログ 「あれも観たいこれも聴きたい」「八十路の独り旅」
「庭園ガイド」
書籍では
鳥賀谷百合著 『しかけに感動する京都寧庭園』『一度は行ってみたい京都絶景庭園』
『よくわかる日本庭園の見方』古寺巡礼17 楽学ブックス
小川勝章著『技と美の庭 京都・滋賀』
などを参考にさせていただきました。
22秋京都旅日記完
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