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2024年3月島根旅行

2024年4月26日 (金)

島根旅行 5日目ー2 伝承館続き 雲州平田

3月19日(火)
内露地に行きますが、その前に中露地の中潜からのぞくことができます。
もう一度図面を確認
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赤印から見ています。
二つの石灯篭の立つ中ノ島をめぐる空堀が見えます。右、護岸石が空堀の縁にきっちり並べられています。

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遠目に見ると、この苔の上の白(お花?)が空堀の小石の白と紛らわしく、うるさく感じるのが難。

左に目をやるとお茶室が見えます。

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中露地から一度外に出ます。
向こうに見えているのは「松籟亭」です。
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上図 青印からみたところです。
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飛び石が二筋、腰掛待合とお茶室へ、どちらを行こうか迷います。このお庭(露地)道筋が何通りもあって行き方に迷いました。

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左を進むと蹲がしつらえられています。奥、空堀の護岸の石がきっちり高さがそろっています。
飛び石で島へ渡れました。このお庭、構図としてはいいと思うのですが、苔に白い花(?)これがうるさい感じがして、ちょっと好きになれないところがありました。木も少々邪魔です。蹲のすぐ下で写真を切ってしまえばよかったのですが。全体を見まわして白いものがチラチラして落ち着かなかったです。ネットで検索すると、皆さん、もっと緑の多い時期にいらしたようで、お写真とてもすてきでした。中央の灯籠は「石清水八幡型石灯籠」と名札がついていました。

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奥の灯籠(東大寺法華堂型石灯籠)のところです。滝というほどではないのですが、水が流れ落ちるさまをあらわしているようです。右端は汀で少し大きな石を配しています。(勝手に解釈)
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さてお茶室です。
船越席 (二帖台目)
大名茶人、船越伊予守「1597~1670)好み。床柱は杉のなぐり、床框は真塗、手前座は赤松皮つきの中柱に、突き上げ窓を持つ。古田織部の流れを汲んだ江戸初期の茶室。(躙り口だけで、中の様子が分かりませんね)

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左が「独楽庵」正面が「苔香庵」

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利休席(独楽庵)一帖台目向板 千利休(1522~1591)が太閤秀吉の許を請うて、名橋と謳われた長柄の橋杭3本を譲り受けて、宇治の田原に建てた、桃山時代の茶室。

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泰叟席 (四帖)
裏千家六世泰叟好み。洞床で、入り口は四枚障子の貴人口、部屋から手水を使う趣向は珍しい。裏千家鵬雲斎宗室家元が苔香庵」の追号を送られました。
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右突き当りが水屋になります。部屋のすぐ横に手水鉢。

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説明は案内板を書き写しただけです。
娘時代、一応お茶は習いましたし、母はお茶名ももっていました。茶室風にした部屋もあり、お正月に帰ると姉妹並んで座って、母のたてるお茶をいただいたものですが、もう全て忘れました。今続けているのは下の妹だけ。「お初釜、着物どうしよう。買おうかな」などと言っています(お茶は正座したまま摺って移動するので 着物が傷みやすいのです)。しっとりした生活とは縁が無くなりました。

どうやらこれで一回りしたようです。あの白いチラチラがなければもう少しすっきりしたいいお庭なのに、と少し残念。
こうやって今写真をみると、どうしてあの位置から、この位置から、撮らなかったのだろう、と後悔しきりです。

もどって、松籟亭で

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不昧公好み腰高朧饅頭 でお抹茶をいただきました。
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たいへん結構でございました。

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ここでタクシーを呼びました。10分ほどで着く、というので少し休んで外に出ました。
結局最後まで私たち二人きりでした。お茶をたててくださった方によると「昔は観光バスが来たこともあったのですよ」とのことでしたが、交通の便がよくないので、訪れにくいのだと思いました。これほど素晴らしいところなのに、もったいない話です。
堀のそばに柳の木がありました。銀座の柳だそうです。
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約400年前、今の銀座を造成した時、その出身者の国の名前をとって出雲町(今の京橋当たり)と名付けられたそうです。それで銀座と出雲とつながりがあり、銀座からは柳を、出雲からは藪椿をおくりあったそうです。

タクシーの中から「竹島は島根県のものだ」という立て看板が見えました。松江の町でも見ました。竹島は島根県にあるのだったのですね。竹島問題、忘れていました。調べてみると、日本のものだそうなのに、今は韓国が実効支配しているそうです。
そこで、ふと思ったのです。全くの憶測ですが、出雲歴史博物館でも朝鮮半島からの影響について殆ど触れ
られていないのは、触れたくないからでは?これは全くの推測で、書くべきではないかもしれませんが。
私のように横浜という、太平洋側でかなり地理的に離れて住んでいると、なんというか、平らに考えられるのですが、目の前には日本海、向こうはすぐ別の国、その向こうはミサイルを飛ばす国。対馬ほど近くではないにしても国境を意識させられる県なのかもしれません。

10:50 出雲市駅に戻ってきました。これから一畑電車で雲州平田に向かいます。

真新しい車両ですが、一両です。座れましたがそこそこ人は乗っていました。時刻はチェックしていませんが 11:20発くらいだったと思います。
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雲州平田までは22分かかります。
駅を出ると雨が降り始めていました。ともかくタクシーに乗ります。まず、平田本陣記念館へ、ところが「火曜日はお休みですよ」ええーっ。「それでは木綿街道交流館へ」そこも「火曜日はお休みのはずですが、、、、。」それでは康国寺へ「さー、いるかなー」ともかく康国寺へ行ってもらいました。道中「先代が亡くなって子がついでいるけれど一人で、いないことが多いから、どうかなー」雨はかなり降ってきています。直接本堂の手前につけていただきました。「いるかどうか見てきましょう」雨でなければ私も降りるのですが、傘をさすのも面倒なので中で待っていました。やはりお留守でお庭はみられそうにありません。そのまま引き返して交流館辺りまでいってもらいましたが1,2軒開いているだけで町はひっそりしています。
(12:06)

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そのまま駅に戻りました。駅は振られたであろう人たちでごった返していました。博物館のようなところなら定休日はわかりますが、町自体が定休日なんて考えもしませんよね。

約25分の車窓観光、ま、一応平田にも行った、ということで雲州平田はおしまいです。

丁度電車が入ってくるところでした。それに慌てて乗って出雲市駅に戻りました。
宿泊ホテルに続く一福というお蕎麦屋さんでお昼にしました。 

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目いっぱい観光するつもりで飛行機は19:30発にしてあります。延々と待つことになります。どこかへ?雨はあがったようですが、もう気力がありません。荷物をピックアップしにホテルに戻ったのですが、受け取るのは後にして、このロビーで休みました。

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椅子の座り心地は申し分なし、探偵小説も持ってきています。
それでも14:30頃の空港バスで出雲空港に向かいました。
カードラウンジに入ろうとしてそれ用のカードを持ってくるのを忘れていることに気が付きました。でも有料(820円)で入ることが出来ました。長時間、普通の待合室では耐えられませんから。

最後の一時間半くらいはショップでお買い物。主人がお酒を買ったほかは全てお菓子。名菓というものが多くて殆ど全種類買いました。買いやすいようにか、3個入りくらいの小箱も用意されています。求肥をつかったもの、お干菓子を少し柔らかめにして大きくしたようなものなどが多かったです。平田の生姜糖、これもおいしかったです。キャラメル状ですが、口に入れるとすぐ溶けてかむとジャリっとすぐ崩れます。生姜の刺激はほとんどありません。これはもっと大袋を買えばよかったと思いました。
ひとつだけ写真を載せます。
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だめ押しのように「航空機の到着が遅れております」のアナウンス。「この飛行場は20:30を過ぎると閉鎖されます」
「エーっ」です。ぎりぎり間に合って飛び立てました。
羽田に着いて空港内を歩いているうちにどっと疲れが出て、もったいないとおもいながら(我が家の最寄り駅は羽田から乗り換えなし)羽田から家までタクシーにしてしまいました。(6328歩)

見られなくて残念なところもありましたが、それでも収穫の多い旅だったと思います。
島根県って古代が現存しているところなのですね。
古代がマイブームなのでいまだに思い出しては嬉しくなっています。
神社、鉄器製造、四隅突出型墳墓。。
そうして特徴的なお庭があり、世界に名を知られた美術館もある、体がいうことを聞いてくれるうちに行けてよかったと思っています。初日朝がダメだった以外嬉しいことに体調はずっとよかったのです。

 旅行記完

2024年4月23日 (火)

島根旅行5日目ー1 出雲文化伝承館その1

3月19日(火) 今日は帰る日です。

6:55 朝食
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今日は午前中出雲文化伝承館に行き、午後は雲州平田に行くつもりでした。
伝承館は電車だと最寄りの駅からは徒歩20分かかるので、直接ホテル前からタクシーで行きました。
所要時間は15分くらいだったでしょうか。

出雲伝承文化館 (9:15から10:25)
出雲の伝統を今に伝え出雲の歴史と文化に触れる機会を、ということで作られています。
出雲平野の大地主であった江角(えずみ)家の母屋と長屋門、庭園を移築したほか、松平不昧公(ふまいこう)が愛用した茶室「独楽庵(どくらくあん)」と露地、現代数寄屋建築の茶室「松籟亭(しょうらいてい)」文化財や美術品の展示施設、そば処があります。(案内より)

あの長屋門から入ります。
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この道奥の入り口から入ります。
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もとはこのように豪壮なお屋敷だったようです。
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靴を脱いで室内へ お庭は室内から鑑賞します。

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雲州流庭園の特徴
冬の強い季節風を防ぐために敷地の北と西側に築地松が植えられます。庭は表座敷(客間)の南側にもうけられ、西側にも広がりL字型になります。主木はクロマツで常緑樹を添えます。また砂を敷き詰めた枯山水庭園ですが、築山や石組みは控えめで、巨大な短冊石や踏み分け石と飛び石などはやや高く据えられ、平面構成を重視する傾向にあります。このほか蹲、手水鉢などが配されており、茶庭の要素もうかがえます(案内pamphletより)

南側
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立派な蹲です。踏み分け石、よく大きな平たい石をみつけたものです。

左が主木であるクロマツ。その奥に三尊石風な石組がみられます。

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滝石組のようです。この長尺(長さ4.4m)の短冊石、二枚このようにずらして並べるのを筏打ちというそうです。

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流れは続いています。枯山水ですね。西庭になります。

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流れの続き

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竹の高い手水鉢が置かれています。奥に見えるのは羽根屋というお蕎麦屋さんです。この日は休業中。この日は他に相客無し。二人きりでしたから、仕方がないでしょう。朝が早いのでここでいただくつもりはなかったので支障なしです。

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時間的には前後しますが、独楽庵から戻ってきた時反対側から眺めることが出来ましたのでその時撮った写真もここで載せておきます。
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こちらの蹲は木の陰になっていてお部屋からは見えませんでした。

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正直言って独楽庵よりすっきりしていてホットしました。

もう一度お庭を眺めて

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少しお部屋を拝見

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中央は仏間です。

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一度出て独楽庵へ向かいます。 

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松江藩松平家7代藩主で江戸時代を代表する茶人でもある松平不昧公(松平治郷)が江戸大崎の下屋敷に作庭した露地(1806年頃)を復元したものです。
三関三露と言われ、上図のように外露地、中露地、内露地があります。
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前庭から外露地に入る門には「独楽庵」の額(右から書かれています)

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外露地には(左)下腹雪隠と(右)袴つけ
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蹲(横は雪隠なんですよね、フフフ)灯籠は龍安寺灯籠と名札が付いていました。

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続いて中露地へ

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奥の通行止めのある塀が四角くくりぬかれています。
「中潜」です。ここから内露地がのぞけます。
反対側から見ています。
灯籠は雲庵型石灯籠だそうです。写真左にほんの少し見えているのが「腰掛待合」です。
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内露地に行くには延段の先の入り口(出口?)から一度外に出ます。

写真が多くなってきましたので、とりあえずここで切ります。

2024年4月21日 (日)

島根旅行 4日目ー3 出雲大社

3月18日(月)続き
14:40過ぎ 出雲大社前まで戻ってきました。
バスをおりてなんとなく道なりに歩いていくと千家国造館という建物の前に来ました。 

地図

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千家国造館

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出雲国造のお住まいで斎火殿があります。初日の熊野大社のところで燧臼、燧杵を毎年宮司が授かるということを書きましたが、ここにそれらは持ってこられるそうです。ここは潔斎の場でもあるのです。

そのお隣は大しめ縄で有名な神楽殿です。

神楽殿は本来、千家國造家(出雲大社宮司家)の大広間として使用されており、「風調館(ふうちょうかん)」と呼ばれていました。明治に入り、出雲大社教が設立されてからは出雲大社教の神殿としても使用され、御祈祷や結婚式をはじめ様々な祭事行事が執り行われています。(大社ホームページより)

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正面の大注連縄は長さ約13メートル、重さ5.2トン。数年に一度、新しい注連縄へと懸け替えられるそうです。

神楽殿横の鏡の池

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鏡の家とは反対側の神楽殿の横には 素戔川の細い流れ、

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この橋を渡ってすぐ大社境内に入るところを大社を横から見えるかと思って川の横をしばらくあるきましたが、どうやら森の中に入っていく感じです。通りかかった神社の人に聞きましたら、やっぱり間違っていました。戻って橋のところを直進して境内へ。主人は律儀に鳥居から入るものだと、鳥居まで行きます。私は待っていました。

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銅鳥居から拝殿をのぞむ(1666年建立の鳥居には素戔嗚尊者雲陽大社神也の文字も刻まれている)

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出雲大社
主祭神は大国主。大国主は素戔嗚尊の娘婿あるいは6代後の子孫ということらしいのですが、国造りをおこなったあと、天照大御神に国をゆずり、この地に宮を建てて幽界の支配者となった、そうです。そういうわけで神代の昔から存在することになっていますが、社殿の造営は社伝においては崇神天皇のときが第一回となっているそうです。
祭神は平安時代前期までは大国主でしたが、その後素戔嗚となり1667年の遷宮のときに記紀に従ってまた大国主になりました。素戔嗚だったことは上写真の銅鳥居に刻まれています。

拝殿の後ろに八脚門
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一般の人が近づけるのはここまでです。ところでこの茶色の丸が博物館でみた1248年造営時の柱が発見された場所なのです。模型がおかれていました。
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八脚門の隣は観祭楼

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まだ見ておきたいものがあります。瑞垣に沿って反時計回りに進みます。私たちはたまたま左周りにまわりましたが、検索するとこれが正しいのだそうです。注連縄も一般とは違って左から右へ、です。

こちらに来ると本殿が良く見えます。
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確認したかったのはこれです。素鵞社
素戔嗚尊を祀っています。

大社本殿を拝む、ということはこの奥にある、素鵞社を拝んでいることにもなるのです。
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八脚門の前とは違ってひっそりしていますが、10人くらいは人がいました。
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ここでは本殿の後ろ側が良く見えます。
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あちこちに兎さんがいました。
さらに廻って西側に行くと

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こちらからだと正しく向き合って参拝することになるのです。

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お詣りはともかくとして、ここまで足を延ばせば本殿がかなり見えますので、お薦めです。(ゆっくり写真を撮りながらまわっても15分ほどしかかかりません)
拝殿前にもどってきてそろそろ帰ります。(銅鳥居のところで15:40、1時間ほどいたことになります)

地図では「ムスビの御神像」となっていますが、大国主命ですね。

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杵那築森
大国主の住まいを築こうと神々が集った場で杵築、といわれ、またそのために土地、木組みを突き固めるために使った用具である杵を埋めた場所ともいわれています。

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素鵞川にかかる祓橋
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長ーい「松の参道」
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下り参道ですから帰りは昇りになります。下り参道は少ないそうですが、壱岐の住吉神社は階段を下りて行きます(御神楽をみにいったのですが私はpathしました。)

浄の池
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勢留の大鳥居(16:00)
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大社駅に向かって商店街を歩いていきます。食べ物屋さんが多かったです。 

途中に「竹野屋旅館」 竹内まりあさんのご実家だそうです。
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今になってチェックしてみるとお夕食美味しそう。ここに泊まればよかった!でも荷物が、、、。

16:23発のバスで 17:00ごろホテルに戻りました。
さて今日の夕食は松江とは関係ないはずですが、同じ呉竹鮨というのが近くにあったので、行きました。 
ともかく寒くて遠くまで歩く気がしなかったのです。

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おいしかったのですが、松江がよすぎました。
お部屋に戻ってお菓子をつまみました。

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 (12335歩!)

2024年4月19日 (金)

島根旅行 4日目ー2 出雲歴史博物館その2 日御崎神社

3月18日(月) 出雲歴史博物館続き
装飾大刀を見ているところでした。

日本列島に鉄製の武器が伝えられたのは弥生時代中期以降。

金銅装双龍環頭大刀(安来市かわらけ谷横穴墓群6~7世紀)

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柄頭部分に獅子や龍、鳳凰などをデザインした環頭大刀は朝鮮半島から持ち込まれ、のちに国産化された大刀といわれ、渡来系氏族として知られた蘇我氏とのかかわりが強いと言われています。(説明版から。蘇我氏は渡来系だったということでしょうか)
7番 双龍環頭太刀 8番 三塁環頭大刀 9番 単龍環頭大刀 右二つは双龍環頭大刀

鉄製の工具もありました。↓左から3番目は針です。尊右は錐。

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銅鏡もありました。
青銅器が村のまつりで役目を終えた頃、新たに銅鏡が用いられるようになったのです。
三角縁神獣鏡(神社古墳出土 3世紀)
説明には「卑弥呼の鏡か?」というキャプションがありました。景初3年は卑弥呼が魏に使いを送り、銅鏡100枚を受け取った年だからです。でもこれがその一枚かどうかの証拠はありません。

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景初三年(西暦239年)という銘文があります。(いちばん内側の円、左横に、三年ははっきり見えると思います)
慌てて、これまで群馬や東博で見た銅鏡を確認しましたが、こういう銘のはいった鏡はありませんでした。

↓中国大陸の青銅器 特に書かれてはいなかったので、日本の古墳からの出土品ではないでしょう。

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下中央は斧、その上は鐘、横は鈴付柄頭 右端は 銅鼓

帯飾り(漢 紀元前3世紀から3世紀)細かいのに立体感のある文様に見入りました。

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その他埴輪や横穴式古墳の石室模型などありましたが、ざっと見終わった主人が10:20頃「もう休もう」と言ってきたので、二階のカフェに行きました。朝が早かったので、そろそろおなかもすいてきていたのです。 
ランチタイムは11:00かららしく、すいていました。庭を眺めながらぜんざいをいただきました。24041804

一休みの後もう少し展示を見るつもりでしたが、一度座ると根が生えてしまってこれ以上ねばるのはみっともないと思えるほど長く座っていました。

この博物館、出雲大社の模型、青銅器コレクション等素晴らしいものがありました。 
残念なことに
私が最近とても関心を持っている古代の日本と朝鮮半島との交流関係を示すものが殆どありませんでした。
海流の関係もあるかもしれないのですが、近いのです。九州経由よりもっと直に人の往来があり、モノも伝えられて来たはずなのに。移住民の住居跡などは見つかっていないのかもしれません。


次の予定は12:00のバスで日御岬神社です。

始発ではないので「早くいかないと座れないよ」の声にせかされてショップをざっとみて展示ガイドだけ買って出ました。
正門前のバス停までは10分?ほど。

バスは8分遅れ、かなりの人が乗り込みましたが、早く並んだので余裕で座れました。全員日御崎までいくのかと思ったら、途中で次々おりて最終的にはかなりすいていました。

30分くらい乗っていましたが、海辺を走るのでとても気持ちのよいドライブでした。

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私は終点より前の神社前で降りましたが、主人は終点の灯台まで行く、と言うので私は先に神社に行きました。

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日御御崎神社の観光(参拝と書けないところが、どうも?なのですが)所要時間は地図を眺めて高低差もありそうだから1時間以上はかかると踏んでいました。帰りのバスは14:20発。これを逃すと16:00までありません。(そのときによって変わると思いますから、いらっしゃる方は必ず確認なさってください。タクシーはありません)
調べると灯台と神社の中間あたりに、生うに丼を食べさせるお店があることが分かり、早めにタクシー行ってそこで、、、と考えていたのですが、博物館の時間を短くはできないので諦めていました。
結論から言うと、灯台から神社への道は舗装された下り一方の道だったそうで神社見物は30分あればよく、バスで行っても充分食事の時間がとれたのです
(今でも悔しい、涙、、、ただお店の混雑時は無理かもしれません)。

神社はバス停からすぐです。

日御崎神社
「出雲国風土記」に
は美佐伎社「延喜式」には「御崎社」として登場する古い神社。
現在の社殿は1635年、三代将軍家光の命により造営が始まり、1644年遷宮。その後修理を重ねながら現在に至っています。山陰においては出雲大社に次ぐ大社とされています。日光東照宮を模した権現造り。

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楼門
両側につらなる回廊もすてきでした。

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楼門から本殿(拝殿)を望む 手前両側は門客人社

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本殿は 日沉宮(ひしずみのみや)とよばれ天照大神を祀っています。
奥が本殿です。天照大神を祀っていますが男千木になっています。

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日沉宮(ひしずみのみや)という名称は日の出に象徴される天照と日没の夕日を結びつける、出雲独自の視点を反映したもので、江戸時代までには日沉宮=日の沈む聖地に祀られた宮、というイメージが根付ていたようです。

この階段をあがって神の宮に行きます。見えているのが拝殿です。

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こちらは素戔嗚尊を祀っています。

出雲の国造りをした素戔嗚尊が、根の国(黄泉国)より「吾が神魂はこの柏葉の止まる所に住まん」と柏の葉を投げて占ったところ、柏葉は風に舞いこの神社背後の「隠ヶ丘」に止まったということです。
その後素戔嗚尊の五世の孫、天葺根命がこの地に素戔嗚尊を奉斎したといわれています。

 

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拝殿だけで 本殿が撮れていませんここは。階段をあがったところにあり、狭くてあまり後ろにひけなかったのです。それにしてもなんとか本殿をちゃんと撮っておくべきでした。
ルール違反とは思いましたが、グーグルストリートビューで写真を切り取りました。一段上にあがれば写真が採れたようです。寒くて固まっていて、、、だめでしたね。

素戔嗚尊をまつってあるのに千木が横に切れている、つまり女千木なんですよね。
横から見ると寄棟造りの屋根、本殿と拝殿を幣殿でつなぐ権現造り、ということがよく分かります。

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この日は良く晴れているのに冷たい風が吹いて日に焼けたくはなし、日陰は寒いし、で日向で太陽に背をむけるようにして 主人がくるのを待っていて、あまり写真をとらなかったようです。
そこそこ人はいましたが静かで、寒くさえなければもっと気持ちよく過ごせたと思います。

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十九摂末舎と奥は宝庫

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13:15頃主人がやってきました。

灯台の写真 
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帰りの道が楽だったことを聞いて私も行って、、、ああ、うに丼、と思いました。

見ていなかった奥の稲荷神社

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降りるときはこちらから、回廊がめぐらされてなかなかよかったです。

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御崎の端の神社なんて、と少々侮っていましたが、出雲大社に次ぐ神社だけあって立派なものでした。

暫く境内をぶらぶらしていましたが、「海辺へ行こう」というので数分歩いて海岸へ

右手に経島 (ふみじま)
かつてはここに日沈宮があり948年に現在地に遷座。今も神社の聖域で上陸禁止だそうです。

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寒くて震えながらバスを待ちました。

次は出雲大社です。

2024年4月16日 (火)

島根旅行 4日目ー1 島根県立古代出雲歴史博物館その1

3月18日(月)
旅行4日目の今日は出雲大社に出かける予定です。

6:30過ぎに朝食レストランへ。

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出雲大社へは電車でもバスでも行けますが、電車だと乗り換えが必要なのでバスで行きます。
8:30発 9:05博物館前着

建物の設計は槇文彦氏。コンセプトとして建築の主張を抑えるために面と線を簡素に表し、素材も鉄とガラスというシンプルな組み合わせになっており、壁面の鋼(茶色、コールテン鋼といって錆をさびで防ぐという方法で考えられた耐候性鋼)は古代のたたら製鉄、ガラスは現代性をそれぞれ象徴する役割も担い、古代と現代の融合という意味合いもあるそうです。

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↓あの白いポールが建っているところを進むと入り口です。銅鐸をアレンジしたであろうマークがコールテン鋼に映えています。

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下図右の赤三角からはいって ギャラリーを進むと受付です。ここで料金をはらって 

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中央ロビーに入ると、平成12年にに発見されて新聞紙上をにぎわせた宇豆柱と心御柱(模造品)が展示されていました。

調査の結果、1248年造営の本殿の柱、と考えられることがわかりました。
1本の直径が1.35mのスギ材を3本組にしたもので、さしわたし約3mもあります。柱を埋めた穴には一抱えもあるような大きな石がぎっしり詰めてありました。

心御柱(複製品)
今、出雲大社宝物殿(行くのを忘れた!)の写真をみていたら、そこに実物がありました。

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宇豆柱

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左側、白くうつっているのは布バッグの映り込みです。

柱の配置や構造は千家国造家に伝わる金輪御造営差図に描かれたものとよく似ているそうです。
神魂神社などの柱を思い出して、これだけの柱が支える本殿っていったいどのようなものだったのか?柱間隔が狭いので広さが広いものとは考えられません。高さがあると、支えもしっかりしたものでなければならなかったので高い建物だったことが想定されます。
970年に書かれた『口遊』に大きさの順は雲太、和二、京三とありますそれぞれ出雲大社、大和東大寺大仏殿、京の大極殿 とあります。
記録されただけでも高層神殿は1248年までに6回転倒しています。

5人の学者によるこの鎌倉時代の想定模型が並んでいました。
神社には 高さ16丈説が伝わっていることを奥二つは積極的にとりいれています。

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その横には、平安時代の10分の1模型。kikuko様のブログで見ていたので大きな驚きはなかったのですが、矢張りすごいです。実際は高さ16丈(48m)と考えられることから造られています。

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奥に見えるのは1881~1953年まで本殿の屋根を飾っていた千木と鰹木。千木の長さは8.3mだそうです。

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弥生土器(鳥取県 稲吉角田遺跡)に刻まれた絵画

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太陽、舟をこぐ鳥装の人々、木 鹿(私のとった写真にはありません)、高床建物などが描かれています。神まつりの場を描いたものでしょうか。舟が向かおうとする高床の建物は長い柱とはしごをもち、出雲大社のはるかな源流を忍ばせます。(買ってきた展示ガイドの解説より)穀物倉庫かもしれないのに、、、。(独り言)壱岐では高い建物に物見やぐらがありました。

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神社の形式(大社造り、八幡造り、神明造り、等々)について模型で説明してあるところもありました。(全種類制覇しよう!)写真が多すぎなので省略です。 

建て方の説明ヴィデオも観ました。(腰かけられるいい機会)

『出雲国風土記』713年完成、現存する風土記の中で唯一ほぼ完全な状態であるが、そこにしるされたことをもとに当時の生活を再現してあるスペースがありました。

入海の宴と歌垣 原題でいえば、合コンの場だったらしいです。

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朝酌促戸(あさくみのせと)の市

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次のスペース、一体これは?ずらり銅剣です。
入り口に国宝・荒神谷青銅器と国宝加茂岩倉銅鐸を展示中。本日はすべて 実物です。とありました。 

*荒神谷 銅剣358 銅鐸6 銅鉾16  *岩倉 銅鐸39 を展示中だそうです。

銅剣 一瞬、遠目にはピアノの鍵盤みたい、とおもってしまいました。

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 中国や朝鮮半島の材料を用いて出雲で制作された可能性があるとされています。

これらが まとめて埋められていたのです。(荒神谷遺跡)
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近くに銅鐸もまとめて埋められていました。この整然とした置かれ方、矢張り貴重なものなのでとても丁寧に扱われたということをし示ているように思えます。
弥生時代の祭器であり、集団が結束するシンボルであったとみられる青銅器がこのようにまとめて埋められていたのはなぜか?理由として考えれているのは
 ①保管説
 ②隠匿説
 ③地鎮説  地の神へのささげもの
 ④境界説  邪気や悪鬼を払うため、自分たちの土地の境にうめたもの
などですが、いずれの説も決め手を欠いています。
青銅器が急速に使われなくなっていった背景には青銅器を使わない新たなまつりや、新しいシンボルの出現が関係していた可能性が高いと考えられます。
昨日行った出雲弥生の森博物館では青銅器のまつりのあと、四隅突出型墳墓がつくられるようになった、と考えられていました。

銅鐸の展示も素晴らしかったです。表面に彫物があるのが面白くてとても興味深く見ました。
加茂岩倉遺跡で発見された銅鐸

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吊り手に×の刻印のある銅鐸

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人の顔が彫られている

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海亀が描かれているもの

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シカが描かれている

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これは素晴らしい! 描かれた弥生絵画 というタイトルが付けられていました。

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鹿、イノシシと考えられる四つ足の動物

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裏面はかなり緑青がふいていますが、トンボです。

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このように狭い場所に小さいものは大きいものの中入れ子のようにして納められていました。

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聖なるまつりのベル(荒神谷遺跡 銅鐸 弥生時代)
銅鐸は朝鮮半島でつかわれていた小型のベルをもとに弥生時代の日本で発達したマツリの道具として考えられています。

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おお、大刀の展示もありました。私は紋様好きなので柄頭のデザインを目を凝らしてみました。

なお ガイド本の解説によると、大刀と太刀は違うそうです。
*時代  大刀は弥生時代末から古墳時代  太刀は平安時代から室町時代の刃の長さ2尺以上のもの
*刀身の形 大刀は刀身に反りがない、 太刀は刀身が反り返っている
*身につけ方 大刀は杖を突くように立てる持ち方と刃を下に向け越しに吊り下げるやり方、太刀は刃を下に向け横向きに越しに吊り下げる方法に限定されています。

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 左 獅噛環頭太刀 (安来市 仏山古墳 複製品)
 右 金銅装獅噛環頭大刀(松江市 御崎山古墳)

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倭風大刀

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手前は 金銅装頭堆大刀(こんどうそうかぶつちのたち 古墳時代後期7世紀)
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ここまできたところで写真が多くなりすぎたことに気が付きました。中途半端ですが、いったん切ります。

2024年4月10日 (水)

島根旅行 3日目ー3 西谷古墳群

3月17日(日) 続き

ホテルから出雲市駅を見ています。見ている側に空港行のバス停。駅に近い方のバス停が出雲大社行バス停。奥にタクシー乗り場。また裏側には一畑電鉄の駅。非常に立地条件がいいです。それなのに広めのお部屋にしてもお値段は松江よりお安いのです。いいお宿は大社のほうにあるようですが、交通の便を考えてこちらにしました。 

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雲行きがあやしいですが、観光中は持ちました。

タクシーで西谷墳墓群に向かいます。10分ほどで着きました。バス便は少ないので考慮にいれませんでした。ともかく地方は公共の交通機関が少なく、私の体力のこともあって今回は特にタクシーに頼ることが多かったです(マイレージのおかげで航空券代がういていることもあって、気軽に利用できた、というところもあります)。

西谷墳墓群
kikuko様のブログでこの地域に特徴的な四隅突出型古墳、というものがあることを知りました。
古墳=ゼンポーコーエンフン(前方後円墳)と思う人も多いのではないかと思います。円墳、単なる方墳も知っていましたが、四隅突出型墳丘墓というお座布団に房が付いたような形(こたつ布団型)はこれまで知りませんでした。

これから見に行くのは四隅突出型墳墓です。ところで墳墓と古墳は違うそうです。

墳墓 :弥生時代まで 小規模 形は様々 被葬者は複数
古墳 :古墳時代(3世紀半ば~) 大規模 (前方後円墳 円墳など)一人の首長のため

弥生時代中期に造られた四隅突出型は墳墓に属します。 (14:13)

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赤字の現在地表示のところから緩やかな坂道をあがります。現在地表示地の下の茶色の建物は、後で行く「出雲弥生の森博物館」です。
標高45m位だそうですが、坂道に弱い私にはつらかったです。しかしこれを見なければ来た意味がない、と何度も休み休み行きました。でも実は5分位しかかかっていません!

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お天気は悪いですが、寒くはありませんでした。

四隅がはっきりしない5号墓を過ぎると
4号墓、奥に3号墓

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振り返って4号墓を見ています。大きさ32m×27m

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3号墓(14:27)
突出部を除いた墳丘主部の長軸40m、短軸30m裾部からの高さは4.5m
方形台状の四方の稜が縁なしの滑り台のようになっています。

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突出部は昇り路、と考えられています。

異説もあります。『出雲と蘇我王国』斉木雲州著 大元出版
この著者は向家という第一次出雲王朝の血を引くお家柄だそうですが、この本によると、米子の洞ノ原遺跡には、こどもの墳墓があり、高さ2mに満たないず昇り路は必要ないのに四隅突出になっている。これは(俯瞰すると)バツ印をあらわしており、サイノカミ男女神の体が重なる姿だと解釈しています。支社の魂が、新生児の体にはいって、生まれ代わることを祈るシンボルであった、と考えています。

この墳墓はあがることができるので上がってみました。
ここには少なくとも八つの墓穴が彫られていました。
一番大きな埋葬施設には四本の柱が立っていたと思われる穴がありました。その柱も示されています。
柱はの案内板にあるように祭祀のためにたてられたようです。
出雲の王ともいえる人の墓と考えられています。(博物館では3号墓がジオラマで再現されていました)

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 墳丘の上にたって、しばし悠久の時の流れに想いを馳せました。
殆ど人のいない古代の墳墓、ロマンを感じます。しばらくぼーっとしていました。
古墳はひそかなブームらしく、古墳女子という言葉もあるようです。その古墳女子二人組も佇んでいました。

2号墓はかなり崩れていたので修復して内部には入れるようになっていました。

2号墓 2号墓は出土品から考えて3号墓の初代出雲王から王権を引き継いだ王の墓と考えられています。 
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 埋葬されているところが作られていました。

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丘の上に1は時間位いたでしょうか。ぐるーっとまわっておりて博物館へ

出雲弥生の森博物館(15:08~14:15)
展示室は2階です。
展示室中央には3号墓のジオラマ 18×年のある日の葬儀の様子を想像力豊かに再現してみたそうです。
斜面に置かれた石の数は2万から3万個

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反対側

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↓ 衝立の左側、男王は墓穴に埋められ、それを囲むように柱が建てられています。東側では続いて女王の埋葬がおこなわれています。(殉死ということでしょうか?)
棺の蓋が閉じられようと、しています。
神聖な石を前に座っているのは次の男王と女王です。楯を手にした兵士が場を守っています。

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拡大。ボケてしまいましたが、顔に入れ墨をしています。
なお男王と女王は必ずしも夫婦というわけではありません。

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『魏志倭人伝』の、挨拶のしかたや弥生の人々は生まれつき酒好きだった、入れ墨をしていたことなどの記述をもとに造られています。

参列者 青は吉備から 緑は越(北陸)から 手前の青い人の腕にいれずみ。

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壁面に沿って出土品が解説をそえて展示されています。

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3号墓では300個以上の土器が発見されています。出雲だけでなく、吉備や越越の特徴をもつものがあることから、地元だけでなく、200キロを超える遠くからも人が集まったことを示しています。

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男王の墓から出た首飾りと鉄剣

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女王の墓からでたビーズ類 右のような状態で発見されました。

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棺内に厚く敷かれた朱、ガラスや鉄はどれも中国や朝鮮半島からもたらされたものでした。

腕輪は 2号墓から出ました。

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別の部屋に移り 上塩治築山古墳(かみえんやつきやまこふん)の出土品を観ました。
6世紀末頃の出雲を治めた最高権力者の墓と考えられています。西谷墳墓群より4世紀くらい後の時代です。
直径46m周囲の堀を含めると直径77m以上の出雲地方最大の円墳です。
内部、横穴式石室は切り石で精巧に造られていました。出土品の内140点は国の重要文化財に指定されています。そのいくつかをみることが出来ました。

また未盗掘だった国富中村古墳の出土品も展示されていました。

わくわくはこの金銅冠です。(上塩治築山古墳)
小石棺内から発見されました。この人物は大和の大王や王族に仕えた人物だったと推測されています。

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6世紀末ともなると馬具もいれられています。群馬の古墳をみにいったことを思い出しました。

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国富中村古墳の埋葬想像図
奥の部屋 鏡、飾り付きの三本の刀、三組の馬具、数多くの須恵器、奥の部屋への埋葬後、前の部屋にも追葬が行われています。

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大がかりな墳墓を造ったり、貴重な装飾品などを副葬したり、、、。
古代の人々の死生観に思いを巡らしてしまいます。ドライに、死んだらそれで終わり、とは考えなかったのですね。
そのおかげで私たちは当時の文化の一端を知ることができるわけですけれど。

倉庫も開放されていてみることができました。

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16:00頃みおわって、受付でタクシー会社の電話番号を教えていただき、15分ほど座って待ちました。 

この時代に対する興味があったからかもしれませんが、この博物館と遺跡、とても気に入りました。取り澄ましたところがなく、携わった方たちの地元愛、こういう遺跡をもっていることに対する誇り、というものが感じ取れました。

16:40 ホテル ツインリーブス着

お部屋はゆったり広めでソファーも座り心地がよくて、多少古めですが居心地がよかったです。

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ところでこのホテルには夕食を出すレストランがありません。あいにく今日は日曜日で殆どのレストランはお休み。日が落ちると急に冷え込んできました。日曜日に開いているところのリストを頂いて、一番近い居酒屋に行きました。はずれで、お刺身と何かを少しつまんだだけでお部屋にひきあげ、買ってきたお菓子をいただいて済ませました。 

                               13733歩

 

2024年4月 6日 (土)

島根旅行 3日目ー2 松江市内観光続き

3月17日(日)

小泉八雲旧居を出て武家屋敷に向かいます。途中、田部(たなべ)美術館がありました。たたら製鉄の田部氏の持つ美術館で お茶道具がいいらしいですが、当初、時間の関係で予定にいれてなくて結局スルーしましたが、建物もよさそうで、短時間でも入っておけばよかった、と今後悔しています。

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ハートのくぐり松

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武家屋敷 (10:05~10:15)

500~1000石の藩士が屋敷替えによって入れ替わり住んでいました。

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長屋門から入ります。下図からわかるように長屋門は、使用人や家臣の長屋を左右に備えた門です。

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1733年(享保18年)の大火で焼失後再建されたもので、主屋はその後も幾度かの増改築を経ています。2016年度から3カ年に及ぶ保存修理工事において、解体調査や資料調査により明らかとなった明治期の図面をもとに復元しました。

主屋はおよそ67坪で、表側である式台玄関(来客用玄関)から座敷に至る部分と、裏側である私生活の部分では造りも材料も特に区別がされ、武家の公私の別の厳しさを示しています。また、築山式の庭園は、飾りを省いた素朴なつくりで、質実剛健の気風がうかがえます。

玄関から座敷に至る部分には、面皮(おもかわ)柱に柾目(まさめ)の長押を用いた客間中心の表側に対し、裏側は長押も杉の面皮を使うなど造りも材料も区別して、公私の別の厳しさを示し、武家の暮らしぶりをよく伝えています

このくらいの石高の藩士がこのような家に住んでいたのだな、と興味深く見ました。最近は時々、時代劇もテレビで観るようになったのですが、家は一部しか映っていませんので。
来客用の部屋が南側で、家族は北側。内玄関から東側も家族スペースですね。

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主屋入口 上がってよかったようですが、気が付かず外回りしか見ませんでした。

式台玄関

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短い漆喰塀で区切られた向こうは 座敷

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この前に庭園が設けられています。表の間、つまり来局用ですから、庭もここが一番造りこまれているようです。

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回り込んでいきます。

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奥に見えるのが家族室です。横にお手洗いもあります。
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そのお隣は当主居間。
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そのお隣は奥方居間
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この家族スペースに面したお庭 建物奥は三畳の間、その奥が仏間になっているようです。
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曲がって

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井戸の奥が湯殿です。

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一回りしました。中間長屋には時節柄お雛様が展示されていました。3セットありましたが、そのうちの一つを
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これで大体見終わりました。

通りには今日のレディース・マラソンのために係員が立って、通りに人が入らないように見ています。車はすでに通行禁止です。走っているのを少し眺めました。一般の人も走っているようでした。

朝が早かったので、すぐ横の開いたばかりのおそばやさん「八雲庵」に入りました。(10:17~11:00)

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寒いので私は温かいおそばにしました。開店直後のせいか、かなり待たされました。足休めをかねていますから、いっこうにかまいません。私は磯海苔そば。

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しっかり粘って、でも混んできたので、11:00に出ました。

これからホテルまでが、大変でした。
ランナーが通過した順に交通規制は解かれていっているのですが、バスはまだ走っていません。タクシー会社に電話しても、場所を言うと、そのあたりにはいません。何度してもだめ、今日は商売にならないと、出さないのではないか?と思ってしまいました。とも角うろうろしていてもしかたがないので、しばしためらったあとホテルに向かって歩きはじめました。

松江という町は中ノ海と宍道湖を結ぶ大橋川によって分断されています。今日はかなり風があり、お天気も崩れてきています。大橋はかなり長い橋で 風で軽い私はヨロヨロしながら渡りました。 
橋の向こうには老舗のお菓子屋さん,彩雲堂が見えました。(12:01)

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お店は新しくされたでしょうけれど、昔もこのあたりだったでしょうか。若草、というお菓子が有名で学生時代友人と三人で入りました。おいしいけれど小さい!私は「もう一つ食べましょうよ」といったのですが他の二人は「もういいわ」「あなたがほしければ、食べたら?見てて上げる」なんて言うのです。大学生がこの小さなお菓子二つ入らないはずはないのに!
仕方なく涙をのみました。60年近くたってもこういうことは忘れないものです。

途中でもタクシー会社に電話してみたりしながら結局ホテルまで歩きとおしました。よくぞ息も上がらず歩き通せたものと、われながら驚いています。
地図で調べてみると2.9キロ40分とでてきますが、実際は1時間以上かかったと思います。ひたすら機械のごとく足を交互に動かし続けました。
多分、12:20頃ホテルに着いて、やれやれ。
レストランはちょうどランチタイムでしたが、きくとお茶だけでもいいとのことでしたので、紅茶で一息つきました。

やっと人心地ついたところで荷物をピックアップして駅に向かいました。

13:03→13:27 特急「スーパー松風」で松江から出雲市駅までは一駅でした。

右手には宍道湖が見えます。

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きれいな列車です。でも2両でした。

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今日から2泊するのは駅前のツインリーブスホテル、地の利の良さで決めました。

まだお部屋に入れる時間ではないので荷物を預けて古墳を見に出かけました。このことは次回に

2024年4月 5日 (金)

島根旅行 3日目ー1 松江市内観光

3月17日(日)

5:45 起床 
6:35~7:20 朝食 このホテルは朝食バイキングの品ぞろえが豊富でした。

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主人はお蕎麦。

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今日は出雲市へ移動する日です。パッキングをしてキャリーはホテルに預け昨日に続いて市内観光に出かけます。

9:00のバスに乗るつもりでホテルを出ましたが、結局タクシーで小泉八雲旧居前まで行ってしまいました。
といってもとまったのは少し手前塩見縄手公園という公園前。(9:01)
公園というより小さな広場です。お堀端で小泉八雲の銅像が立っていました。
 

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左端が記念館 中央が八雲旧居です。昔(昭和40年ごろ)の記憶では小さな家だけがポツンと建っていたのですが、、、。
埃っぽかった道も、舗装され落ち着いたとてもきれいな武家屋敷通りです。

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小泉八雲旧居(9:09~9:38)
小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の生涯についての説明パネルや遺品の展示がありました。また著した本も紹介されていました。『怪談』だけは知っていましたが、ずいぶん膨大な書物を著していることに驚かされました。

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ラフカディオ・ハーン(1850~1904)
ギリシャ赴任中のアイルランド人軍医とギリシャ人の母のもとにうまれ、アイルランドに戻った後、移民としてアメリカにわたり、記者として生活していました。万博で日本文化に出会ったことなどから、1890年来日。この年の8月に島根尋常中学校に赴任。翌年には熊本第五中学校に転任。お手伝いの小泉セツとはのちに夫婦となります。そうして日本に帰化します。

特に小泉八雲に関心があるということはないので、適当に眺めてから

小泉八雲旧居へ。(9:39~10:00)

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旧松江藩士根岸家の持ち家。庭は先代(当時)の根岸氏が明治元年に造ったものだそうです。八雲はこの家に5か月住みました。

入って廊下を行くと一ノ間、二ノ間、三ノ間と南から北に並び、その後ろ側に居間と書斎がありました。

一ノ間の前の南庭 奥にしゃちほこがあります?お城のやねのよう。

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木の陰にかくれていた灯籠

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南側の庭から西側の庭へ

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西側の庭
白砂の流れがきれいです。

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苔むした水鉢もいい感じです。

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苔も美しい。

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奥に土蔵がありました。

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北側の庭 ここは、 南、西とりがって全面、青玉石が敷かれています。

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八雲はこれらの庭を愛したようで、いとおしんでいるような文章を残しています。
いいお庭です。

お部屋を見ましょう。奥から一ノ間、二ノ間。三ノ間。

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左が書斎。
八雲は事故により16歳で左目を失明。右目も強度の近視で眼鏡をかけなかったため顔を机にすりつけるようにして読み書きをしたそうです。そのため机の高さが通常より高いものを特注していました。

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帰りに見た案内板には昭和57~58年に半解体修理がなされた、とありました。きれいなわけです。(学生時代に行ったのは昭和40年頃でしたから)

この後、武家屋敷をみにいきましたが、写真が多くなりましたので、次回に

2024年4月 3日 (水)

島根旅行 2日目ー3 松江市内

3月16日(土) 続き

15:09 松江に戻ってきました。
ホテルは駅前広場から広い道路を渡らなければいけませんが渡るべき信号は少し離れています。それでホテルには戻らずそのままタクシーで松江歴史館に行きました。明日市内観光の予定ですが、ひとつでも先に観ておくと時間的に楽になるからです。タクシーの運転手さん「明日はレディース・マラソンがあるので、このあたり通行が規制されますよ」えっ、でも朝早ければ大丈夫そうです。

15:26 車からは歴史館をはさんで道路の反対側で降りることになりました。ちょうどお城への北惣門橋のたもとです。
折角なので、少しお城をみてみることにしました。(時間からすると主人の速足観光で50分くらい。天守閣を見て少しゆっくりすると2時間はかかりそうです)

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お濠を遊覧船が通っていました。遊覧船って低いところから眺めるので、周りの景色が変化にとんでいなければ乗ってもさほど感激はしないものですが、通るのを見るのは風情があっていいものです。

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お城へは橋をわたって緩やかな坂道を行きます。坂道苦手な私はすぐ疲れてしまって馬洗い池の横にベンチがあったのでここで休んで待っていることにしました。
この左手にベンチがありました。右奥から上がってきてそのまま進むと天守閣入り口です。

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10分あまり座って元気を取り戻したのでお城への道とは違う(上写真では)手前の道を少しだけ左へ行ってみました。
天守閣が見えました。記憶の通り、少し黒っぽいお城でした。
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今度は少しだけ天守閣入り口の方に行ってみました。

ちょうど降りてくる主人に出会えました。
この写真は主人が撮ったもの、私は背が低いので下の方までは撮れませんでした。 
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入り口は 付櫓といって天守入口の防御をかたくするためにとりつけた櫓で、入ると枡形の小広場が二段あって、侵入しにくいようになっている。石落とし、鉄砲狭間を備えている。と説明にあります。
主人は天守閣には上がらず、域内を歩いたようです。
興雲閣
明治36年に皇太子(後の大正天皇)の御座所としてたてられたものです。
カフェがあるそうで、行きたかったのですが、、、。

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その横に 松江神社

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戻ります。

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お城によって石垣の積み方は様々、これは牛蒡積み、というらしいです。(直方形に近い石を奥に細長い方を向けて、ごぼうを束ねたように積む積み方)

北惣門橋から松江歴史館をのぞみます。

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松江歴史館 (16 :05 ~16:45)

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この立派な長屋門か入ります。
入って長屋門を見ています。

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入って右奥に入り口。

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靴を脱いで上がります。

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主に観たのは基本展示室でした。 

先ず藩主の系図がありました。小浜の京極氏がでてくるのでなんとなく親しみを覚えてしまいました。(お初の次の代)

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堀尾氏は尾張出身、京極氏は近江出身、松平氏は三国を出身として越前、信濃を経て出雲の領主になったので藩士のルーツはまちまちでした。

藩を支えた産業として木綿や人参,蝋燭があったことなど。もちろん鉄生産も。

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一番関心が持てたのはお菓子のところ。不昧公はお茶人でした。お茶にはお菓子です。松江は京都、金沢とともに三大菓子処のひとつなのだそうです。帰りに空港で色々買い込みました。

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この横に地下の遺構がガラス張り(そのうえを歩ける)で観られるようになっているところがありました。ヨーロッパでは 教会の中などもによく古い時代の遺構がみられるようになっている箇所がありますが、日本では初めて見ました。

ざっとみて、さてお庭を眺めながらお菓子とお茶をいただける大広間へ、ところが、満席、しばらくしてすいた、とおもったらもう閉鎖の時間でした。ここからだと、お庭が良く見えるのです。

茶室の横から日本庭園をのぞきます。約100坪の枯山水庭園。

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三枚の写真は左から右へと撮ったものですが、ガラス越しなのでいい写真が撮れていません。

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中央に黒松、細長い短冊石と高さが5,6㎝と通常より高い飛び石、砂地が雲州流庭園の特徴です。

奥の巨石群、滝石組のようです。ガラス戸と逆光でいい写真ではないのですが。巨石に挟まれて 滝が流れ落ちています。
滝が流れて橋が架かって、よくあるスタイルですが、私は好きです。

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ここで外にでて朝日家長屋をみました。ふつうに畳の部屋が横並びにつづいているだけでしたので、写真は撮りませんでした。

まだ日は高いので帰りにお土産の下見でも、と物産館にいくことにしてお堀端を歩きました。
物産館の手前にメノウ店があり、そうだ、勾玉!とおもって入ってみました。
こういうのを観るのは大好きです。観るといいものが欲しくなります。でもよくよく考えてみると、エジプトのヒエログリフで名前を彫ってもらったペンダントだって一度つけただけ、その他各国でいろいろ買ったけれど、観光地で買ったことが丸見えなのは結局使わないものです。高いものはやめにしてほぼほぼのお値段のもので誕生月の石(といっても正式ではない、 例えば私は5月でエメラルドですが、それではなく何か緑色の石)の勾玉をつけたストラップを娘や嫁、もちろん自分用に買いました。

物産展でさんざんお菓子を眺めたうえでホテルで頂くように3個入りのお菓子を2種類買いました。
松江はお菓子の種類が多いからでしょうか。いろいろ買いやすいようにか6,7㎝角の小箱入りが各種あるのがいいです。

県庁前からバスに乗ってホテルに戻りました。(17:50)

今日の夕食はホテルでとるつもりです。お部屋に戻る前にレストランで16:15に予約しました。

一休みして 夕食

和食と洋食別々でもいい、ということでしたので、主人は和食でお刺身御膳、私は洋食でラポールというコースにしました。 飲み物も主人は昨日気にいった、月山。私は出雲ワインの赤にしてみました。

お刺身御膳、写真撮り忘れで少しお箸をつけたあとです。

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この後デザートとしてお菓子がでてコーヒーもきました。

洋食コース
オードブル
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ポタージュ、クリームがきいて濃厚でおいしかったです。

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ステーキ、柔らかいお肉でソースが少し甘めでしたがあっていました。

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サラダもあったはずですが、、、。 このあと紅茶。
出雲ワインは私にとっては さほど、でした。
 
お料理はおいしかったです。主人もおいしくて満足していました。
多分 19:45頃お部屋に戻ったと思います。

おなかがいっぱいでお菓子をいただくおなかの余裕はありませんでした。

2024年4月 1日 (月)

島根旅行 2日目ー2 和鋼博物館

13:20 安来駅に戻って来ました。まさに動きだそうとしているとしているバスは、聞くと和鋼博物館に行くといいます。飛び乗りました。

窓の外に見えた駅前のモニュメント(13:24)
安来港は北前船の寄港地でした。ここから鉄が積み出されました。

24033101弘文

中国山地は良質の砂鉄と豊かな森林資源に恵まれ、古くからたたら製鉄が盛んな地帯でした。オロチ伝説も司馬遼太郎によると、山中に住む砂鉄採り集団の明かりで、彼らはときに女性を襲ったこともあるからだろう、といった意味のことを書いていました。高田崇文によると斐伊川が鉄分を含んで赤いところから、これが八岐大蛇で、氾濫をおこして人を飲み込んだ、あるいは氾濫をしずめるために人身御供として娘を投げ入れたことによる、となっています。
いずれにしろ、古くから砂鉄が採れることは知しられていたのです。

和鋼博物館 (13:27) 美術館を出て30分足らずで来られました。美術館でお昼をすませておいて正解でした。駅前でお店を探すとなるともっと時間がかかったでしょう。
ほんの数分ですが、車窓から中の海を眺めながらいくのは気持ちがよかったです。

島根県というとまず思い浮かぶのは出雲大社、足立美術館、松江城下町、温泉でしょうか。しかし古くからの地場産業(?)であるたたら製鉄も忘れてなりません。本当は鉄師の住む屋敷や博物館がある奥出雲に行きたかったのですが、公共通機関利用は非常に不便。おまけに16日からダイヤ改正、ということで検索するたびに、列車の時刻が違うのであきらめました。私のようにすぐ息があがってハアハアいう人間は高くついてもタクシーでまわってもらうことを考えた方が良かった、と昨日のタクシーの運転手さんの話から思いました。
その代わり、というわけではありませんが、ここを見学箇所に入れました。主人は金属工学の人間です。

和鋼とは、近代以前日本でおこなわれてきた砂鉄を原料に木炭を燃料として「たたら」で生産された鋼のことです。
この製鉄法はいまのところ、6世紀までさかのぼることが確認されています。
中国地方でも古代から中世、近世と時代を追って盛んになってきましたが、それは良質の砂鉄と豊富な森林資源に恵まれたからです。
どういう人達がこの仕事を担ったのかは記されていません。古代に関する私の持つ唯一の参考書である『渡来系移住民』には主に畿内の鍛冶場についてかかれていて、伯耆はあっても出雲については言及されていません。でも日本海を隔てて朝鮮半島は近いですから、畿内のように最初は韓鍛(からたぬち)と言われる渡来人に頼っていたのではないか?という気がします。(司馬遼太郎もそう書いています)

ドームの上、舟でしょうか? 植わっている木は桂の木らしいです。

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前庭には鉧(けら)が置かれていました。鉧とはタタラの炉床にできた鉄塊で、炉をこわして引き出します。重量は2.5tから3.5t。

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銑(ずく):流し銑、製鉄炉の湯地口からながれでたもの、鉧銑は鉧を破砕した時に出る銑で、いずれも鋳物も材料や、包丁鉄の原料に使用。炭素1%以上のもの。

中に入るとまずビデオで「蹈鞴(たたら)製鉄」の様子を見ることになります。
別の部屋でミニチュアで作業の過程が見られました。

鉧押し出し法は三昼夜連続で行われます。が、その前に炉を構築します。
展示室に模型で説明されていました。

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鋼の良否は築炉によって決まります。「一釜、二土、三村下」と言われ、釜作りと土の選定が決め手。
釜下の土は高温にさらされ浸食されながら溶媒材として働き、化学反応を生じてノロ(鉄滓)を生成、排出しながら鉧をそだてるのです。 
土の選定は重要で、村下(むらげ)と呼ばれる技師長格の人が選びます。花崗岩が風化したもので珪酸が適当量で適度な耐火性と鉱滓を造る性質をもつことが必要、また不純物も少ないことが条件。
きっと昔はこういうことをカンと経験でみきわめたのでしょうね。

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炉に木炭を入れふいごで送風 天秤鞴(ふいご)
天秤鞴は元禄時代に発明されました。↓ これは一人踏み鞴ヤグラ天秤
です。(明治24年製)

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木炭も焼き方に秘伝があります。還元炎を得るために重要ならしいです。
鉧押し出し法は一回に三昼夜連続して行われ、これに必要な木炭の量は約12トン。
これを生産する森林面積は1ha。江戸時代後期は年間60回操業され、かつ、タタラに適した樹木の樹齢は30年以上とされるので、一か所で継続するには1800haの森林面積が確保される必要があります。
たたら経営者はまさに山林王でした。
司馬遼太郎の『砂鉄のみち』にも大山林地主田部氏のことがでてきました。

そうして作りあげた炉でまず木炭を入れその後、木炭と砂鉄を30分おきに投入。熱い炎に巻かれながらの作業はとても大変そうです。眼をだめにする人が多かったということも頷けます。
砂鉄:中国山地で採取される砂鉄は真砂砂鉄と赤目砂鉄があります。真砂砂鉄は酸性の花崗岩、花崗班岩、黒雲母岩などを母岩として磁鉄鉱系を主成分とする砂鉄で、不純物の少ないすぐれたものですが、赤目系に比べて含有量が0.5 から
2%と低く、融点が高くて使いにくいそうです。ここでは真砂砂鉄を使っていました。

蹈鞴とは野ダタラ(露天製鉄、山の中で自然の風を利用)のころは精錬炉をいい、中世に屋内精錬に移行すると、建物、高殿をタタラといいます。タタラという名はタタール人からきたといわれ、技法が中央アジアから伝わったからだそうです。
↓高殿  タタラや金属の仕事に従事する職種の守護神が金屋子神。はっきりしませんが右の絵の上の方

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木炭を燃料として砂鉄を還元、溶融し炉壁を浸食してノロ(鉄滓)を生成、排出しながら徐々に大きな鉄塊(鉧)に成長させます。村下は燃え上がる炎の色や送風巻穴からの炉内観察、ノロの出方、炉壁から聞こえる砂鉄の溶ける音、炉内を通る風の音などにより、絶えず炉況を診断し、鉧の成長を見守ります。70時間の操業により、炉がかなり浸食され、これ以上は炉が耐用できない、と判断されると、送風を停止して操業を終了、炉を崩して鉧塊をひきだします。

鉧の断面

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ピンクの部分が 玉鋼。他、右のピンクの下は 銑(炭素1,7 %以上含有し、均質なもの)
玉鋼一級品は純度が極めて高く、最上の日本刀材料で50年を経過しても、美しい金属的な光を発しています。

山土に微量に含まれる砂鉄を採取する方法として、中国山地では鉄穴流し(かんなながし)という方法が宝暦年間からとられてきました。
採取した砂鉄母岩を、あらかじめ設けた水路(井手)に流し込む、ここを押し流される間に粉砕され、土砂と砂鉄は分離され順次下流に送られ、水を混ぜて軽い土砂を比重の差で砂鉄と分けて流しながら、純度を上げていき最終的には80%以上の砂鉄純度にしました。

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多量の土砂が下流に流出するために農業用灌漑用水に悪影響を与えることから一時、禁止されもしましたが、農閑期の秋から春に行うことにし、農民にとってこの仕事することは冬場の良い収入源になったそうです。
今はここが棚田になっています。

出雲は近世の後半には日本の鉄生産の80%を占めたといわれます。しかし明治になってタタラ製鉄は質的にすぐれたものであっても量産に向かないため、近代製鉄法の普及によって衰退。

そこで 現在の(株)プロテリアル安木工場(日立金属系列)となる会社を設立、良質の砂鉄を原料とし、最新の技術を取り入質の高い鉄鋼を生産することになります。
ヤスキハガネは工具鋼、刃物鋼、ベアリング材、電子機器の分野などの製品など多種多様な用途に使用されています。

また戦後完全に途絶えてしまった伝統的たたらの技術を残すため、奥出雲で年二回程度、湿気の少ない冬に操業されています。生産された玉鋼は全国の刀匠約250名に分与され、作刀技術の伝承が図られています。 

入り口ホールには観覧者が実際に使用できる 鞴が置かれています。

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主人がやってみましたが、4,
5回踏んだだけで大変だ、と降りてきました。
左右二枚のしま板を踏みます。1時間続け、2時間休むという交替作業でした。この作業者を番子といいます。替わりばんこ、という言葉はここからきたそうです。

最期にショップをのぞきました。よく切れそうな包丁がならんでいましたが、まあ、必要はない、と買わず展示ガイドだけ買って博物館を後にしました。
勉強になって、楽しかったです。(学ぶは楽しい、です)
目の前にバス停、ここはターミナルだから本数は多いといわれた通り、バスはすぐ乗れました。
安来駅のホームからプロテリアル安来工場が見えました。

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安来14:45→15:09松江
途中、荒島駅を過ぎたところで、古代出雲王陵の丘入り口が見えました。造山古墳がありますが、私たちは明日出雲市駅近くの古墳にいくつもりなので、ここには行きませんでした。
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松江について、まだ時間があるので、少しでも市内を観ておこうと、タクシーでお城までいきましたが、写真も多くなってきましたので次回にします。